2009年7月31日金曜日

“Life should be lived, on the edge of life.”

Man On Wire
http://www.espace-sarou.co.jp/manonwire

を観に行こうかな。
面白そう。

“Life should be lived on the edge of life.”
というのは、映画の予告編に出てくる言葉。
まさに「綱渡りな」人生にふさわしい、
とっても美しい言葉だなと思う。


でも、映画に行くというのは、明日起きて元気だったらの話だ。
岐阜帰りで、疲弊しきっていて倒れてるかも。。

2009年7月27日月曜日

【本】実務で役立つ プロジェクトファシリテーション


中西真人「実務で役立つ プロジェクトファシリテーション」翔泳社 2006



俺が持ってる数少ないビジネス書。

サークルの代表になったころ、
プロジェクトマネジメントとファシリテーションを勉強したくて、でも2冊買いたくなかったので、これを買った。

可もなく不可もなくな感じ。
でも、他の「ファシリテーション」って本はビジネスに特化されすぎてる感じがしてパスだったけど、これは比較的汎用な印象を受ける。
手法自体はビジネス臭が漂っててあんまり使わなかったが、考え方は参考になった。

まあ、これを読んだからってうまくなるわけじゃないのは、俺のファシリテーションを見てたらわかるやんな(笑)



そういえば、サークルでのファシリテーションとビジネスでのファシリテーションが違う部分って何があるんだろう?

・ビジネスっぽいと気持ち悪い
・カタカナが多いと気持ち悪い
・雑談になりやすい
・計画変更が起こりやすい
・ミーティングに全員が集まることが(ビジネスと比べると)少ないので、情報共有がしにくい
・機材が整っていなかったり(例:ホワイトボードがない)、道具を無制限に使えるわけではなかったり(例:ポストイットを湯水のようには使えない)することが多い

などなど。
特性をちゃんと捕まえないといけない。


その前に俺はもっと全体を見れるようにならないといけない。
今日は古巣でファシリテータをやらせてもらったけど、ボロボロだった。
いつも、いっこいっこの意見の分析と笑いを取るのに気を取られて、議論の流れを見失ってしまう。
拙いファシリテーションで迷惑をかけてすいませんでした。。

明日から世界子ども水フォーラムフォローアップでファシリテータだ。
がんばります!

2009年7月26日日曜日

環境警察2209in京北

http://blog.canpan.info/fringe-tp/
あらすじ

時は23世紀の日本。環境破壊を取り締まる「環境警察」の面々は、日々犯人の逮捕に励んでいた。
ある日、環境警察の新メンバー桂坂隊員は、皆に疑問を投げかける。
「いくら犯人をつかまえても、もう手遅れなのではないでしょうか・・・。」
ざわめく面々。そんな中、九頭竜大社坂警視総監は、隊員たちに新たな指令を告げた。
「環境問題を根本から解決するため、21世紀に飛んでいってくれ。」


最終日、8月1日には発表会を行います。
入場無料ですので、ぜひみんなの合宿の成果を観に来てください。

とき 2009年8月1日14:00〜
ばしょ 同志社大学クローバーホール

発表会に続き、シンポジウムを行います。
テーマは「環境教育におけるコミュニケーションティーチングの活用およびその制度化に向けて」。

パネリスト
井手上 春香(NPO法人子どもとアーティストの出会い 理事長)
丸井 重樹(演劇制作者 ベトナムからの笑い声 代表 C.T.T.事務局)
末岡 妙子(樟葉西校区コミュニティ協議会 副会長 樟葉西小学校P.T.A. 副会長)
蓮行(劇作家・演出家 劇団衛星 代表)

舞台芸術・教育に興味のある皆様のご来場をお待ちしております。


小中学生がプロの俳優と2泊3日でつくった環境演劇の上演会とシンポジウム。

面白そうと思ってたけど、
↓このサイトを見ると、教材があって、

http://www.fringe-tp.net/kankyogeki/

うーん、意外と面白くないかも。と思った。
なんか「環境破壊はいけない」という価値観を一方的に押し出しすぎな感じがした。
薄っぺらい劇になってないか不安。

でも、こどものパワーで、ちゃんと多様な意見がある劇になってるのかな。

とりあえず、試み自体は面白いと思ったし、シンポジウムにも興味あるので、
ヒマがあったら行こうかな。

2009年7月25日土曜日

選挙とホームページのアクセシビリティ

今度の選挙は、ちょっとまじめに投票しに行こうかな、と思う。
投票日前1週間くらいは、地元にいないけど笑


とりあえず、各候補のホームページを見てみた。

衝撃的だった。
えっ、こんなにレベルが低いのか!という意味で。



政治家のホームページというのは、誰にでもアクセスできないといけない。

ホームページでの情報を探すのに慣れていない人にも、
目が見えない人にも、
パソコンが遅くてFlashとかJavascriptがいっぱいあると表示できない人にも。

その特性上、「アクセシビリティ」が強く意識されるが、
されるはずだだけど、
そうなっていない。


その衝撃を、憤りを、伝えたくて、
うちの選挙区では、自民、民主、共産、幸福が立候補するので、
そのホームページに対して、特に情報へのアクセシビリティという観点からつっこみを書きたい。

(注:これは俺の地元の選挙区の候補者の話です。
自分のところの候補者は自分で確かめましょう!)



1)自民党の立候補者
見た目:きれい
使ってるソフト:Dreamweaver?
ダメな点:
・Flashを使っている
テーブルレイアウト
・情報が少ない

雑感:
Flashを使って写真もいっぱいあって、見た目はきれい。さすが与党なだけあってお金がかかっている。でも、情報がほとんどない。情報がないのを金で水増ししてる感がある。



2)民主党の立候補者
見た目:普通
使ってるソフト:Adobe GoLive
ダメな点:
・テーブルレイアウト
・メニューがちっちゃい
・文字がちっちゃい

雑感:
情報はいっぱいあるけど、あんまり整理されてない感じ。見にくい。
GoLive使ってたらもうちょっときれいなのがつくれるだろう、という気がする。


3)共産党の立候補者
見た目:しょぼい
使ってるソフト:Homepage Builder 7.0
ダメな点:
・トップページから、全部リンクで飛ばないといけない
・ブログが、活動報告用と、今後の予定用とあって、見にくい
・メニューがテーブルレイアウト

雑感:
こんなにダメダメなホームページで、お金がない感を強調しなくても、と思ってしまう。
共産党は、民青とかいるんだし、その辺の若い力を駆使したらも少しマシなのがつくれるはず。



4)幸福実現党の立候補者
見た目:きれい
使ってるソフト:?、WordPress
ダメな点:
・政策について書いた文章を画像にしていて、altを設定していない
・Javascriptがちょっと多い?
・情報が少ない

雑感:
お金がかかってる感じ。そして、お金で情報を水増ししている感じ。
マークアップは一番しっかりしてるけど、画像のaltを設定していないのはありえない。これでは、画像が表示できない環境の人(目が見えない人を含む)は、何が書いてあるかわからない。


まとめ:
・テーブルレイアウトを使っていないのは幸福実現党だけ。
・でも、幸福実現党の画像置換のミスは、ウェブ標準的には許されない。
・幸福実現党と自民党は、お金で水増ししてる感がある。
・民主党は一番情報があるけど、一番読みにくい。
・共産党はアクセシビリティ云々よりも、見た目がしょぼすぎる。


ということで、
合格点に達しているページはないと思う。

IT立国とか言うけど、
ぜんぜんだなーと思う。
せめて選挙に出る人くらい、
いろんな人に配慮したホームページをつくってほしい。


ちなみに、「ダメな点」の詳しい説明はめんどいのではしょりました。
意見質問があれば、コメントに書いてください。
俺もそんな詳しいわけじゃないけど、答えるようにします。

全国ギャザリング'09

今度、このイベントに講師として水のことを話しに行くことになりました。
俺でいいのかな、何をしゃべろう…

去年のトラウマを乗り越えてがんばるので(笑)、
ひまやったら来てねー◎

これしゃべったらいいんじゃない?みたいなアドバイスも無期限募集中です!


☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━…・

全国ギャザリング'09
―Youth Ecology Gathering―

< 生物多様性 & 地球温暖化 >

~自分と世界と未来を驚かす 5日間~

★★7月1日(水)申し込み開始!!!★★
http://gathering.eco-2000.net/9g/

・…━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆☆☆

―生物多様性と地球温暖化―

聞いたことはあるし、気にはなっているけど、具体的にはどんな行動を
起こしていけば解決につながるのかよく分からない、
日本で、世界で、どのようなアクションが繰り広げられているのか
もっと知りたい――

全国ギャザリング'09は、
そんな声に応える5日間の熱い交流と議論の場です。

国内外から、約250名の青年が集います。
刺激に満ちた場で、共に活動していく仲間がきっと見つかります!


◆◇開催概要◇◆

【日程】2009年9月19日(土)~9月23日(水)(5連休)
(部分参加も可能です)

【対象】全国の青年

【規模】250人

【場所】大阪市立信太山青少年野外活動センター
(施設HP:http://www.shinodayama.com/

【申込方法】
HPから → http://gathering.eco-2000.net/9g/

2009年7月1日(水)から受付開始となります。
早期割引など、各種割引あり♪詳しくはHPへ!

【主催】エコ・リーグ(全国青年環境連盟)


◆◇企画概要◇◆

【1】広い視野を手に入れる。

2日目には、環境に関係する様々な問題や、活動や団体運営をしていく
上で必要となる多様なスキルの講習など、約30のテーマ別分科会を
行います。


【2】生物多様性と地球温暖化をマスターする。

2日目から3日目にかけて、生物多様性と地球温暖化に関する様々な知識を
インプットします(※1)。
地球温暖化では、温暖化の科学メカニズムの気鋭の研究者である
江守正多氏(※2)をお招きするほか、生物多様性でも最先端で活躍する
専門家の方をお招きし、最新の知見を提供します。

また、同じ環境問題でも、世界には多様な考え方や立場があることを
理解するために、国際交渉のシミュレーションゲームや、
海外の活動家との討論を行い、
この両問題の解決がいかに複雑で困難さを伴うかということについて、
理解を深め、私たちはどうしていくべきか考えます。

※1 お申込の際に生物多様性コースと地球温暖化コースのどちらかを
選んでいただきます。学習の理解度・定着度を高めるため、
基本的に全日程同じコースの参加とさせていただきます。

※2 江守 正多 氏: 国立環境研究所 地球環境研究センター
温暖化リスク評価研究室 室長


【3】社会を変えるアウトプットをする。

4日目には、これまでに学んだことを活かし、生物多様性と
地球温暖化について、

A. アクションプラン(企画)作成
B. 国際会議に向けたユースステートメント(青年の宣言文)作成

の二つのうちどちらかに参加し社会へのアウトプットを行います。


◆◇講師一覧(7月1日現在)◇◆

○江守 正多 氏(2日目地球温暖化コース[基礎編])
国立環境研究所 地球環境研究センター 温暖化リスク評価研究室室長

○北橋 みどり 氏(3日目地球温暖化コース[活動紹介])
国際協力NGOセンター 専門調査員
エコ・リーグ インターナショナルチーム チームリーダー

○林 雄太 氏(3日目生物多様性コース[活動紹介])
国際青年環境NGO A SEED JAPAN 前代表
生物多様性条約市民ネットワーク 運営委員


◆◇呼びかけ人・参加予定者にはこんな方がいます!
⇒まだまだ増えます!◇◆

鈴木 洋一 氏(模擬国連委員会 元委員長)
平岡 喬之 氏(YDP Japan Network 事務局長)
大木 博文 氏(RNECS 元代表)
持田 直樹 氏(環境部エコロ助 元代表)
磯部 高弘 氏 (四国青年NGO HOPE 理事長)

Catherine Candano(フィリピン/元国連環境計画子ども・青年部署担当)
Whit Jones(アメリカ/Energy Action Coalition ディレクター)
……

◆◇お申込はコチラ◇◆

【参加費】
--全日参加の場合--

エコ・リーグ会員 非会員
学生 25,000円 28,000円
社会人 28,000円 31,000円

※ 部分参加の場合の料金は、HPをご覧ください。

早期申し込み割引など、各種割引あり♪詳しくはHPへ!

【申込方法】
HPから → http://gathering.eco-2000.net/9g/

2009年7月1日(水)から受付開始となります。


◆◇ギャザリングとは??◇◆

ギャザリングは青年を対象とした合宿型の環境イベントのことです。
環境問題に関心のある青年が集まり、
情報交換をしたり、語り合ったりします。
そんな交流を通して、参加者全員に刺激を与えてくれる場です。

それぞれが新しい道や、考えを生み出すきっかけを見つけることが
できます!!


◆◇エコ・リーグとは??◇◆

全国青年環境連盟(エコ・リーグ)は1994年8月に
発足した環境NGOです。

環境問題について考えている人のさまざまなニーズ(話し合いたい、
活動したい、情報を得たい、仲間を探したい等)に答えていける団体を
目指し、活動しています。

2009年7月24日金曜日

【本】演劇のことば


平田オリザ「演劇のことば」岩波書店 2004



この本を読んで、
俺の青春は終わったと思う。

それほどに衝撃的だった。

初めて読んだのはもう5年以上も前なので、
いま改めて読んでみるとなんだかとりとめのない文章のようにも見えるけれど、
それでも俺にとっては、奇跡のような本であり続ける。


この本は詩,小説,演劇,批評といった分野の5人がそれぞれことばについて書く「ことばのために」というシリーズで、平田オリザが担当した一冊だ。
「演劇のことば」という表題とは裏腹に、ここには日本の演劇史が書かれている。
演劇の歴史というのはつまり、
演劇が様々な時代に奔流されてきた歴史で、
それはすなわち「演劇のことば」が呪縛されてきた歴史だからだ。


日本の近代演劇は、戦争の役に立たないので西洋から輸入されることはなく、歌舞伎を「改良」することを出発点にしている。
それから、西洋の手本を観ることは簡単にはできないし、かといって日本文化と真剣に向き合うこともしなかった明治維新後の悶々とした時期を経て、
戦前の社会主義リアリズム、
戦時中の軍国主義、
戦後の社会主義の揺り返し、
新劇とアングラ・小劇場の対立、
そして今。

俺が説明すると陳腐になるけれど、
とにかくこうして、「演劇のことば」は、さまざまに自由を奪われ、しかし、少しずつ自由を手に入れていった。


その過程が、衝撃的だった。
当時、俺は高校生で、「今」しか見えなかった。
理系のクラスにいた俺は、過去や未来と切り離して、現在を透徹した目で見ることだけが大事だと信じていた。

演劇は、楽しくて混沌としていて、
無条件に自由だと信じていた。


けれど、自由になるためには、
なにが不自由だったかを忘れずにいなければならない。
先人が勝ち取ってきた自由がなんなのか、知らなくてはいけない。
演劇は、人間は、ふとしたことで不自由になる。

連綿と続いてきた過去の「今」の上に、俺の「今」がある。
その過去の不自由の歴史を、
「今」に囚われてきた記憶の連続を、
俺たちは継いで、紡いでいくんだ。

と思ったとき。
それは青春の終わりだった。
「今」しか見えない不安と高揚を失った時代を、ひとは青春とは呼ばない。
それが良かったか悪かったかわからないけれど、
ともかく俺は、自分の自由さと不自由さに目を凝らせるようになったと思う。


演劇なんて。
と言うひとにこそ、この本を読んでほしい。
「なんて」な演劇に、これほどの葛藤があったことを知ってほしい。
これは演劇についての本ではなくて、
もっと大きなことを気づかせてくれる本だから。

2009年7月23日木曜日

米国政府にオープンソース

米国政府にオープンソース利用を働きかけるコンソーシアムが結成
http://japan.zdnet.com/news/ir/story/0,2000056187,20397054,00.htm

これは面白い動きだけど、
オープンソースが政府に入っていくというのは逆に、
政府がオープンソースに入ってくるということも意味する。

オープンソースがオープンじゃなくならないように、注視しないといけない。

世界子ども水フォーラムフォローアップ

世界子ども水フォーラムフォローアップ
http://www.mizube-support-center.org/cwwf-f/2009/index.html


今年もこの季節がやってきた。

全国から、水の活動をしている中高生42人が集まって2泊3日を過ごす。
1グループ7人に大学生が2人くらい、ファシリテータとしてつく。

俺もファシリテータとしていくわけだけれど、
なぜかめっちゃ緊張する。
大学入試より緊張するかもしれない。

水の未来を担う子どもたち
の未来を担う。
みたいな、トリッキーな重責。



これは俺の個人的な理解だけど、
ファシリテーションの半分以上は、
きっと信じる力だ。

知ってるブレスト手法の数
分析手法の論理性
ファシリテーショングラフィックス
etc

ファシリテーションの基本は、
ひととひとが話すのは、
そんなにきらびやかなことではなくて、
もっと簡単なもののはずだ。


信じるということほど、
簡単で、けれど難しいものはない。

それぞれの中に答えはあるのに、
ほんとにこれで結論出るのかな?
このひとわかってるのかな?
みたいな不安に心は揺れて、見失いそうになる。

俺はよく、みんなを信じ切れない。
そして信じ切れなかった記憶が、自分自身を信じ切れなくする。
そんなに難しいことじゃない、と自分を納得させることが難しい。


信じる心。
それは不安の中で磨かれる。
自分の弱さを知るために、あと1週間俺は不安の中をさまよいます。

2009年7月18日土曜日

焚火の事務所「硝子の声」

を観に行こうかなと思っています。
いっしょにいかへん?

↓詳しくはここ
http://www.office-takibi.jp/

追記:【本】差別と日本人

「差別と日本人」を読んで、思い出したことがある。

あんまり本の内容と関係ないけど、俺が環境問題とか国際協力とかに関心を持つ、遠い遠いきっかけになった話。書こうか迷ったけど、振り返る機会もそうそうないので書いとこうと思う。
なんか最近、自分の話ばっかでどうなんだろう、と反省しつつ。




1999年、俺は小学6年生だった。
今年で世界が終わると巷ではささやかれていたその頃、
野中広務が主導して、ある法律が成立した。

国旗国歌法だ。

8月13日を境に、君が代は国歌に、日の丸は国旗になった。
俺たちは、君が代を「国歌」として卒業式で歌った初めての世代だ。


(国旗)
第一条  国旗は、日章旗とする。
2  日章旗の制式は、別記第一のとおりとする。

(国歌)
第二条  国歌は、君が代とする。
2  君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二のとおりとする。

というだけのシンプルな法律はしかし、野中広務たちの「国旗国歌は強要するものでも何もない」という言葉とは裏腹に、シンプルではない日本社会にすんなり受け入れられたわけではない。

そんな戦争賛美の歌は歌えない、思想・信条の自由の侵害だ。と主張して、「一同、ご起立ください」と言われても歌わずに座るというパフォーマンスをするひとがいる。


俺も、そんなひとりだった。


仲が良かった子に「一緒に座ろうぜ」と呼びかけて、
みんなあんまりのってくれなかったけど、
数人でいっしょに座った。

といって、戦争がどうとか考えていたかというとたぶんそんなことはなくて、
「座ると担任が偉い人に怒られる」
と聞いて、あ、それいいかも、と思ったのが動機のような気がする。

戦争がどうとか考えていたかはともかく、
戦争がどうとかわめいている論争の中に足をつっこむことは、後に紆余曲折を経て、平和とか国際協力とか環境問題とかに興味をもつことにつながった。


でも結局その後、君が代がどうとかそういう話に興味がなくなる。
そのことを話すために、ちょっと担任の先生の話をしたい。


担任の先生は、俺が座ったもうひとつの大きな理由だろうと思う。

担任は共産党系のひとで、ことあるごとに「差別はだめだ」「戦争はだめだ」というような言葉を繰り返していた。
座れとも座るなとも言わなかったけれど、担任のそういう雰囲気も俺に影響していた。

でも、今思うと、
そんな教育を受けた俺たちは不幸だった。
担任のことはそんな嫌いじゃなかったけど。

道徳は、聖なる嘘だというけれど、
「だめなものはだめだ」をいくら繰り返しても、
それはただの嘘だ。
実感を伴わない、薄っぺらな平和なんか、いらない。

いらない。と今になって思えるけれど、昔はそんなことはなくて、
薄っぺらだからこそ、必死に守らないといけないと思っていた。
思わされていた。

だからきっと俺は、必死に座っていた。
こどもはいつも、大人の薄っぺらさに翻弄される。


戦争はだめだ、戦争をした日本はだめだった、と言うのも
戦争は仕方なかった、北朝鮮とか中国はだめだ、と言うのも
エコが大事だ、環境に悪いのはだめだ、と言うのも
何も変わらない。
どれも薄っぺらい「だめだ」の押しつけだ。


そんな薄っぺらな大人になりたくなくて、
俺はがんばっているのかもしれない。


平田オリザは、共著「ニッポンには対話がない」で
だから、わたしたち大人は、表現教育をやることによって、演劇活動の中で、たくさんの議論を積み重ねることを通じて、そこで子どもたちがいろいろな意見を交わしながら、結果として「どんな難しい問題が起こっても、決して戦争で解決してはいけない」「原爆は絶対に許せない」という子どもたちが育ってくれることを願うしかないんです。でも必ずリスクがある。「原爆投下はやむをなかった」と結論づけるグループが出てきてしまうリスクもある。そしてわたしたちは、それを覚悟しなければならない。

と述べている。

そういう覚悟を俺も持てるのか。
俺もそろそろ子どもではないし、
薄っぺらじゃない大人になる正念場だな、と思う。

2009年7月17日金曜日

【本】差別と日本人


辛 淑玉、野中 広務「差別と日本人」



京都には何かあると思う。

その「何か」の正体はよくわからない。
差別とか、逆差別とか、
右翼とか、左翼とか、
よくわからない、言葉にできないような些細な、でも重大な違和感。

京都市役所に勤めている先輩も、
市政の中に、それが何かわからないけど、でも触れてはならないような何かある。と言っていた。

だから俺は、「日本に京都があってよかった」なんて軽々しくは言えない。
何で?と聞かれてもうまく答えられないけれど、
京都は色んな意味で日本の象徴だからだ。
日本文化の中心地であると同時に、
差別とか偏見とか、陰湿な、いわゆる「日本人」の心の影を感じる。

だいぶ前、中国人とインド人が京都観光をする案内をしていて、京都駅らへんの飲食店に入ろうとすると「中国人はちょっと…」と言われた。
いつの時代だ、と驚くものが、
良きにつけ悪きにつけ、京都には残っている。

でも「京都には残っている」という言い方は、ずるい。
俺だってきっといろいろ差別をしてきたのだろう。
決定的に思い出せる場面はそんなにないけれど、加害者はいつも都合良く忘れる。
京都をみてるとときどき、そんな自分のやな部分をまじまじと突きつけられるようで怖くて、だから京都は嫌いだ。


野中広務は、そんな京都の部落出身の政治家だ。
この本は、辛淑玉が野中にしたインタビューが解説とともにまとめられている。
野中自身が受けてきた差別、その周囲や社会に渦巻く差別。
差別ってこんなにひどいんだ。ダメだよね。みたいなことではなく、
辛と野中との意見のぶつかり合いの中で、差別の本質みたいなものを見つけていこうとする方向性が面白かった。
「日本人と差別」という大げさなタイトルは辛淑玉の勇み足だと思うけれど、
なんとなく「差別」の輪郭が見えたような気がした。


ちなみに、京都では今、この本が売れている。
それはなんか新しい傾向だなーと思った。


追記:
「京都で」って書いたけど、全国で売れてるらしい。
わかりにくい書き方ですいません。。

2009年7月16日木曜日

ため池に関しての雑感

そろそろ院試一ヶ月前になるので、ため池のことはしばらく置いておくことになる。
今の時点で感じたことをちょっとまとめておこうと思う。
あんまりまとまってないけど。(たぶん読んでも意味わからんかも。。)


まずカミングアウトしておくと、俺はため池を見たことがない。と思う。
見たことがあるのかもしれないけれど、それを「ため池」と意識してまじまじと見たことがない。
たぶん、俺のようにベッドタウンに住んでいた子どもはそんなもんだろう。

自己紹介で、「卒論はため池の研究をします」と言ったときに、
「昔よく遊んだなー」とか
「昔よく水を奪い合ったなー」とか
「俺の庭みたいなもんだったぜ」みたいな反応が返ってくるときは稀で、
大概は、「ため池」ってよくわからない、と言われる。


要は、
ため池は、よくわからない。

ため池の利活用といったときに、
それが一番の問題であるように思われる。
そう思った理由を、ここで試行錯誤しながら説明を試みたい。



「農業の多面的機能」
と聞くと、何を想像するだろうか。
たぶん、田んぼとか畑とかやんね。

「農業の多面的機能」という概念の起源は知らないけれど、
その言葉が広まったのは、WTOの国際交渉で農業補助金撤廃の要求が高まったことが大きい。
農業生産に関する補助金ではなくて、「農業の多面的機能」に対する対価だ。という論理を使うことで、国内農業への支援を継続したかったからだ。
それがただのレトリックなのか真剣に理論として提唱していたのかは、微妙な線だけれど。

田んぼとか畑とかは個人の持ち物だが、
それが生み出す便益は社会全体に及ぶ。
「個人のものが、みんなにとっていい」という図式。
だからお金払ってもいいんじゃない。みたいな。


しかし、ため池はその図式に当てはまらない。
ため池は、個人のものではないからだ。
「個人のもの」でなければ、「みんなのもの」ということになって、じゃあ、ため池の多面的機能には「みんなのものが、みんなにとっていい」という図式が成り立つ。
のかというと、そんなことはない。

前者の「みんな」と後者の「みんな」は違う集団を指している。

多面的機能でメリットを得るのは、
ため池を治水用に改修することで洪水の危険から解放される「みんな」
ため池を釣堀にして、釣りを楽しむ「みんな」
ため池をアリーナにして、水上スポーツを楽しむ「みんな」
そしてもちろん、農業用水として使う、農業を営む「みんな」
といろんな人が含まれている。

そして一方で、
それを所有・管理・出資する「みんな」とは誰なのか、曖昧だ。


「誰なのか」という聞き方が現近代的過ぎるのかもしれない。
ため池がつくられていた時代はたぶん、「個人」とか「所有」という概念は今と違った共通認識があって、そうした当時の文化のうえにため池の管理システムが成り立っていた。
システムを、個が多様化した現在に合うように翻案しないといけないけれど、そのデザインはまだ黎明期にある。


文献をいくつか読んでいるとどうも、
1) 費用は行政が出して、管理も行政が
2) 費用は行政が出すけど、水利関係者が自主的に管理する
3) 費用も管理も水利関係者が責任を持つ
の中では、2が一番うまくいくような傾向があるように思えた。
農業目的だけなら、なるほど農業に携わる人のみが管理すればいいだろう。
でも、ため池を洪水調整池だとか、アリーナだとかとして使っている場合は、農家じゃない人も管理に関わるべきじゃないだろうか。

そもそも、ため池の魅力は「みんなで管理する」ということに起因するように思える。
水を奪い合い、いがみ合いつつも、ひとつの水の塊を共同管理する。
それは、大げさにいえばひとつの奇跡だ。
争うからこそ、安寧は価値を持つ。
みんながため池に関わるからこそ、
ため池は面倒で、けれど価値を持つ。
社会やひととの関係性を切り離せば、ため池をいかに豪華に改造してもそれはただの池だ。
「溜める」という能動的な動詞がついてこその「ため池」であって、勝手に「溜まっている」のは「池」に過ぎない。
そして、「溜める」の主語は誰かというと、きっと「みんな」だ。


じゃあ、誰がどうやって関わればいいかと言われると、正直答えに困る。
どれくらいの範囲の「みんな」が関わればいいのかわからないし、
関わってくれ、と言われたところで多くの人にとって、ため池はなんなのかわからない。
そんな得体の知れないものに関わりたくないし、
そもそもそんな得体の知れないものに税金を使うってどうなの?
みたいな話になることもあるだろう。


上に「社会やひととの関係性を切り離せば」と、仮定のように書いたけれど、実はもう切り離されて、ため池はただの池に成り果てているのかもしれない。
農家が溜めていようが、
自然のいたずらで溜まっていようが、
ため池ってよくわからない。というひとにとっては同じだ。
ただの「池」なんだ。


それを改善するのが唯一の道なのかもしれないし、
あるいは「池」だと割り切ることで新しい活路が見えるのかもしれない。
ともかくも、ため池とはなんなのか。
それをもう少し考える必要がある、と感じた。





…前は「祭りとは何か」って書いたけど、最近そういう悩み方が多いな(笑)

2009年7月15日水曜日

タイカレーの材料(個人的メモ)

あさって友達の誕生日パーティーのためにタイカレーをつくります。
インドのカレーに比べて、タイカレーのレシピは見つけにくかったので、材料をメモっておきます。まだつくってないけど。
個人的なメモでごめんなさい。


コブミカンの葉 → ○(乾燥)
レモングラス → ○(乾燥)
クミン → ○(ホール)
ニンニク → ○(生)
カー(ガランガー、南姜) → 日本のしょうがで代用
タマリンド → 酸味担当のスパイス。何で代用しよう。。梅干し?
パクチー → 買うか買わないか迷い中
ターメリック → ○
ナンプラー → ○
カピ → 干しえびとかで代用?
ブリッキーヌー → 鷹の爪とかで代用?


追記:
とりあえずつくってみて反省点は、
・ナンプラー入れすぎた?
・酸味とかいらんかも
・辛さが足りない
・ケチってパクチー買わなかったけど、本番は入れた方がいいかも
・カピは結局何も代用しなかったけど、エビを入れたほうがいいかも。味に深みがなかった。
・ターメリックはあんまりないほうが見た目タイカレーっぽい

The Subways



いまさらThe Subwaysにはまっている。
イギリスの男女ボーカル3ピースバンド。

男性ボーカルが、めっちゃすごい。
個人的には、Linkin Parkのチェスター・ベニントン以来の衝撃だった。
でも他の楽器もレベル高い。
ギターバンドの中では一番好きかも。

ちなみに、曲名は
4:11 Oh Yeah
9:37 Strawberry Blonde
16:00 I Won't Let You Down


Wikipediaをみると
ザ・サブウェイズ (The Subways) は西イングランドのハートフォードシャー州にあるウェルウィン・ガーデン・シティ出身のロックバンド。オアシスに影響を受けたビリーが、自身の恋人であるシャーロットと弟のジョシュを誘って2003年に結成した。

ビリーとシャーロットは13歳の頃から付き合っていたが、現在は別れている。(ザ・サブウェイズ-Wikipedia

と書いてあって、調べてみると、2曲目の「Strawberry Blonde」はそんな2人の関係を歌った曲らしい。
あんまりよくわかならいけど、ビリーがふられた感じなのかな?
The Subwaysの動画には「poor billy :(」みたいなコメントが付いてるのをちょこちょこ見かける。

なんか、失恋してもいっしょにバンドやるのが大人だなーと思った。

2009年7月14日火曜日

都市に祝祭はいらない?

祭りとはなんなのか。
ここ数日悩んでいる。


おとつい、水都大阪の事前勉強会で、大阪の歴史についての話をきいた。
水辺というのはかつて(そして今も)被差別民のエリアだった。
しかし社会的弱者でありながら、その人々は経済の重要な部分を担っていた。
その富の力は権力者をも凌駕するものであったという。
そうした「下から上への活力」のようなものが庶民の町・大阪の原動力であり、水がその象徴だったという。

と、俺が書くと薄っぺらな感じになるけど‥
また勉強してブログにちゃんと書こうと思う。




で、その勉強会をしていたときに天神祭の話が出てきて、
水都大阪は何の祭りなのか。というところに話が及んだ。


例えば、天神祭、祇園祭は怨霊信仰の祭りだ。
天神祭は太宰府で死んだ菅原道真の怒りを鎮めるために、
祇園祭は霊の祟りである疫病を鎮めるために、
それぞれ始まった。

その背景にあるのは「恐れ」だ。

会場にいた京都橘大の教授は
「すべての祭りの始まりには、恐れがある」
と言ったが、なるほど、そういう見方もできる。
収穫祭は、次の年には凶作にならないかという恐れが、
インターネットの掲示板とかで起こるいわゆる「祭り」は、自分が攻撃される側にならないかという恐れが、
あるいは背景にはあるのかもしれない。

黒沢清という映画監督が雑誌のインタビューで「すべての映画はホラー映画だ」という意味深な言葉を放っていたが、
なるほどなーと妙に納得してしまったのを思い出した。


そういえば、広告の戦略は恐れを巧みに利用する。
これを買わないと時代遅れだ、
これを買わないとあなたは幸せになれない、
という恐喝によって商品を買わせる。ときもある。

そういう意味では、祭りが商業化している今において、
祭りの原動力とはやっぱり恐れなのかもしれない。
不況への恐れ。
仲間はずれになる恐れ。



でも、と思う。
水都大阪がそういう祭りであってほしくない。



この投稿のタイトルは、平田オリザの著作の題名なのだが、
かつて祭りは、個人のアイデンティティーを共同体が担っていた時代に、
「五穀豊穣」であるとかの共通認識を確認し合う行為として成り立っていたが、個が多様化した現代においてはそうした祭りの図式は成立しない。
と指摘する。


かつての祭りに価値がなくなったわけではない。

伝統や文化に裏打ちされ、その祭りに参加することによって共同体の一員であることを再確認する。
コミュニティの一員であるという感覚。
みんなが一体になる感触。
それはひととひととの距離が遠くなる現代において、尊い体験だ。
高校の文化祭とか、楽しかったよね。


けれど、水都大阪の目的は、一体感を実感することではない。
ひとの多様さを感じるための祭りだ。
むしろ、どこか孤独になるのかもしれない。


現代芸術は、何か思想や主張を伝えるものではなくて、
世界を表現するものだと平田オリザは言う。

みんなそれぞれの目にそれぞれ少しずつ異なった世界を写しているから、
表現されている世界を見て共感する部分も少しずつ違う。
個人が多様していれば、多様な感じ方があって当然だ。

それは必ずしもいいことではない。
感じ方が人によって違うということは、時に孤独を生む。
例えば、感想を会話のネタにしにくい。
「都市に祝祭はいらない」には、
デートで青年団の公演を観に来て、感想がかみ合わずに仲が悪くなってしまっても責任がとれない、と注意が促されている(笑)。


ではなぜそんなリスクを冒してまで現代芸術は、アートは必要なのか。
それは、いやが応にも個人は多様だからだ。

アートの中に表現されている世界は、いわば自己を投影する鏡だ。
自分がどこに共感できてどこに共感できないかを知る。
多様さの洪水に流されそうになっている中で、自分と向き合える貴重な瞬間。

ともかくも、
多様性を受け入れる。
それがアートの姿だ。


かつての祭りは一体になるためにあり、
アートは多様になるためにある。
そして、水都大阪はその間のどこかにある。
単なる祭りではなく、
単なるアートではなく。


水都大阪は何の祭りなのか。
その答えはよくわからない。
「都市に祝祭はいらない」には、ぱらっと読んだだけなので分からないけれど、これからは祭りよりアートでしょ。みたいなことしか書いていなかったように思える。
祭りとアートと、という単純な二分法はいけないし、たぶん平田オリザもそんな乱暴なことはしていなかったと思うけれど。
とにかく、じぶんの中で答えが出ない。

祭りとは何なのか。
ひとによって答えが違うこの問い自体が、究極のアートなのかもしれない。

Moby



Wait For Me
というMobyの新しいアルバムがひっそりと出ていた。
言われなくても待ってました。

HMVで見つけたけど、あれ、なんでこんな隅っこに置いてあるの?という扱いだった。
今回は大手レーベルからではなくて、自分のレーベルから出してるからかな。
とにかく俺はこの曲にノックアウトされて、アルバムを買った。

映画のサントラを聴いているような新しさ。
これぞMoby、という気がする。

2009年7月12日日曜日

アラル海はいま

アラル海、3年で8割縮小 かんがいシステム導入で(AFP)
http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/environment/2620056/4348919


えっ!?
と思った。
こんなに縮んでるのか、アラル海。

上の記事の写真は、いつかわからないけれど、2008年。
Wikipediaに載っている写真は2008年4月。
1年経たないうちにこんなに干上がるなんて‥


ところで、
AFPのはきっとわかっていないひとが書いたやつだ。
頭悪いでしょこの記事。

「かんがいシステム導入」と「3年で8割縮小」はまったく関係がない。
というか、記事をよく読めば、
内陸の水域としては、かつては世界4位の規模を誇っていた同海だが、半世紀ほど前の旧ソ連時代に綿花栽培のためのがかんがいシステムが導入されたことで同海に注ぐ川からの流入量が減り、海岸線が後退し続けている。(アラル海、3年で8割縮小 かんがいシステム導入で(AFP)

とあって「かんがいシステム導入」は3年前とかの話ではないことがわかる。

もちろん灌漑は、アラル海が半世紀間干上がり続けてきた原因だ。
地球温暖化はぜんぜん関係ない。
冷戦で入ってこなくなった農産物(特に綿)をまかなうためにソ連が新規に農地を開墾し、灌漑に水を使われてアラル海に流れ込む川の水は激減した。
ひどいときには1日で200mも海岸線が遠のいたという。


でも、繰り返すけど、灌漑はこの3年の急激な縮小の主犯ではない。
じゃあなぜか。
それは、2005年8月にアラル海を上下に分断するコカラル堤防ができたからだ。

干上がっていったアラル海は、北の小アラル海と南の大アラル海に分かれていた。
流れ込む川の水はしかし、そのどちらも潤すほどはない。
それならいっそ、大アラル海は見捨てて小アラル海を残そう。
と、水が北から南に流れ込まないように堤防をつくった。

果たして大アラルは涸れ、小アラルは残った。
予想通りの結果だ。


といって、もちろんハッピーエンドではない。
まわりに住む人にとっては、
みんなハッピーなわけではないし、
これがエンドなわけでもない。

もっとそこに住む人々の暮らしに思いを馳せないといけない。
地図から見た変化なんて、どうでもいいんだ。

海岸が200m動くのが問題なのではなくて、
漁に行くのが200m遠くなるのが問題だ。

塩まみれの砂漠の広大さが問題なのではなくて、
舞い飛ぶ塩によって起こる健康被害が問題だ。



アラル海に行ってきたことはこのブログにはまだ書いていないと思うので、
またいずれ書きます。

2009年7月11日土曜日

藤浩志さん

なんか、水都大阪の関係で、藤浩志さんについての感想文を書く課題があったので、
せっかく書いたしここに公開しときます。
ちょっと急いで書いたので意味不明かも。。


↓藤浩志さんについて詳しく知りたい人はここも読んでね。
http://www.log-osaka.jp/article/index.html?aid=83
http://www.geco.jp/
http://geco.exblog.jp/


僕が藤浩志さんのサポーターを希望したのは、パンフレットのプロフィールに書かれていた「地域資源・適正技術・協力関係」という言葉に惹かれたからだ。自分がこれから進もうとしている国際協力の分野につながるものを感じた。アートと援助は少し似ている。どちらも、相手のことを考えているようでいて自己満足にしかなっていない、という状況に陥ることがある。「地域資源・適正技術・協力関係」といった概念は、それを乗り越えるための鍵になっていくのだろう。その乗り越え方を水都大阪から学びたいと思っている。

アートは時に人を不安にさせる。秩序とか理論に依拠して暮らしている人間に「こういう世界もあるんだよ」と掲示することは、いい意味でも悪い意味でも、その人の世界観を壊す可能性を秘めている。藤さんのロングインタビューの中に「彫刻公害」という言葉が出てきたが、パブリックアートは時に公害になる。人の気持ちとか、社会の安寧とかを害する。ひととひとが関係を結ぶのが苦手になっていくといわれる時代の中で、アートと人の関係もどこかぎこちない。パブリックアートだとかサイトスペシフィックだとか、照れ隠しのように横文字を使うけれど、それはきっと新しいものではない。ひととの関係性や土地との関係性を切り離したときに感じるぎこちなさの正体を、丁寧に探って気付いた忘れ物だ。

けれど関係性を大切にするというのはそんなに簡単なことではない、と国際協力の一端に触れていて思う。大切にするどころか、鈍った感性では関係性に気付くことすら難しい。国際協力だけではない、どんな分野でも自分が見たいものだけを見ていたい誘惑に駆られるのだろう。例えば、インタビューの中にあったメキシコの石彫シンポジウムの話には「サイトスペシフィック」という言葉のホンネとタテマエを見た気がした。関係性は、正直めんどくさい。だから、人や土地と丁寧に対話をする藤さんの姿勢と理念に、僕は感銘を受けた。

一番印象に残ったのは博多の「公庭」の話だった。失われていく場所への単なる回顧でもない。今までの関係性をばっさり切り捨ててゼロからつくるわけでもない。既存の関係性を大事に、場所を再構築する試みは、月並みな言葉しか出てこないけれど、すごいと思った。小学校の校庭が地域にとって重要な場所だということに気付くその着眼の鋭さと、地域を巻き込む巧みなバランス感覚と。それこそが、「地域資源・適正技術・協力関係」という理念を実現するのに必要な能力だ。これはきっと、古くて新しい。

でも、関係性に気付くのは簡単ではない。水都大阪のサポーターになって、たまに大阪と水の関係について考えてみたけれど、せいぜい、タイガースが優勝したら道頓堀に飛び込む、といった陳腐なイメージしか出てこない。きっと、自分ひとりで考えるからだ。あと1ヶ月すれば水都大阪が始まる。もっといろんな人との関係性の中から、大事なことを見つけたい。そして、新たな関係性が紡がれていくのを手伝いたい。そのためには、丁寧に人や土地と向き合う姿勢を持たなくてはいけない、と藤さんの関係のホームページを読んでいて強く感じた。

2009年7月10日金曜日

撮ってみた。

このブログで書いたか書いてないか忘れたけど、
フィルムカメラを買った。
時代に逆行してるなーと思いつつ。

でもお手軽なコンパクトカメラなので、
フォーカスも露光も自動でやってくれて、
使いやすさはデジカメとそんなに遜色はない。

NATURA CLASSICA | 富士フイルム
http://fujifilm.jp/personal/filmcamera/35mm/naturaclassica/index.html


といっても買ったのはけっこう前だ。
フィルムカメラになると何が違うって、
一枚の緊張感。
この一枚に何円かかるんだろう、とか計算してしまう。

たぶんその緊張感がいい写真を撮らせるのかな、
とかってに思い込んでフィルムカメラを買ったけれど、
やっぱりお金かかるのは、やだ。

ちなみに今回は36枚撮るのに、フィルム 720円 + 現像プリント代 2070円がかかった。
けっこうするよね。。
次からもうちょい安いフィルム + 必要ないやつは写真プリントしない。という感じで、節約につとめます。

まあそんな風に1枚の値段におびえているうちに2ヶ月が過ぎ、
ようやく1本目のフィルムの現像が終わった。


なんか、やっぱりデジカメとは雰囲気が違う気がする。
俺はカメラは素人なのであんまわからないけど、
↓でもこれとかけっこういい感じの色合いじゃない?


カリー化

currying

というのはもちろん、
俺の研究室にはバングラデシュ人がひとりいるんだけど、
その人にカレーのつくり方を教えてもらったので、
最近スパイスを10種類くらい買い込んで、
カレー三昧の日々を送っています。
ああ、カレー化する俺の日常。


みたいな意味ではないのです。
久々にプログラミングの話。


最近バイトで、上司に内緒でPythonを使い始めた。
職場ではPerlの方が浸透してるけど、
Pythonの方が見た目が好きだから。


で、なんでか忘れたけど、ふと「カリー化」という言葉を見つけて、
関数型言語とか
クロージャとか
よくわからない!と思って今まで避けていたのをちゃんと勉強しないといけないかも、と思ってきた。

思ってきたけれど。


カリー化(currying)とは、計算機科学分野の技法の一つ。複数の引数をとる関数を、引数が「もとの関数の最初の引数」で戻り値が「もとの関数の残りの引数を取り結果を返す関数」であるような関数にすること。
カリー化 - Wikipedia


Javascriptのカリー化の例:
function curry(f) {
if (f.length == 0) return f;
function iterate(args) {
if (args.length >= f.length)
return f.apply(null, args);
return function () {
return iterate(args.concat(Array.prototype.slice.call(arguments)));
};
}
return iterate([]);
}
JavaScript でカリー化、再び



へっ?

…さっぱりわからない。


上のリンクにある使い方の例を読んだらなんとなく分かったけど、
原理とか、メリットがよくわからない。

うーん、これはきっと、プログラマとしてちゃんとした勉強をしてないからなんだろうな、と思ったりする。
まあ別に、プログラミングは趣味みたいなもんだからいいけど。と言ってしまえばそれまでだ。でもやっぱり、曲がりなりに2年はプログラミングで稼いでいるという自負はあって、
もうちょっとちゃんとわからないと!

詳しいひとは、
これを読んだらいいよ。的なことを教えてください!


あ、ちなみに、カリー化という名前は、
ハスケル・ブルックス・カリーという論理学社の名にちなんで付けられたらしい。
食べ物のカレーとは関係がないのでした。

2009年7月7日火曜日

「誰でもよかった」

「誰でもよかった」


と、此花のパチンコ屋に放火した男は言う。
最近、犯人がそんなことを供述する事件が増えている。


あるいは、そう思わされているだけなのかも知れない。
メディアが、刺激的な記事になるなら「誰でもよかった」という精神で、みんなの不安を煽る事件だけをいたずらにクローズアップしているのかも知れない。
その実、認めたくないけれど、俺がいま書いているのだって「誰でもよかった」という言葉について語る題材になるなら「誰でもよかった」のかも知れない。

それでも、「誰でもいい」といわれるのを恐怖に感じているひとが増えているのは事実だろう。

ひとが薄っぺらに扱われ、薄っぺらに殺されていく。
同質な人間の大量生産大量消費。
そんな時代の合言葉が、「誰でもいい」だ。


でも、ほんとうにそうなのか。
「誰でもいい」って、そんな悲しい言葉じゃないはずだ。


誰でもいいのは、みんな同じだからじゃない。
俺たちは工場でつくられた製品じゃない。
それぞれにいびつで濁っている。
違いがぶつかり合い傷つけ合い、みんなが仲がいいわけでもない。
けれど、「誰でもいい」んだ。

誰でも、違っていて、いい。

誰でも、ここにいて、いい。

そんなポジティブな「誰でもいい」を、どうして連想することができないんだろう。
それはきっと、俺たちの弱さだ。



話はちょっと飛んで、水都大阪の話。

水都大阪に対して、なぜアートなのか、という問いかけがなされる。
赤字の大阪にはそんなのに使ってるお金はないんだ、と。
水都大阪期間中には、そんな言葉を幾度となく聞くだろう。

でも大阪にはアートが必要だ。
俺は自信を持ってそう答えたい。
アートは、違いを「いいんだよ」と受け止める、強さだから。

大阪の魅力は人だ、と言われる。
若者、サラリーマン、おっちゃんおばちゃん、外国人、在日のひと。
いくらビルを天高くそびえ立たせても、都市は人でできている。
そこにいる人の多様さ、人間ひとりひとりの価値。
それを見つめ直すところにしか、都市の未来はない。

アートは、人間はひとりひとり違うんだと叫ぶことであり、その叫びを聞くことだ。
だから、大阪がひとの魅力を再発見するために、アートが必要なんだ。



でも、
と思うことがひとつある。

アートが大事なのは確かにそうだけれど、これは単なる理論だ。
水都大阪が、ほんとうに大阪を元気にできるのか。
もっとわかりやすくいうなら、
パチンコ店に放火した男のような絶望を、
アートは、
大阪は、
打ち砕けるのか。受け止められるのか。


そういうシビアな質問に、
俺は自信をもって「できる!」と答えられない。

けれど、「誰でもいい」の意味を変えるくらいのつもりでボランティアスタッフをがんばるので、
中之島の会場には「誰でも」お越し下さい。
8/22〜10/12 です。

2009年7月6日月曜日

七夕発祥の地、七夕祭り

京阪交野線の終点、私市駅を降りて少し歩くと川が見える。
その名も「天の川」だ。
ここは七夕発祥の地、交野。
俺は今日も、天の川を越えて、七夕祭りで展示されるペットボトルのオブジェをつくりに小学校の体育館に行った。


たかがペットボトル、と値踏みしないでほしい。

かつてマルセル・デュシャンは、プロペラを見て「絵画は終わった」と言った。
それは、当時誰も見向きもしなかった工業製品が持つ、幾何学的に計算しつくされた形状の美しさに驚愕したからだ。

ペットボトルを芸術作品の素材として誰も見向きもしないけれど、
それは「たかがペットボトル」というイメージが目を曇らせているのであって、
冷静に考えてみれば、あの透明さ、薄さ、弾力。
人類の英知の結晶は、やっぱりけっこうキレイ。
要は使い方だ。

↓例えばこういう作品ができあがる。
Report 藤浩志企画制作室:ペットボトルでつくった海亀の映像
http://geco.exblog.jp/7735847/


そしてこれは何より、
小学校の中で1週間制作を続けるという類を見ない試みだった。
「小学校に工房をつくりたかった」と主催の藤浩志さんは強調している。

毎日、小学生やPTAの人が手伝いにきてくれる。
ペットボトルを集めたり、
作業を手伝ったり、
新しいアイディアを出したり。

体育館では所狭しとペットボトルが並ぶ。
一つの作品をつくるのに必要な数は、500本くらいだという。
それだけのペットボトルが集められるのは、
色んな人が協力して集めてくれるからだろう。

ひとがひとを呼び、うねりは広がっていく。
これは本当の意味で「みんなで作り上げた」という言葉がよく似合う作品だ。


ちなみに、でもまだ完成していない。
明日が制作最終日だ。
頑張って完成させるので、ぜひ幻想的な祭りを見に来てね!
俺は当然行くので、行く人は連絡ください◎

天の川 七夕まつり2009(交野観光協会HP)
http://www.katano-kanko.com/tanabatai2009.html

2009年7月5日日曜日

だるまさんがころんだ

だるまさんが転んだとは、

鬼ごっこの変種のひとつである。鬼が「だるまさんがころんだ」という呪文を唱えることから、この名前がついた。鬼を一人立て、その鬼が他の参加者をすべて捕虜にすることを目的とする。また、鬼以外の参加者は、次の鬼になることを回避すべく、鬼に触れた後により遠くへ逃げることを目的とする。(Wikipedia - だるまさんがころんだ


らしい。
呪文?とつっこみたくなるけど、そこは本題ではないので自制することにする。


今日子どもたちがだるまさんがころんだをやっているのを見て、
子どもの頃だるまさんがころんだはどうすれば成立するのか謎だったことを思い出した。


例えば、鬼が「だるまさんがころんだ」と、
Wikipediaの文言を借りるならば「呪文を詠唱」(笑)して振り向くとする。そして、動く人間の姿を目ざとく発見して「動いた!」と指摘したとする。

しかし大概の場合、動いた人間は「動いていない」と反論する。
するとどうなるか。
動いたか動いていないか、
悲しいかな議論は平行線をたどる。


客観的証拠はない。
いかに子どもたちにケータイが普及しようとも、
「あ、俺のケータイでさっきの瞬間を録画していたから動画判定してみようぜ」
など誰かが言い出すことは、少なくともあと10年くらいはないだろう。


結局、話し合いでケリを付けるしかない。
ここでの真実の追究とはつまりディベートであり、勝者が正義だ。


対話の果てに自分の主張が認められなかったとき、
正しいこととか正義が世の中にただ一つ厳然と存在するんだ、という確信が崩れる。
自分の目に映る真実が、必ずしも誰にとっても真実ではないことを噛み締める。
だるまさんがころんだは、
朝日新聞のコラム「天声人語」によると、韓国で「達磨さんが寝転んだ」という掛け声で日本と同じ遊びをするのを筆者が目撃したそうだ。ここで言われる『達磨さん』とは、寝ずに岩壁を見続けて悟りを得たと言われる達磨大師を指し、大人達からそれを耳に蛸ができるほど言い聞かされた子供達が、「達磨さんだって、誰も見ていないところでは寝転んでいただろう」と反発して始めたのが『だるまさんがころんだ』ではないか、という推測をこの筆者はしている。(Wikipedia - だるまさんがころんだ

という起源だという説もあるが、
これはそういう、正義とか道徳とか大人が決めた価値観の薄っぺらさを知るための高尚な遊びなのではないだろうか。

と、昔に妄想していた。
ともかく、こどもの遊びには色んな哲学が潜在している。
もっといろいろ学びたい。

2009年7月4日土曜日

Duchess Says

カナダのパンクバンド。

ってWikipedidaには書いてあるけど、
えっ、パンクバンド?
近頃のパンクって‥‥こんな前衛的なの?

なんか衝撃的だった。
若い音楽についていく自信がなくなるほどに。

悩むな

悩んでいる人はおそらく、以下の2つに悩んでいる。

1) 悩ましい現実
2) 自分が悩んでいるという事実


悩んでいる人にどう接すればいいか。


模範解答のひとつは、
「悩むな」と言ってみること。


それは、悩ましい現実が本当に悩ましいのかの再考を促し、
結果として「あ、よく考えればそんなに悩むほどじゃなかったかも」
という気付きを与えるきっかけになる。
そんな、悩みのリストラクチャリング。

しかし一方で、
自分が悩んでいることそれ自体に悩んでいる人に軽々しく「悩むな」と言うのは、
「あ、悩んではいけないんだ。悩んでる俺ってダメなんだ」
と自己否定に陥らせる危険性を孕んでいる。



「悩むな」と言われたとき、
俺の心はどっちかというと後者のように反応する。

たいがい悩みの内容は些末なもので、それは指摘されるまでもなくわかっている。
でもじゃあ、なぜそんな大したことないことに悩んでいるのか、という疑問が浮かぶ。
それを自分に問いただしたところで、答えは出ない。


答えのない自問。
ほら、悩みのいっちょあがりだ。



じゃあ翻って、俺は悩んでいるひとにどう接しているのか。
うーん、たぶんだけど、
困ったらとりあえず「悩むな」と言っている気がする(笑)。

2009年7月3日金曜日

季節はずれの話題




そういえば最近プロフィール画像を変えたけど、
この絵はたしか、酉年の年賀状のために描いたやつだ。
(というと4年前?)
こないだ実家のパソコンのデータを整理していて見つけた。


そんなに絵がうまいわけじゃないけど、
年賀状の時期になると普段よりは絵がうまくなる(笑)。
特に最近は、つとめて年賀状は手書きで描くようにしている。
忙しい年末をよけい忙しくする、不器用な息抜きだ。


年賀状っていいな、と思う。
なんでって、クリスマスカードのようにテーマが毎年同じでもないし、
かといってグリーティングカードのように何を書いていいか悩みまくるわけでもないから。

高校を卒業すると、必要に迫られて(授業とか)絵を描くこともなくなって、
年賀状という文化のありがたさをよけい実感する。
目標がないと絵は方向性を見失う。

年賀状と松本大洋に出会わなければ、
俺の下手な絵はもっと見るも無残になっていただろう。
日本に生まれてよかった、と思う数少ない理由だ。



年賀状擁護派の人は、
みんな年賀状を出す枚数が減ってると憂慮している。
俺は逆に、そんな時代だからこそ、
社交辞令のために出す年賀状は減って、
代わりに手書きの年賀状が増えてほしいと思ったりする。
一枚入魂。みたいな。


そんな感じで、
夏なのに冬のことをふと考えた。

来年は虎か。
…もようが難しそう。

青春

最近この動画を何回も観てる。
ツボです。

2009年7月2日木曜日

沈黙の意味

例えばの話。


そういえばあの先輩とあんまりちゃんと話したことがない。
いつも発言がクールで、ちゃんと話してみたらきっとノリが合うかも。面白いかも。
でも先輩は今日もクールにパソコンを叩いていて、なんだか話しかけるのがためらわれる。
なんだろうこの胸のドキドキは。
恋? これって恋?

「何か用?」
と先輩が言った。
あ、やっぱりずっと見つめてたのがマズかったのかな。
いや、用はないんですけど。
と釈明しようとして、やっぱりやめた。
少しの勇気とちっちゃな声を振り絞る。

「先輩、今度飲みに行きませんかっ?」

先輩のキーボードを打つ手が止まる。
沈黙。
穴があったら入りたい。
やっぱり言わなければよかった。

と思った次の瞬間、先輩はひとこと、

「いいよ」


と言うかと思いきや、
いいともいやだとも言わず、
ただこっちを一瞥してまたパソコンに向き直った。

ええっ。
これは、お前の誘いなど答えるにも値しない、みたいな意味?
それとも、声がちっちゃくて聞こえなかっただけ?
あるいは、これは先輩への気持ちを試す試練なのだろうか。

わからない。
先輩、わからなくてごめんなさい。
話しかけてごめんなさい。
生きててごめんなさい。


というように「答えない」という答えは人の心をかくも鋭くえぐる。
(上の物語はフィクションです。実際の人物団体等とは一切関係がありません笑)


答えることはめんどくさい。
日常生活は問いに溢れていて、
俺たちは常に答えを求められる社会に憔悴している。

でもだからといって答えることを怠ければ、
生きててごめんなさい、
という風に感じてしまう人も中にはいるという事実を人は経験的に学ぶ。
誰かの涙と眠れない夜を授業料にして、
はにかんでごまかすとか、
とりあえず「了解」ってメールを返しておく、
みたいな高等テクニックを学習していくのだ。


でも、俺の印象なんだけど、
子どもは、
答えがわからないと答えないことがよくある気がする。
おとついこのブログに「子どもが怖い」って書いたけど、
俺は子どものそういう部分が怖い。
生きててごめんなさいな感じになるのが怖い。


今日小学校に行っても何回かあったなあ。
オブラートに包むことを知らない、むき出しの回答拒否。
最近慣れてきたけど。


でも俺は、あの沈黙の意味をちゃんと理解したい。
沈黙が意味するところは文化によって違う、
という話をこないだ行った難民問題のイベントでちらっと聞いた。
同じ黙秘でも、その人の背後にある文化を理解しないとそれがどういうことか理解できない。
だから、難民認定にはもっとそれぞれの国の文化に明るい人が必要だ。みたいな話。


といって、
同じ日本文化の中でも、沈黙の意味はいろいろだ。

暗黙の了解、
コミュニケーションの拒絶、
あ、ごめん聞いてなかった。と言うのが恥ずかしい、
ぼーっとしてるだけ。

沈黙の意味を他人が外から推し量れるのか、
俺にはよくわからない。
でもなんかそういう、
些細な空気とかも読めるような
些細な人間になりたいなと思った。



あ、全然話はそれるけど、
10年ぶり?に給食を食べた。
小学校のころってあんまり覚えてないけど、給食のことだけは覚えている。
そんな食欲の塊だった、ぽっちゃり系のあの頃。
を思い出して、食べ過ぎには注意しようと決意した。