2012年2月1日水曜日

がんばる理由

間に合わないことがあった。
二十余年も生きていると、いろんな事に間に合わない。

電車のドアが目の前で閉まったり、
ゴミ捨て場に行ったらすでに収集車が行った後だったり、
飲み会は7時に集合で!って言って10分遅れたり(そしてそういう時はたいがい「ごめん遅れる!」ってメールすると「ごめん俺も!」って返ってくる)、
TSUTAYAにCD返しに行くと延滞だったり、
間に合わなさの連続で日々はつらなっている。

そんなわけで、俺の心はもう間に合わないことに慣れていて、
間に合わなかったからといって悔しいこともあんまりないけど、
それでも、間に合うことができなかった自分を責めたいことがいっこある。


人の死に、間に合わなかったことだ。




タイのことを研究するのにとてもお世話になった人がいた。

俺は、あの人のおかげでM1の春に現地調査に行くことができた。
けれど、現地調査のあと1年間、研究に進展はなかった。
進展がないからまだ会いに行けないな、と思っていた。

その1年間に、あの人は死んでしまった。

ようやく会いに行こうと思ったところで、
1ヶ月前にあの人が亡くなったと俺は知った。


そのことについては前に書いたけど
死をどう受け止めればいいのか、まるで分からなかった。
悲しめばいいのか、怒ればいいのか、笑えばいいのか、
方向性の定まらない感情が心の底でぐるぐるしていた。

そしてぐるぐるしたまま半年が過ぎ、昨日が修士論文の最終発表だった。
その感情がなんなのか分からないまま、兎にも角にも、あの人に言えなかったありがとうの代わりにがんばろうと思ってここまで来たけど、
発表前にふと、違うな、と思った。


人の死をダシにがんばれるほど律儀な人間じゃない。
俺はただ、悔しかっただけだったんだと思う。

あの人の死に間に合えなかったことが悔しかった。
もっと本気で研究してればできたかも知れないのに、
会いに行くほどにまで研究を進展させられなかった自分が不甲斐なかった。
そんな自分に、けじめを付けたかった。
そして、けじめを付けた、と思う。

あの人にありがとうと言いたかったわけじゃなく、
ただ、自分が憎かっただけだったんだ。たぶん。
結局やっぱり、俺の原動力はそういうネガティブな力だった。
なーんだ。


これからもきっと、いろんな事に間に合わなくて、
慣れていても、たまには悔しくて自分が憎くなって、
そのたびにまた、後悔しながら前に進んでいくんだろうな。
自分のことを憎めるうちは前に進めるから、
今日もまだ自分のことが憎いのにほっとする。