2010年2月27日土曜日

「長かったというか、あっという間でした」

浅田真央インタビュー(gorin.jp)
http://www.gorin.jp/bc/index.html?v=68788931001


「長かったというか、あっという間でした」
と言って浅田真央の目から涙がこぼれる。

このインタビュー映像、
ニュースにはダイジェストしかでてこないけど、
フルサイズで観ると、インタビュワーの質問と浅田真央の答えがぜんぜんかみ合ってないことに気付く。

具体的に言うと、以下の3つの質問がスルーされている。

長かった、あっという間。そのように感じたのはどのあたりですか?

演技に向かう前、ずっと音楽を聴いてらっしゃいましたよね。
どんなことが、こう、頭をよぎったんですか?

オリンピックまでの4年間、いろんな苦しいことがあったと思います。
今、振り返ると何が、こう、一番頭に浮かびますか?


たしかに浅田の気が動転していたのもあるけど、
これはインタビュワーの聞き方が悪いんじゃない?と思う。
「長かったというか、あっという間でした」という時間の流れを理解していない。

「どのあたり?」なんて聞いてもわからない。
それは一瞬だったのだから。
そのくせ永遠に感じられる。

何の本だったか思い出せないけど、
最近の若者には、一瞬しか見えない。
刹那主義とはまたちょっと違う。
刹那で終わってしまうのではなくて、
一瞬の中に終わらない永遠を見るのだ。
みたいなことが書いてあるのを最近読んだ。


今というのは一瞬で、
そしてその一瞬がすべてだ。


それはとても長いけれど、
一瞬に、同時にやってくる。
だから「どのあたり?」と聞いてもわからない。
一瞬なんだから、分けることなんてできない。

そして、今しか見えない。
始まる前のこととか、
ましてやこれまでの4年間のことなんて、
すぐには目のピントを合わせられない。
たぶんこれからのことを聞いても同じだろう。


とかこんだけ言いながら、
「長かったというか、あっという間でした」
という時間の流れ方を感じたことは、たぶん俺にはない。

俺がインタビュワーでも同じような的外れな質問をしてしまうのかな、
と思いながらこの映像を見ていた。

そのひとの時間の流れを、きちんと想像できる人間になりたい。

2010年2月26日金曜日

ベケットと「いじめ」

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何年ぶりかに図書館に行った。
なんとなく行きたくなって。
演劇の本の棚を見てたら別役実の本があった。
別役も、本のタイトルにあるベケットも、
小難しい戯曲を書くのであんまり好きじゃない。

でも、昨日「ヘヴン」といういじめが題材の小説を読んだので、

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「いじめ」という文字が気になって手に取ってみた。
そして、結局最後まで読んでしまった。

圧倒的な鋭さ。
20年以上前に書かれた本なのに、
その洞察はまるで未来を知っているかのようだった。







「ベケットと「いじめ」」では、
1986年に起こった中野富士見中学いじめ自殺事件と、ベケットの戯曲を題材に、
現代社会が考察されている。
「個」と「関係性」がキーワードになっている。


中野富士見中学いじめ自殺事件は、
1986年に起こった、初めて世間から注目されたいじめ自殺事件だ。
俺が生まれる前の出来事だから、
そんなに詳しくは知らないけれど。


この事件では「葬式ごっこ」といういじめがクローズアップされた。
少年の写真を黒板に飾り、線香を立て、
色紙に「安らかに眠ってください」という寄せ書きを書く。
寄せ書きには、担任も加わったという。

このいじめに対して、
少年はこんな反応をする。


始業前、遅れて教室に入ってきた鹿川君は、机を見て、「なんだ。これー」。その周りでクラスメートがニヤニヤして、様子をうかがっていた。鹿川君は「オレが来たら、こんなの飾ってやんのー」と笑っていた。(後略、『朝日新聞』朝刊、1986年2月6日)。


笑っていたのは、
もちろん楽しかったからではない。

いじめる側もいじめられる側も、
それが冗談であるのだと笑うしかない。
あからさまに隠された悪意に、気付いているからこそ、
気付いていないふりをすることしかできない。

担任も、「冗談だから」と言われれば、
「ああ、冗談なのか」と無理にでも納得して寄せ書きに加わるしかない。
「それは冗談じゃないだろう、いじめだろう」とは言えない。


そして、
そこに「個人」は存在しない、
と別役は続ける。

「個人」は友達グループというシステムに吸収され、
思い思いの行動をすることは叶わない。
「関係性」が「個人」に取って代わり、主体がいなくなるのだ。

そのくせ、
関係性に圧殺されそうになりながらも、
自立した「個人」であることが求められる。
だから、いじめという「関係性」に目を向けることはできない。
そんなものないのだと振る舞わなければならない。

例えるならそれは綱渡りに似ている。
関係性という細い綱の上で際どいバランスをとりながら、
下を向いては怖くなって落ちてしまうからと、
前を向いて進むことしかできない。

そして結局、足を踏み外してしまう。


個人であろうとするばかりに、
関係性を直視できず、あるがままにされ、
個人が持つべきはずの主体性を失っていく。



この主体が消えるという奇妙な現象は、
近代演劇からベケットらの不条理演劇への変化と相似している。

近代演劇においては、
個人は周囲から自立していて、
科学的、論理的な言葉を話す。

しかし、不条理劇においては、
人間はそんなに強い存在でも理性的な存在でもない。
主体性や存在そのものさえ否定される。

なんでそんなことをするかというと、
現実の世界が不条理だからだ。
世界は思い通りにいかないし、暗い。
おまけに戦争や大量生産大量消費で、人間の主体性はどんどん否定されていく。
不条理演劇は、そんな世界をリアルに表現しようとしたのだ。

しかしやがて、
不条理演劇は不条理な世の中を黙認してしまっているからダメだ、
という批判が現れはじめる。

個人的には、不条理演劇は、
今まで近代が目を背けてきたもの、
つまり例えば、
「個人」が目を背けてきた「関係性」のようなものを、
反射に逆らって直視しようという試みだと思っている。


まあでもとにかく、
不条理さをいかに超えるのか、
いかにして主体性を取り戻すか。
そういったことに悶々としながら、
別役実たちは、
演劇と、そして人間というものと、向き合い続いけていくことになる。






話は変わって「ヘヴン」について。

ヘヴンは、主人公の男の子がいじめられていて、
同じくいじめられている女の子とのやりとりを通して葛藤する、みたいな話。

帯にはこう書いてある。
「苛められ、暴力をふるわれ、
なぜ僕はそれに従うことしかできないのだろう」

彼女は言う。苦しみを、弱さを受け入れたわたしたちこそが正義なのだ、と。
彼は言う。できごとにいいも悪いもない。すべては結果に過ぎないのだ、と。
ただあてのない涙がぽろぽろとこぼれ、少年の頬を濡らす。

少年の、痛みを抱えた目に映る「世界」に救いはあるのか。

「僕」というのは主人公の少年。
「彼女」というのは同じくいじめられている女の子。
そして「彼」というのはいじめる側の少年だ。



「彼女」は、自分はただ受け身にいじめられているのではなくて、
むしろ積極的に、自分の意志でいじめられているのだ。と主張する。
いじめから逃げることはたやすいけれど、
あえていじめられることを選んでいるのだと。
そうすることで、彼女はこの世界の「主体」たりえる。

いじめの苦しさから逃げない。というかすかな主体性を握りしめることで、
彼女はかろうじて生きている。



「彼」は、主体性というものを否定する。
じぶんが「僕」をいじめているのはたまたまだ。
世界というのは自分たちの預かりの知らぬところで回っていて、
いじめるのもいじめられるのも、
主体的にすることではなくて、なりゆきに過ぎないのだという。

そうして主体性を否定することが、
彼に唯一残された主体性なのだ。



「彼女」は、いじめという、自分が否定される状況を積極的に選び、
「彼」は、自分の主体性を否定することを積極的に認める。
「彼女」も「彼」も、
自分を否定することでしか自分を肯定できないのだ。



そして、
じゃあ「僕」の主体性というのはなんだろう。


それがこの本のキーワードであり、
関係性の中にいる限り、
つまり生きていく限り、悩み続けなくてはいけないことだ、と思う。




いじめることか、いじめないことか、
いじめられることか、いじめられないことか、
他殺することか、自殺することか、
何が主体的な行動なのかまるでわからない。
ほんとに主体的な行動なんてあるのかすらもわからない。

そういう絶望の中で、
いじめというのは生まれるんだな、と思った。

2010年2月25日木曜日

ステファーノ・グーグルアイIII世への道(4) 目をまわす。

目の部分をどう光らせようか悩んでいる。




とりあえず、LEDを回してみたら、
↓こんな風に

少ないLEDでぐるぐるした目になるんじゃないかなーと思って試してみた。


つくったのはこんなの。



上にLEDがついていて、
下のモータでくるくる回る。
モータは懐かしのミニ四駆のを使った。

調べてみると回転数は2万rpmくらいらしい。
rpmというのは、1分間の回転数(rotation per minute)。
なので、2万rpmというのは1秒間に300回くらい回っていることになる。

もうちょっと遅くてもいいから重いものを動かしたいので、
ギアをかませてみる。




まあこれで回るでしょう。
試作品だし適当でいいや。
本番はピンク色のLEDを使うけど、練習なので黄色を使った。

で、回してみると、




という感じになる。
最後のは半透明なカバーをかぶせてみたところ。



これでLEDを増やせばまあまあいけそうだ。

でも、音がうるさい。
うんうん唸る。という表現がしっくり来る。
唸るトレハ星人も悪くはないと思うけど、
卒業式でまでうんうん唸るのは、なんだかはしたない。
自分としては個人として来ているのであっても、
周りの人はそう見てくれない。
これだから宇宙人は。というため息が聞こえるようだ。


宇宙の好感度を下げてはいけない。



ということで、
目を回す方法はやめよ。
このぐるぐる感は惜しい感じするけど。




LEDをいっぱい買って、
↓ここを見ながら


Arduino based 8x10 L.E.D Matrix with 4017(+ shift register) - More DIY How To Projects

LEDマトリックスをつくろうと思います。

しかし、こんな難しそうなのを、
このド初心者がほんとに作れるのかな。
不安。。

2010年2月23日火曜日

妄想コントローラ



えー、これめっちゃ面白そう!!

妄想コントローラっていう名前がまたいい。
妄想ってどんな妄想なの??
と思わず妄想してしまう。

妄想をコントロールするどころか、
どんどん妄想が膨らんでいく感じが、にくいところ。


うちの家にはテレビゲームがなかった。
なので友達がゲームの話をしてると俺はその話題に入れなくて、
どんなゲームなんだろうと、
ひとり妄想してたのをふと思い出した。

思えば、
テレビゲームというのは、誰かの妄想だ。
誰かの妄想が作り出した世界が、ゲームソフトに入っている。
それを知らないために俺は自分の妄想の世界を生きてきた。

いわば、妄想のDIY。
そういう精神も大事だよね。

とかいう妄想をした。
何を言ってるのか自分でもよくわからんけど笑




ずっと前にテレビで、
視覚障害用のインベーダーゲームのことがちらっと取り上げられてるのを見たことがある。
それも面白いと思ったけど、
音の持つ可能性ってすごいなと思った。
そしておもちゃ会社の発想力。
すごい。
どっかに就活してみようかな。


公式サイト:http://www.asovision.com/mousou-controller/

2010年2月22日月曜日

劇団☆新感線「蜉蝣峠」(ゲキシネ版)

ゲキ×シネ 蜉蝣峠を観てきた。

元の舞台は、2009年の3月〜5月にやっていた。
古田新太と堤真一が共演していて、
しかも脚本が宮藤官九郎。
これは観に行くしかない!
と思いつつ行けなかった。痛恨のミス。


元々、新感線を初めて知ったのは、
「野獣郎見参」という、
堤真一と古田新太が対戦する舞台をテレビで観たときだった。
当時のテレビドラマではクールな役になっていた堤真一の、
あまりの変貌ぶりに「演劇ってすげえ!」と思った記憶がある。

堤真一は、やっぱり期待を裏切らないいい演技。
面白いし、
激しいし、
悪役らしいワルっぷり。
このまま新感線に所属してしまえばいいのになーと思う。



古田新太は、可もなく不可もなく。
面白いけど、
そこそこシリアスな役柄だからハマり役という感じでもない。
まあ面白いけど。



そして宮藤官九郎の脚本は、
これは中島かずきには書けない。
いろんな意味で。

まず、とりあえず下ネタ(笑)。
冒頭に、古田新太がうんことかちんことかいじってて…
スクリーンで観るには衝撃が強すぎた。
舞台なら遠くてよく見えないからいいけど。

女の子とは一緒に観れないなーと思った。
まあ一緒に観る人なんていないから無駄な心配やけどね!笑


でも下ネタを補っても余りあるストーリーの面白さ。
破綻しそうな物語がまさかの展開でつながっていく。

こんなドロドロした物語で、
中島かずきなら、登場人物を潔く死なせるだろう。
殺してしまうと物語はわかりやすくなる。
登場人物が減るし、
「実はこの人はこんなんだったんですよ」
みたいなお涙頂戴の話を持ち出せばそれっぽくまとまるから。

けれど、宮藤官九郎の脚本では、
登場人物は潔くない。
汚く泥臭く、執着する。
その執着は絡まり合い、物語はカオスになっていく。
カオスになっていくのに、
きちんとストーリーがつながっていて、
そのバランス感覚が、クドカンの面目躍如だなーと思う。


なんかたまに、
中島かずきの脚本って最近微妙だなと感じるけど、
それはまとまりが良すぎるからなんだな。と思った。

長い話を書けば書くほど、
物語を収束させたいという欲求に駆られる。
でもそれは、
劇作家としては逃げだ。
なんか偉そうな言い方だけど。。

昔、変貌した堤真一を観てるときに感動したけど、
そんな風に、
崩壊寸前のようでそれでいて安定している、
そんな,しっかり狂った演劇が俺は好きだ。


そして、
とにかく舞台で観たい。
とゲキシネを観るといつも思うけど、
そういう戦略なのかな。

2010年2月21日日曜日

シーシェパードについて思うこと

前の投稿で、
シーシェパードについてどう思うの?と一方的に聞いたけど、
いい逃げはずるいと思ったので、俺の考えも書いておきます。


めっちゃ悩んだ。

俺の正義って何だろう。



まずひとつに、
「言ってることとやってることが同じか」
というのがある。

口だけ達者で実は言ってることと真逆のことをやってる、
というのはよくあるパターンだと、この10年で学んだ。
環境を守ると言って環境を破壊していたり、
人権を守ると言って偏見を助長していたり。
自分でも気付かないうちにそんなことをしてる。

何が正しいかなんて、わからない。
俺の正しさと誰かの正しさは違う。
でも、「これが正しい!」と言ってることと、やってることとが違ったら、
それはもう正しくないでしょ。


この基準でシーシェパードを考えると、
まあまあ言ってることとやってることは一致している。
「直接行動」をしますといって実際にしていて、
むしろそのための団体だと言っていい。

と思ってたけど、
今日ホームページを見て考えが変わった。
↓こんなことが書いてあった。
Sea Shepherd Does Not Condone the Use of Firearms

Reports that Sea Shepherd supports shooting Japanese whale poachers are inaccurate.

“The Sea Shepherd Conservation Society has never used firearms and has no intention of using firearms against illegal whalers,” said Captain Paul Watson, Sea Shepherd president and founder. “We are proud of our record of never causing an injury to any person in our entire history. We may be aggressive, obstructive, and we may damage harpoons, nets, and longlines used by poachers, but we have never, and will never, injure a human being.

The reports originated from statements made by Mr. Ady Gil, who said that elephant poachers are shot in East Africa for illegally killing elephants and speculated that whale poachers deserved to be shot also.

Mr. Gil is a supporter of Sea Shepherd, and as an individual, he is free to express any viewpoint he so wishes. However, Mr. Gil does not speak for Sea Shepherd or serve as a representative or spokesperson in any official capacity. Therefore, any opinions expressed by Mr. Gil are his own personal opinions and not the opinions of Sea Shepherd.

The Sea Shepherd Conservation Society is an anti-poaching organization specializing in opposition to illegal activities that exploit marine wildlife species. The organization has a policy of nonviolence and working within the boundaries of international conservation law. In its 33-year history, Sea Shepherd has never inflicted any injuries to any person nor has any Sea Shepherd activist ever been convicted of a felony crime.
Sea Shephard


「そっちが鯨を殺すなら、俺はお前らを殺してやるぜ!」
とかって言ってるなら、
いかれてるとは思うけどまあ納得できる。
それを正義と呼ぶのか、狂気と呼ぶのかは、
立場の問題に過ぎない。


けれどここに書かれているのは、
絶対に人を傷つけない、という嘘だ。

確かにこう書けば、日本以外のひとにはわからない。
たぶん、誰がけがをしたとかそういう細かな報道はされていないから。
しぜん、シーシェパードはなんて紳士な団体なんだ!と思うだろう。
そして寄付も集まる。

でも実際は、シーシェパードは人を傷つけている。

↓彼らのせいかもしれない死すらある。
シーシェパード、第二共新丸行方不明者捜索を妨害
(まあ、日本鯨類研究所の言い方はあんまり鵜呑みにできないけど)

それをなかったことにするのは、どういうことだ。
謝れ、と思う。

被害者に。

そして何より、
自分で掲げた正義に。




でも、この意味で言うと、
調査捕鯨だと言い張ってガンガン捕鯨をしている日本も、
なんかずるくて正しくない気がする。
ホンネとタテマエ的な。

そんな正しくない泥臭さも、嫌いじゃないけど。








↓シーシェパードのこんなビデオを観てると、


ああ、人間ってひどいことをしているなと思う。
欧米の人が捕鯨反対なのもなるほどな、と思わされる。

シーシェパードはともかくとして、
捕鯨反対の人に、俺はわりと賛成はできないけど共感はできる。

何を食べていいとか、
何を殺していいとか。
それは、他の生き物の生死に関わることを身勝手に決める、
けれど大事なルールなんだと思う。

ぶつかり合うなら派手に衝突するだろう。


いつかどこかの国の人から、
「あなたとは友達になれません。
あなたの国は捕鯨をしているから」
と言われることを覚悟している。

そういうレッテルを背負うのが日本人の宿命だと思っている。

捕鯨。
もっとちゃんと知らないと。

2010年2月20日土曜日

ステファーノ・グーグルアイIII世への道(3) 風船

The Back Hornがインディーズ時代にリリースした、「風船」という名曲がある。
そういえばパソコンに入れてない、
とふと思い出してCDを探してみた。

風船風船
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CDを弟の部屋からみつけたけど、
ケースがまっぷたつに割れててショックだった。
まあたぶん弟のせいじゃなくて俺が昔割ったんだろうけど。

だからこそのショック。
忘れてしまった過去の過ちを思い出すときほどショックなことはない。




まあそんなことはどうでもよくて、
風船に張り子をしてトレハ星人父の頭部骨格を作った話。




まず風船を膨らます。
俺の頭から肩まですっぽり入らないといけないので
サイズはかなりでっかい。

買ってきたのは、直径75cmにまでなるという風船。
初めは口で膨らませていたけど、
40cmを超えたあたりから明らかに人間の力を超えた空気圧を感じる。
生半可に習得した循環呼吸をもってしてもビクともしない。
恐るべしゴムの力。

One Pieceという漫画の主人公は、全身がゴムでできていて、
「ゴムゴムの風船」という、
体を風船のように膨らませることで砲弾をはじき返す技を使うけど、
あれはいったいどんな肺活量をしてるんだろう。
とか酸欠の頭で思った。


これは無理だと判断して、
自転車の空気入れと風船を輪ゴムで結びつけて空気を入れる。
するとまあなんとか膨らんで、
↓こんな風になった。


直径60cmくらいある。
右においてあるのはA4ノート。
でっかい。


風船に水で濡らした新聞紙をつける。


さらに、ノリを水で薄めたものを染ませた新聞紙を次々貼付けていく。


最後は和紙を表面に貼る。


完成!
(まだ乾燥させないといけないけど。)

しかしこれ、さくっと書いたけど一日仕事でした。
疲れた…。

これの表面にサテンか何かをかぶせれば頭部になります。
たぶん。


続きはまた今度。

生物多様性活動家は、シー・シェパードについてどう思うの?

いやいや、
違うことはわかってる。
わかった上で、あんまりわからないことを恐る恐る書いてみる。
わからないから、素直に聞きたい。

あなたがやっている生物多様性に関わる活動とシー・シェパードは、
何が同じで、何が違うのか。

違いすぎて答えようがないと思うけど。



でも、
世間の中には「生物多様性」とか「自然保護」と聞くと、
ああいうエコテロリズムを連想する人も少なからずいる。

↓シー・シェパード自身も、
自分たちは海の「生物多様性」を守っているのだと言う。

Established in 1977, Sea Shepherd Conservation Society (SSCS) is an international non-profit, marine wildlife conservation organization. Our mission is to end the destruction of habitat and slaughter of wildlife in the world's oceans in order to conserve and protect ecosystems and species.

Sea Shepherd uses innovative direct-action tactics to investigate, document, and take action when necessary to expose and confront illegal activities on the high seas. By safeguarding the biodiversity of our delicately-balanced ocean ecosystems, Sea Shepherd works to ensure their survival for future generations.(Sea Shepherd - Who We Are)


今年は生物多様性条約COP10の年だ。
そんな大事なときに、
変に口を挟んで同じに思われたくないのはわかる。

でもそれはフェアじゃない。
的外れな質問にも誠実に答えるのは、
世間を相手にする人間の義務だと思う。




そしてもうちょっと深く聞いてもいいなら、
あなた自身の「活動のガイドライン」に照らして、
シー・シェパードの活動はいけない。と言えるだろうか。

つまり、
この活動はよくて、この活動はいけない、
という正義の基準を持っているだろうか。


翻って自分のことを考えてみると、
俺にはない。
「あの団体、ノリが合わないんだよね」
とかそういう情緒的な言い方しかできない。


でもそれではダメなんだと思う。

2008年G8サミットNGOフォーラムのひとが、
前年のドイツサミットのときはNGOの連合体がいくつかに分裂していたことに触れて、
日本のNGOがある程度ひとつにまとまっているのはすばらしいけれど、
ある意味では日本のNGO界がまだまだ未成熟だということの表れかもしれない。
と言っていたことをふと思い出す。


何が違うのかとか、
何がダメなのかとか。
そういうのがよくわからないままに手を取り合えるのも、
それはそれですばらしい。

でも白黒はっきりさせることが大切なときもある。
シー・シェパードの問題は、それを考えるひとつのきっかけだと思う。

何が違うのか、何が同じなのか。


このブログ読んでしまった人、
今度あったら聞くから答えを考えといてなー!笑



追記:
なんか言いっぱなしはずるいと思ったので、
あとで俺も自分の意見を書きます。
でも難しい。まとまるかな。。

2010年2月18日木曜日

思い出のキャリーオーバー

いや、
ロト6で何億円当たった!とかそういう話じゃないよ。
誤解を招きそうなタイトル…。

「キャリーオーバー」というのは、
「持ち越し」「繰り越し」という意味らしい。
なんとなくカタカナを使いたかった。

卒業までは残しておこう、
と思っていた資料で部屋は埋もれている。
これはちょっと持ち越し過ぎでしょう!
と思って一念発起、
部屋を片付けています。という話。



2年くらい触れたことがない資料は、
もはや資料ではなくて「思い出の品」と化していると思う。
そして俺は、
「思い出」が伴わない「思い出の品」はなるべく捨てようと思っている。


ナガオカケンメイというひとは、

人と会うことが多くなっている今も昔も、僕はいただいた名刺のほとんどはゴミ箱に捨てます。ここだけを読まれると、大抵の方は「なんて失礼なヤツ」と思われることでしょう。そんなにすぐにはもちろん捨てたりはしません。1週間経って、あらためてお会いした方々の名刺を眺めて、どうしても思い出せない方のものだけ、容赦なく捨てます。(ナガオカケンメイの考え

といっている。
この本ちゃんと読んだことないけど。


普通に考えたら、
名刺を捨てるなんてそんな失礼なことはありえない。

でも、いま部屋の整理をしてて何となく思うけど、
モノは思い出とセットになっていないと意味を持たない。



顔も思い出せない人の名刺は、
けっきょく使わないだろう。
使わないのに、持っていてしまう。

確かに名刺はなくならない。
すぐに記憶のどこかに消えてしまう現実とは違って。
だからせめて、現実のことは忘れてしまっても、
名刺だけは握りしめて離さないでおこう。
という気持ちも、まあわかる。

わかるけど、それってなんか変だ。
現実の人物よりも名刺の方が大事にされている。


現実が、
モノに引きずられている。



複雑な現実よりも、
モノの方が自分の思い通りになるかもしれない。
でも、俺はモノより現実を大事にしたい。
そんな思い通りにならない現実を愛したい。



とかカッコいいことを言ってもまあ
俺は所詮、名刺を捨てられないタイプの人間だ。
部屋はキャリーオーバーに溢れている。

結局使わなかった助成金リスト、
授業で恐る恐る調べた靖国神社の資料、
直島のアートフェスティバルにタマネギを売りに行ったときの資料。
謎な「思い出の品」が次々出てくる。

捨てないといけない。
思い出せない「思い出」のキャリーオーバーは、
そろそろ終わりにしよう。

2010年2月17日水曜日

ステファーノ・グーグルアイIII世への道(2) Arduinoをはじめよう。

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電子回路のお勉強をしようと思ってたけど、
想像以上にめんどくさい。
いや、想像以上に、
奥が深い。


とりあえず本屋でいろいろ立ち読みしてたら、
Arduinoの存在を思い出した。

これは簡単に言うと、「お手軽マイコン」だ。
Processingという言語をベースにして、簡単に制御プログラムが組める。
というとなんだか抽象的でよくわからないけど、
↓たとえばこんなことができる。








俺が触れたことあるプログラムは、
所詮パソコンのディスプレーの中でしか動かなくて、
どんなにキレイでもそれは水槽の中の魚のようなものに過ぎない。
水がなくては生きられない。

でもArduinoは、現実の電子機器とつながることができる。
広い世界と関わることができる。

とかいうとなんか大げさ。。


まあなんか、
あの目を(↓)光らせるだけなんやけど、



どうせやるなら
ガチで電子回路よりも
Arduinoの方が楽しそうだなと思って。

でもさすがに初心者がいきなりArduinoを自作はきついから
買おうかな。
3200円。
まあ飲み会一回分よりは長く遊べるでしょう。
余裕があれば自作楽器とか作りたいな。

2010年2月14日日曜日

ステファーノ・グーグルアイIII世への道(1) 設計図を書いてみる。

今年の抱負にも書いたけど、
卒業式で仮装しようと思っている。
でもなんかひとりで黙々とやるのは寂しいので、
ブログにちょくちょく進捗を書きます。

悪巧みはみんなでやるに限る。



けっきょく、仮装するのは、
トレハ星人父に決めた。
公式ホームページによると、
本名は「ステファーノ・グーグルアイIII世」というらしい。

↓もっと詳しいプロフィールはこんな感じ。
*出身 トレハ星、トレハ王国旧王族の末裔
*年齢 51歳
*血液型 P型(血の色はピンク)
*職業 自営業(不動産屋=星ころがし)
*座右の銘 長いものには巻かれろ
*攻撃力 弱
*決め技 触覚ビンタ
*得意技 たかいたかいビーム(相手を浮かせることができる。楽しい)
*肌触り ソフト
*視力 0.2(コンタクトレンズ着用時1.0)
*特技 UFOキャッチャー(ぬいぐるみ狙い)
*尊敬する人 E.T.
*嫌いな言葉 はげ
*ひとこと 「冥王星が惑星でなくなったことが残念です。仕事でなんどか行きましたが、とてもいいところでした」

秘密のプロフィール


昔はフサフサだったらしい。



まあそんなどうでもいい情報はどうでもよくて、
とにかくどんどんイメージを具体化していかないといけない。
とりあえず、設計図を書いてみた。

自分が入らないといけないから、
ということは必然的に高さは170cmくらいになる。
それを踏まえてスケールを考えると、
↓こんな風になる。



横にいるのは同じスケールの俺。

えっ…
これかなりでっかくない??



これを、どうやって作るのか。
そして、作ることができたとしてどこに保管するのか。
それをどうやって会場まで運ぶのか。

考えることが山積している。

むむむ。。
いったん細かいことは置いといて、
楽しいことだけ考えよう。
明日は、この目をどうやって光らせるかを考えます。
電子工作のお勉強をしないと。

2010年2月13日土曜日

ファイト!

最近ブログばっか書いてるなー。

あんまり何かやる気は出なくて、
遊ぼうと思ってもお金はなく、
かといってバイトをする気も起きず。
みたいな、燃えカスのような生活。



こんなときに、中島みゆきの「ファイト!」を聴くとなんだか泣きそうになる。

↓この映像はトリッキーだけど、
前半は、この曲をつくるきっかけになったラジオ番組での便りに中島みゆきが応えるところだ。



ファイト!
闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう

ファイト!
冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ

あー、別に俺闘ってないのにな。
とか思いながらも、泣きそうになる。


中島みゆきが、
こんなにとんがった歌詞を書くなんて知らなかった。

切れるように冷たいような、
これほど鋭い日本語を、
俺は他に知らない。


Wikipediaを見ると、
1999年には文部科学省の国語審議会委員を務めた。
現時点でこの審議会の委員を務めた歌手は中島みゆきただ一人だけである。
Wikipedia
と書いてあって、
ということは、俺は、
中島みゆきの影響を受けた国語教育の中を育ってきたことになる。

といって、
こんなにも垂直的な怒りと悲しみを表現できるのかというと、
それほどのことばの力は持ち合わせていない。
悔しいけど。



鋭い人生を送りたいなーと思いつつ、
もうちょっとだらだらしよう。

切れないカミソリのような、鈍らな言葉でも、
ブログを書き続けます。
書きたいことはいっぱいあるから。
一度、書くのが辛くなるくらいまで書いてみよう。

ボム・スケア

大学に行こうとしていたときのこと。


なんか警官がいる。
車道の真ん中に立っている。
というよりあれは、
立ちはだかっている。
何者も通さないという覚悟を背負って。

歩道を見ると、
人の胸の高さぐらいにテープが張っている。
反対側の歩道も同じく。
あの黄色と黒のしましまは、通行禁止という意味だろう。


「なんで通れないの?」と食い下がるひとだかりに、
警官が必死に説明している。

もうその説明に納得したか失望したひとは、
そこから少し遠巻きにケータイを手にしてしゃべっている。
ごめん、と約束の時間に間に合わないことへの謝罪を口々に言いながら。




京大病院のトイレで「ダイナマイト」と書かれた紙が張られたバッグが見つかって、
爆弾処理班が出動した話。

俺は、大学に用事があって自転車を飛ばしている途中で、
見事に足止めされた。
結局爆弾はなかったけど。



爆弾に足止めされたのは、
生まれて初めての経験だった。




こういうのを、
ボム・スケアというらしい。

↓と、ふとこのブログの記事を思い出した。
today's_news_from_uk

そういう「社会」で、「ボム・スケア」は、東京でいう「地震」や「集中豪雨」のようなものとして受け流されていた。実際に日常生活に影響はあるが、例えば約束の時間に遅れそうなときに「ボム・スケアで渋滞していてバスが動かなかった」とか、「ボム・スケアがあって地下鉄が止まった」という口実になるくらいのものだった。

誰も、それを直接とめることはできない。誰も、それをやめさせることはできない。それに対する戦いなど挑んでもしかたがない。とにかく政治的なアプローチが取られるべきである。こんなにこじれてしまったのも、政治の責任なのだし。

これは、IRAが停戦合意していなかった頃のイギリスの話らしい。

日本では爆破予告なんて嘘に決まっている。
それは、
日本が幸せな平和であるのが理由の半分。

そしてもう半分はというと。



ボム・スケアは、
半分は爆弾そのものへの恐怖で、
残り半分は爆弾を使う者への恐怖だ。

その爆弾を使う者というのは、誰か。
その社会にとって異分子であるひと、
多くは他民族のひとだ。
(と思われているだけで、それが事実かどうかはわからない。)

そして、爆弾を使う者は、どこにいるのか。
雑踏に潜んでいる。
その社会に溶け込んで、
息を殺しながら、ひとを殺す機会を伺っている。


自分とあまりに違う人間が、
自分とあまりに近くにいるから、
怖い。


じゃあ、
違う人間が近くに暮らしている社会って何かというと、
例えば多民族社会だと思う。


日本にボム・スケアがないもう半分の理由は、
その多民族さに無自覚なことじゃないだろうか。


仲が悪い民族がいないわけじゃない。
北朝鮮とか中国とか、あるいはアメリカとか。
いろいろ思い当たる節はあるでしょう。

なのに、
そういうひとたちは日本社会に全然入り込んでなくて、
(あるいは入り込ませていなくて、)
日本には「日本人」しかいない。
と思う、その思い上がり。

その勘違いが、
嘘っぽい平穏を支えている。


そんな嘘の平穏に浸るより、
ちゃんとリアルに仲良くなりたい。
とか病院前で足止めされながら考えてしまった。

2010年2月12日金曜日

Massive Attack「Heligoland」

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買ってしまった。
Massive Attackの新作「Heligoland」


Massive Attackをあんまりちゃんと聞いたことはない。

初めて聴いたときは高校生で、
そのときの狭い音楽性の俺の耳には
なんかぶっとい声でおっさんが唸ってるだけにしか聞こえなくて、
以来、5年くらい聴いていない。
まあていうか、
俺が音楽を聴き始めてからリアルタイムでマッシヴが活躍してたことってないよね。


去年、名曲「Teardrop」を知って、
「Mezzanine」を借りたけど、
最もロック色が強いというこのアルバムでもTeardrop以外は正直あんまり耳に合わなかった。

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でも今回のアルバムは、すごく聴きやすい。
もう「Massive」でも「Attack」でもなくて、
ミニマルで、とげのない音楽になっている。


象徴的だなと思ったのは、
アルバムの9曲目、「Saturday Come Slow」という曲。

BlurのヴォーカルDamon Albernがフィーチャーされているけど、
これがBlurの曲だと言われてもなんかそれはそれで納得しそうな出来だ。
思えば、BlurとMassive Attackは同じところを別々のところから目指していたような気がする。
Blurはポップから徐々に民族音楽やブラックミュージックを取り入れていって、
Massive Attackはヒップホップから、ポストロックとかエレクトロニカに歩み寄っていって、
このアルバムがひとつの邂逅点になっている。
ジャンルがどうとか、そういうのを飛び越えた音楽を奏でている。




巷では、
いつもの重厚さが足りないとか、
3人だった頃の方がよかったとか、
そういう意見もあるけど、それは確かにそうなんだろう。

時代が音を塗り重ねたような重厚さを求めてないのもあるかもしれないし、
ほとんど3Dがひとりでつくりあげてるというのもあるかもしれない。
とにかく、
昔のMassive Attackとは違うようになって、
だから俺は好きになったし、
逆に嫌いになる人もいるし。
それはそれでいい。

松尾スズキ「クワイエットルームにようこそ」

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松尾スズキの描く絶望は、爽やかすぎる。
冬の青すぎる空みたいに。


俺は小説よりも映画版を先に観たけど、
あまりに爽やかに絶望して、
当時代表をしていたサークルを解散しようと思った(笑)。


絶望のデトックスとでもいうのだろうか。
「泣ける映画」を観て泣けてしまうように、
日常の些細な絶望が、
増幅して束になって込み上げてくる。


昨日はひととうまくしゃべれなかったとか、
明日も仕事かーとか、
そういう些細さ。


といってでも、
松尾スズキが書くのはぜんぜん日常の話じゃなくて、
「クワイエットルームにようこそ」も、
精神病院閉鎖病棟という、とっても非日常の話。

オーバードーズで閉鎖病棟に運ばれた主人公が、
退院を目指して病棟に馴染んでゆきつつ、
徐々になぜ自分が運ばれたのかを思い出していく、
未来と過去が入り交じる物語。


そんな重い話なのに、
松尾スズキの文体はいたって爽やかで面白い。
思わず笑えてくる。

その笑い方は、
ほんとに面白いのが半分、
ほんとに絶望したときってこんな風に笑えてくるんだろうな、という感じが半分。

不思議な感じ。


そんな笑えてくるほどの爽やかな絶望を俺は知らない。
ぬるい絶望に浸かって暮らしているという、
ぬるい幸せの中にいる。

2010年2月11日木曜日

KORG DS-10

パソコンを研究室から家に持って帰ってきた。
ようやくパソコンが、
パーソナルなコンピュータになる。
がんばってクリエイティブに生きよう。


ということで、
とりあえずKORG DS-10で作った音をYoutubeに挙げてみた。




写真は水都大阪2009。



KORG DS-10というのは、ニンテンドーDSのソフトで、
30年前の電子楽器の名機「KORG MS-10」を再現した。
ようするに、DSが楽器になるということ。

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すごいひとが演奏するとぜんぜん違って、
↓こんなのもできる。



どうやったらできるんやろう。。
Youtubeで「DS-10」って検索すると
いっぱい動画が出てくるけど十人十色で、
みんなそれぞれ自分の音を確立して出してる感じで、
すごいなーと思う。ほんと。


春休み中はずっとDS-10の修行をして過ごそうかな。

2010年2月9日火曜日

今年の具体的な抱負(3) 卒業式、仮装します!

はい、突然ですが、
卒業式仮装します。


えっ、なんで?


って、じゃあ逆になんでスーツを着るの?
いっぱいあるはずの個性を全部隠して、
みんなと同じふりをする。
そっちの方がよっぽど仮装やん。





なんていう
ラディカルな意見を言うキャラじゃなかったのに。。





話は変わるけど、
そんな風に、どっちの方が仮装だろうと思うことがたまにある。


呼吸のように覚えた「いつもの自分」を身にまとうことと、
ムリして背伸びして「演じてない自分」になりきってみるのと、
どっちが演じてるってことかというと、

それはどっちもでしょう。


何も演じてないなんてありえない。




という話は置いといて、
なんで仮装をしようと思ったかというと、
うちの大学がそういうところだということと(笑)、





そして、水都大阪2009で、
「しでかすおともだち」というアーティストを見て衝撃を受けたことと、




というのが背景にありつつ、
まあなんとなくやろうかなーみたいな。


まあでも、いい案がなかったらやらへんよー!
勝ち目のない戦はしない。
てことで、何の仮装をしたらいいか募集中です。

・なるべくニッチなやつ
・といってオタク受けする路線ではない
・メッセージ性があるやつ
・顔がかくれる方がいいかも

っていう感じの。
なんかない?


例えば、
トレハロース星人父とか?




あ、ちなみに卒論は、
終わらなかったけど終わったことにした。
すっきり!

2010年2月5日金曜日

夜の朝青龍

卒論明日で終わるかなー、
徹夜したくないな。


なんて思いながら、気分転換にブログ書きます。朝青龍の話。


卒論で引きこもってると、
「えっ、いつの間に?」
みたいなことがいっぱいある。
ちょっと目をはなすと、
世間というやつは全力で俺から離れようとする。
まったく、油断も隙もない。


朝青龍の引退もそうだ。
めっちゃ急な気がした。


朝青龍は、妬ましいまでに強いから嫌いだったけど、
引退に追い込まれる弱い朝青龍を見てると、
なんだか好きになってしまう。


去年の末、「パブリック・エネミー」という映画を見たけど、
なんかそういう、ギャング映画を見てる感じがする。


主人公はワルっぷりに嫌気が差しつつ、
それでも、
つらい状況に追い込まれてるのを見るとつい感情移入してしまう。

人間は結局、
強さに憧れ、
弱さに共感する。

でも、相撲においては「弱さ」は許されない。
弱くなった力士は、言葉で、雰囲気で、引退を迫られる。
千代大海も結局引退してしまった。
相撲は、そうして「弱さ」を切り捨てていくことで強くあり続ける。
強さは弱さに怯える。
まあスポーツってそういうものか。


朝青龍が魅力的なのは、
強いからじゃなくて、
むしろ弱いからじゃないだろうか。人間的に。
サッカーしたくなったらサッカーしてしまう。
酒のみたくなったら飲んで呑まれてしまう。

そして、
そういう弱さにばっか目がいってしまう俺。
弱い。