かしわ演劇祭が終わって、しばらく演劇とはお別れ。
演じるって何なのか、ちょっと考えたりした。
演劇やりたいなー、となんとなく思って、
ぐぐっているうちに今の劇団をみつけたのがたぶん2010年の夏くらい。
やってる舞台をはじめて観に行ったのは、その年の冬。
で、そこで偶然、代表の人を見つけて声をかけて、
なぜか団員でもないのに忘年会に参加させてもらったりして。
でも、入団を認められるのはオーディションを受けてからで、
正式に団員になったのはもうちょっとあと。年をまたいでからだった。
「もうちょっとあと」がいつなのか、
正確にいうなら2011年2月22日だ。
(いまメールボックスを見返して調べた笑)
2月末といえば就活シーズンで、
俺も流されるようになんとなく就活をしつつ、ぼんやり生きていたころ。
ぼんやりしていても、日常を生きてられたころ。
3週間後に、あの3月11日があるなんて、
まるで想像もしていなかったころ。
2013年9月25日水曜日
2010年12月22日水曜日
平田オリザに対する批判まとめ
「まとめ」とか大層なことを書いたけど、
まとめ切れない。
平田オリザは、「青年団」を主宰する演出家、劇作家。
2009年10月に鳩山内閣で内閣官房参与となって以来、
ほんとにいろんな批判があると思う。
けっこう的を得たものから、
虚実ないまぜになったものまで。
つまりは目立ちすぎたんだな、と思う。
「平田オリザ」がアイコン化している。
まるで何かの象徴のように崇拝され、攻撃され、
焦点を結ばない虚像だけが膨張して、
批判のつぶてに打たれるだけのサンドバッグになっている。
高校の頃から平田オリザのファンな俺としては、
それは「平田オリザ」の虚像であって、
ほんとうの平田オリザではないと思う。
思うけれど、
「こんな批判なんて整理する価値もない」
と思うけれど、
それでも、直視しなくてはいけないものがある気がする。
たぶん、俺が目を背けたいのは、
俺への批判だから。
平田オリザへの批判は、主に2つに分けられる。
1)いわゆる「劇場法」への提言について
2)俗に言う「日本解体法案」について
ちなみに、平田は、
鳩山内閣では主に文化行政を担当し、
菅内閣では、国際交流を担当している。
上のうち、1)は鳩山内閣時代のもので、
2)は菅内閣時代の話だ。
1)いわゆる「劇場法」への提言について
これは、演劇関係者の事実誤認によるものが大きいと思われるが、
朝日新聞大阪本社版2010年3月19日付夕刊の、「劇場法」に関する平田の記事を読んで、
「劇団への助成をなくして、すべてを劇場へと振り向ける」のだという誤解が生じ、
様々な批判が飛んだ。
平田は後日、
劇団への助成はそのままで、劇場への助成を増やしていく、という意図だったと釈明する。
と釈明しているが、
説明不足なのは否めないし、
「平田オリザが抱える青年団は劇場付きの劇団だから、
劇場をもってない劇団のことなんてどうでもいいんだ」
と思われても仕方がない。
個人的には、
平田オリザが言ってるのはかなり的を得ていると思う。
たとえ劇団への助成が減ったとしても、
劇場への助成が増えさえすればそれでいいと思う。
劇場を、単なる「ハコ」ではなくて、血の通った「場所」にしなくてはいけない。
だって例えば、東京芸術劇場に野田秀樹が来て面白くなったでしょ?
でも、平田が提案していることは、
自分(青年団)に都合が良すぎる。
こういうことはもっと中立的な人間が提言すべきだった。
もちろん、そんな人間がいないから、
平田が矢面に立たされているのだけれど。
2)俗に言う「日本解体法案」について
これは、あんまり深く説明するのはめんどくさいけど、
外国人参政権、夫婦別姓、人権擁護委員会、とかそういう辺を右翼の人が、
「日本解体法案」とかって呼んでいるらしい。
その中でも、平田オリザが関係するのは、外国人参政権だ。
講演で、在日韓国・朝鮮人への参政権付与について言及するなど、
外国人参政権に賛成の立場を取っている。
たしかに、「対話」が重要だという平田の理念からして、
国民でなくても住民なら政治的に意見を言えて当然だ、
というのは自然な考えだと思う。
でも、またちょっと問題発言があったりする。
それは、2010年2月29日のこと、
「友愛公共フォーラム発会記念シンポジウム」の席上で、
という風に、右翼が使う「国家」「解体」というキーフレーズを使ってしまっている。
(出所が週刊誌だから、脚色されている可能性はある)
これは怪しまれても仕方がない。
まあ、外国人参政権賛成なのは変わらないし、
どうあがいても右翼受けが悪いのは変わらないけど。
でもそれにしても、もうちょっと味方をつくる言い方もあったんじゃないだろうか。
近代国家の解体、というのは、
「日本人」というアイデンティティに閉じこもる/閉じ込める
のではなくて、もっとグローバルな世界に対応した、
多文化共生な社会に開いていかなくてはいけない、
といったニュアンスだろうか。
ここで切り取られた短い言葉からはコンテクストが読めないけれど。
という感じで、
演劇関係者に反感を買い、
右翼を敵に回し、
というのが今の平田オリザだ。
なんか見てて切なくなる。
こんなぼろぼろになるまで、なぜ闘わなくてはいけないのか。
できるなら、平田オリザには演出家と劇作家だけしていてほしい。
そんなことを思いながら、俺もまた、
平田のインタビューから誤解を招きそうな部分だけを抜き取ってみて、
まとまらないまとめを終わりにしたい。
演劇はこういう、コピペの文化に、
つぎはぎと分断に満ちた世界に、
どう生きていくのかなあ、なんて考えながら。
興味あれば全部読んでね。
http://www.wonderlands.jp/interview/010hirata/
まとめ切れない。
平田オリザは、「青年団」を主宰する演出家、劇作家。
2009年10月に鳩山内閣で内閣官房参与となって以来、
ほんとにいろんな批判があると思う。
けっこう的を得たものから、
虚実ないまぜになったものまで。
つまりは目立ちすぎたんだな、と思う。
「平田オリザ」がアイコン化している。
まるで何かの象徴のように崇拝され、攻撃され、
焦点を結ばない虚像だけが膨張して、
批判のつぶてに打たれるだけのサンドバッグになっている。
高校の頃から平田オリザのファンな俺としては、
それは「平田オリザ」の虚像であって、
ほんとうの平田オリザではないと思う。
思うけれど、
「こんな批判なんて整理する価値もない」
と思うけれど、
それでも、直視しなくてはいけないものがある気がする。
たぶん、俺が目を背けたいのは、
俺への批判だから。
平田オリザへの批判は、主に2つに分けられる。
1)いわゆる「劇場法」への提言について
2)俗に言う「日本解体法案」について
ちなみに、平田は、
鳩山内閣では主に文化行政を担当し、
菅内閣では、国際交流を担当している。
上のうち、1)は鳩山内閣時代のもので、
2)は菅内閣時代の話だ。
1)いわゆる「劇場法」への提言について
これは、演劇関係者の事実誤認によるものが大きいと思われるが、
朝日新聞大阪本社版2010年3月19日付夕刊の、「劇場法」に関する平田の記事を読んで、
「劇団への助成をなくして、すべてを劇場へと振り向ける」のだという誤解が生じ、
様々な批判が飛んだ。
平田は後日、
劇団への助成はそのままで、劇場への助成を増やしていく、という意図だったと釈明する。
繰り返しになりますが、劇団関係者にご理解いただきたいのは、一部報道されているように、「劇団への助成を減らして、劇場への助成を増やす」といったパイの取り合いを目指しているのではないという点です。ただし、全体で見れば、演劇制作の主体は、すでに劇団から劇場に移りつつあり、この流れは世界の演劇の潮流からいっても、間違った方向ではないと思います。このことについての私の発言が、誤解を呼ぶ元になっているとすれば、説明不足をお詫びするしかありません。
(http://www.seinendan.org/jpn/oriza/msg/index2.html?)
と釈明しているが、
説明不足なのは否めないし、
「平田オリザが抱える青年団は劇場付きの劇団だから、
劇場をもってない劇団のことなんてどうでもいいんだ」
と思われても仕方がない。
個人的には、
平田オリザが言ってるのはかなり的を得ていると思う。
たとえ劇団への助成が減ったとしても、
劇場への助成が増えさえすればそれでいいと思う。
劇場を、単なる「ハコ」ではなくて、血の通った「場所」にしなくてはいけない。
だって例えば、東京芸術劇場に野田秀樹が来て面白くなったでしょ?
でも、平田が提案していることは、
自分(青年団)に都合が良すぎる。
こういうことはもっと中立的な人間が提言すべきだった。
もちろん、そんな人間がいないから、
平田が矢面に立たされているのだけれど。
2)俗に言う「日本解体法案」について
これは、あんまり深く説明するのはめんどくさいけど、
外国人参政権、夫婦別姓、人権擁護委員会、とかそういう辺を右翼の人が、
「日本解体法案」とかって呼んでいるらしい。
その中でも、平田オリザが関係するのは、外国人参政権だ。
講演で、在日韓国・朝鮮人への参政権付与について言及するなど、
外国人参政権に賛成の立場を取っている。
たしかに、「対話」が重要だという平田の理念からして、
国民でなくても住民なら政治的に意見を言えて当然だ、
というのは自然な考えだと思う。
でも、またちょっと問題発言があったりする。
それは、2010年2月29日のこと、
「友愛公共フォーラム発会記念シンポジウム」の席上で、
「ずっと10月以来関わってきて、鳩山さんとも話をしているのは、やはり21世紀っていうのは、近代国家をどういう風に解体していくかっていう百年になる。しかし、政治家は国家を扱っているわけですから、国家を解体するなんてことは、公(おおやけ)にはなかなか言えないわけで、それを選挙に負けない範囲で、どういう風に表現していくのかっていうことが、僕の立場」「国にやれることは限られるかもしれませんっていう、実はすごく大きな転換を、すごく巧妙に、(演説に)入れているつもりなので、先々、研究対象として、何が変わったのかということを、考えていただきたい」等の発言をした。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%B6)
という風に、右翼が使う「国家」「解体」というキーフレーズを使ってしまっている。
(出所が週刊誌だから、脚色されている可能性はある)
これは怪しまれても仕方がない。
まあ、外国人参政権賛成なのは変わらないし、
どうあがいても右翼受けが悪いのは変わらないけど。
でもそれにしても、もうちょっと味方をつくる言い方もあったんじゃないだろうか。
近代国家の解体、というのは、
「日本人」というアイデンティティに閉じこもる/閉じ込める
のではなくて、もっとグローバルな世界に対応した、
多文化共生な社会に開いていかなくてはいけない、
といったニュアンスだろうか。
ここで切り取られた短い言葉からはコンテクストが読めないけれど。
という感じで、
演劇関係者に反感を買い、
右翼を敵に回し、
というのが今の平田オリザだ。
なんか見てて切なくなる。
こんなぼろぼろになるまで、なぜ闘わなくてはいけないのか。
できるなら、平田オリザには演出家と劇作家だけしていてほしい。
そんなことを思いながら、俺もまた、
平田のインタビューから誤解を招きそうな部分だけを抜き取ってみて、
まとまらないまとめを終わりにしたい。
演劇はこういう、コピペの文化に、
つぎはぎと分断に満ちた世界に、
どう生きていくのかなあ、なんて考えながら。
興味あれば全部読んでね。
http://www.wonderlands.jp/interview/010hirata/
…要するに、劇団はそれ単体では原理的に金にならないから、若い人たちをだまさない限り絶対に存続しない。いつもずーっと文化大革命しているようなもんだから。「毛沢東だ!」って言って若者をついてこさせないといけない。
少なくともぼくの活動の中に新しいところがあったとすれば、「だましているんだ」ということを、はっきり言ったことでしょう。それが革新的だったと思うんです。それまでは、だましてないことにしていたし、主宰者も騙していないと思い込んでいた。でも、劇団というのは、若者をだましてるんだと。だましていることを前提にして、お互いに納得ずくで契約を結ばせようというところまではきた。
(http://www.wonderlands.jp/interview/010hirata/5/)
ラベル:
グローバリゼーション,
演劇,
自分のこと,
日本,
文化
2010年7月14日水曜日
NODA MAP「ザ・キャラクター」
一念発起して、野田秀樹を観てきた。
せっかく東京に出てきたからには、的な。
でも、なんで全国公演しないんやろう。。
(以下、ネタバレが怖い人は読まないでね)
なんかツイッターをみてると、
「すごかった」という感想が多かったけど、
まさにその言葉が相応しかった。
書道系(?)カルト教団に入信した弟を取り返そうと姉が教団に潜入する、という話。
野田秀樹らしく、
言葉遊びで物語は巧妙に狂わされ、
歯車が噛み合わないまま回転していく。
教団の暴走がギリシャ神話と複雑に重なりあいながら、
だんだん現実と幻がよくわからなくなる。
「ことばの力」というものを、
信じる人間と信じない人間がいる。
俺は信じないタイプの方で、
だから、言葉遊びという「ことばの力」に頼る野田秀樹とは相容れないと思っていた。
でも今日劇を観て、
野田秀樹は、言葉で「遊んでいる」というよりも、
言葉を「もてあそんでいる」ような気がした。
これでもかというほど敢えてもてあそぶことで、
ことばは信じられないものだ。と言っているんじゃないだろうか。
カルト教団では教祖の言葉が絶対で、
なのに、わざとことば足らずにして解釈の余地を残す。
その余地によって、
教祖の神聖性は守られ、
意味は都合よく後付けされる。
そうして言葉は、もてあそばれる。
言葉がいかに狂わされ、
取り違えられるかを示すことで、
「ことばの力」の不完全さが見えた。
ことばに、力がないとは思わない。
でもその力は思い通りにならないもので、
信頼してはいけないと俺は思っている。
狂わされた言葉に、今度は人間が狂わされる。
それでも、
ことばを使わずに生きていくことはできない。
劇中に、こんな台詞が出てくる。
そんなふうに、
ことばへの疑念を持ちつつも、
ことばを完全に捨て去ることはできない。
その捨て去れない言葉の中に、言葉と言葉の間に、
思いを込めて、人はしゃべるんだ。
だから、
信じるために疑おう。
という、決意。
せっかく東京に出てきたからには、的な。
でも、なんで全国公演しないんやろう。。
(以下、ネタバレが怖い人は読まないでね)
なんかツイッターをみてると、
「すごかった」という感想が多かったけど、
まさにその言葉が相応しかった。
書道系(?)カルト教団に入信した弟を取り返そうと姉が教団に潜入する、という話。
野田秀樹らしく、
言葉遊びで物語は巧妙に狂わされ、
歯車が噛み合わないまま回転していく。
教団の暴走がギリシャ神話と複雑に重なりあいながら、
だんだん現実と幻がよくわからなくなる。
「ことばの力」というものを、
信じる人間と信じない人間がいる。
俺は信じないタイプの方で、
だから、言葉遊びという「ことばの力」に頼る野田秀樹とは相容れないと思っていた。
でも今日劇を観て、
野田秀樹は、言葉で「遊んでいる」というよりも、
言葉を「もてあそんでいる」ような気がした。
これでもかというほど敢えてもてあそぶことで、
ことばは信じられないものだ。と言っているんじゃないだろうか。
カルト教団では教祖の言葉が絶対で、
なのに、わざとことば足らずにして解釈の余地を残す。
その余地によって、
教祖の神聖性は守られ、
意味は都合よく後付けされる。
そうして言葉は、もてあそばれる。
言葉がいかに狂わされ、
取り違えられるかを示すことで、
「ことばの力」の不完全さが見えた。
ことばに、力がないとは思わない。
でもその力は思い通りにならないもので、
信頼してはいけないと俺は思っている。
狂わされた言葉に、今度は人間が狂わされる。
それでも、
ことばを使わずに生きていくことはできない。
劇中に、こんな台詞が出てくる。
"もちろん、忘れるために祈るわ。
けれど、忘れ切れないものが残るでしょう?
忘れられないものがあることを忘れないために、私は祈るの。"
そんなふうに、
ことばへの疑念を持ちつつも、
ことばを完全に捨て去ることはできない。
その捨て去れない言葉の中に、言葉と言葉の間に、
思いを込めて、人はしゃべるんだ。
だから、
信じるために疑おう。
という、決意。
2010年3月4日木曜日
関東に行ったらやろうと思うこと
気付けばもう日差しが暖かい。
春が来て俺が関東にいくまで、
もう1ヶ月もないんだなーとしみじみ思う。
新しい世界に飛び込むことは何度だってできる。
でも、新しいことを始めるのは、
そうそうできるものじゃない。
だって、この体と心はすぐには新しくならない。
だから、新しいことを始めるためには、
新しくないことから始めないといけない。
この4年間で、あるいは今まで生きてきて、
取りこぼしたものを丁寧に拾っていかなくてはいけない。
足早に進みすぎて、
ラスボスに勝てず焦ってレベル上げをするRPGのように。
そんなことを思いながら、
関東に行ったらやろうと考えていることがいくつかある。
(1) 節約生活
2年間の下宿生活で、生活力はまあ死なない程度に身に付いたけど、
死なない程度の生活力では、
ただ死なずに生きていくことしかできない。
しかし、ただただ生きていくだけなら、
それって死んでいるのと同じじゃない?
俺は、生きたいんだ。
もっと圧倒的な生活力が欲しい。
もっと節約しまくりたい。
大根とかにんじんのてっぺんだけとっておいて育てて、
「あ、まだ育ってないから今日は晩ご飯なしかな!」
とか言ってみたい。
ケチ臭く安く生きた分だけ、
高級な人間になれる気がして。
そんな、安い期待。
とりあえず、節約料理を覚えようと思うんです。
3食に2食は自炊してるのに、食費が4万円近くなるってどうなん?笑
ぶっちゃけ食べ過ぎが一番原因なのは明らかだけど。。
↓いまはこの本を使っていて、
わりと便利だったけど、
もっと節約料理に特化した本を買おうと思う。
おすすめあったら教えてなー◎
(2) 身だしなみ
最大の難関はこれ。
そんなレベル高い身だしなみじゃなくて、
ヒゲは毎日剃るとか。
寝ぐせついたら直すとか。
人前に出るときはワックスつけていくとか。
そういう、こじんまりした身だしなみの話。
なのにできない。
現状はというと、
ヒゲ → 4日に1回。
寝ぐせ → 最後に直したのは1月?
ワックス → 寝ぐせ直しに使ったのが最後?笑
という感じで、
これは人としてどうなの。
みたいな話に発展しかねない。
まあ発展させてたまるかって話ですけど。
就活もあと1年後に迫ってるわけだし、
そろそろちゃんとしようかな、
と思ったりする。
(3) 劇団に入る
高校を卒業して、
もう二度と演劇には関わらないと決めてから、
4年が経つ。
最近、演劇論の本を読んだり、
友達の舞台を観に行っていろいろ考えた。
なんだかんだ演劇を避けてきたけど、
このまま進むと結局、演劇とぶつかるような気がしてきた。
こないだ「ベケットと「いじめ」」という本を読んだときから、それは確信に変わりつつある。
でも俺は、3年間演劇部にいて、
演劇からは何も学んでないんじゃないだろうか。
とふと考えてしまった。
演劇論からはいろんなことを学んだけど、
演劇からはまるで学んでいない。
ことばの世界に閉じこもって、
言葉にならないものを、
「演劇」というものを、
まるで見てこなかった気がする。
今度はもっと、演劇を直視したい。
初めて触れるつもりで、演劇をやりたい。
「演劇をやりたい」といっても、
舞台に立ちたいとか、
何かを伝えたいとか、
そういう欲求はあんまりない。
今はまだ。
ただ演劇に触れていたい。
そのぬくもりとか冷たさに、一喜一憂したい。
「入る」というとなんか大げさなら、
「関わる」とかって言い直してもいい。
なんか社会人が週末にやってるような、なるべく年齢層が広い劇団に、
ちょっと手伝いでもいいから参加したいなーと思っている。
役者でもスタッフでもいいから、
何かしら関わりたい。
そのうちに舞台に立ちたくなったら、
それはそのときがんばればいい。
とりあえず市民劇団を探している。
学生ほどヒマがなくても、
社会人ほどお金がなくても、
関われる劇団。
そんなに都合いいのはないかな。。笑
春が来て俺が関東にいくまで、
もう1ヶ月もないんだなーとしみじみ思う。
新しい世界に飛び込むことは何度だってできる。
でも、新しいことを始めるのは、
そうそうできるものじゃない。
だって、この体と心はすぐには新しくならない。
だから、新しいことを始めるためには、
新しくないことから始めないといけない。
この4年間で、あるいは今まで生きてきて、
取りこぼしたものを丁寧に拾っていかなくてはいけない。
足早に進みすぎて、
ラスボスに勝てず焦ってレベル上げをするRPGのように。
そんなことを思いながら、
関東に行ったらやろうと考えていることがいくつかある。
(1) 節約生活
2年間の下宿生活で、生活力はまあ死なない程度に身に付いたけど、
死なない程度の生活力では、
ただ死なずに生きていくことしかできない。
しかし、ただただ生きていくだけなら、
それって死んでいるのと同じじゃない?
俺は、生きたいんだ。
もっと圧倒的な生活力が欲しい。
もっと節約しまくりたい。
大根とかにんじんのてっぺんだけとっておいて育てて、
「あ、まだ育ってないから今日は晩ご飯なしかな!」
とか言ってみたい。
ケチ臭く安く生きた分だけ、
高級な人間になれる気がして。
そんな、安い期待。
とりあえず、節約料理を覚えようと思うんです。
3食に2食は自炊してるのに、食費が4万円近くなるってどうなん?笑
ぶっちゃけ食べ過ぎが一番原因なのは明らかだけど。。
↓いまはこの本を使っていて、
| 今日のごはんは?―もう悩まない。いますぐ使える簡単レシピ572日分 (生活実用シリーズ) 日本放送出版協会 2001-05 売り上げランキング : 82663 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
わりと便利だったけど、
もっと節約料理に特化した本を買おうと思う。
おすすめあったら教えてなー◎
(2) 身だしなみ
最大の難関はこれ。
そんなレベル高い身だしなみじゃなくて、
ヒゲは毎日剃るとか。
寝ぐせついたら直すとか。
人前に出るときはワックスつけていくとか。
そういう、こじんまりした身だしなみの話。
なのにできない。
現状はというと、
ヒゲ → 4日に1回。
寝ぐせ → 最後に直したのは1月?
ワックス → 寝ぐせ直しに使ったのが最後?笑
という感じで、
これは人としてどうなの。
みたいな話に発展しかねない。
まあ発展させてたまるかって話ですけど。
就活もあと1年後に迫ってるわけだし、
そろそろちゃんとしようかな、
と思ったりする。
(3) 劇団に入る
高校を卒業して、
もう二度と演劇には関わらないと決めてから、
4年が経つ。
最近、演劇論の本を読んだり、
友達の舞台を観に行っていろいろ考えた。
なんだかんだ演劇を避けてきたけど、
このまま進むと結局、演劇とぶつかるような気がしてきた。
こないだ「ベケットと「いじめ」」という本を読んだときから、それは確信に変わりつつある。
でも俺は、3年間演劇部にいて、
演劇からは何も学んでないんじゃないだろうか。
とふと考えてしまった。
演劇論からはいろんなことを学んだけど、
演劇からはまるで学んでいない。
ことばの世界に閉じこもって、
言葉にならないものを、
「演劇」というものを、
まるで見てこなかった気がする。
今度はもっと、演劇を直視したい。
初めて触れるつもりで、演劇をやりたい。
「演劇をやりたい」といっても、
舞台に立ちたいとか、
何かを伝えたいとか、
そういう欲求はあんまりない。
今はまだ。
ただ演劇に触れていたい。
そのぬくもりとか冷たさに、一喜一憂したい。
「入る」というとなんか大げさなら、
「関わる」とかって言い直してもいい。
なんか社会人が週末にやってるような、なるべく年齢層が広い劇団に、
ちょっと手伝いでもいいから参加したいなーと思っている。
役者でもスタッフでもいいから、
何かしら関わりたい。
そのうちに舞台に立ちたくなったら、
それはそのときがんばればいい。
とりあえず市民劇団を探している。
学生ほどヒマがなくても、
社会人ほどお金がなくても、
関われる劇団。
そんなに都合いいのはないかな。。笑
2010年2月26日金曜日
ベケットと「いじめ」
| ベケットと「いじめ」 (白水uブックス) 白水社 2005-08 売り上げランキング : 167418 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
何年ぶりかに図書館に行った。
なんとなく行きたくなって。
演劇の本の棚を見てたら別役実の本があった。
別役も、本のタイトルにあるベケットも、
小難しい戯曲を書くのであんまり好きじゃない。
でも、昨日「ヘヴン」といういじめが題材の小説を読んだので、
| ヘヴン 講談社 2009-09-02 売り上げランキング : 2353 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
「いじめ」という文字が気になって手に取ってみた。
そして、結局最後まで読んでしまった。
圧倒的な鋭さ。
20年以上前に書かれた本なのに、
その洞察はまるで未来を知っているかのようだった。
「ベケットと「いじめ」」では、
1986年に起こった中野富士見中学いじめ自殺事件と、ベケットの戯曲を題材に、
現代社会が考察されている。
「個」と「関係性」がキーワードになっている。
中野富士見中学いじめ自殺事件は、
1986年に起こった、初めて世間から注目されたいじめ自殺事件だ。
俺が生まれる前の出来事だから、
そんなに詳しくは知らないけれど。
この事件では「葬式ごっこ」といういじめがクローズアップされた。
少年の写真を黒板に飾り、線香を立て、
色紙に「安らかに眠ってください」という寄せ書きを書く。
寄せ書きには、担任も加わったという。
このいじめに対して、
少年はこんな反応をする。
始業前、遅れて教室に入ってきた鹿川君は、机を見て、「なんだ。これー」。その周りでクラスメートがニヤニヤして、様子をうかがっていた。鹿川君は「オレが来たら、こんなの飾ってやんのー」と笑っていた。(後略、『朝日新聞』朝刊、1986年2月6日)。
笑っていたのは、
もちろん楽しかったからではない。
いじめる側もいじめられる側も、
それが冗談であるのだと笑うしかない。
あからさまに隠された悪意に、気付いているからこそ、
気付いていないふりをすることしかできない。
担任も、「冗談だから」と言われれば、
「ああ、冗談なのか」と無理にでも納得して寄せ書きに加わるしかない。
「それは冗談じゃないだろう、いじめだろう」とは言えない。
そして、
そこに「個人」は存在しない、
と別役は続ける。
「個人」は友達グループというシステムに吸収され、
思い思いの行動をすることは叶わない。
「関係性」が「個人」に取って代わり、主体がいなくなるのだ。
そのくせ、
関係性に圧殺されそうになりながらも、
自立した「個人」であることが求められる。
だから、いじめという「関係性」に目を向けることはできない。
そんなものないのだと振る舞わなければならない。
例えるならそれは綱渡りに似ている。
関係性という細い綱の上で際どいバランスをとりながら、
下を向いては怖くなって落ちてしまうからと、
前を向いて進むことしかできない。
そして結局、足を踏み外してしまう。
個人であろうとするばかりに、
関係性を直視できず、あるがままにされ、
個人が持つべきはずの主体性を失っていく。
この主体が消えるという奇妙な現象は、
近代演劇からベケットらの不条理演劇への変化と相似している。
近代演劇においては、
個人は周囲から自立していて、
科学的、論理的な言葉を話す。
しかし、不条理劇においては、
人間はそんなに強い存在でも理性的な存在でもない。
主体性や存在そのものさえ否定される。
なんでそんなことをするかというと、
現実の世界が不条理だからだ。
世界は思い通りにいかないし、暗い。
おまけに戦争や大量生産大量消費で、人間の主体性はどんどん否定されていく。
不条理演劇は、そんな世界をリアルに表現しようとしたのだ。
しかしやがて、
不条理演劇は不条理な世の中を黙認してしまっているからダメだ、
という批判が現れはじめる。
個人的には、不条理演劇は、
今まで近代が目を背けてきたもの、
つまり例えば、
「個人」が目を背けてきた「関係性」のようなものを、
反射に逆らって直視しようという試みだと思っている。
まあでもとにかく、
不条理さをいかに超えるのか、
いかにして主体性を取り戻すか。
そういったことに悶々としながら、
別役実たちは、
演劇と、そして人間というものと、向き合い続いけていくことになる。
話は変わって「ヘヴン」について。
ヘヴンは、主人公の男の子がいじめられていて、
同じくいじめられている女の子とのやりとりを通して葛藤する、みたいな話。
帯にはこう書いてある。
「苛められ、暴力をふるわれ、
なぜ僕はそれに従うことしかできないのだろう」
彼女は言う。苦しみを、弱さを受け入れたわたしたちこそが正義なのだ、と。
彼は言う。できごとにいいも悪いもない。すべては結果に過ぎないのだ、と。
ただあてのない涙がぽろぽろとこぼれ、少年の頬を濡らす。
少年の、痛みを抱えた目に映る「世界」に救いはあるのか。
「僕」というのは主人公の少年。
「彼女」というのは同じくいじめられている女の子。
そして「彼」というのはいじめる側の少年だ。
「彼女」は、自分はただ受け身にいじめられているのではなくて、
むしろ積極的に、自分の意志でいじめられているのだ。と主張する。
いじめから逃げることはたやすいけれど、
あえていじめられることを選んでいるのだと。
そうすることで、彼女はこの世界の「主体」たりえる。
いじめの苦しさから逃げない。というかすかな主体性を握りしめることで、
彼女はかろうじて生きている。
「彼」は、主体性というものを否定する。
じぶんが「僕」をいじめているのはたまたまだ。
世界というのは自分たちの預かりの知らぬところで回っていて、
いじめるのもいじめられるのも、
主体的にすることではなくて、なりゆきに過ぎないのだという。
そうして主体性を否定することが、
彼に唯一残された主体性なのだ。
「彼女」は、いじめという、自分が否定される状況を積極的に選び、
「彼」は、自分の主体性を否定することを積極的に認める。
「彼女」も「彼」も、
自分を否定することでしか自分を肯定できないのだ。
そして、
じゃあ「僕」の主体性というのはなんだろう。
それがこの本のキーワードであり、
関係性の中にいる限り、
つまり生きていく限り、悩み続けなくてはいけないことだ、と思う。
いじめることか、いじめないことか、
いじめられることか、いじめられないことか、
他殺することか、自殺することか、
何が主体的な行動なのかまるでわからない。
ほんとに主体的な行動なんてあるのかすらもわからない。
そういう絶望の中で、
いじめというのは生まれるんだな、と思った。
2010年2月22日月曜日
劇団☆新感線「蜉蝣峠」(ゲキシネ版)
ゲキ×シネ 蜉蝣峠を観てきた。
元の舞台は、2009年の3月〜5月にやっていた。
古田新太と堤真一が共演していて、
しかも脚本が宮藤官九郎。
これは観に行くしかない!
と思いつつ行けなかった。痛恨のミス。
元々、新感線を初めて知ったのは、
「野獣郎見参」という、
堤真一と古田新太が対戦する舞台をテレビで観たときだった。
当時のテレビドラマではクールな役になっていた堤真一の、
あまりの変貌ぶりに「演劇ってすげえ!」と思った記憶がある。
堤真一は、やっぱり期待を裏切らないいい演技。
面白いし、
激しいし、
悪役らしいワルっぷり。
このまま新感線に所属してしまえばいいのになーと思う。
古田新太は、可もなく不可もなく。
面白いけど、
そこそこシリアスな役柄だからハマり役という感じでもない。
まあ面白いけど。
そして宮藤官九郎の脚本は、
これは中島かずきには書けない。
いろんな意味で。
まず、とりあえず下ネタ(笑)。
冒頭に、古田新太がうんことかちんことかいじってて…
スクリーンで観るには衝撃が強すぎた。
舞台なら遠くてよく見えないからいいけど。
女の子とは一緒に観れないなーと思った。
まあ一緒に観る人なんていないから無駄な心配やけどね!笑
でも下ネタを補っても余りあるストーリーの面白さ。
破綻しそうな物語がまさかの展開でつながっていく。
こんなドロドロした物語で、
中島かずきなら、登場人物を潔く死なせるだろう。
殺してしまうと物語はわかりやすくなる。
登場人物が減るし、
「実はこの人はこんなんだったんですよ」
みたいなお涙頂戴の話を持ち出せばそれっぽくまとまるから。
けれど、宮藤官九郎の脚本では、
登場人物は潔くない。
汚く泥臭く、執着する。
その執着は絡まり合い、物語はカオスになっていく。
カオスになっていくのに、
きちんとストーリーがつながっていて、
そのバランス感覚が、クドカンの面目躍如だなーと思う。
なんかたまに、
中島かずきの脚本って最近微妙だなと感じるけど、
それはまとまりが良すぎるからなんだな。と思った。
長い話を書けば書くほど、
物語を収束させたいという欲求に駆られる。
でもそれは、
劇作家としては逃げだ。
なんか偉そうな言い方だけど。。
昔、変貌した堤真一を観てるときに感動したけど、
そんな風に、
崩壊寸前のようでそれでいて安定している、
そんな,しっかり狂った演劇が俺は好きだ。
そして、
とにかく舞台で観たい。
とゲキシネを観るといつも思うけど、
そういう戦略なのかな。
元の舞台は、2009年の3月〜5月にやっていた。
古田新太と堤真一が共演していて、
しかも脚本が宮藤官九郎。
これは観に行くしかない!
と思いつつ行けなかった。痛恨のミス。
元々、新感線を初めて知ったのは、
「野獣郎見参」という、
堤真一と古田新太が対戦する舞台をテレビで観たときだった。
当時のテレビドラマではクールな役になっていた堤真一の、
あまりの変貌ぶりに「演劇ってすげえ!」と思った記憶がある。
堤真一は、やっぱり期待を裏切らないいい演技。
面白いし、
激しいし、
悪役らしいワルっぷり。
このまま新感線に所属してしまえばいいのになーと思う。
古田新太は、可もなく不可もなく。
面白いけど、
そこそこシリアスな役柄だからハマり役という感じでもない。
まあ面白いけど。
そして宮藤官九郎の脚本は、
これは中島かずきには書けない。
いろんな意味で。
まず、とりあえず下ネタ(笑)。
冒頭に、古田新太がうんことかちんことかいじってて…
スクリーンで観るには衝撃が強すぎた。
舞台なら遠くてよく見えないからいいけど。
女の子とは一緒に観れないなーと思った。
まあ一緒に観る人なんていないから無駄な心配やけどね!笑
でも下ネタを補っても余りあるストーリーの面白さ。
破綻しそうな物語がまさかの展開でつながっていく。
こんなドロドロした物語で、
中島かずきなら、登場人物を潔く死なせるだろう。
殺してしまうと物語はわかりやすくなる。
登場人物が減るし、
「実はこの人はこんなんだったんですよ」
みたいなお涙頂戴の話を持ち出せばそれっぽくまとまるから。
けれど、宮藤官九郎の脚本では、
登場人物は潔くない。
汚く泥臭く、執着する。
その執着は絡まり合い、物語はカオスになっていく。
カオスになっていくのに、
きちんとストーリーがつながっていて、
そのバランス感覚が、クドカンの面目躍如だなーと思う。
なんかたまに、
中島かずきの脚本って最近微妙だなと感じるけど、
それはまとまりが良すぎるからなんだな。と思った。
長い話を書けば書くほど、
物語を収束させたいという欲求に駆られる。
でもそれは、
劇作家としては逃げだ。
なんか偉そうな言い方だけど。。
昔、変貌した堤真一を観てるときに感動したけど、
そんな風に、
崩壊寸前のようでそれでいて安定している、
そんな,しっかり狂った演劇が俺は好きだ。
そして、
とにかく舞台で観たい。
とゲキシネを観るといつも思うけど、
そういう戦略なのかな。
2010年2月12日金曜日
松尾スズキ「クワイエットルームにようこそ」
| クワイエットルームにようこそ (文春文庫) 文藝春秋 2007-08 売り上げランキング : 26127 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
松尾スズキの描く絶望は、爽やかすぎる。
冬の青すぎる空みたいに。
俺は小説よりも映画版を先に観たけど、
あまりに爽やかに絶望して、
当時代表をしていたサークルを解散しようと思った(笑)。
絶望のデトックスとでもいうのだろうか。
「泣ける映画」を観て泣けてしまうように、
日常の些細な絶望が、
増幅して束になって込み上げてくる。
昨日はひととうまくしゃべれなかったとか、
明日も仕事かーとか、
そういう些細さ。
といってでも、
松尾スズキが書くのはぜんぜん日常の話じゃなくて、
「クワイエットルームにようこそ」も、
精神病院閉鎖病棟という、とっても非日常の話。
オーバードーズで閉鎖病棟に運ばれた主人公が、
退院を目指して病棟に馴染んでゆきつつ、
徐々になぜ自分が運ばれたのかを思い出していく、
未来と過去が入り交じる物語。
そんな重い話なのに、
松尾スズキの文体はいたって爽やかで面白い。
思わず笑えてくる。
その笑い方は、
ほんとに面白いのが半分、
ほんとに絶望したときってこんな風に笑えてくるんだろうな、という感じが半分。
不思議な感じ。
そんな笑えてくるほどの爽やかな絶望を俺は知らない。
ぬるい絶望に浸かって暮らしているという、
ぬるい幸せの中にいる。
2010年1月10日日曜日
ウルトラマーケットに関して。
閉鎖を巡ってもめている小劇場ウルトラマーケットに関して。
公式サイトと、2ちゃんねるのスレッドを見つつ考えてみた。
でもあんま詳しくないので、
そして解釈は俺の個人的な推測なので、
間違ってたら教えてください。
公式サイトによると、
「ウルトラマーケット」は、大阪城ホール西倉庫を改装した小劇場だ。
この騒動は、
10月5日、財団法人大阪城ホールから南河内万歳一座代表の内藤裕敬に書面で退去通告が渡され、
突然の退去通告に内藤たち演劇関係者が反発している、
というものだ。
ウルトラマーケットの経緯を辿ってみると、
はじまりは2002年まで遡る。
扇町ミュージックスクエア、近鉄小劇場の閉鎖が決定し、
新しい劇場が必要とされていた。
しかし、新しい劇場をつくるのは容易ではない。
そこで、既存の劇場の活用も考えて、
演劇プロデューサーの松原利巳(現・芸術創造館副館長)が大阪城ホールを見ていたところ、
大阪城ホール側から使われていない西倉庫の紹介があった。
そして、劇場を使いたいという演劇関係者のニーズと、
西倉庫を有効活用したいという大阪城ホールのニーズが合致して、
南河内万歳一座座長の内藤裕敬を中心に「天下の台所委員会」という組織を結成し、
2003年4月のオープンの準備が始まった。
ここでまずひとつ問題があって、
この時から今まで、賃貸契約が書面で結ばれたことはない。
記者会見では、
「10年は頼むね」と言われて、器材の購入も10年スパンを思って計画してきた、
と内藤は述べているが、それも書面では残っていないので証明はできない。
もちろん賃借料はきちんと支払われてきたけれど、
口約束だけで大阪城ホールの施設を6年間(2004年度〜2009年度)も使ってきたのは、
奇跡だと言える。
逆に言うと、
今回のことは奇跡が終わっただけだ。
騒ぐほどのことじゃない。もっと大阪城ホールに感謝しろよ。
という批判を口にするひとも多い。
そして、オープン目前の2003年3月にもうひとつ問題が発覚する。
西倉庫は、大阪市公園局によって公園として登録されており、
大阪城ホールが自由に使えるスペースではないと判明する。
オープンを延期し、大阪都市協会、ゆとりとみどり振興局、大阪城ホールで協議した結果、
『劇団への助成に限り西倉庫の使用を許可する旨の決定』が出た。
これは、
西倉庫は、劇団しか使うことが許されず、
大阪城ホール側にとっては、
「有効利用してくれるのであれば」という貸し出しのインセンティブが弱まったのではないだろうか。
とはいえ、おそらくこの時点では
大阪城ホールが音楽イベントを開催するという望みを捨てたわけではない。
実際、2005年には音楽イベントが開催されている。
オープンした2004年の末、
大阪城ホールが1000万円を出して、出入り口、避難通路などが整備された。
そして2005年から、「ウルトラ春の乱」「ウルトラ秋の乱」という演劇祭がスタートし、
ウルトラマーケットは本格的に始動することになる。
この2005年に、本来許されていないはずの演劇以外の使用があった。
ひとつは、演劇祭の間に大阪城ホールが開いた
音楽イベントOSAKA ROCK CITY “Fly The Flag” (主催:サウンドクリエイター)、
そしてもうひとつは、
演劇祭に参加した大日本プロレスだ。
翌2006年に、大阪城ホール内部からそれを問題視する声が上がり、
大阪城ホールに依頼されて、
南河内万歳一座が大阪市ゆとりとみどり振興局に演劇以外の使用も許可するように交渉に行く。
しかし交渉は失敗し、
とある。
(でもこの年の演劇祭の中ではサントリー音楽財団のコンサートをやっている。なんでなんやろう。。)
そしてこの翌年から大阪城ホールは態度を一変させたように見える。
たぶん、
音楽イベントで使いたいという目論みが外れたこと、
西倉庫を貸し出した時から理事が変わったこと、
というふたつが背景にある。
2007年8月に天下の台所委員会が出したウルトラマーケットをより発展させるための要望書に対して、
まるで手のひらを返したような反応だ。
それから少しやりとりがあった後、
現状維持なら構わない、ということに落ち着く。
お互いにわだかまりを残したまま。
さらに翌年の2008年4月、
ジャニーズのコンサート時に、
ファンがウルトラマーケットを通ってホール内部に侵入しようとして止められる、
という出来事がある。
天下の台所委員会はセキュリティの強化を約束する誓約書を大阪城ホールに提出。
(きちんと文章としてかわされた約束は、おそらくこれひとつだけだろう。)
大阪城ホールにとってもはやウルトラマーケットは、
役に立たないばかりか、害を及ぼす可能性さえ持つのだ。
そして、去年2009年10月の退去通告に至った。
大阪城ホールが挙げた理由はふたつ、
2008年にもめたセキュリティの問題と、
大阪市危機管理室から、
緊急物資の備蓄に西倉庫を使用したいという申し出があったことだという。
でも、理由なんてなんでも良かったんじゃないかな。
厄介払いしたいだけで。
たぶん大阪城ホールは一枚岩ではなくて、
純粋にウルトラマーケットを応援してくれる人もいるけど、
快く思わない人もいる。
だから、書面の契約を結ばなかったんじゃないかな、と思う。
正式にしてしまうとおおごとになるから。
そして、快く思わない人には、
「音楽イベントに使えるから」
と言って説得していたけど結局使えないことがわかって、
快く思わない人はやっぱり快く思わない。
起こるべくして起こった気がする、終末。
どっちが悪いって言うと、
俺は大阪城ホールの態度が好きになれない。
2ちゃんねるでは、内藤を「子どもがダダをこねているみたいだ」と叩く発言が多いけど、
大阪城ホールが、書面になってないからと過去を否定しウルトラマーケットに向き合わないのは、
いい大人が情けない。
よくある、弱者に無神経な強者の姿だ。
でも、悪い悪いと責めても出てくるものは何もない。
ウルトラマーケットが続いても続かなくても、
もうそこが居心地が悪い場所だということは変わらない。
大阪城ホールはもう、良き理解者にはならないだろう。
劇場は単なる催しをするハコではない。
その場所を通じて交流が生まれて、
新しいものとか研ぎすまされたものが育まれる。
つまり、いい場所をつくるためには、
いいコミュニティがなくてはならない。
しかし、悲しいことにコミュニティとは必然的に「内部」と「外部」を作り出すものだ。
それは可視的であれ暗黙的であれ、ある種の排除を伴う。
「内部」のひとからみたらどんなにいい場所でも、
「外部」のひとにとってはそう感じられない。
2ちゃんねるのスレッドには実際に演劇関係者っぽい感じでしゃべってるひともいて、
こんな書き込みがあった。
はたしてリアルの世界でも同じなのかというとよくわからない。
でもやっぱり、選ばれた人しかウルトラマーケットを使えない(という印象を与えた)のは、
ウルトラマーケットの味方を確実に減らしている。
味方を減らしてでも、場所性を保つためにそれは必要な排除なのだろう。
そして逆に、ウルトラマーケットの排除もまた、
大阪城ホールの場所性を保つには必要なのだ、きっと。
場所性とは、大阪城ホールの場合は「品格」という言葉で置き換えられるかもしれない。
品格を保つために、
それだけのために「ならず者」は排除される。
劇団アグリーダックリングの樋口が、
記者会見でこんなことをいっている。
「ならず者」とはつまり、
自分たちの枠の外にいる人間を指して言う言葉だ。
「ならず者」を排除することを残酷というのか、
その冷徹さに磨かれて芸術は輝くのか、
答えは出ない。
はっきりしているのは、
けっきょく、大阪ってそうなのか。
というため息があちこちから漏れ聞こえること。
当事者も第三者も、
関西の人も遠くの人も。
それは声にならない絶望を代弁している。
権力者が、マイナーなアートに携わる人間を「ならず者」と扱う限り、
アーティスト自身が自分たちを「ならず者」と卑下する気持ちがどこかにある限り、
大阪に、アートにとって幸せな時代は訪れない。
でもこんなことを書きながらも、
内藤たちの行動はやっぱり、
「ならず者」がゴネているように俺の目には映ってしまう。
そう見られてしまう彼らの勇敢な行動も、
そう見えてしまう自分の陳腐な目も、
なんだか残念でならない。
もっと芸術のことがわかるようになりたい。
公式サイトと、2ちゃんねるのスレッドを見つつ考えてみた。
でもあんま詳しくないので、
そして解釈は俺の個人的な推測なので、
間違ってたら教えてください。
公式サイトによると、
「ウルトラマーケット」は、大阪城ホール西倉庫を改装した小劇場だ。
この騒動は、
10月5日、財団法人大阪城ホールから南河内万歳一座代表の内藤裕敬に書面で退去通告が渡され、
突然の退去通告に内藤たち演劇関係者が反発している、
というものだ。
ウルトラマーケットの経緯を辿ってみると、
はじまりは2002年まで遡る。
扇町ミュージックスクエア、近鉄小劇場の閉鎖が決定し、
新しい劇場が必要とされていた。
しかし、新しい劇場をつくるのは容易ではない。
そこで、既存の劇場の活用も考えて、
演劇プロデューサーの松原利巳(現・芸術創造館副館長)が大阪城ホールを見ていたところ、
大阪城ホール側から使われていない西倉庫の紹介があった。
そして、劇場を使いたいという演劇関係者のニーズと、
西倉庫を有効活用したいという大阪城ホールのニーズが合致して、
南河内万歳一座座長の内藤裕敬を中心に「天下の台所委員会」という組織を結成し、
2003年4月のオープンの準備が始まった。
ここでまずひとつ問題があって、
この時から今まで、賃貸契約が書面で結ばれたことはない。
記者会見では、
「10年は頼むね」と言われて、器材の購入も10年スパンを思って計画してきた、
と内藤は述べているが、それも書面では残っていないので証明はできない。
もちろん賃借料はきちんと支払われてきたけれど、
口約束だけで大阪城ホールの施設を6年間(2004年度〜2009年度)も使ってきたのは、
奇跡だと言える。
逆に言うと、
今回のことは奇跡が終わっただけだ。
騒ぐほどのことじゃない。もっと大阪城ホールに感謝しろよ。
という批判を口にするひとも多い。
そして、オープン目前の2003年3月にもうひとつ問題が発覚する。
西倉庫は、大阪市公園局によって公園として登録されており、
大阪城ホールが自由に使えるスペースではないと判明する。
オープンを延期し、大阪都市協会、ゆとりとみどり振興局、大阪城ホールで協議した結果、
『劇団への助成に限り西倉庫の使用を許可する旨の決定』が出た。
これは、
大阪城ホール側も、アリーナでは興業できない小規模なライブ・コンサートをそこで催す方針で、(http://www.banzai1za.jp/um2009/2002.html)という希望が難しくなったということだ。
西倉庫は、劇団しか使うことが許されず、
大阪城ホール側にとっては、
「有効利用してくれるのであれば」という貸し出しのインセンティブが弱まったのではないだろうか。
とはいえ、おそらくこの時点では
大阪城ホールが音楽イベントを開催するという望みを捨てたわけではない。
実際、2005年には音楽イベントが開催されている。
オープンした2004年の末、
大阪城ホールが1000万円を出して、出入り口、避難通路などが整備された。
そして2005年から、「ウルトラ春の乱」「ウルトラ秋の乱」という演劇祭がスタートし、
ウルトラマーケットは本格的に始動することになる。
この2005年に、本来許されていないはずの演劇以外の使用があった。
ひとつは、演劇祭の間に大阪城ホールが開いた
音楽イベントOSAKA ROCK CITY “Fly The Flag” (主催:サウンドクリエイター)、
そしてもうひとつは、
演劇祭に参加した大日本プロレスだ。
翌2006年に、大阪城ホール内部からそれを問題視する声が上がり、
大阪城ホールに依頼されて、
南河内万歳一座が大阪市ゆとりとみどり振興局に演劇以外の使用も許可するように交渉に行く。
しかし交渉は失敗し、
大阪市ゆとりとみどり振興局伊東課長に相談するが、2003年の使用決定時に「劇団助成」名目の記載があるとのことで、大日本プロレスは認められず。
これにより、当初、大阪城ホール側が希望したライブ・コンサートなどの使用も不可能となった。(http://www.banzai1za.jp/um2009/2006.html)
とある。
(でもこの年の演劇祭の中ではサントリー音楽財団のコンサートをやっている。なんでなんやろう。。)
そしてこの翌年から大阪城ホールは態度を一変させたように見える。
たぶん、
音楽イベントで使いたいという目論みが外れたこと、
西倉庫を貸し出した時から理事が変わったこと、
というふたつが背景にある。
2007年8月に天下の台所委員会が出したウルトラマーケットをより発展させるための要望書に対して、
新任常務理事が「私が独自に調査した結果、後にも先にも、ウルトラマーケットの演劇活用に関し、それを呼びかけ、推進しようとした人物も書面も事実も無い。よって何故、ウルトラマーケットの事業にこれ以上、我々が協力せねばならぬのか」と発言。(http://www.banzai1za.jp/um2009/2007.html)という出来事があった。
まるで手のひらを返したような反応だ。
それから少しやりとりがあった後、
現状維持なら構わない、ということに落ち着く。
お互いにわだかまりを残したまま。
さらに翌年の2008年4月、
ジャニーズのコンサート時に、
ファンがウルトラマーケットを通ってホール内部に侵入しようとして止められる、
という出来事がある。
天下の台所委員会はセキュリティの強化を約束する誓約書を大阪城ホールに提出。
(きちんと文章としてかわされた約束は、おそらくこれひとつだけだろう。)
大阪城ホールにとってもはやウルトラマーケットは、
役に立たないばかりか、害を及ぼす可能性さえ持つのだ。
そして、去年2009年10月の退去通告に至った。
大阪城ホールが挙げた理由はふたつ、
2008年にもめたセキュリティの問題と、
大阪市危機管理室から、
緊急物資の備蓄に西倉庫を使用したいという申し出があったことだという。
でも、理由なんてなんでも良かったんじゃないかな。
厄介払いしたいだけで。
たぶん大阪城ホールは一枚岩ではなくて、
純粋にウルトラマーケットを応援してくれる人もいるけど、
快く思わない人もいる。
だから、書面の契約を結ばなかったんじゃないかな、と思う。
正式にしてしまうとおおごとになるから。
そして、快く思わない人には、
「音楽イベントに使えるから」
と言って説得していたけど結局使えないことがわかって、
快く思わない人はやっぱり快く思わない。
起こるべくして起こった気がする、終末。
どっちが悪いって言うと、
俺は大阪城ホールの態度が好きになれない。
2ちゃんねるでは、内藤を「子どもがダダをこねているみたいだ」と叩く発言が多いけど、
大阪城ホールが、書面になってないからと過去を否定しウルトラマーケットに向き合わないのは、
いい大人が情けない。
よくある、弱者に無神経な強者の姿だ。
でも、悪い悪いと責めても出てくるものは何もない。
ウルトラマーケットが続いても続かなくても、
もうそこが居心地が悪い場所だということは変わらない。
大阪城ホールはもう、良き理解者にはならないだろう。
劇場は単なる催しをするハコではない。
その場所を通じて交流が生まれて、
新しいものとか研ぎすまされたものが育まれる。
つまり、いい場所をつくるためには、
いいコミュニティがなくてはならない。
しかし、悲しいことにコミュニティとは必然的に「内部」と「外部」を作り出すものだ。
それは可視的であれ暗黙的であれ、ある種の排除を伴う。
「内部」のひとからみたらどんなにいい場所でも、
「外部」のひとにとってはそう感じられない。
2ちゃんねるのスレッドには実際に演劇関係者っぽい感じでしゃべってるひともいて、
こんな書き込みがあった。
みんな残念なんだよ。2ちゃんねるではウルトラマーケットの味方をするひとが少ないのが、
小劇場が生まれますとか何年か前にカッコイイこと言ってくれてるのを聞いて良かったなと思って、みんなのためになるんだろうなって喜んで、
でも関西小劇場界のほんの一部の劇団しか恩恵を受けられない、使うこともできないって事が分かって落胆して、
気がついたらその劇場が潰れたわけ。
潰れてしかも貸主からセキュリティに難ありって言われてだよ?
そりゃま、小劇場界の共通の財産になりえたものが…、内藤さんて何がしたいのってなるよ。
おれは個人的には、あれは関西に小劇場ができたわけじゃなくて、南河内万歳一座という劇団に自分とこの劇場ができただけなんだよなって理解してるけどね。
うちの劇団とは関係ないし別にどうでもいいかなって。(http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/drama/1247834647)
はたしてリアルの世界でも同じなのかというとよくわからない。
でもやっぱり、選ばれた人しかウルトラマーケットを使えない(という印象を与えた)のは、
ウルトラマーケットの味方を確実に減らしている。
味方を減らしてでも、場所性を保つためにそれは必要な排除なのだろう。
そして逆に、ウルトラマーケットの排除もまた、
大阪城ホールの場所性を保つには必要なのだ、きっと。
場所性とは、大阪城ホールの場合は「品格」という言葉で置き換えられるかもしれない。
品格を保つために、
それだけのために「ならず者」は排除される。
劇団アグリーダックリングの樋口が、
記者会見でこんなことをいっている。
「市」VS私たち「表現者」になると、どうみても私たちはならず者に見えるわけです、世間から見れば。そういうならず者に、最終的に責任を押し付けることができてしまえる、市なんですよ、きっと、大阪っていうのは。そういうのが、もう本当は、もう通常にあって、これは大阪のウルトラマーケットひとつの問題ではなく、大阪市の文化の問題だと思います。(http://www.banzai1za.jp/um2009/kk3.html)
「ならず者」とはつまり、
自分たちの枠の外にいる人間を指して言う言葉だ。
「ならず者」を排除することを残酷というのか、
その冷徹さに磨かれて芸術は輝くのか、
答えは出ない。
はっきりしているのは、
けっきょく、大阪ってそうなのか。
というため息があちこちから漏れ聞こえること。
当事者も第三者も、
関西の人も遠くの人も。
それは声にならない絶望を代弁している。
権力者が、マイナーなアートに携わる人間を「ならず者」と扱う限り、
アーティスト自身が自分たちを「ならず者」と卑下する気持ちがどこかにある限り、
大阪に、アートにとって幸せな時代は訪れない。
でもこんなことを書きながらも、
内藤たちの行動はやっぱり、
「ならず者」がゴネているように俺の目には映ってしまう。
そう見られてしまう彼らの勇敢な行動も、
そう見えてしまう自分の陳腐な目も、
なんだか残念でならない。
もっと芸術のことがわかるようになりたい。
2009年12月26日土曜日
ウルトラマーケットの続報
ウルトラマーケット閉鎖について、前ちょっと書いたけど
なんかぜんぜん続報がないなーと思ってたら、
Googleアラートに突然こんなのがひっかかった。
2chでは議論がめっちゃ進んでるみたい。
このスレ全体を読むにはここ → http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/drama/1247834647
どこまでほんとなのかは信用できないけど、
でもなんかウルトラマーケット側にも問題はあったのかなーという雰囲気。
南河内万歳一座のサイトに特設コーナーみたいなのができてて、
http://www.banzai1za.jp/um2009/aisatu.html
記者会見の議事録とか載ってるので、
時間ある時に2chのスレと照らし合わせながら読んでみます。
で、またブログにまとめます。
とりあえず。
なんかぜんぜん続報がないなーと思ってたら、
Googleアラートに突然こんなのがひっかかった。
675 :名無しさん@公演中:2009/12/15(火) 00:08:46 ID:2wVbfC22
今までのまとめ~w
万歳一座の内藤氏と天下の台所改善実行委員会が、大阪城ホールを相手取って記者会見。
↓
記者会見内容があまりにDQNと話題になり内藤氏側の程度の低さに対する叩きが始まる。
↓
ウルトラマーケットのセキュリティ管理の甘さがウルトラマーケット撤退の一因となっていた事が発覚。
↓
2ちゃんねるでの叩き激化。この頃より内藤氏に対して長文正論コメが入り始める。
↓
同じ頃、天下の台所改善実行委員会改善委員会を小池氏が発足。関西府下で活動しているかなりの劇団に天下の台所改善実行委員会の不正を問うアンケートがメール展開される。
↓
アンケートメールによりロム専が爆発的に増加、日中でも裏事情スレが繋がりにくい状況となる。
↓
その後、天下の台所改善実行委員会改善委員会の小池氏が、内藤氏に記者会見同様の質問状を送るが内藤氏質問
には一切答えずといった内容の報告書がメールにて届く。
↓
悪口を書くなという2ちゃんねるではありえない書き込みが目立ち始めるとともに、天下の内藤さん問題の晒し目的の煽りが入る。
↓
2ちゃん撲滅委員会名義で、書き込み内容は火消しなのにage進行という訳のわからない煽りが入る。にわか2ちゃんねらの増加。火消しをしたいのか、炎上させたいのかが分かりにくいカオス。
↓
天下の台所改善実行委員会改善委員会から、助成金制度の廃止も含めた改善要望が大阪市に提出される。←今ここ。
↓
天下の内藤さん涙目。
(http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/drama/1247834647/675)
2chでは議論がめっちゃ進んでるみたい。
このスレ全体を読むにはここ → http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/drama/1247834647
どこまでほんとなのかは信用できないけど、
でもなんかウルトラマーケット側にも問題はあったのかなーという雰囲気。
南河内万歳一座のサイトに特設コーナーみたいなのができてて、
http://www.banzai1za.jp/um2009/aisatu.html
記者会見の議事録とか載ってるので、
時間ある時に2chのスレと照らし合わせながら読んでみます。
で、またブログにまとめます。
とりあえず。
2009年11月3日火曜日
老いの中にある若さ、若さの中にある老い
まず、せりふを覚えられないわけですね。それに、昨日やったことがきょうできるとは限らない。昨日できなかったからきょうできないかというと、突然できたりする。それが翌日も持続するかと言うと、それは分からない。それが「老い」なんですね。(2009年11月2日 毎日新聞朝刊10面)と、蜷川幸雄が紙面でインタビューに答えていた。
蜷川は、58歳から83歳まで42人が所属する「さいたまゴールド・シアター」の結成を呼びかけ、指導している。
それに関して聞かれての答えだ。
せりふを忘れては劇が進まない。
蜷川は、 舞台の端っこに座って、役者がせりふを忘れたときはせりふを教える役をしているそうだ。
それは会場からも見えている。
わかっていて、「老い」をさらけ出すのだと言う。
それまで「演劇」だと思っていたものをちょっと変形して、人生のあり方、老いのあり方そのものを全部さらけ出しちゃおう、と考えたんです。そういうふうに劇の枠組みを広げていくことによって、また違った演劇が生まれつつあるような気がします。
なんかうまく言えないけれど、
「老い」とは何かとか「若さ」とは何かとか、
あんまり深く考えずに言ってみるけど、
老いをさらけ出すというのは、
逆に若さを表現することではないのかな、と思った。
けれど「老い」とは、
世間がつくったレッテルに過ぎない。
42人の老人が飛び越えているのは、
物理的な「老い」そのものではなくて、
「老い」という偏見なのだ。
イメージを跳ね除けるとき、
そこには躍動する若さがある。
老いの中にある若さ。
一方で、鷲田清一の「死なないでいる理由」という本にこんな下りがある。
先にもふれたが、落合恵美子さんに教えてもらって、じぶんの大学で、あるいは集中講義に行った別の大学院で、学生に「あなたは大人ですか、子どもですか?」と訊いたことがある。あまりにきれいに教えてもらったとおりの結果が出るので驚いた。つまり、大学一年生はほぼ全員、大学院生でもそのほとんどが「子どもです」と答えるのである。ところが一方で、こらは精神科医の香山リカさんに教わったのだが、「じぶんはもう若くないと思うひと」というと、これまたほぼ全員、手をあげる。若者が幼児化している一方で、老いが早年化している。じつのところ、ひとは老いやすくなっているのか、それとも老いにくくなっているのか。確かにそうで、
実感として、俺は大人じゃないけどもう若くない気がする。
若さの中にある老い。
俺たちは、それを肌に感じつつ生きている。
ということは、
老人に「若さ」が表現できるということは、
若者にこそ、「老い」が表現できるのではないかな、
と思ったりする。
こんなことを閃くなんて、やばい俺天才ちゃう?
と思ったりする。
具体的にどう表現するか、さっぱり思いつかないことは棚に上げといて。
思ったりして、
↓これに参加しようか財布と相談中。
生と死の共育ワークショップ vol.3 <老い>を表現する。
〜「老いかた」から考える「生きかた」〜
http://homepage2.nifty.com/citizenship/de0902.htm
うぐぐ、今月はお金がない。。。
でもめっちゃ行きたい。。。
2009年10月29日木曜日
ウルトラマーケット、閉鎖?
ウルトラマーケット:閉鎖へ 演劇より災害備蓄 大阪市の方針転換に小劇団困惑(毎日.jp)
http://mainichi.jp/kansai/news/20091028ddf041040009000c.html
ウルトラマーケットというのは、大阪城ホールの倉庫をいくつかの劇団が合同で借りて劇場としている場所だ。
それが、本来の倉庫に戻るのだという。
ウルトラマーケットを使用している劇団は、南河内万歳一座を筆頭にして「天下の台所改善実行委員会」という、粋な名前の集団を形成している。
そこに名前を連ねている劇団は、
南河内万歳一座
演劇集団よろずや
クロムモリブデン
劇団Ugly duckling
デス電所
南船北馬一団
未来探偵社
ランニングシアターダッシュ
と、有名どころが並ぶ。
関西の小劇場は、次々と閉鎖されている。
劇場がないというのは、
単に発表をする場がないというだけではない。
交流が断絶する。
新しいものが創造されない。
場所がなくては、
なにも生まれないのだ。
そういう状況に危機感を持った劇団が、
自分たちで小劇場をつくっていく。
ただの倉庫が、劇場になる。
それ自体がとても演劇的だ。
毎年、
春には「大阪城・ウルトラ春の乱」
秋には「大阪城・ウルトラ秋の乱」
という演劇フェスティバルが開催され、
関西の演劇シーンを盛り上げてきた。
とか知った顔で語ってるけど、
俺はウルトラマーケットのことをよく知らなかった。
ウルトラマーケットは、ぐぐってもあんまり情報が出てこない。
でも、断片的な情報がいちいち刺激的だ。
自分達でつかみとって、つくっていっている感じがして。
なのに、
ほんとになくなってしまうのだろうか。
思うに大阪の文化行政は、場所の大切さを軽視している。
フェスティバルゲートにしてもそうだし、
精華小劇場にも、
その場所でしか生まれないもの。
その場所に蓄積されてきたもの。
その場所を中心につながる縁。
それらはすべて、
「その場所」が失われれば、積み木のように脆くも崩れ去る。
でも、ほんとに失われてしまうのか、わからない。
と思いたい。
南河内万歳一座が11月17日に会見を行う。
ウルトラマーケットで生まれ、蓄積されてきたエネルギーがどこに向かうのか。
その行く末を見届けたい。
…まだウルトラマーケット行ったことないけど(笑)
http://mainichi.jp/kansai/news/20091028ddf041040009000c.html
ウルトラマーケットというのは、大阪城ホールの倉庫をいくつかの劇団が合同で借りて劇場としている場所だ。
それが、本来の倉庫に戻るのだという。
ウルトラマーケットを使用している劇団は、南河内万歳一座を筆頭にして「天下の台所改善実行委員会」という、粋な名前の集団を形成している。
そこに名前を連ねている劇団は、
南河内万歳一座
演劇集団よろずや
クロムモリブデン
劇団Ugly duckling
デス電所
南船北馬一団
未来探偵社
ランニングシアターダッシュ
と、有名どころが並ぶ。
関西の小劇場は、次々と閉鎖されている。
劇場がないというのは、
単に発表をする場がないというだけではない。
交流が断絶する。
新しいものが創造されない。
場所がなくては、
なにも生まれないのだ。
そういう状況に危機感を持った劇団が、
自分たちで小劇場をつくっていく。
ただの倉庫が、劇場になる。
それ自体がとても演劇的だ。
毎年、
春には「大阪城・ウルトラ春の乱」
秋には「大阪城・ウルトラ秋の乱」
という演劇フェスティバルが開催され、
関西の演劇シーンを盛り上げてきた。
とか知った顔で語ってるけど、
俺はウルトラマーケットのことをよく知らなかった。
ウルトラマーケットは、ぐぐってもあんまり情報が出てこない。
でも、断片的な情報がいちいち刺激的だ。
自分達でつかみとって、つくっていっている感じがして。
なのに、
ほんとになくなってしまうのだろうか。
思うに大阪の文化行政は、場所の大切さを軽視している。
フェスティバルゲートにしてもそうだし、
精華小劇場にも、
3 利用期限についてという制約がついている。
現時点では、元精華小学校や幼稚園を含む全体の利用計画が決定されていないため、その決定次第で利用状況が変更となる場合がある。
よって、当面、暫定利用としたい。暫定使用であるため過大な投資を避けるべきだという制約があるが、この期間を劇場として定着するためのいわゆる「パイロット事業期間」として活用し、今後の展開につなげていきたい。(精華小劇場公式HP)
その場所でしか生まれないもの。
その場所に蓄積されてきたもの。
その場所を中心につながる縁。
それらはすべて、
「その場所」が失われれば、積み木のように脆くも崩れ去る。
でも、ほんとに失われてしまうのか、わからない。
と思いたい。
南河内万歳一座が11月17日に会見を行う。
ウルトラマーケットで生まれ、蓄積されてきたエネルギーがどこに向かうのか。
その行く末を見届けたい。
…まだウルトラマーケット行ったことないけど(笑)
これ観にいこうかな。
維新派「ろじ式」
http://www.ishinha.com/en/news/143.html
維新派、知り合いが好きっていってて、ずっと観たかった。
↓これめっちゃすごそうじゃない!?
もいっこ。
劇団Ugly Duckling
「標準Zero in」
http://blog.ugly-d.com/article/32643071.html
↓あと、これも観に行きたいかも。
チェルフィッシュ
「クーラー」
http://chelfitsch.net/next_performance/
でもチェルフィッシュは抽象的な感じがして観にいくのが怖い。
おもしろい?
http://www.ishinha.com/en/news/143.html
維新派、知り合いが好きっていってて、ずっと観たかった。
↓これめっちゃすごそうじゃない!?
もいっこ。
劇団Ugly Duckling
「標準Zero in」
http://blog.ugly-d.com/article/32643071.html
↓あと、これも観に行きたいかも。
チェルフィッシュ
「クーラー」
http://chelfitsch.net/next_performance/
でもチェルフィッシュは抽象的な感じがして観にいくのが怖い。
おもしろい?
2009年10月28日水曜日
青年団「東京ノート」
国立国際美術館で青年団の演劇、「東京ノート」を観てきた。
美術館が舞台の演劇を、
ほんとに美術館を舞台にやるという、
不思議な空間だった。
どこまでが演劇で、
どこまでが観客なのかわからなくなる。
平田オリザの演劇を観てるといつも、
うまい、と思う。
まあ「いつも」というほど観たことないけど。
それは、設定の臭わせ方であったり、
演技の細やかさであったり、
微細な感情の描き方であったり。
演劇は、旅行によく似ていると思う。
旅行をするとき、
乱暴に言えば人間は二つのタイプに分けられる。
ひとつは、「違い」を見るタイプ。
「すごい! 都会ではこんな自然ないよね!」
「日本じゃありえない!」
みたいな絶叫を繰り返す。
もうひとつは、 「同じさ」を見るタイプ。
「あ、これ○○と似てる」
「これっていわゆる○○だよね」
みたいな分析をつぶやく。
世界は、よく似ていて、ぜんぜん違っている。
そんな、当たり前のこと。
違いの中に共通点を見つけられる。
同じ中に相違点を見つけられる。
そういう構造はたぶんあらゆるものにあって、
たぶん演劇でもそうで、
例えば、松尾スズキは「違い」を強調する。
普通にはない境遇の主人公が、
普通にはない世界を生き抜いていく。
偏見とか差別とか、日常には表に出てこない「違い」でどぎつく塗り固められた中に、
なぜか不思議な「同じさ」を感じてしまう。
一方で、平田オリザは「同じさ」が際立つ。
日常とあまり変わらないような、どこかで見た光景の中に、
ちっちゃく揺れ動く人間の心が丁寧に描かれる。
小さな喜びとか悩みとか、
ぎこちなさとか隠してしまうこととか。
日常と「同じ」空気の中に、
新鮮な「違い」に気付かされる。
演劇の世界の中を旅行しに、
俺たちは劇場に行くのだ。
違うとか同じとか。
その世界がどう見えるのだろう。
ところで東京ノートの最後のほうに、こんな場面がある。
ちょっと空気が読めない中年女性が、また突然、脈絡もなくサンテグジュペリの「星の王子様」の話をし始める。星の王子さまの中に、肝心なこと目には見えない。心で見なさい、みたいな台詞がある。それに対してその女性は、
あんまり面白くないツッコミだ。
相手も、どこがおもしろいのか分からないけどまあ合わせとこうか、みたいな感じで、笑う。
二人で笑って、
少し間があって、
中年女性は一言付け加える。
この一言が、なんかとても衝撃的だった。
何を言わんとしているのかよくわからないけど、
なんとなく感動した。
うまい。
美術館が舞台の演劇を、
ほんとに美術館を舞台にやるという、
不思議な空間だった。
どこまでが演劇で、
どこまでが観客なのかわからなくなる。
平田オリザの演劇を観てるといつも、
うまい、と思う。
まあ「いつも」というほど観たことないけど。
それは、設定の臭わせ方であったり、
演技の細やかさであったり、
微細な感情の描き方であったり。
演劇は、旅行によく似ていると思う。
旅行をするとき、
乱暴に言えば人間は二つのタイプに分けられる。
ひとつは、「違い」を見るタイプ。
「すごい! 都会ではこんな自然ないよね!」
「日本じゃありえない!」
みたいな絶叫を繰り返す。
もうひとつは、 「同じさ」を見るタイプ。
「あ、これ○○と似てる」
「これっていわゆる○○だよね」
みたいな分析をつぶやく。
世界は、よく似ていて、ぜんぜん違っている。
そんな、当たり前のこと。
違いの中に共通点を見つけられる。
同じ中に相違点を見つけられる。
そういう構造はたぶんあらゆるものにあって、
たぶん演劇でもそうで、
例えば、松尾スズキは「違い」を強調する。
普通にはない境遇の主人公が、
普通にはない世界を生き抜いていく。
偏見とか差別とか、日常には表に出てこない「違い」でどぎつく塗り固められた中に、
なぜか不思議な「同じさ」を感じてしまう。
一方で、平田オリザは「同じさ」が際立つ。
日常とあまり変わらないような、どこかで見た光景の中に、
ちっちゃく揺れ動く人間の心が丁寧に描かれる。
小さな喜びとか悩みとか、
ぎこちなさとか隠してしまうこととか。
日常と「同じ」空気の中に、
新鮮な「違い」に気付かされる。
演劇の世界の中を旅行しに、
俺たちは劇場に行くのだ。
違うとか同じとか。
その世界がどう見えるのだろう。
ところで東京ノートの最後のほうに、こんな場面がある。
ちょっと空気が読めない中年女性が、また突然、脈絡もなくサンテグジュペリの「星の王子様」の話をし始める。星の王子さまの中に、肝心なこと目には見えない。心で見なさい、みたいな台詞がある。それに対してその女性は、
でもさ、心でなんか見えないよね。 心でなんて、どうやって見るのっ!?と、少しおどけた調子で言う。ちょっと笑う。
あんまり面白くないツッコミだ。
相手も、どこがおもしろいのか分からないけどまあ合わせとこうか、みたいな感じで、笑う。
二人で笑って、
少し間があって、
中年女性は一言付け加える。
心、みんな違うでしょう。
この一言が、なんかとても衝撃的だった。
何を言わんとしているのかよくわからないけど、
なんとなく感動した。
うまい。
2009年10月19日月曜日
【本】コミュニケーション力を引き出す
ブログを模様替えしました。
しかししょぼいデザインやな。。
またそのうち改善します。
読書の秋。
ということで、いろいろ本を読んでいこうと思う。
この本、あと1年前に欲しかった。
とは思う内容のピンポイントさだけど、正直読みにくい。
「K社の実例」という蓮行の英雄譚の部分が長過ぎることとか、
平田オリザの「コンテクスト」という概念が説明されてないこととか、
平田オリザも蓮行も好きだから、
もったいないなーと思う。
コミュニケーションは、個人の努力や才能の問題ではなくて、
環境や関係性に強く影響を受ける。
その最も大きな影響のひとつに、教育がある。
日本は、教育に演劇が取り入れられていない唯一の先進国だ。
かつては強い同調圧力を働かせていればそれで意思疎通はとれたが、
今はもう多様性の時代であり、多様な個人を尊重しながら対話をする力があらゆる場面で求められる。
その解決策は、演劇しかない。
なぜなら、コミュニケーション力は、何かを共同で作り上げることや、他人の立場になって考えることでしか磨かれないからだ。
みたいなことが書いてある。
ところどころ言葉足らずだけど、
とにかく面白いので本屋で立ち読みしてみてね。
ところで、蓮行って?
蓮行さんは、劇団衛星という劇団の代表をしている。
劇団衛星は、正劇団員はみんなバイトをかけもちせずに生計を立てている希有な集団だ。
この本では、演劇ワークショップによる研修で培ったノウハウが書かれているが、
他にも、裁判員制度が始まるのに合わせて「大陪審」というマルチエンディング型演劇を上演したり、
学校教育に演劇的手法を導入する「演劇で学ぼう!」というプロジェクトに参加したり、
悪く言えば、キワモノで、
よく言えば、いろいろ面白いことをしている。
もう5年前になるけど、
蓮行さんのワークショップを受けたことがある。
この本の中で語られている「奥義! あくび卵発声」を教わったのを思い出して、
なんだか懐かしくなった。
そんな、奥義を授かったはずなのに、
最近「えっ? ごめん聞こえない」と言われることがよくある。
また発声練習しようかな。
しかししょぼいデザインやな。。
またそのうち改善します。
読書の秋。
ということで、いろいろ本を読んでいこうと思う。
この本、あと1年前に欲しかった。
とは思う内容のピンポイントさだけど、正直読みにくい。
「K社の実例」という蓮行の英雄譚の部分が長過ぎることとか、
平田オリザの「コンテクスト」という概念が説明されてないこととか、
平田オリザも蓮行も好きだから、
もったいないなーと思う。
コミュニケーションは、個人の努力や才能の問題ではなくて、
環境や関係性に強く影響を受ける。
その最も大きな影響のひとつに、教育がある。
日本は、教育に演劇が取り入れられていない唯一の先進国だ。
かつては強い同調圧力を働かせていればそれで意思疎通はとれたが、
今はもう多様性の時代であり、多様な個人を尊重しながら対話をする力があらゆる場面で求められる。
その解決策は、演劇しかない。
なぜなら、コミュニケーション力は、何かを共同で作り上げることや、他人の立場になって考えることでしか磨かれないからだ。
みたいなことが書いてある。
ところどころ言葉足らずだけど、
とにかく面白いので本屋で立ち読みしてみてね。
ところで、蓮行って?
蓮行さんは、劇団衛星という劇団の代表をしている。
劇団衛星は、正劇団員はみんなバイトをかけもちせずに生計を立てている希有な集団だ。
この本では、演劇ワークショップによる研修で培ったノウハウが書かれているが、
他にも、裁判員制度が始まるのに合わせて「大陪審」というマルチエンディング型演劇を上演したり、
学校教育に演劇的手法を導入する「演劇で学ぼう!」というプロジェクトに参加したり、
悪く言えば、キワモノで、
よく言えば、いろいろ面白いことをしている。
もう5年前になるけど、
蓮行さんのワークショップを受けたことがある。
この本の中で語られている「奥義! あくび卵発声」を教わったのを思い出して、
なんだか懐かしくなった。
そんな、奥義を授かったはずなのに、
最近「えっ? ごめん聞こえない」と言われることがよくある。
また発声練習しようかな。
劇団☆新感線「蛮幽鬼」を観に行きます。
決めた!
観に行きます。
劇団☆新感線「蛮幽鬼」
http://banyuki.com/
B席7500円。
値段にビビって手が出せなかったけど、
一念発起、散財します。
値段高いからあんまり強く誘うつもりはないけど、
もしいっしょに行く人がいれば、今日明日中に連絡くださいねー。
観に行きます。
劇団☆新感線「蛮幽鬼」
http://banyuki.com/
B席7500円。
値段にビビって手が出せなかったけど、
一念発起、散財します。
値段高いからあんまり強く誘うつもりはないけど、
もしいっしょに行く人がいれば、今日明日中に連絡くださいねー。
2009年9月8日火曜日
David Sylvian
実家で録画してた青春舞台2009を観てたら、
青森中央高校「ともことサマーキャンプ」のBGMにびびっと来たのでクリップ。
David Sylvian。
劇中で使われてたのは「The Only Daughter」っていう曲だった。
↓これは別の曲。
http://www.youtube.com/watch?v=4YuvdDPYEy0
青森中央高校「ともことサマーキャンプ」のBGMにびびっと来たのでクリップ。
David Sylvian。
劇中で使われてたのは「The Only Daughter」っていう曲だった。
↓これは別の曲。
http://www.youtube.com/watch?v=4YuvdDPYEy0
2009年8月16日日曜日
町田康

町田康「告白」中公文庫 2008
気持ちが沈んでいる時に、
明るい音楽を聴く人と、
暗い音楽を聴く人とがいる。
俺は後者で、
暗い気持ちの音楽にどっぷり浸かることで、ああ暗い気持ちになっているのは俺だけではなくて他にもいっぱいいて、それはつまり暗い世の中だからなんだな。今月は菓子パンにお金を使い過ぎてあと1週間はごはんにふりかけオンリーの生活であって、それがゆえに暗い気持ちだったけど、世の中が悪いんだ。サブプライムローンのせいだ。俺は悪くない。
みたいな、明るい気持ちになれる。
ある意味で。
というのはなんか例が悪い気がするけど、
自分と同じ気持ちのひとがいるとか、
自分と同じ悩みのひとがいるというのは、
ほっと安心させられる。
世界は俺ひとりではない、と。
町田康の文章も、そういう意味での癒しの力を持っている。
町田の小説に出てくる主人公はみな、愚鈍であったり、自意識過剰であったり、精神を病んでいたりする。
それは、他人事のようでそうではない。
俺ってバカなんじゃないか、とか、誰にも理解してもらえない、といった不安を抱く瞬間がふとした日々の中にないだろうか。
そんなたぐいの不安に足を取られてしまったとき。
ひとつの解決策は、誰かに「お前は馬鹿じゃない」と言ってもらうことだ。マンガとか映画を観て、強くてカッコいい主人公に自分を重ねるのもいいかも知れない。自分はなんでもできるという自信に浸れるから。
町田康のは真逆で、
馬鹿な主人公が不幸と汚辱にまみれてゆくのをみて、まあこんなダメな人間でもいいよね。みたいな不思議な安心を覚える。安心というより、むしろ絶望に近い。それは、自信なんてなくても生きていけるのだという気付きだ。
「告白」の主人公・城戸熊太郎は、内向的で思い込みが激しく、たまに幻覚を見る(本人は幻覚と気付いていない)。そして口べたなのと妄想癖があるのとで、話したいことをうまく口にできない。それどころか、思ってもいないことが口をついてしまったりする。それがために、元来ケンカも弱く穏やかな性格であるのに恐れられ大悪人に祭り上げられ、最後には思い込みから10人を斬り殺してしまう、という悲しい話だ。
10人もの人間を斬り殺すのが、どういう人間であるのか、想像もつかない。
この本を読むまでは。
読んだ後、自分も同じ状況に育てば10人を斬り殺していたのではないか、という気分になる。
狂人のような城戸熊太郎はしかし、自分と変わらない。
相手にわかってもらえない、という不安が増幅されれば自分もこんな風になるかも知れない。というか自分では気付かないだけで、すでにこんな風な狂人なのだろうか。
強くてカッコいいとか、弱いけれど勇気があるとか、そういう人間が主人公に選ばれることは多い。
しかし、愚かで醜い人間の内面に真っ正面から向き合うことはあまりない。
町田康は、そんな愚かな人間に、というかむしろ、人間の愚かさそのものに寄り添っている。
そういう視線が、とても尊い。
平田オリザは著書の中で、
文人としてのわたしは、日本は滅びると信じていますし、滅びてもかまわないとも思っています。劇作家としてのわたしの仕事は、かつてチェーホフが、百年前に、滅びゆくロシア帝国の人々を愛情を持って描き続けたように、滅びゆく日本人の姿を記録していくことだと思っています。(「ニッポンには対話がない」)
と言った。
そんな、愛情ある視線。
破滅するものを「それでいいんだよ」と受け入れることは、国際協力に携わろうとしている身としてはダメなことだと思う。
それでも、そういう視線に救われる想いの人がいることを忘れられない。
俺自身も、何度も町田康の小説を読んで支えられてきたと思うから。
ということで、
俺は今日も、研究計画書わかってもらえないかも、という不安に悶々としつつ(笑)、でも町田康の本を読んで、まあいっかと思った。思えた。
院試まであと10日。
注:
院試まではしばらくネガティブな日記が続きますが、たぶん元気なので安心してね!笑
2009年8月13日木曜日
高校演劇
BS2「青春舞台2009」
8月31日(月) 0:15〜18:00
http://www.nhk.or.jp/seishunbutai
たとえば、野球。
高校野球には、春夏二回の大会があって、
それぞれ県大会の予選が終わったらすぐに全国大会がある。
流れる汗と涙。
青春はかくもスピーディーだ。
しかし、高校演劇の大会システムはとてもややこしい。
去年の京都府を例にとると、
8月に各地区の予選があって、
11月9日に京都府大会、
12月26日、27日に近畿大会がある。
(参考:高校演劇 大会結果 速報ブログ)
そして、全国大会はというと、
なんと今年の7月31日〜8月2日にある。
つまり、
演劇で日本一になるには、丸1年がかかる。
高校野球で日本一になるには、春夏かける3年で6回チャンスがあるのに対して、
演劇は、
高1の夏〜高2の夏か、
高2の夏〜高3の夏か。
2回しかチャンスがない。
そのシビアさが、その儚さが、
青春を輝かせる。
まあ俺らのとこは大会に出たことないけどね笑
青春舞台は、全国大会の最優秀校1校と優秀校3校の公演だ。
全国2200校の頂点に立つ、演劇。
その気迫はすごくて、飲み込まれそうになる。
もっと具体的に言うと、青春に戻りたくなる。
そろそろ戻りたくても戻れない歳なので、安心して観れるかな笑
BS観れる人は観てねー◎
8月31日(月) 0:15〜18:00
http://www.nhk.or.jp/seishunbutai
たとえば、野球。
高校野球には、春夏二回の大会があって、
それぞれ県大会の予選が終わったらすぐに全国大会がある。
流れる汗と涙。
青春はかくもスピーディーだ。
しかし、高校演劇の大会システムはとてもややこしい。
去年の京都府を例にとると、
8月に各地区の予選があって、
11月9日に京都府大会、
12月26日、27日に近畿大会がある。
(参考:高校演劇 大会結果 速報ブログ)
そして、全国大会はというと、
なんと今年の7月31日〜8月2日にある。
つまり、
演劇で日本一になるには、丸1年がかかる。
高校野球で日本一になるには、春夏かける3年で6回チャンスがあるのに対して、
演劇は、
高1の夏〜高2の夏か、
高2の夏〜高3の夏か。
2回しかチャンスがない。
そのシビアさが、その儚さが、
青春を輝かせる。
まあ俺らのとこは大会に出たことないけどね笑
青春舞台は、全国大会の最優秀校1校と優秀校3校の公演だ。
全国2200校の頂点に立つ、演劇。
その気迫はすごくて、飲み込まれそうになる。
もっと具体的に言うと、青春に戻りたくなる。
そろそろ戻りたくても戻れない歳なので、安心して観れるかな笑
BS観れる人は観てねー◎
2009年7月26日日曜日
環境警察2209in京北
http://blog.canpan.info/fringe-tp/
小中学生がプロの俳優と2泊3日でつくった環境演劇の上演会とシンポジウム。
面白そうと思ってたけど、
↓このサイトを見ると、教材があって、
http://www.fringe-tp.net/kankyogeki/
うーん、意外と面白くないかも。と思った。
なんか「環境破壊はいけない」という価値観を一方的に押し出しすぎな感じがした。
薄っぺらい劇になってないか不安。
でも、こどものパワーで、ちゃんと多様な意見がある劇になってるのかな。
とりあえず、試み自体は面白いと思ったし、シンポジウムにも興味あるので、
ヒマがあったら行こうかな。
あらすじ
時は23世紀の日本。環境破壊を取り締まる「環境警察」の面々は、日々犯人の逮捕に励んでいた。
ある日、環境警察の新メンバー桂坂隊員は、皆に疑問を投げかける。
「いくら犯人をつかまえても、もう手遅れなのではないでしょうか・・・。」
ざわめく面々。そんな中、九頭竜大社坂警視総監は、隊員たちに新たな指令を告げた。
「環境問題を根本から解決するため、21世紀に飛んでいってくれ。」
最終日、8月1日には発表会を行います。
入場無料ですので、ぜひみんなの合宿の成果を観に来てください。
とき 2009年8月1日14:00〜
ばしょ 同志社大学クローバーホール
発表会に続き、シンポジウムを行います。
テーマは「環境教育におけるコミュニケーションティーチングの活用およびその制度化に向けて」。
パネリスト
井手上 春香(NPO法人子どもとアーティストの出会い 理事長)
丸井 重樹(演劇制作者 ベトナムからの笑い声 代表 C.T.T.事務局)
末岡 妙子(樟葉西校区コミュニティ協議会 副会長 樟葉西小学校P.T.A. 副会長)
蓮行(劇作家・演出家 劇団衛星 代表)
舞台芸術・教育に興味のある皆様のご来場をお待ちしております。
小中学生がプロの俳優と2泊3日でつくった環境演劇の上演会とシンポジウム。
面白そうと思ってたけど、
↓このサイトを見ると、教材があって、
http://www.fringe-tp.net/kankyogeki/
うーん、意外と面白くないかも。と思った。
なんか「環境破壊はいけない」という価値観を一方的に押し出しすぎな感じがした。
薄っぺらい劇になってないか不安。
でも、こどものパワーで、ちゃんと多様な意見がある劇になってるのかな。
とりあえず、試み自体は面白いと思ったし、シンポジウムにも興味あるので、
ヒマがあったら行こうかな。
2009年7月24日金曜日
【本】演劇のことば

平田オリザ「演劇のことば」岩波書店 2004
この本を読んで、
俺の青春は終わったと思う。
それほどに衝撃的だった。
初めて読んだのはもう5年以上も前なので、
いま改めて読んでみるとなんだかとりとめのない文章のようにも見えるけれど、
それでも俺にとっては、奇跡のような本であり続ける。
この本は詩,小説,演劇,批評といった分野の5人がそれぞれことばについて書く「ことばのために」というシリーズで、平田オリザが担当した一冊だ。
「演劇のことば」という表題とは裏腹に、ここには日本の演劇史が書かれている。
演劇の歴史というのはつまり、
演劇が様々な時代に奔流されてきた歴史で、
それはすなわち「演劇のことば」が呪縛されてきた歴史だからだ。
日本の近代演劇は、戦争の役に立たないので西洋から輸入されることはなく、歌舞伎を「改良」することを出発点にしている。
それから、西洋の手本を観ることは簡単にはできないし、かといって日本文化と真剣に向き合うこともしなかった明治維新後の悶々とした時期を経て、
戦前の社会主義リアリズム、
戦時中の軍国主義、
戦後の社会主義の揺り返し、
新劇とアングラ・小劇場の対立、
そして今。
俺が説明すると陳腐になるけれど、
とにかくこうして、「演劇のことば」は、さまざまに自由を奪われ、しかし、少しずつ自由を手に入れていった。
その過程が、衝撃的だった。
当時、俺は高校生で、「今」しか見えなかった。
理系のクラスにいた俺は、過去や未来と切り離して、現在を透徹した目で見ることだけが大事だと信じていた。
演劇は、楽しくて混沌としていて、
無条件に自由だと信じていた。
けれど、自由になるためには、
なにが不自由だったかを忘れずにいなければならない。
先人が勝ち取ってきた自由がなんなのか、知らなくてはいけない。
演劇は、人間は、ふとしたことで不自由になる。
連綿と続いてきた過去の「今」の上に、俺の「今」がある。
その過去の不自由の歴史を、
「今」に囚われてきた記憶の連続を、
俺たちは継いで、紡いでいくんだ。
と思ったとき。
それは青春の終わりだった。
「今」しか見えない不安と高揚を失った時代を、ひとは青春とは呼ばない。
それが良かったか悪かったかわからないけれど、
ともかく俺は、自分の自由さと不自由さに目を凝らせるようになったと思う。
演劇なんて。
と言うひとにこそ、この本を読んでほしい。
「なんて」な演劇に、これほどの葛藤があったことを知ってほしい。
これは演劇についての本ではなくて、
もっと大きなことを気づかせてくれる本だから。
登録:
コメント (Atom)
