2011年12月29日木曜日

今年の10曲(2011年)

※高校ぐらいから毎年、今年印象に残った曲を10曲書き残しています。
これはあくまで、「俺にとっての」今年の10曲なので
別にめっちゃ昔の曲でも今年初めて聴いたら
俺にとっては「今年の曲」です。

↓去年のはこっち。
http://notchained.blogspot.com/2010/12/10.html


2011年10月28日金曜日

タイの洪水(4)バンコク東部の道路を切るとか切らないとかいう話

Froc floats road drainage plan (Bangkok Post)
http://www.bangkokpost.com/news/local/263533/froc-floats-road-drainage-plan

Sukampol: No need to cut up roads(Bangkok Post)
http://www.bangkokpost.com/news/transport/263675/transport-minister-no-need-to-cut-up-roads


いやいや、なんかだんだんマニアックな記事になってきて、たぶん誰の役にも立たないなーと思いながら書いています。
すいません。


バンコク東部で、海の方に水を流すために東西に走っている道路を壊そうか、みたいな話が持ち上がっているらしい。
上のひとつめの記事に地図があるので転載します。


洪水は北から南の方に向かって流れてくるけど、
このへんの道路があるせいでせき止められて南の海の方にいかない。




えっ、道路でせき止められるってどういうこと?と思うひともいると思うけど、
道路は、もともとの地面に嵩上げしてつくられるので、周囲より高い。
で、排水溝とかもないので、水をせき止めてしまう。

タイでは結構、むしろ道路をもっと嵩挙げして堤防みたいにして使っていたりする。
でもここの道路はそういう役割じゃなくて、ほんとはせき止めずに水が南の方に流れなくてはいけない。


そこで、道路を切って、水が流れるようにしよう、という話。


(この画像は非常に雑なイメージです。)

The proposal has been put forward by a group of engineers and water resource management experts, led by Ninnart Chaithirapinyo, vice-chairman of Toyota Motor Thailand.
 この提案は、トヨタの副代表Ninnart Chaithirapinyoが率いる専門家集団によってなされたらしい。
If the roads are cut through, they can help drain about 60 million cubic metres of floodwater a day, he said.
 道路の開切を行なうと、1日6000立方メートルの水を海の方へ排水できる、と。(北部から来た水は40億立方メートル、って数日前の記事には書いてあった)

Temporary bridges will be built over the sections of the two roads where the roadwork is done.
The entire roadwork is expected to be finished in three days, Mr Thirachai said.
壊した部分には一時的に橋を架けて通れるようにする。3日あれば工事は完了する。
(ちなみにThirachaiはたぶんThirachonの間違いで、バンコク副知事)


でも、交通大臣はこれに反対している。ヘリで上から見たら
The floodwater is to flow into these canals before being drained into Khlong Samrong and the sea.
水路に流れ込んでたから道路は関係ない、大丈夫、と言ってる。
「these canals」というのはKhlong Bang Chalong, Khlong Chorakheyai, Khlong Sanamphli and Khlong Phra-rongchaoで、正確な位置はよくわからなかったけど、たぶんこの辺の水路。


もはや見出しで「Expart says」と書いてたらこのひと、みたいになってるランシット大学のSeri Supparathitさんも、

However, Seri Supparathit, an expert on natural disasters at Rangsit University, said the proposal is impractical because at present the water level in the Bang Pakong is higher than flood levels in Bangkok.

Bang Pakongのほうがバンコクより水位が高いから現実的じゃない、と言っている。
Bang Pakongは上の地図で言うと、枠外の右下の方にある県。


ということで、効果は謎だし、
なぜ一民間の団体の提案がここまで取り上げられてるのかよくわからないけど、
この東西の道路のせいで治水上の問題が起こるんじゃないか、という話は確かにバンコク都都市計画局のひとから聞いた。

ほんとは治水計画上ではここは水を円滑に流さないといけないが、
この辺りに利益を誘導したい政治家が働きかけて道路をつくり、しかもどんどん拡幅されてしまう、といっていた。

ふと思い出したので、書いてみた。


追記:
Froc: No need to dig up roads (Bangkok Post :)
http://www.bangkokpost.com/breakingnews/263696/froc-no-need-to-dig-up-roads

結局、道路は壊さないみたいです。
現状の水路とポンプがあれば問題ないって。

2011年10月20日木曜日

タイの洪水(3)Chulalongkorn floodgate周辺の位置関係

自分用メモに近いです。

この記事で王立灌漑庁の役人が言ってる位置関係を整理します:


RID official: Bangkok to be flooded(Bangkok Post)
http://www.bangkokpost.com/breakingnews/262312/rid-official-bangkok-to-be-flooded


↓まず、これはこのあたりの地域を言っている。バンコクのすぐ北。(出典:Wikipedia

そして、
 several sections of the floodwall along the Raphipat canal have been damaged
というのはつまり、以下の赤で示した水路がダメージを受けてるということ。

特に、1番から5番の水路が壊れて、水が流れ込んでいる、と。
There were cracks from the first to the fifth canal and floodwaters had already surged into Pathum Thani's Khlong Luang and Thanyaburi districts, RID official Chuchart Suppawatthanangkul said.


"The water will certainly reach Bangkok because the barricades surrounding the Chulalongkorn floodgate are not as strong as the dykes at Raphipat," Mr Chuchart said.
で「Chulalongkorn floodgate」がどこにあるかイマイチ分からなかったけど、
このWikipediaの項目によると、
khlong RangsitはChao Phraya川とNakhon Nayok川を結ぶ水路で、そのうちChao Phraya川の方の水門をChulalongkorn floodgate(ประตูน้ำจุฬาลงกรณ์)と呼ぶらしい。

↓Khlong Rangsitはここで、右がチャオプラヤ川。


ということは、Chulalongkorn floodgateはここなのかな?


Bangkok Postの3日前の記事
によると、水は東の方に流す予定らしいけど、

Chulalongkorn floodgate周辺が壊れて、そこから水がバンコクの方に行ってしまう、という話みたい。


どこまであってるか分からないけど。
とりあえずメモでした。間違ってたら教えてください。

2011年10月18日火曜日

タイの洪水(2)「国土三分の一が水没」?

タイの洪水 国土三分の一が水没(痛いニュース(ノ∀`) : )
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1670541.html

というのを見て、えっ、国土三分の一?
ていうかこの洪水地図だとバンコク完全に沈んでるけど、まだ沈んでなくない?と思ったのでちょっと調べてみた。


1) 「国土三分の一」
これはどうも、ニュースが伝わっているうちに

「全県の3分の1で洪水が報告されている」

「国土の3分の1で洪水」

「国土の3分の1が水没」

と変化していったっぽい。。
専攻の先生にご指摘頂きました。


「タイ 洪水 3分の1」でググると、
「国土の3分の1が水没」みたいな表現がほとんど。
↓読売がまだマシだけど、正しい表現かは微妙。

タイ大洪水 早期復旧に日本の支援が必要 : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞)-
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20111017-OYT1T01430.htm
7月からタイ北部などで豪雨が降った影響で、国土を縦断するチャオプラヤ川上流で洪水が発生した。全国で3分の1の県が冠水して約300人が死亡し、首都バンコクの一部も浸水した。




一方、「Thailand flood one third」でググると、

Currently about one third of Thailand's provinces are affected by the floods (MSN Malaysia News)
Thailand on Wednesday declared a third of its provinces to be disaster zones (AFP)
One-third of Thailand declared disaster area (Ottawa Citizen)
という感じで書いてある。
だいたい10月12日頃の記事。
このうちAFPは表現が雑で、正確にはOttawa Citizenの表現だと思う。


つまり、全77県のうち26県で洪水被害が生じている。(それらの県が災害地域宣言をした)という話らしい。
国土の3分の1が沈んだわけじゃないですよ。




2) 画像
↓この地図の出所を、NHKに問い合わせてみた。

したら、すばやく返事が返ってきて、さすがNHK!と思った。
これの出所は、タイの国土地理院的なところが提供している以下のサービスらしい。
http://flood.gistda.or.th/

青色になっているところは「衛星画像や目視からどこか一カ所でも浸水が確認された行政区」らしい。

ということで、
浸水は「青色になっている地域のどこかで起こっている」だけで、
「青色になっている地域全体が水の底にある」わけではありません。
この画像見るとめっちゃ沈みまくってる気がするけど、
(特にバンコクは)こんなにではないよ。

被害がすさまじいのは確かだけど。


…ていうか、常識で考えて、
例えば、「千葉県で洪水」という見出しを見たら、
千葉県全体が、すべからく洪水にあってると思うの?w
ディズニーランドも成田空港もなにもかも水の底に沈んでると思うの?w

「千葉県のどこかで洪水が起こった」とかって自動翻訳しますよね。
しましょうよ。

と、思った。

2011年10月17日月曜日

タイの洪水(1)何が悪かったのか、誰が悪かったのか

何を書いていいか分からないけど、昨今のタイの洪水について、
ちょこちょこブログに書いていこうと思います。
たぶんあんまり大した情報はかけないけど。。

↓気になる人は、ツイッターでもタイの洪水関係のことをつぶやいてるので見てください。

http://twitter.com/#!/yutannihilation
http://twitter.com/#!/yutannihilation/thai (タイ関係のアカウントのリスト)





バンコクがとりあえず洪水から免れそうな(雰囲気になった)ので、
ほっとした人たちが、そもそもなんでこんな洪水が、という原因追及、責任論を言い出し始めている。
見つけたものをとりあえずクリップ。
(個人的には、どれもピンと来ない。。)



1) ダムの使い方がまずかったんじゃないか論
Thailand: Why was so much water kept in the dams? (Asian Correspondent) http://asiancorrespondent.com/67239/why-was-so-much-water-kept-in-the-dams/

Every party kept water in large dams. The Irrigation Department and the Electricity Generating Authority of Thailand (Egat) were afraid they would run out of water in the dry season. They made the wrong guess.
農業と発電のために電気が欲しくて、乾期に備えて水を溜めていた。
雨量を読み間違えて、大雨で早いうちに満杯になってしまった。
そのため、途中からは降ってきた雨を下流にだだ流しにするしかなく、下流を守れなかった。
ダム運用のミスが招いた、人為的な災害だ。みたいなことが書いてある。




2) そもそも洪水危険地の開発が愚かだった論
We reap what we sow by destroying nature (Nation)
http://www.nationmultimedia.com/opinion/We-reap-what-we-sow-by-destroying-nature-30167611.html

These industrial estates are densely concentrated in Ayutthaya and Pathum Thani, even though the areas are low lying and susceptible to flooding. The Irrigation Department warned developers not to build industrial estates there because, in the event of floods, Ayutthaya in particular would become a basin to hold the water. Yet still the developers went ahead to invest in these industrial estates because of the proximity to Bangkok. Besides this attraction, there is also an ample labour force in the area. Most of the workers are farmers
アユタヤ県とパトゥムターニー圏に工業団地が集中しているが、その地域はそもそも低地で洪水に弱かった。王立灌漑庁はデベロッパーに工業団地建設を止めるよう警告していた。
でも、いろいろ魅力があって、結局デベロッパーが投資して工業団地ができてしまった。
みたいなことが書いてある。
(最後の方の、人間が自然を壊した報いなんだ、みたいな話のつながりがいまいち分かんない…)




3) 行政がうまく機能してない論

Floods show up PM's lack of experience (Bangkok Post)
http://www.bangkokpost.com/news/local/261668/floods-show-up-pm-lack-of-experience
バンコク北部に避難警報を出したり避難しなくて大丈夫だと言ったりどっちだよ!みたいな混乱があったけど、あれはやっぱり首相の指導力のなさが原因じゃないか。


We do not know what we are doing(Bangkok Post)
http://www.bangkokpost.com/opinion/opinion/261557/we-do-not-know-what-we-are-doing
色んな人が色んなことを言ってて、何が何かわからない、みたいな感じ?(ちゃんと読んでない)
たぶん上の記事と同じようなことが書いてある。

Yingluck: Centre, BMA not in conflict(Bangkok Post)
http://www.bangkokpost.com/breakingnews/261391/yingluck-centre-bma-not-in-conflict
国とバンコク首都圏庁(BMA)はケンカしてないよ、と首相。
逆に言えば、ぎくしゃくして見えるくらい連携が取れていなそう、ということ。


追記:
あ、これもか。
Thai floods a reflection of crisis of leadership? (TODAYonline)
http://www.todayonline.com/Commentary/EDC111017-0000089/Thai-floods-a-reflection-of-crisis-of-leadership

Instead of dealing with the root causes, they concentrate on building control structures such as flood embankments to protect habitation and agricultural land.

This is exactly what Ms Yingluck has been doing. Thailand still lacks a long-term crisis management plan.

2011年10月16日日曜日

プリペアドピアノ

プリペアドピアノがプリペアされていく過程の動画をふと見つけて、面白かった。

プリペアドピアノは、ジョン・ケージが考案した、弦の上に色んなものを置くことで偶発的な音を出す楽器。
この動画で弾いてるのはHauschkaというドイツのミュージシャンで、俺はこの人が弾いてる楽器としてプリペアドピアノを知った。
いつも不思議な音が出てて、なるほどこんな風に「プリペア」するのかーと感動した。
すごい楽しそう。


2011年10月14日金曜日

身近じゃない人が死んだ。

死んだ、という表現は正確じゃない。
死んでいた。
1ヶ月ほど前に。


その間、俺は呑気にメールを送り、

返事を待っていた。
催促をした。

生きていると思っていた。




研究でお世話になった方で、けれど2回しか会ったことがなく、
亡くなったと聞いても実感が湧かない。





死とは何なのだろうと思う。

死んだと聞くまでは、俺の中であの人は生きていたのに、
死んだと聞いた瞬間に死んでしまう。
「死」はただの言葉なのに、
ただの言葉だけで、俺の頭の中にいたあの人は死んでしまう。

死とは何なのか、まるで分からない。

身近でない人の死というのは、特にどうしていいか分からない。
死は悲しまなくてはならないという義務感と、
けれどどう悲しんでいいか分からない実際とがせめぎあう。

あの人が死ぬことは、誤解を恐れずに言えば、
「困る」ということばがしっくりくる。
研究が進まなくなるし、
「ありがとう」という言葉の宛先がなくなるし。

困る。

あの人の死は俺を困らせる。
そんな風に利己的に「死」を意味付けすることはできる。

けれど、
悲しい、と言っていいのかが分からない。
こんなにも身近でない人の死を、
身勝手に悲しんでいいのか分からない。

困るのは俺ひとりだけれど、
悲しみはひとりのものじゃない。
人間は、ひとりでは悲しむことが難しい。

「悲しい」という感情を「悲しむ」という動作に変えるには、
というよりむしろ、
「悲しむ」という動作によって自分の「悲しい」という感情を発見するには、
誰かと悲しまなくてはいけない。

悲しみを共有し、ともに悲しむ人がいてはじめて、
「悲しい」という感情が生まれる。そんな気がする。
葬式とかって、「悲しい」という感情を生み出すための装置だと思う。



でも、俺はいま、

誰とも悲しみを共有しないまま、こっそり悲しもうとしている。
身近な人の悲しみを共有せず、一方的に悲しもうとしている。


もっと悲しんでいる人の悲しみを共有するほどの覚悟はない。

身近じゃない死を、身近に感じる勇気がない。

たぶん、
身近じゃないあの人を、身近にする努力もしてなかったんだな。
ずるかったんだな。


行くあてのない悲しみのように、
もうちょっとふらふら生きよう。
いつかこの悲しみを、ちゃんと悲しめるようになろう。

別れの秋に、死を想う。

2011年10月6日木曜日

じゃこ天レシピ備忘録

料理したレシピをブログに書く、という作業をついぞやってないな、と思った。

このラベル使うのまじ久しぶり。。
案の定、節分のときのレシピも書き忘れている。ショック。。

とりあえずメモ程度に残しておきます。

http://www.uwajima-kamaboko.com/eat.html
http://www.rdpc.or.jp/kyoudoryouri100/recipe/recipe/380163

2011年9月23日金曜日

猪苗代湖ズ「I love you & I need you ふくしま」

猪苗代湖ズの「I love you & I need you ふくしま」が最近ツボ。


LIVE福島で聴いて、頭に残ったので買ってみた。

ボーカルはサンボマスターの山口隆で、サンボマスターあんまり好きじゃなかったけど、聴いてていいなって思った。

この曲も山口の作詞なのかよく分からないけれど、
シンプルすぎることばが、山口の頭悪そうな歌い方によく合う。

「アイラブユー」とか「本当の自分」とか
どっかで聴いたことあるようなフレーズの羅列は、
何回も同じようなこと聞いているからすり切れて色あせていて、あんまり意味をなさない。

そういうことばは、意味よりもむしろ気持ちを乗せていく。
山口の歌い方は、ことばが気持ちの溢れ出す速度に追いつかなくなって、
生身の気持ちがことばにラップされないまま飛び出してくるような、そんな疾走感がある。
そのくせ薄れたすり切れた言葉の中に、どきっとするような意味を見つけて、
じわっと心に沁みる。


気持ちをことばで伝えるのではなくて、
ことばにならない気持ちを、そのことばにならなさでもって伝えるような、
そんな音楽のあり方。

だって故郷のことを思うのに、ことばじゃ足りないから。きっと。

すてきだなーと思った。

2011年9月17日土曜日

与作は、木を伐る。俺は、何をどうする?

牧歌的。

とふと口にしたときに、牧歌ってそういえばどういう意味か知らないなと思ってグーグル先生に聞いてみる。

ぼっ‐か【牧歌】ボク‐
1 牧童などのうたう歌。
2 牧人や農民などの生活を主題とした詩歌。田園詩。パストラル。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/204408/m0u/
ということはこれは、牧童が牧畜してるさまを、農民が農業してるさまを描いてるってことですよね。
つまりは、労働について歌った歌ですよね。

じゃあ「牧歌」を「労働歌」と言い換えられるかと言えばそんなことはなく、

「あの街って牧歌的ですてきだよね」

と言うべきところを、

「あの街って労働歌的ですてきだよね」

というと、「あの街」はきっと悲壮感が漂っている殺伐とした光景で、
すてき、という言葉は皮肉にしか聞こえないか、
あるいは、労働組合とか学生自治会で運動したくてたまらないんだぐへへへ、みたいな運動フェチだと思われかねない。

「牧歌」と「労働歌」の間にある、
絶望的なまでのイメージの差はなんなんだろう。
「労働」ってなんなんだろう。

 
 そもそも労働歌って何なのかよくわからないけど、
↓これとか労働歌ですよね。 あってる?


与作にとっては、木を伐ることが「労働」だ。
木伐(こ)りが木を伐らずに何をするというのか。

だって名前にやること書いてあるやん。

あからさまに。


羊飼いとか、
マッチ売りとか、
籠担ぎとか、
名前にして名詞と動詞がすでに装備されているのがすてきすぎる、
みたいなことを尾田栄一郎が、
短編集の人食いの話のあとがきに書いていた気がする。


そんなふうに、かつて「労働」が何を指すのかは明快だった。
きちっと定義されていた。

でもいま、俺にとって「労働」って何なのか、分からない。

与作が木を伐るように、
俺は、何をどうすればいいのだろう。


という俺のこのニッチな悩みは、
牧歌的なのか労働歌的なのか。
どっちだろう。

2011年9月15日木曜日

過剰なQ&Aというハレーション

ザ・インタビューズを使い始めて10日。
なんとなくクセが分かってきた。

(今月一杯で使うのやめるので、なんかインタビューしたいなら今のうちだよーw)



質問に答えるのって、どんなふうにしますか?

俺の場合は、
まずはこちらが聞き返すところからはじまる。
「え、このことばってどういう意味ですか?」
「これは、いまどう思うかですか? そのときにどう思ったかですか?」
みたいなこまかな確認で、聞く側と答える側の間で共通認識をつくる。

相手が何を聞きたいのか、
それを聞くことで何を知りたいのか、
どんな温度の答えが欲しいのか。

それがわかってようやく何を答えるか考えはじめられる。



なのに、ザ・インタビューズでは、聞き返す相手がいない。
そのくせ、どんなに質問の意味がわからなくても、
なんか面白いことを答えられないと負け、みたいなプレッシャーがものすごい。

そう、「負け」ということばがすごくしっくりくる。
だんだんインタビューが勝負に見えてくる。

いい質問してやったぜ!みたいな質問者と、
いい答えを答えてやったぜ!みたいな回答者との、
ドヤ顔対決、的な?



だから、聞きたいことを聞いてるとか、
答えたいことを答えてるというよりは、
いいこと言わないと、というプレッシャーに押されて答えてる気がする。

だからいい質問にいい答えが出る。
それはそれで面白い。

別に噓を言ってるわけじゃないし、
いいこと言おうとして言うから、
渾身の答えを打ち返せるわけで、
きっと面白い。
2割増くらいで面白いに違いない。
面白さがインフレを起こしている。


でも、そういう過剰なコミュニケーションに興味がない。
これが勝負だったらいいけど、インタビューだとは思えない。いっそ「ザ・オオギリーズ」 とかに改名すればいいのに。


たぶん好き嫌いの問題だと思うけど、
俺は、ここの過剰性になじめない。

ハレーション気味のやりとりに目が眩む。
過剰なことが肌に合わない。
なんでかよくわからないけど。

なんでなんやろうね。
誰か、なんで俺がインタビューズが嫌いかインタビューしてよ(笑)。
もちろん、直接会ったときに。

2011年9月5日月曜日

まよわずきけよ、きけばわかるさ

ザ・インタビューズというのを始めてみた。

質問されたことに答えるだけというシンプルなサービス。
質問するのにはログインがいるけど、誰が質問したかわからないようになってるので、
ひまならいろいろきいてねー。

↓これ俺のアカウント。
http://theinterviews.jp/yutannihilation



まあでも、
まよわずきけよ、きけばわかるさ
と言ってみたものの、
たぶん聞いても分からないだろうなーと思ってる。

だから、どんな風に分からないのか、
俺がどんな風に切り取られて理解/誤解されるのか、
それを知りたくてやってみた。



そもそも、インタビューは、
インタビューする側とされる側の関係性の中に成り立つ。

インタビューをする人が、
どんな人なのか、
どういう答えを求めているのか、
どれくらい信頼できるのか、
どんな風にあいづちを打つのか、
どんな話の流れで出た質問なのか、
どんな表情で聞くのか、
どれくらい間を取ってから聞くのか、
どれくらいの声の大きさで聞くのか、



そういう要素によって、
同じ質問をしても答えが変わる。
インタビューする側は主役じゃないけど、
その場からいなくなることはできない。

なのに、こんなサービスでは
インタビュワーが匿名になっている。

もちろん、匿名にしているけど、
別の場所で「ふふ、あの質問したの俺だよ」「おまえかー!」みたいなやりとりはあると思う。
思うけど、それはつまり、やっぱりザ・インタビューだけではコミュニケーションとして完結していないわけで、
それは具体的にどこが完結していないのか知りたい。

インタビューって何なのか知りたい。

むしろインタビューって何ですか?って誰かにインタビューしたい。



そんなわけなのでひまならいろいろ質問してください。
ひまなときいろいろ答えます。
そしてアカウント教えてくれたら俺もこっそり質問します。
よろしくー。

2011年9月2日金曜日

阿部芙蓉美「町」

阿部芙蓉美を知ったのは、
ちょっと前にブログに書いた「その街のこども」の主題歌で。
最近、新しいアルバムが出たので買ってみた。


町

阿部芙蓉美

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どれもこれもエンディングテーマっぽい曲で、
(ていうか実際、7曲の半分くらいはエンディングテーマで、)
聴いてるとなんだか世界がスローモーションに見えて、
目の前のものが少しだけ許せる、気がする。
久々になんかしっくりくる音だ。

そのうちの1曲「私たちの望むものは」を聴いて、
なんだかいろいろ考えそうになる。
 


サビの部分の、
今ある不幸せにとどまってはならない まだ見ぬ幸せに今飛び立つのだ
というフレーズがなぜか耳に残る。

「とどまってはならない」という言い方が、
なんだか頑固で、
どこか悲壮で。

不幸せにどうしようもなく傷つきながらも、
うずくまっていてはいけないと前に進む、健気さ。

そういうの、俺にもあるのかな。
ないな。
不幸せに甘えてるな。

ここにいると不幸せだけど、
幸せになれない言い訳が山ほどあって、
すごく安心する。

でも、その安心にとどまってはならないんだな。
つらいな。

とかって考えてしまった。

そんな、悩むだけの行間がある、
阿部芙蓉美の音の空気感が好き。

2011年8月27日土曜日

コピペ時代の、記憶ってなに?

自分が時代遅れだなーと思うことの一つに、
未だにEvernoteを使う気になれないことがある。

ちょっと考えたことをメモ。雑な文章でごめん。


Evernoteは、アカウントをつくると、テキスト、ウェブページ、画像、音声などをクリップできるサービス。らしい。
使ったことないからよくわからないけど。

無理だなーと感じたのは、
試しに使おうかと思ってホームページに行って、
「すべてを記憶する」というキャッチコピーが目に入った瞬間だった。


えっなに言ってるの?と思った。


すべてなんて記憶したくない。ぜんぜんない。


でもそれはたぶん、
俺が「すべてを記憶」できない時代に生きてきたから、
「すべてを記憶」したくないと思うだけなんだろう。

今じゃ、
「すべてを記憶」するのも夢じゃないと信じられる時代で、
俺はそれについていけない時代遅れの男やねんな、と思った。


だって、
記憶というのは自分ひとりのものじゃない。

他人だったり、紙とペンだったり、パソコンだったり、
昔なら伝承だったり歌だったり、
様々な「記録」に支えられて託されて、「記憶」は存在する。

媒体が変われば、当然、
記憶のあり方だって変わるだろう。


それでも、「すべてを記憶」できる(と信じられる)時代とそうでない時代には、
大きな断絶がある。

少なくとも俺は、
「すべてを記憶」できない前提で、
なにをどう記憶するかを選んできたと思う。

不完全な記憶。
不完全な、じぶん。


俺の記憶のあり方に大きく影響したのは、
小学校3、4年から担任に言われて書いていた日記だ。たぶん。

俺は日記なんてぜんぜん書きたくなくて、
その日にあったことじゃなくて、
すごく細かいような、思ったこととか、詩とか書いてた気がする。

でもそれは、見たものとか感じたこととか、
嬉しかったこととか悔しかったこととか悲しかったこととか、
いろんな忘れたくないことの、ほんのひとかけらに過ぎない。

それも、いちばん忘れたくないことを書いているかといえば、
そんなことはない。

大事なことは書きたくなかった。
書くことで誰かに見られたくなかったし、
たぶん書く自信もなかった。


だから、あんまり昔の読み返したことないけど、
俺の日記にはどうでもいい事ばっかり書いてある。
間違ったことばっかり書いてある。

記憶はそれでいいと思っている。
部分的で、歪んでいて、間違っていて、
そういう不完全な記憶でいい。

そんな風に思わされている。
俺は時代遅れな人間だ。


そんな俺だから、
「すべてを記憶する」と標榜するEvernoteに見つかったら怒られそう。

コピペ時代の今は、
すべてを記憶できる。

いちいち手で書き写さなくていいから、
一瞬で世界を切り取ってクリップできる。

それだけではなくて、
正しく記憶できる。

どうだっけと思い出しながら書く必要はなくて、
そっくりそのまま持ってくればいい。
まるごと持ってくるから、
自分の印象や思い込みで歪んだりしない。



すべての記憶。
正しい記憶。



でも俺、そういうのに興味が湧かない。
正しいことなんて、あるの?

記憶は、間違うものだ。

ちょうど俺が色んなことを間違うみたいに、
俺の記憶も間違う。

それを正すのではなくて、
間違いに傷つき、
間違いから色んなことを見つけたい。

だから、大事なのは
正しくすべてを記憶することではなくて、
記憶がどう間違うのかを知ることだと思っている。



というのは、時代遅れな俺の話。
どういう記憶の仕方がいいかって人によって違う。
これはコピペ時代の答えではない。

これからの「記憶」がどうなるのか、知りたい。

2011年8月15日月曜日

ロンドンの暴動と英インディレーベルの未来

LabelLove:暴動で傷ついたレーベルを救え(Time Out Tokyo)
http://www.timeout.jp/ja/tokyo/feature/4693


ロンドンの暴動で8月8日夜、PIASというインディ・ミュージック最大の流通業者の倉庫が、燃えた。
PIASの顧客である165のインディーレーベルの在庫が消失した。

例えば、
Warp(Aphex Twin、Battles、Flying Lotusなどが所属)は21年分の在庫を失った。
Ninja Tune(Coldcut、Kid Koalaなど)は12万枚のレコードを失った。


他にも、被害を受けたレーベルには、

XL Recordings(Radiohead、The xx、Vampire Weekendなど)
Domino Records(Arctic Monkeys、Franz Ferdinandなど)
FatCat Records(Múm、Max Richterなど)

など有名なところも並んでいる。


でももっと深刻なのは弱小レーベルだ、とThe Guardianの記事は言う。

インディーレーベルはCDよりもレコードを重視していることが多い。
レコードの原価はCDの約7倍する。
しかも、販売規模が小さいからCDもレコードも1枚あたりの単価が高くなる。
そうしたレコードやCDをストックして細々と売ることで経営を成り立たせていたのが、
売られないままに焼けてしまったのだ。
打撃は大きい。

しかも、PIASが焼けたということは流通網を失ったということだ。
今再販したからといって、すぐに売れるわけではない。
当面の資金繰りをどうするかという重い難問がのしかかる。


ひょっとするとこのせいでレーベルが大量に潰れる。
レーベルがなくては、
無名の音楽は、無名のままだ。
インターネットが発達したとはいえ、
無名の音楽を世界に紹介し、音楽シーンをつくるのは、
インディレーベルが大きな役割を果たしている。


このままでは、
イギリスの音楽の未来が、
世界の音楽シーンが、
危ない。


なんて言われても、
いつもの俺なら「ふーん、だから?」とか思ってるけど、
ふと自分のiPodを覗くと、
入っている曲の半分以上はPIAS炎上で影響を受けたレーベルのものだった。
自分の半身が焼かれているようで、身悶えする。
まさか遠くロンドンで起こったことが、
こんなにも自分に関係しているなんて。

音楽に何度救われたことか、わからない。
たまには、できるなら、俺が音楽を救いたい。
音楽のために、できることをしたい。


冒頭のタイムアウトトーキョーの記事には、
そうしたレーベルを救うため「LabelLove」というチャリティーレーベルが立ち上がった、と載っている。
俺にできることは、このレーベルに寄付したり、
被害を受けたレーベルの音楽を直接買ったりすることだ、という。

買おう。あんまお金ないけど。
と思ってとりあえず、Ninja tuneのColdcutの曲を買ってみた。

↓これ。

2011年8月11日木曜日

Warpaint

ロサンゼルスの4人組ガールズバンド。
レッチリのジョン・フルシアンテの元カノ(?)がいるので有名。

アメリカ版The xxとか呼ばれてるけど、
もっと暗くてチクチクする感じ。
アルペジオとけだるそうに歌うボーカルが好き。
この半年でいちばん好きかも。






2011年8月5日金曜日

自動補正しなくていいのに、と言えばよかったのに

けっこう前から細々と、たまに、
Natura Classicaというフィルムカメラを使っている。
Naturaは、Natura 1600というフィルムと一緒に使うと暗いところでもフラッシュ無しで撮れるという便利なカメラだ。

そんなわけでずっとNatura 1600以外のフィルムを使ったことがなかったけど、
最近、Solaris 400を使ってみた。


で、フィルムの違いを見比べてる最中。


Naturaはこんな感じ:







一方、Solaris 400はこんな感じ。





うーん…あんま違いなくない?
なんなんだいったい。
Solarisは淡めに写るって聞いてたのに。


と思っていろいろ調べてると、
たぶん店で自動補正がかかって、
どのフィルムでも似たような感じに直されてしまうらしい。
ずずーん。なんと。。
まあキレイだからいいけど。


そんな基本的なことも知らずフィルムカメラを使っていた俺。
次からは、自動補正無しでって言おう。
いくら片手間な趣味とはいえ、基礎を勉強しないとなーと反省した。

2011年7月29日金曜日

高岡蒼甫の発言に思うこと



このツイートをきっかけに、
俳優、高岡蒼甫がスターダストプロモーションを解雇された。
↓一連の発言が見たい人はこのあたりを読んでください。

http://togetter.com/li/165526


俺が心底憤っているのは、こんだけ言っておいて
「日本の伝統番組」って何なのか、ひとことも言及しないことだ。
意図的に語らないのか、
実は何も考えてなくて語る言葉を持たないのか、
ただただ「日本は日本、韓国は韓国」みたいなことを繰り返すばかりで埒が明かない。


高岡は「日本の伝統」について語るべきだ。

だって、「日本の伝統」って何なのか分からないのに、
「日本の伝統があぶない!」なんてどんな顔して言えるの?

そしてなにより、
俳優という文化を担う仕事をする身として、
文化について語る義務があると思う。
「日本の伝統」の喪失を問題にするのなら、
「日本の伝統」について語らなければならない。
語ることによってしか伝統は紡がれない。

無意識に受け継がれてきたものが、
語られることで「伝統」として意識される。
語られなければなかったことになってしまう。
だから、誰かが語らなければいけない。

高岡蒼甫は、日本の伝統についてここまで言うのなら、
語るべき人間の一人だと思う。
拙い言葉でもいいから「日本の伝統」を語っていれば、
彼への批判は、日本文化論に発展したかもしれない。

語らなければいけない人が、
語られなければいけないことを語らないのが、
かなしい。許せない。



あるいは、金について語るべきなのかもしれない。

韓流ドラマが増えるということは、
その分、日本国内でつくられるドラマが圧迫されて、
出番が減ったり、ギャラが減ったりするのだろう。

ドラマで食べている身として、
高岡はそこに異議申し立てをする権利がある。
「日本人は」なんてきれいごとを言わないで、
泥臭く、生活臭の漂う言葉が聞きたい。
もっと俺に金くれよ、とか言えばいいのに。


私は「私たち」である前に、「私」だ。

「私は」をすっとばして、「私たちは」を語ってはいけない。

高岡蒼甫は「俳優」をすっとばして、「うちら日本人」を語ってはいけない。
自分の立ち位置をはっきりさせないまま議論に臨むなんて、
ずるいと思う。


と俺は思うけど、
たぶんいろいろまとまらなかったり、間違えてる気がする。。
とりあえずメモ的に書いてみた。意見ください。


補足:
一応書いておくと俺は、
高岡蒼甫が、韓国を差別しているわけじゃない(つもりな)のは分かっている。
人種差別主義者だとか批判したいわけじゃなくて、
ただ、俳優としての言葉がないことを、怒っている。
それだけの話。

2011年7月26日火曜日

「その街のこども」

森山未來に見惚れてたら、
その街のこども」という映画の予告編を見つけて、
記者会見で森山未來が言葉に詰まってる場面を見てなんだか胸が詰まって、
よくわかんないけど観なくては、と思って、観た。




どういう映画だったのか、説明するのが難しい。

夜の街をずっと歩いて行く映画で、
全体的に画面が暗い。
こんなに暗くてテレビ的に大丈夫なの?というくらい暗い。

そういう不安はつくってる側にもすごくあったらしくて、
上の記者会見でも、そういう話をしたことがあったんですけど、と言ってる。

森山未來は「でも、」と続ける。
「やっぱり、神戸の人間ならば、この、真っ暗な情景でも…」
と言って、どんな言葉を継ぐか少し迷うように間があって、

「神戸っていうものは、伝わるから」

と言った。
その「伝わる」という言葉が端的過ぎて胸に突き刺さる。

端的過ぎて何が言いたいのかよくわからないけど(笑)、
そういう、よくわからない、
言葉では伝わらない、映像では映らない、
なにかが「伝わる」ような映画だった気がした。


暗闇だったり、間だったり、描かれないストーリーだったり、
そういう余白を、
想像力とか、震災の記憶とか、神戸の街の思い出で埋めて、
よくわからないけど涙がこぼれる。

なにをされたのかよく分からないけど、
なにかが伝わってくる気がする。

震災のことも、神戸のことも、
俺は中途半端にしか知らないけど。


こういう、語らないことで伝えようとする映画を久々に観た。
それってすごく勇気が要ることで、森山未來も、

こう、みんなも、照明さんも、すごくそういうの勇気が要っただろうし、もちろん、撮影の方だって、みんなやっぱり勇気が要ったと思うんですけど、それを、なんか応えて、で、こうやって評価されることは、とても嬉しいです。ほんとに。

と言ってる。

すごい映画だな、と思った。
神戸、いい街だな、と思った。

2011年7月21日木曜日

「障害のないひとの弱さ」

あなたは弱い。


と、テレビの向こうにいる女性が言った。気がした。
重度の脳性まひにからだを少しくねらせながら、
しかし凛とした言葉で、
俺に向かって、弱い、と言った。
ような気がした。

実際にはそんなことなくて、
俺がそう感じただけだけど。


彼女の名前は小山内美智子。
俺が観てたのは、ヒューマンドキュメンタリー「あなたが心の道しるべ~小山内美智子と浅野史郎~」というNHKの番組。
途中からちょっとだけ観た。

重度の脳性まひを抱えながら、様々な行政の壁を打ち壊してきた小山内美智子さんとその声を受けとめ た元宮城県知事の浅野史郎さん。四半世紀にわたる二人の交流を見つめる。
という話(番組紹介より)。

前半は観てないので、標題の言葉が出てくる場面だけ書くと、
浅野は、白血病で入院する。
小山内は、浅野への見舞いに、缶詰のトマトジュースを持って行く。
自分が入院していたとき、快方に向かったきっかけになったものだったから。
しかし、浅野はしばらくそれを飲むことができなかった。
「缶切りを買って来てほしい」と、看護婦に言うことができなかったからだ。


「それが、障害のないひとの弱さだ」
と、小山内は言う。

できることに慣れ過ぎて、
できない自分と向き合うことが出来ない、弱さ。
他人の助けを受け入れられない、弱さ。
自分の弱さを受け入れられない、弱さ。


ああ、俺って弱いな、と、
頭をがつんと殴られたように、思った。
思わざるを得なかった。
まるで自分のことを言われているようだった。
ようだった、というか、言われていた。


「障害のないひと」というのはたぶん、
「障害がないと思い込んでいるひと」のこと。
誰にでも(医学用語的な意味に限らない)「障害」はあって、
完璧なひとなんていなくて、
自分の弱さと向き合わないといけなくて、
誰かの手を借りて生きていて。


みたいなまとまりのないことを思った。

2011年7月18日月曜日

女子サッカー優勝とジェンダーフリー



↑こういうつぶやきがけっこういっぱいあるけど、
それあんま関係ないんちゃう?と思った。

これからは女性の時代だ!
みたいなのは、この文脈で持ち出す言葉じゃない。
女子サッカー日本代表は、男子と闘ってたわけじゃないし、
優勝したのは他のどのチームにも劣らない努力と才能の結果であって、女性だからじゃない。

彼女らを、スポーツ選手としてではなく、
女性として見て評価すること自体が、
男尊女卑の社会を下支えしてる。

「女のくせにがんばってるね」みたいなことを言ってるだけの、
笑顔の悪意だ。


大体「なでしこ」っていう名前が女性を旧日本型のステレオタイプに押し込めてるよね、
みたいなことまでは言うつもりないけど。
そんなに目くじら立てるほどのものではないのかもしれない。
でも、見過ごすわけにもいけないと思う。のでいちおうブログに書いてみた。

とにかく、優勝おめでとう!

2011年7月8日金曜日

絶望の温度

昨日の夜ちょっとツイッターでつぶやいたことのまとめ。


非常に比喩的にいえば、

世界の果てまで駆けていって、
行き止まりの壁に打ちのめされて死にたかった。
絶望に殺されるのが夢だった。

世界の果てが、すぐ目の前にある。
いま死んだっていいのかもしれない。
でも、世界の果てはここだけじゃなくて、
あっちにもこっちにもあった。
進もうと思えばまだまだ進める。
ここを行き止まりだと思い込むのは、逃げだと思った。


いつでも死ねることが、
生きるよすがなのだと思う。

行き止まることはいつでもできるけれど、
行き止まりはここじゃない。

こんなもんじゃないだろう、と思う。
いつか俺を殺しに来る絶望は、
もっと重くて、もっと冷たい。
こんなぬるい絶望に行き止まっている場合じゃない。

いつかもっと深い絶望に出会えることだけが、俺の希望。

前に進もう。

2011年7月3日日曜日

たまに吐きたくなる弱音

ひとに評価されることが嫌い。

評価されたくない。
誉められたくない。
誰かと比べられたくない。
誰かと比べて評価されたくない。
誰かが俺と比べられて評価されないのがやだ。

比べられなくても評価されたくない。
みんな違ってみんないい、とか言われたくない。
「みんな」の中に俺って入ってないよね?と念を押したい。
いい、とか言われたくない。
誰かの文脈で語られたくない。

こんなに悪いのに。
ぜんぜんよくないのに。


ときどき、こんな弱音を吐きたくなる。
底のない思考の闇にずぶずぶ足をつっこみたくなる。


これはきっと、
じぶんに対する悩みなのだと思う。

谷川俊太郎が、寺山修司に宛てた手紙にこんな一節がある。

じぶんがだれかってことは、じぶんに聞いてもわからない。他人に聞いてもわからない。じぶんがだれかっていうことは、行為のうちにしか、現れてこないような気がする。じぶんが傷つけた他人の顔を見るとき、いくら疑っても、逃れようもなく、じぶんが、ここにいるのを感じる。


じぶんのことが、分からない。
分かったなんて言いたくないし、分かられたくもない。
そのくせ、分からないことの不安に耐えられない。
その不安だけは分かられたい。

じぶんが誰かは分かられたくないのに、
分からないことと、
分からないから苦しいことだけは、
分かられたい。


こんなことを考えてるのも、
たぶん就活に疲れたからだと思う。

就活は、じぶんのことを分かることと、
分かってもらうことを強要される。
自己分析、自己アピール、個性、志望動機。
そういうのに疲れた。嫌い。苦しい。怖い。

TOEIC何点だから英語できるね、とか。
演劇してたなら人前で目立つのが好きなんだ、とか。

誰かの「分かる」に閉じ込められたくない。
こんなにも分からないことを、分かるなんていいたくない。
誰かの評価で、不安を塗り隠されたくない。
俺の不安をなかったことにされたくない。

のに、

じぶんのことを分かったふりして過ごしたこの数ヶ月。
騙し騙し来たけどそろそろ限界だな。と思う。


とりあえず明日で就活終わります。
あー疲れた。
誰か会って話そうよ。
何言ってるかわからない、とか苦笑いしながら言ってよ。
いつもみたいに。

【メモ】戦場カメラマンのインタビュー記事

The shot that nearly killed me: War photographers – a special report (Guardian)
http://www.guardian.co.uk/media/2011/jun/18/war-photographers-special-report
(注:けっこうグロい写真も。苦手なひとはやめた方がいいです。)

メモ的な日記。
英ガーディアン紙での、戦場カメラマン18人のインタビュー。

2人目のカメラマンは、コンゴで兵士の写真を撮った。
その写真について、こんなことを言ってたのが、胸に突き刺さる。

I really hate this shot. It's the worst face of humankind. I always ask myself, "Why do I do this job?' And the answer is: I want to show the best and worst face of humankind. Every time you go to a conflict, you see the worst. We need to see what we do to be able to show future generations the mistakes we make. The guy with the knife in his mouth is a human being like the rest of us. What's important is that we show what human beings are capable of. The day I don't do that with my photography is the day I'll give up and open a restaurant.

かなり雑に訳すと、


私は本当にこの写真が嫌いです。
人間の、最悪の顔をしている。
いつも「なぜ私はこの仕事をしてるのだろう」と自問します。
その答えは、人間の最高の顔と最悪の顔を見せたいからなんです。
紛争に行くと必ず、最悪な方を目にする事になります。
私たちは、未来の世代に私たちの過ちを知らせるために、私たちが何をするか直視しないといけない。
このナイフを口にくわえた男は、ほかのみんなと同じ、ひとりの人間なんです。
重要なのは、ひとはこんな風にもなるという「可能性」を見せることなんです。
それが写真で出来なくなった日には、諦めてレストランを開きます。

みたいなことを言っている。

写真家が、自分の写真に対して、「I really hate this shot」と言うなんて、
そして、そんな目も背けたくなるような写真を、
「What's important is that we show what human beings are capable of.」だからって撮ってるなんて、
たしかにそういうもんか、と思いつつも衝撃的だった。

2011年6月11日土曜日

蘇るペンギン

Penguin Cafe Orchestraが活動再開!?

みたいなニュースをみていろいろ調べたら、
Penguin Cafe Orchestraのリーダーの子どもが、
Penguin Cafeっていうグループをつくって活動してるらしい。

なんかイマイチつながりが分かんないけど、
そもそもPenguin Cafe Orchestra自体がバンドなのかプロジェクトなのかよくわからないとこがあったし、
まあいいや。この曖昧で自由な雰囲気も含めて、Penguin Cafeだと思う。


こういうミニマルなの好き。
生で聴きたくなる。

Live at the Royal Albert Hall by PenguinCafe

2011年6月9日木曜日

7月のライオン

OS X Lionが7月に出るらしい。

ので、新機能を見てる。

特に気になったのは、オートセーブ機能。

作業しながら保存
オートセーブに対応するように開発されたアプリケーションは、あなたが作業するのと同時に、変更を自動的に保存します。もう、いちいち手動で保存する必要はありません。アプリケーションが予期せず終了した時に、これまでの作業が消えてしまうといった心配もなくなります。オートセーブはすべての変更をバックグラウンドで保存するので、操作の停止やプログレスバーにわずらわさせることなく作業を進められます。

その場に直接保存
OS X Lionのオートセーブは、変更をファイルに直接保存するので、あなたのMacにある書類はいつも一つだけです。

これどうなってるの?
API的なのがあって、それに対応したソフトしか動かないの?

と思っていろいろ調べてみてたら、
バックアップの世界の奥深さを知って愕然とした。
↓こういうの見てると、Macも捨てたもんじゃないな、と思う。賢そう。

Time Machineは過去をどのように記憶しているのか?(ザリガニが見ていた...。)
http://d.hatena.ne.jp/zariganitosh/20090323/1237798724


やっぱまだよくわからないけど、
オートセーブってファイルシステムの機能なのかな?
もうちょい技術的な解説が出てくる事を待ってよっと。

2011年5月4日水曜日

"Justice has been done."

オサマ・ビンラディンが殺害されてオバマ大統領が言ったこの言葉に、
違和感を感じてる人が多い。

俺はでも、同じくらいにやなせたかしの「正義」に納得できない。
納得できないけど、そのアブノーマルさが好きだ。

Justiceの語感がよくわからないので、
日本語の「正義」と一緒に論じていいのかよくわからないけど。



やなせたかし氏 日本人の正義とは困った人にパン差し出すこと
http://www.excite.co.jp/News/column_g/20110503/Postseven_18844.html



戦時中の飢えに苦しんだ記憶から、
正義とは飢えている人に食べ物を差し出すことだ、
という結論を導きだしたらしい。


やなせたかしは、なぜ、
正義は相対的なものであると気付きながら、
それでも絶対的な正義があると信じられるのだろう。

自分の過酷な体験から導きだされた、個人的な正義を、
なぜ、誰にとっても「正義」だと断言できるのだろう。

例えば、アメリカの食料援助でその国の農業がやせ細っていく事実を知っても、
食べ物を差し出すことがどんなときでも正義だと、断言できるのか。



俺にはぜんぜん理解できない。
でもまあ、そんなに悪いとも思わない。

やなせたかしが言う「正義」は、
自分の負の体験を極限まで積分してつくられたもので、
サンデルの「これからの正義」みたいな普遍的な正義とは正反対だ。
もっと個人的で、本来は他人には共感されないはずの、
歪みきった感情のことを俺たちは「正義」と呼んでる気がしてきた。

そのアブノーマルさを認識した上での「正義」なら、
まあいいんじゃない、と思う。


なんかよくわかんないけど、端的に言うと、
正義って、復讐なんじゃないかと思う。


個人的なトラウマとか、憎しみとか後悔とか、
そういう心の傷から生まれた反動が、「正義」なんじゃないか。
だから、正義には必然的に復讐が伴うんじゃないか。
というより、正義とは復讐そのものなんじゃないか。

だから、今回の復讐をもって、
Justice has been done.なんて言えてしまうんじゃないか。


とか、そういうことを考えてしまった。


グラウンド・ゼロのお祭り騒ぎを見て、人が死んで喜ぶなんておかしいよ、
と言ってる人がいる。
俺もそう思う。

でも、これで復讐から解放されるのだとしたら、
まあ祝っていいんじゃない。
ぜんぜん賛成できないけど、その「正義」をまるで理解できないけど、
祝いたくなる気持ちはわかる。
復讐して残るのが虚しさだけだとしても。



何を書いてるかだんだん分からなくなる。
俺にとって正義とは何なんだろう。
どんな復讐をしたいんだろう。

2011年5月3日火曜日

益子陶器市

益子陶器市に行ってきた。

益子も地震で被害を受けてて、
陶器が割れたり、登り窯が壊れたりしたらしい。
ナガオカケンメイがリツイートしたつぶやきをみて、行ってみようと思った。
初栃木。


なんかうまく言えないけど、
ちゃんと手触りがある祭りだった。

イベントとして取り繕った部分はむしろ少なくて、
色んな日常がはみ出して来てる、みたいな。
下手な地域系アートフェスティバルよりぜんぜん楽しかった。
なかなかない経験。
面白いのでひまなら行ってみてー。
次の陶器市は秋です。


写真、俺が撮るとなんだか、
盛り上がりがぜんぜん伝わらなくなってしまったけど…、
いちおう載せます。


益子駅。


駅からメイン会場への道すがら、
陶芸の写真パネルが色んなとこに置かれている。


トイレの札も陶器!


ポストも益子焼!


これも益子焼…w


登り窯。ここで陶器を焼く。


登り窯のいちばん上。排気口。
まだほんのり熱気がある気がした。たぶん気のせい。


貝殻の益子焼。


とげとげ。


くにゃくにゃ。


植木鉢。


植木鉢…?


壷。高そう。


サイズが分かりにくいけど、直径1メートルくらいの皿。
これで魚とか飼うのかな。


草むらに見つけた陶器の破片。


益子焼とは関係ないけど、こんなオブジェも。


↓その他いろいろ。

2011年4月29日金曜日

一ノ瀬正樹「死の所有」

死の所有―死刑・殺人・動物利用に向きあう哲学死の所有―死刑・殺人・動物利用に向きあう哲学
一ノ瀬 正樹

東京大学出版会 2011-01-25
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最近ずっと読んでた本。
なんか哲学のことよくわからないので、言葉遣いとか間違うかもとおそるおそるになりながら書きます…。


主な話題は、死刑のはなし。

殺人等の重罪の場合、他人のいのちを奪ったのだから、自らのいのちを差し出して償わなければならないとして、死刑が応報的均衡の観念のもとで正当化される。

でも、「いのちを差し出す」という言い方は言語的におかしい、と一ノ瀬は言う。

色々論点があったけどその辺ははしょって、
そもそも、自分のいのちは所有できるのか、という根源的な問いがあって、
ジョン・ロックを原点にする近代人権思想はそれに「NO」と答える。

所有権の源泉は「労働」であって、
「労働」して手に入れるものは所有できる。
生命や身体は「労働」しても手に入らないから、所有できない。

所有できないはずの生命や身体を所有できると思っているとするなら、
それはきっと別の価値観に基づいている、と言う。


この本はそうやって、近代人権思想の論理と現実の齟齬をあぶり出す。
この論理だとこうなってるはずなのに現実はなってないですよ、みたいなことを言ってる。
答えは、論理と現実の間にある。
噛み合なさを直視した先にしかない。

一ノ瀬自身も、

倫理の問題というのは、自然主義的誤謬などと言われることがあるにしても、実際上はつねに「is」(何々である)と「ought to」(何々すべきである)との交錯のなかに現れる。

と述べている。


述べているのに、

この本では結局、
近代人権思想のロジックでは死刑はありえないからやめようよ。おかしいよそれ。
と、論理を擁護して現実をdisる結論になってる。

論理から出発したけど、不安になって結局論理にUターンした感じ。
なんか納得できなかった。

でもたぶん、そう見えるのは、
俺が、現実から出発するけど最後は現実に戻ってきてしまうタイプだからなんだろうな。

この本は「人を殺してはいけない」という論理から出発していて、
俺はたぶん、「人は人を殺す」という現実から出発する。

同じ答えを探してるはずなのに、
出発点が真逆なだけで分かり合えないなんて。



なんか一抹の寂しさを覚えた本だった。
中盤あたりにすごく共感したから特に、最後の辺で納得できないのが悔しかった。
また時間を置いて読みたい。

2011年4月12日火曜日

カンボジアとタイの「戦争」(3)

Cluster bomb issue needs to be confronted (The Nation)
http://www.nationmultimedia.com/2011/04/11/opinion/Cluster-bomb-issue-needs-to-be-confronted-30152947.html


タイとカンボジアの国境の衝突で、
タイがクラスター爆弾を使った使ってない、みたいな話があった。

その関係のニュースがちらほら出て来てるのでメモ。

BBCの記事によると、
タイははじめ使ってないと言っていたけど、
いくつかの人権団体が国境付近で不発のクラスター爆弾を発見すると、(写真
ころっと態度を変えて使ったと認めた、みたいな感じ。

でもタイ軍は、クラスター爆弾を使ったとは認めてない。

「Dual-Purpose Improved Conventional Munitions (DPICM)」を使ったのは認めるけど、
あれはいわゆる「Cluster munition」じゃないよ。
だって、Cluster munitionは空から落とすもので、DPICMは地上から撃ってるもん。
とかって言ってるらしい。

一方で、オスロ条約批准を後押ししたNGO連合Cluster Munition Coalition(CMC)は、
DPICMは明らかにクラスター爆弾で、
2008年にオスロ条約が発効して以来、世界で初めてクラスター爆弾が使われたことになる。
と語気を強めている。


↓DPCIMってこんなの。


いやこれ、クラスター爆弾でしょ。。と思うけど。

2011年3月29日火曜日

誰だ!



この曲シュールで好き。
誰だ誰だ?って問いつめるのが馬鹿馬鹿しくなる。


最近、原発関係のみんなの発言を見てて思うのは、
誰が悪いのかと、何が悪いのかを同時に問うのは難しいということ。

「社長出て来い! 首相出て来い! 責任をとれ!」
と言えば言うほど、情報は隠される。
だって責任取るのいややもんね。

かといって、
「責任は問わないから正しい情報を」
とか言ってしまうと、
責任を問わなくていいの?という話になる。


どっちもどっち。
全てを聞き出すことは出来ない。

でも、多くの人「誰だ!」に偏り過ぎてるように見える。
ほんとにそれでいいの?
何が悪いかには興味ないの?

2011年3月24日木曜日

補足:信頼するものって

昨日書いたのだと何を言いたいかよくわからず、
「放射能がどうとかごちゃごちゃ言わないで政府を信じようぜ!」みたいに見えるw
と思って、ちょっとだけ補足します。



データをいくら並べたって、
それだけで「信頼」につながるとは限らない。
「計算」しようと思えばいくらだってできて、
疑おうと思えばいくらでも疑える。

「信頼」するものって言うのは結局、
人の笑顔だったり涙だったりなんじゃないかな、と思った。

「信頼」はひとりでに生まれない。
きっと他人との関係性の中に育まれるもので、
だから、色んな人と話したり遊んだりしよう。
書を捨てなくてもいいよ、でも街に出よう。


なんていうことを昨日思ったんです。


政府とかマスコミがどんなに危ないって言っても、
農家から「ほんとがんばってつくってるんです!」って言われたら、
迷いつつも思わず食べてしまう、
そんな頭の悪い人間でいたいんです。

信じることは、
生きながらえることと同じくらい大切だから。



なんて言いつつ、
研究で俺が与えられるのは「計算」ばっかりだ。
たぶん仕事をしてもそうで…。

なんなんだろうなー。
ちょっと落ち着いたら、悶々としそう。

「信頼」と「計算」

チェルノブイリのことをまた何となく調べていて、
BBCの番組の動画を見つけた。

ちょっと調べてみたところ、
Cooking in the Danger Zone」という番組らしい。
日本語では「世界の食文化 食卓から社会が見える」という穏やかな名前になってるけどw
(ていうかこの映像の字幕、いろいろハショって訳し過ぎ…)




はじめは、なんかやだなーこのおっさん。と思った。
にやついて地元の人のことバカにして、出されたものをぜんぜん食べない。
「区域内のものは食べるなと言われているので」とか言って。

でも、にやけたおっさんは、
作られたスープをみんな美味しそうに食べてるのを見て、
思わずスプーンを手に取る。

汚染地域内で育てられた野菜に、汚染地域内の水。
どれほど汚染されているかもわからない危険なスープを、
おそらくはカメラマンの静止も振り切って、
彼は食べてしまうのだ。


なんだかよく分からないけど、
心温まった。


理性と制止を振り切って、リスクを食べることを選べる彼と、
「政府がちゃんと分かりやすく安心と言ってくれないと食べれない」と言ってる日本の人。
この落差はなんなのかなーと思った。


で、ふと柳美里のツイートを思い出した。



地震があって以来、
みんな色んなことを気にしてる。

数字が基準を上回ってるか上回ってないかとか、
放射性物質は風でどっちに流れるとか、
科学的に見て危険か危険じゃないかとか。

それは「計算」だ。


「計算」はもちろん、人が生きるために大切だけど、
「信頼」とはあんまり関係ない気がする。


信頼には、相手がどうかなんて関係ない。

裏切るか裏切らないか、
基準以上か以下か、
安全か安全じゃないか、
そんなのは相手の問題であって、
自分が信頼するかしないかには関係ない。

その結果、自分が死ぬことになったとしても、関係ない。
「信頼」は結果に汚されない。
どんな結果になってもいい、と思えるのが「信頼」だ。


たぶん、俺が心温まったのは、
レポーターの彼と料理を作ったおばあさんの間に「信頼」が生まれたからだ。

汚染がどうかとか、プロデューサーから怒られないかとか、
そんな「計算」に終始していた(ように見えた)彼が、
危険を顧みずに「信頼」することを選んだからだ。

その心変わりの潔さに、俺はほっこりしたのだと思う。


「計算」は命を守るためにするけれど、
「信頼」は、信じることそのものが目的だ。
信じることは、時に命よりも尊い。
特に、今みたいに信じられるものがないときは。


暗闇が広がってる今だからこそ、
暗闇にジャンプする勇気が欲しい。



↓観たい人は、さっきの動画の前後。違法アップロードのを載せて良いかためらいつつ…。




最後の、ウォッカのくだりに思わず笑った。

カザフに行く時、向こうの人は、
風邪を引くとウォッカ+コショウ、
下痢になるとウォッカ+塩、
というように「とりあえずウォッカ飲んどけば大丈夫!」みたいな感じだと聞いたけど、ほんまやなーと思ってw