2012年4月22日日曜日

円城塔「後藤さんのこと」

後藤さんのこと (ハヤカワ文庫JA)後藤さんのこと (ハヤカワ文庫JA)
円城塔

早川書房 2012-03-09
売り上げランキング : 54307

Amazonで詳しく見る by G-Tools

きっと高校生の時に町田康じゃなくて円城塔を読んでたらいまごろ数学者か物理学者を志していたんじゃないかと思ってしまうような、面白さ。

たぶんあんまり解説にならないことを承知で、
ちょっと解説めいたことを書き残しておこうかなと思っていま書いてみる。


小説は、ある意味で、
ラストシーンという名の結論を導出する論理だ。
結論が妥当な(かつ心揺さぶられる)ものだと万人に納得してもらうためには、
まずはその結論が導き出される文脈を共有しないといけない。

例えば、
「愛は大事だ」という結論があるとして、
愛とは何なのかも、大事ってどういうことなのかも、
ひとによって違う。あまりに違う。

だから多くの小説の場合、
ここでいう愛とは何なのか、どう大事なのか、
その文脈を詳細に描写することに文章のほとんどは割かれる。
描写が詳細であればあるほどストーリーは精緻さを増し、
結論は一意に定まりやすくなる。

でも円城塔の取っている戦術は違う。
文脈の共有をストーリーの精緻さに求めるのではなく、
むしろもっと最大公約数的な、
どっかで聴いたことある気がするけどよくわからない表現やロジックを
つぎはぎして作ってあるパッチワークみたいな。


例えば、この「後藤さんのこと」という表題作が象徴的で、
通常の小説であれば、この後藤さんが誰なのかを説明する。

ここで言う「後藤さん」っていうのは、
あなたが知っているあの後藤さんでも、はたまたあっちの後藤さんでもなく、
30歳の男性で証券会社に務めていて順風満帆に見える人生だけれど、
呪縛から逃れるために親を殺したという過去を持ち、
そのために人を愛することができないんですねこれが。

みたいな設定に設定を重ねて、ストーリーの頑健性を増していく。
頑健なストーリーから導き出される結論は頑健であり、
頑健な感動や気付きを提供してくれる作品をして人は名作と呼ぶ。


しかし、円城塔が語るのは「後藤さん一般」の話だ。
例えばこんな調子:
(略)会社の休憩時間に後藤さん一般と立ち話をしていたところ、向こう側で待ち構えているではないですか。見るからに後藤さん一般としか見えないものが。ついでに自分にしか見えない人も。これはちょっとまずいのであり、いくらなんでも後藤さん一般といるときにそれはまずい。
「刺すね」
と言い切ってしまうのが後藤さん一般であって、これは後藤さん一般の性質というものなのでどうにもしようが無いのである。(円城塔「後藤さんのこと」) 
特定の「後藤さん」について語る気はさらさらないらしく、
「後藤さん一般」の性質についてを延々と語っていく。

それは抽象的すぎて意味不明で、ピンと来ない。
ピンと来ないけど、というよりむしろピンと来ないからこそ、
でもどっかで聞いたことあるような、という印象を受ける。
理解できない難解な言い回しも含めて、
どっかで聞いたことがある気がする。
この「どっかで聞いたことがある気がする」という感覚に依拠するのが円城塔の戦略だと思う。

つまり文脈の共有の仕方は二通りあって、
かたや、誰も聞いたことのないストーリーを細かく描写して、文脈を共有しようとするやり方がある。
かたや、すでに文脈を共有している、誰もが聞いたことのある要素を抜き出して語るやり方がある。
円城塔は後者を過剰に、挑発的に使っている気がして、
こういう文脈の共有の仕方もあるのかと感嘆した。

コピペ世代のコミュニケーション方法だなと思った。
すてき。

2012年4月8日日曜日

「信じられるデザイン」展


東京ミッドタウン・デザインハブ5周年記念/第33回企画展
「信じられるデザイン」展

http://www.designhub.jp/exhibition/2012/03/15-1500.html


に行ってきた。
51人のクリエイターが、「信じられると思うデザイン」を挙げて解説する、という展示。
信じられるってどういうことか考えた。
以下、軽くメモ。


展示の中に
「信じられる」と「信用できる」の差異について語っているのがあって
「信じられる」というのは能動的な行為で、
「信用できる」は受動的な、うんぬんかんぬん。
みたいな細部は覚えてないけど、なんとなく共感した。

だいぶ前に書いたことにも近いけど、
「信じる」かどうかは、相手によるのではなくて自分で選ぶものだと思う。
その意味で「信じられるデザイン」というタイトルには、
「信じられる」ものをしか信じようとしないナイーブさを感じてしまう。
なんか違うんじゃない、それ?
問われるべきは、信じられるか信じられないかじゃなく、
信じるか信じないか、だと思う。

一方で、また別の展示に、
ポルシェは「かんぺき」じゃなくて「あやうい」から好き、
みたいなのがあったけど、
これは逆に「信じられない」から、自分で能動的に「信じる」ことをしなくてはいけない。
「かんぺき」じゃないから、欠損を「信じる」ことで埋めないといけない。
「あやうい」ことが「信じる」を際立たせているように思う。

未完成をデザインする、ということばを思い出した展覧会だった。

2012年4月7日土曜日

グーグルアイ

↓これの本名が、

「ステファーノ・グーグルアイIII世」だということは周知の事実だが、
どうもグーグルがグーグルアイなるもの作ろうとしているらしい。

いや、だからなにってこともないですけど。

さっそく現れたGoogle Project Glassのパロディービデオ〔製品名はGoogle Eyeになる?〕
http://jp.techcrunch.com/archives/20120405heres-a-more-realistic-look-at-googles-project-glass-video/

要は、メガネがディスプレイ兼入力装置になってる、みたいなやつ。
↓にしてもこのビデオ面白いね。センスある。

2012年4月1日日曜日

ぽいっ。

明日から社会人。

思えば俺は「ぽくない」と言われることに全神経を注いできた。
常に、所属しているところからはみ出るためにはどうすればいいのかを考えてきた。たぶん。
けっきょく「A型っぽいね」とか「京都っぽい!」とか言われたとしても。
注いできたったら注いできた。

しかし、
「ぽくない」と言われるためには、何が「ぽい」のかを知る必要がある。
「ぽい」を踏み外し過ぎると、ただの「ない」になってしまう。

ならば「社会人っぽさ」って、
というかむしろ「社会人」って、何なんだろう。
「社会人」は文字通りなら、社会にいる人を指しているはずだけど、
巷で囁かれているには、そのほんの一部をしか範疇に含まないらしい。

とすると、
「明日から社会人」なんて冒頭で豪語したけれど、
実は公には知られていないが社会人というのは許認可制だったり世襲制だったりリース契約制だったりするかも知れず、
その場合、俺は無許可で社会人を名乗った罪に問われお縄頂戴、
てなことにもなりかねない。

ここはひとつ慎重に、社会人とは何かを耳をそば立てて学ぼうと俺は思うのです。
しばらくは薄氷を踏むように恐る恐る、
「これはダメ」という落とし穴を避けるようにしか歩けないけれど、
いずれ「社会人」という本質の上に片足立ちとか三点倒立とか、できるようになりたいのです。

「ぽくない」に足を踏み出せる力が、欲しい。
何かを跳び越える力がいつだって欲しい。
アクロバッティブに生きたいわけじゃなくて、
いつか、行きたい場所とか行かないといけない場所ができたとき、そこに行くために。


社会人について何かご存じの方はご一報ください。