2011年3月24日木曜日

「信頼」と「計算」

チェルノブイリのことをまた何となく調べていて、
BBCの番組の動画を見つけた。

ちょっと調べてみたところ、
Cooking in the Danger Zone」という番組らしい。
日本語では「世界の食文化 食卓から社会が見える」という穏やかな名前になってるけどw
(ていうかこの映像の字幕、いろいろハショって訳し過ぎ…)




はじめは、なんかやだなーこのおっさん。と思った。
にやついて地元の人のことバカにして、出されたものをぜんぜん食べない。
「区域内のものは食べるなと言われているので」とか言って。

でも、にやけたおっさんは、
作られたスープをみんな美味しそうに食べてるのを見て、
思わずスプーンを手に取る。

汚染地域内で育てられた野菜に、汚染地域内の水。
どれほど汚染されているかもわからない危険なスープを、
おそらくはカメラマンの静止も振り切って、
彼は食べてしまうのだ。


なんだかよく分からないけど、
心温まった。


理性と制止を振り切って、リスクを食べることを選べる彼と、
「政府がちゃんと分かりやすく安心と言ってくれないと食べれない」と言ってる日本の人。
この落差はなんなのかなーと思った。


で、ふと柳美里のツイートを思い出した。



地震があって以来、
みんな色んなことを気にしてる。

数字が基準を上回ってるか上回ってないかとか、
放射性物質は風でどっちに流れるとか、
科学的に見て危険か危険じゃないかとか。

それは「計算」だ。


「計算」はもちろん、人が生きるために大切だけど、
「信頼」とはあんまり関係ない気がする。


信頼には、相手がどうかなんて関係ない。

裏切るか裏切らないか、
基準以上か以下か、
安全か安全じゃないか、
そんなのは相手の問題であって、
自分が信頼するかしないかには関係ない。

その結果、自分が死ぬことになったとしても、関係ない。
「信頼」は結果に汚されない。
どんな結果になってもいい、と思えるのが「信頼」だ。


たぶん、俺が心温まったのは、
レポーターの彼と料理を作ったおばあさんの間に「信頼」が生まれたからだ。

汚染がどうかとか、プロデューサーから怒られないかとか、
そんな「計算」に終始していた(ように見えた)彼が、
危険を顧みずに「信頼」することを選んだからだ。

その心変わりの潔さに、俺はほっこりしたのだと思う。


「計算」は命を守るためにするけれど、
「信頼」は、信じることそのものが目的だ。
信じることは、時に命よりも尊い。
特に、今みたいに信じられるものがないときは。


暗闇が広がってる今だからこそ、
暗闇にジャンプする勇気が欲しい。



↓観たい人は、さっきの動画の前後。違法アップロードのを載せて良いかためらいつつ…。




最後の、ウォッカのくだりに思わず笑った。

カザフに行く時、向こうの人は、
風邪を引くとウォッカ+コショウ、
下痢になるとウォッカ+塩、
というように「とりあえずウォッカ飲んどけば大丈夫!」みたいな感じだと聞いたけど、ほんまやなーと思ってw

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