2008年12月28日日曜日

「自由を勝ち取るために」という言い訳。

過ぎたるは及ばざるがごとし。

というように、多すぎることは大概よくない。
ウェブの世界でもそれは同じで、多すぎて困ってしまうことがある。

何が多いのか。
選択肢が、だ。

Javascriptに始まり、
Macromediaが開発し、ひとつの地位を築いたFlash、
便利だけどIEでしか動かず、しかも危険なActiveX、
それに対抗するためにMicrosoftがつくったSilverlight、
そうした動きにオープンさを求めてMozillaが推しているCairo、
この混沌とした状況を打開すべくW3Cがいまさら掲げるHTML5
JavaのWeb向けバージョン、って今までも何回も聞いたような気がするJavaFX
C/C++をブラウザ上で動かすまさかのGoogle Native Client
‥‥

挙げればきりがない。
これは全部、リッチなウェブページを創るための手段だ。

なぜ。


人はなぜ争うのか。


それはひとえに自由を勝ち取るためである。

ITの世界もまた例外ではなく、
これらは、いろんな人がウェブの自由でない現状をみて、
「ウェブはお前だけのもんじゃないんだ。独占すんなよ」といって、
自由を求めて新しい標準をつくっていったその歴史であり、
戦国時代なんかと比べても遜色はないと思う。
というか、今が戦国時代だと思う。

群雄割拠。

しかし、例えば考えてみてほしい。
自由を勝ち取ろうとしているAさんがいるとする。
自由を奪い取っている、この世を牛耳るBさんがいるとする。
そして、Aさんは「世界は誰のものでもないんだ」ともっともな正論を唱え、勇猛果敢にもBさんに戦いを挑むとする。
しかし、ここで起こっているのは、単純な、または時に姑息な手段も交えつつな、力比べに過ぎない。
たとえAさんが勝って、世界を牛耳ったとしても、
それってどうなの。

自由とはなんなのか。
支配者が変わる、ただそれだけのことを自由と呼んでいるのか。

そんなことはない。
それは自由ではない。


同じことがウェブにも言えて、
今、世に蔓延っているウェブの規格・言語に対して「自由を勝ち取るために」と戦いを挑むことは、俺たち一般人と下級プログラマの負担を増やすだけに過ぎない。
「ユーザーのために」
「選択肢を増やしたい」
といった言葉の裏には、ネットの覇権を狙う密かな野望が見え隠れする。


どっちが勝つかわからず、
どっちに着けばいいかわからず。
ブルーレイとHD-DVDの不毛な争いと、どっちのプレイヤーを買うかという消費者の逡巡とは記憶に新しい。


インターネットは自由だ。というが、
そんなの嘘だ。
と思うことが最近は多い。

自由なんてどこにあるのだろう。
誰に勝ち取れるのだろう。




サンのシュワルツCEO:「JavaFXが必要とされる3つの理由とは」
http://builder.japan.zdnet.com/news/story/0,3800079086,20385279,00.htm


Google Native Clientをあれこれ試してみた
http://builder.japan.zdnet.com/news/story/0,3800079086,20385164,00.htm

Flash と Silverlight に立ち向かう Firefox
http://blogs.mozilla-japan.org/td/entry/113/

Aurora Concept Video

Aurora (Part 1) from Adaptive Path on Vimeo.

2008年12月26日金曜日

Chad Vader

Chad Vader


なんかおもしろい気がする。
英語はよくわからないけど。

Chad VaderがDay Shift ManagerからNight Shift Managerに降格した後、数々の苦難を乗り越えて、自分からDay Shift Managerの座を奪ったClintを打ちのめして昼の光に帰ってくるまでの物語。
スターウォーズとは違ってエピソード8までしかないけど。

Chad Vader - Youtube Playlist

2008年12月19日金曜日

拷問のような音楽、音楽の拷問

ナイン・インチ・ネイルズやトム・モレロ、捕虜収容所での拷問に曲を使用され激怒 - barks
http://www.barks.jp/news/?id=1000045772


トレント・レズナーが怒っている。


It's difficult for me to imagine anything more profoundly insulting, demeaning and enraging than discovering music you've put your heart and soul into creating has been used for purposes of torture.
If there are any legal options that can be realistically taken they will be aggressively pursued, with any potential monetary gains donated to human rights charities.
Thank GOD this country has appeared to side with reason and we can put the Bush administration's reign of power, greed, lawlessness and madness behind us.

Trent Reznor
nin.comより)


悪名高いグアンタナモ基地で、
Nine Inch NailsやRage Against the Machineとかの音楽を大音量で流すという拷問が行われていた。
これはでも、イラク戦争中にも、アメリカ軍が街に立てこもる敵兵相手にそういう音楽を大音量で流した、というニュースを見たことがある。
ひどいことをする。


Nine Inch Nailsの音楽は、確かに拷問の様ではあるが、拷問ではない。
もちろん、拷問のようであるかどうかはそのひとがどんな音楽が好きかにもよるが、音楽は、聴く人の心を代弁するものであればこそ、心に響く。

俺がNINの音楽を聴いたのは「Wish」が初めてだった気がする。

Nine Inch Nails - Wish: Live, DTS 5.1 Surround Version(Youtube)
http://www.youtube.com/watch?v=RRyshAQ1r80

拷問のような爆音、
拷問のような英語攻め。
その中盤にかすかに、けれど確かに聞き取れるフレーズがある。


I hate everyone.


と、そのこわもてのおっさんは歌っていた。

ああそうか。
これはみんなのことが嫌いなひとの歌なんだ。
世界を憎んでる歌なんだ。

俺はNINが好きになった。


拷問とは、この音楽ではない。
これは、この世界を生きるというつらい拷問にかけられている人間の叫びだ。

それを拷問に使うというのは、どういう皮肉か。

拷問の拡大再生産。
この世界をどんどん生きにくくして、
未来も見えず、
人類はいったいどこへ向かうのか。

それは、拷問によく似ている。

2008年12月17日水曜日

コモンズフェスタ2008/2009

コモンズフェスタ2008/2009
http://www.outenin.com/otc/projects/commons2008.html

というイベントがある。
應典院寺町倶楽部という、お寺とコラボするNPOが毎年開いているらしい。
今年のテーマは「減災の身体性」
めっちゃおもしろそう。


デザイナーの原研哉は、著書「デザインのデザイン」のなかで、「新奇なものをつくり出すだけが創造性ではない。見慣れたものの中に未知なるものを再発見できる感性も創造性である」と説いています。そこで、今年度のコモンズフェスタでは、「減災」の視点から、日常と非日常はいかに接続しうるのかについて着目します。
(中略)
M7.6の地震が起きた場合、それぞれ最大で、死者4万2000人、避難者550万人、帰宅困難者200万人、被害額74 兆円と見積もられています。これらを「想定の範囲内」として、日頃の「備え」を行う上では、わたしたちにどんな創造性が求められるのでしょうか?(公式ホームページより)


これを読んだだけで俺は、
創造性ってそういうことなんだ。
減災ってそういうことなんだ。
みたいに素朴な感動を覚えた。


原研哉は、無印良品のデザイナーのひとり。

無印良品もまた日常と非日常をつなぎ合わせるような「創造性」を持っている。
日常を鋭く見つめた先に、日用品のデザインはある。
だから、日用品を鋭く見つめたとき、そこには日常の意外な側面がある。


そう、日常には意外な側面がある。
そしてそれはやがて、非日常というかたちで俺に牙を剥く。
非日常は日常といかに接続しうるのか。と問うまでもなく当然の様に、この日常の先には非日常があるんだ。

メメントモリ。

って知ってる?
ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味らしい。
なるほど、
忘れるなと言われてはじめて思い出す。
あ、忘れてたごめん。みたいな感じで。

そう、俺っていつか死ぬよね。
生の先には死がある。



「地球が温暖化するよね」
「あ、忘れてたごめん」

「東海大地震が起こるよね」
「あ、忘れてたごめん」

みたいな会話で今はいいような気がするけど、ごめんで済むなら警察はいらない。そもそも地球温暖化を前にして警察は無力だけど。
つまり、死とか地震とかそういう非日常は、たやすく日常に埋もれてしまうのだろう。
それを乗り越えるためには、創造力が必要だ。

日常からちょっと足を伸ばして、上町台地に行ってみようかな。

って言っときながら
「昨日コモンズフェスタやったよね」
「あ、忘れてたごめん」
みたいになるのが俺のパターンだけれども。

2008年12月16日火曜日

Hauschka

ドイツのエレクトロニカ。

と聞いて何が真っ先に出てくるだろうか?

Kraftwerk?
Modeselektor?
Ulrich Schnauss?

俺はApparatを思い浮かべる。

Hauschkaもドイツ人。
ピアノの弦の上にいろんな物を置いて音色を変えた楽器「プリペアード・ピアノ」を使いこなす、生え際がちょい危ないおっさん。


これだけインターナショナルな世の中になっても、
その国の人にしか奏でられない音があるように感じるときがある。
ドイツの音は、何だか懐かしくて憂いを帯びている。
同じ敗戦国の日本人の音に似ているけれど、しかし高木正勝ともausとも違う。
ドイツのエレクトロニカがなんとなく好きだ。

ってでもここまで書いてふと思ったけど、
最初にエレクトロニカって書いたけど、
Hauschkaってエレクトロニカちゃうよね。
曲調はエレクトロニカっぽいけど、電子音じゃないもんね。


でも、負け惜しみみたいに言っとくと、分類することに意味はない。

電子音だとか生音だとか、
ドイツだとかイギリスだとか。
ハゲてるとかハゲてないとか。
俺もいずれハゲるけど。

と、Hauschkaの頭を見て思った。

2008年12月15日月曜日

CAPTCHAは死んだ。

CAPTCHAって知ってる?

CAPTCHA =
Completely Automated Public Turing Test to tell Computers and Humans Apart(コンピュータと人間を判別する完全自動化公開チューリングテスト)

なんか難しそう。

簡単に言うと、
何かのウェブサービスにアカウント登録をするときに出てくる、「上の画像に表示されている文字を入れてください」みたいな仕掛けのことらしい。

横線が入れられたり、ぐにゃっと曲げられたり、いろいろ加工された画像からからでも人間の視覚は瞬時に文字を判別できる。

さすが人間の目。
機械なんて目ではない。

と思っていたら。


スパム業者に組織的に悪用されるGmail、Yahoo、Hotmail
http://japan.zdnet.com/sp/feature/07zeroday/story/0,3800083088,20385305,00.htm

Gmail, Yahoo and Hotmail’s CAPTCHA broken by spammers (英語)
http://blogs.zdnet.com/security/?p=1418

後者の記事によると、
すでに実験によって
GmailのCAPTCHAを90%
Yahoo!のCAPTCHAを58%
HotmailのCAPTCHAを92%
の確率で突破するプログラムをつくることに成功したという。


機械を人間に似せようとするひとと
機械と人間を見分けようとするひとのいたちごっこは
実は単純に言うと、人間と人間の追いかけ合いにすぎない。
それは、まるで戦争だ。
機械は、人の欲望を感情を、ただ伝えるにすぎない。

たとえば憎しみはときに、銃弾という形で具現化し、ひとの命を奪う。銃が悪いのではなく、人が悪いのだ。という理論。
そんな言い訳には賛成できないが、
ともかくCAPTCHAを巡ってもまた熾烈な争いがあり、
果たしてCAPTCHAは死んだのだ。

それはつまり、どういうことか。

それは、大量のアカウントを機械的に生成できるということ。
実際、アカウントの叩き売りがされている。
例えば以下のサイトでは、1000アカウントが1000円以下で売られている。(1kは、1000という意味)



こんなに大量のメールアドレスを必要とするのは誰なのか。

ひとつしかない。

スパム業者だ。


匿名性の陰から迷惑メールを送りつづける。
人の心の隙をつく、
すきま風のように吹き込みお金をさらっていく、
そんな最強のスキマ産業、スパム業界。
それで成り立つ裏の経済が、確かにある。

世界は俺の知らないところで動いている。

2008年12月10日水曜日

Blur再結成

まじで!

というのが正直な感想。

http://www.nme.com/news/blur/41530

俺は、Blur派だ。
ときいて、「派」って何? ほかに何派があるんですか?と思った人に解説しておくと、
といっても解説がめんどくさいのでWikipediaからコピペしておくと、

カート・コバーンの死後、それまでアメリカ中心だった音楽シーンに反抗するかのように、国民誰もが本来のイギリスらしいロックの原点回帰を望んでいた中で登場し、脚光を浴びたブラーとオアシス。
機知と皮肉に溢れた歌詞に、どこか能天気でポップなサウンドが特徴な中流階級出身のブラーと、対照的に、荒々しくも疾走感があり壮大なメロディーを奏でる労働者階級出身のオアシス。両バンドにおけるこういった音楽性、階級の違いをマスメディアは大きく取り上げ、いつしか「ブリットポップ」なる言葉が誕生することとなった。
ブリットポップ - Wikipedia


ということでBlur派とOasis派がある。


ブリットポップはしかし、Blurのデーモン・アルバーンの「ブリットポップは死んだ」という言葉をもって終焉を迎えたとされている。ということで、そんな宣言をしたBlurはもはやブリットポップのバンドではなく、同じ土台でBlurとOasisを比較することに意味はないのだけれど、それでも上述のような歴史的経緯から、二者はいまだに対立している。

だって対立してたほうがおもしろいでしょ。

巨人阪神戦の無意味な盛り上がり。
布袋寅泰と町田康の殴り合い。
あのちっちゃな島は竹島なのか独島なのか。

すべてのいざこざはエンターテイメントだ。
ニュースは死ぬまでの暇つぶし。
ブリットポップも、OasisとBlurの対立も、例に漏れず、単なるつくられたエンターテイメントなのだ。と言いきってしまうのはさすがに虚しいと思うけれど、
とにかくBlurとOasisは対立していて、
とにかく俺はBlur派だという話。

なんでって、Blurの方が見ていて圧倒的におもしろい。
Blurの価値は、Oasisと対立しているということにあったわけではない。

Oasisは変わらないことで王道を行っているけれど、
Blurは、そしてデーモン・アルバーンは、変わることで王道を探して、でも惜しいところで見つからなくて。
その葛藤が、その、それでも変わろうとする勇気が、Oasisにはないものだと思う。

だからきっと、Blurの再結成は「元に戻る」という意味ではない。
いままでと同じように、
いままでと同じでないものを探していくのだろう。

2008年12月8日月曜日

KORG DS-10

これすげー。
めっちゃ欲しい。



デジタルなのにアナログな感じで、
アナログなのにデジタルな感じで。

人間と機械の間を埋めるのはなんなのだろう。

人間と人間の間にだって深い深い溝があるのに。

2008年12月7日日曜日

Python 3.0

mixiに日記を公開してみることにした。
でも、ITと音楽のマニアックなネタをマニアックに書いてるだけなので、コメントとかいいっすよ。
俺もコメント返さない派だし。


Python3.0が出た。

「誰にとっても明確な手法が,一つだけあることが好ましい(There should be one-- and preferably only one -- obvious way to do it.)」


というPythonの哲学をより鮮明に端的に表現している言語になった気がする。

しかし、すべての技術がそうであるように、Pythonもまた哲学のみで成り立っているわけではない。
それを支えるコミュニティや過去の遺産に裏打ちされて始めて、精神は実体になる。

特に、Pythonはプログラミング「言語」だ。
言語とはつまり、数の暴力である。
ハングルが世界で一番優れた文字だといって、では国連の公文書はすべてハングルにしましょう、と事務総長が意気揚々と宣言したところで、英語圏に返り討ちにされるだけだ。
ビル・ゲイツが、Vistaが出ました。買ってね。と意気揚々と宣言しても、みんなXPにしがみついて離れなかった、Microsoftにとっては悪夢のようなこの現状は記憶に新しいが、
それと同じことがPythonでも起こっている。変化に適応するという苦役を負わされるコミュニティの反発にあっている。

変化と保守。
それは当然、守っているほうが有利だ。
戦うのではなく守るのだ、という理論はしばしば、少年漫画の主人公がふるう暴力を正当化するために用いられる論理だが、それはつまり、タテマエ上でも守っていると言った方が世間体がいいということだ。
たとえば文化を守るとき、
既存の文化はアイデンティティという言葉で正当化され美化される。


住めば都という言葉がある。

これは、昔のひとが、
極度にネガティブな住まい、例えば、トイレ風呂共同、部屋にテレビがない、冷暖房も当然ないといったような部屋、これは俺が住んでいるところなのだが、そんな住まいに住まわなければならないという状況に直面したときに、
いやー、でもこういうのって心の問題だよね。ネガティブにとらえるからネガティブなだけで、ポジティブにとらえればそれはもうポジティブだよねー、
というポジティブシンキングというか負け惜しみというかを指して定義された言葉であり、なるほど質素節約を美徳とする今の日本社会では、ポジティブに受け入れられているが、

だがしかし。

それはある視点から見れば、精神の怠惰。
進歩をしようとする向上心を否定することによって得られる、背徳の快感。そんなものさえ暗示している。
というと言い過ぎかもしれないけれど。

しかし、ITという、時代の最先端をつっぱしる分野で、もう突っ走らなくてもいいんじゃない、という冷めた意見が出てくるのは、改めて考えてみると興味深いことだ。

Pythonはもう突っ走らなくてもいいんだろうか。
現代社会はもう進歩しなくてもいいんだろうか。

ここまできたらもう居心地がいいからと、テレビでモンティ・パイソンを見て刹那的に笑っていればそれでいいのだろうか。
もっともそんなことは、テレビを持たない俺には不可能なことだけれど。

そんなことを思いながら、
Python3.0を住めば都だと思うひとが増えることを祈っている。

2008年12月1日月曜日

Four Tet

Mum以来の衝撃。
エレクトロニカの未来がここにある。




あふれるテクノロジーの中にあって、
生音を奏でられる数少ないアーティストだと思う。

って書いて思ったけど、
生音ってなに?


生の音が何かを知るためには、
生じゃない音は何なのか知らなくてはいけない。

パソコンとか、スピーカーとか、
そういったものを一切介さない音を生音と呼ぶなら、
俺らが日常に耳にできる音楽のほとんどは生音ではない。
生音なんて、誰かの口笛くらいだろう。

でも少し別の視点から見てみると、
自分たちの耳に響くのは生の音しかない。
どんなデジタル信号も、空気の振動に変換されないと
ひとのこころには届かない。
そういう意味では、すべての音は生音だ。


デジタル時代の音楽は、
音とは何かを問いかけている。


Four Tetが鳴らす音は、
10年前なら生音ではなかった。
でも、今は日常に溢れる音だ。

上のYoutubeの動画を見たときに流れる音は生音ではないけれど、
スピーカーからこの曲を聴くとき、
きっと俺は普段自分の回りにある音を思い出す。

それはパソコンの起動音かもしれない。

黒板をひっかく音かもしれない。

「生だった」音を思い出すことで、
俺は生じゃない、冷凍保存された音を解凍している。
それは同時に、冷凍保存された思い出を解凍していることでもある。

生音とは何か、
音とは何か、
という問いに答えるとき、
俺は何を思い、
何を知るのだろう。

2008年11月11日火曜日

Save the Internet.com

Mobyが好きだ。
最先端な音楽が。なんとなく社会派な空気が。
そしてそのMobyが体を張ってボケているビデオを見つけた。

Net Neutrality:


ネットの中立性とはなにか。
これは、インターネットでやりとりされるデータが増えすぎて
回線がパンク寸前だという危機的状況があるから、
いっぱい回線をつかってるとこはいっぱいお金を払ってね。という、
法律をつくろうとしている通信会社の言い分に対する反対運動だ。

しかし、パンク寸前だという根拠はどこにもない。



いっぱい回線をつかってるとこ、とは具体的にはGoogleとかYahooとか。
そこに多額のお金が課せられれば、それは一般ユーザーにも波及する。
もはやYoutubeは無料でなくなるだろう。

ということをYoutubeで訴えているのが上のビデオっていうのは、
なんかおもしろいジョークな気がする。

アメリカのインターネットは、
AT&TとVerizon Communicationsの2社で寡占状態になっている。
そういう状況と、インターネットはもはや必要不可欠なインフラだということ。
それを利用する権利を差別化するのは、もはや基本的人権の侵害とか、
そういう小難しい問題になってくる。

ITと人権と。
インターネットと自由と。
それらが切っても切れない関係になってきたのはいつごろなのか。

しかし、インターネットの中で自由を謳歌することはできても、
自由を勝ち取ることはできない。
現実世界に飛び出さなくてはいけない。

と、ちょっと感じた一件だった。

2008年7月18日金曜日

遺体回収ボランティア

タイでは、遺体回収のボランティアがあるらしい。
仏教国の信仰のなせるわざだ。





日本なら、これってたぶん高給バイトになってるだろう。
俺らには、死者に対する敬意ってものがない。

それはそれで気軽だけど、

気軽なはずだけれど、

そういう敬意を持ってる文化を見たときに覚える劣等感はなんなんだろう。

がんばらない方が楽なのに、
がんばってる人を見てがんばりたくなるあの気持ちに似ている。

それはきっと、敬意を持ちたいから。
ひとを愛したいから。
そういうのが恥ずかしいから隠してしまう文化の中にいるけれど。

2008年7月4日金曜日

USインディー

インディーズはUSだ。

というのが、タワレコのDeath Cab for Cutieの紹介に書いてあった。
でも、それは真実だ。
インディーはアメリカだ。

というかむしろ、
アメリカはインディーだ。
と言った方が正しいのかもしれない。
アメリカはインディーズとヒップホップでもっている。

ロックはイギリス。
エレクトロニカは北欧。
クラブはフランス・ドイツ。

みんながアメリカに飽きている。
たぶんアメリカ人ですらアメリカのメジャーシーンに飽きている。
だからこそインディーズが強いんではないだろうか。


Death Cab for Cutie
Clap Your Hands, Say Yeah
Devendra Banhart
Svoy
...


アメリカのインディーズ、恐るべし。
というか、こういうのを「インディーズ」と呼べるアメリカ、恐るべし。

2008年6月29日日曜日

ビル・ゲイツ

ビル・ゲイツがMicrosoftを去る。
慈善活動に専念するからだという。

GoogleやAppleに苦戦している今、その戦いに身を投じられないことに物足りなさを感じないのか、というCNETの取材に対して、

This whole thing about which operating system somebody uses is a pretty silly thing versus issues involving starvation or death.(「飢餓や死に関する問題に比べれば、誰がどのOSを使うかなど取るに足らないことだ」)


と言ったのだという。

ほんとですか?
それだってとっても重要なことなはずなのに。


率直に言って、ビル・ゲイツがITを離れるのは、衝撃的だ。
ITの限界を自ら押し上げてきた男が、
「もーこれ以上むりでしょ、IT」
という方向転換に踏み切った。
ITでは飢餓や死が救えないという諦めが、
ビル・ゲイツにもあるのだという事実におののく。

その敗北感。

その絶望。


でもきっと、誰もがぶつかる壁がそこにある。
Googleも、Mozillaも、それぞれのやり方で世界を変えようとしている。
きっと、変わらない世界の現実に打ちのめされる日が来る。
その壁を、その現実を、ビル・ゲイツが乗り越えられなかったものを、乗り越える人物が現れなければ、IT業界はここが限界だ。

ビル・ゲイツを越えなくてはいけない。

2008年6月25日水曜日

ボリューム

音がちっちゃいな、
と思って音を上げた後、
下げるのを忘れてて別の曲を聴くと
音がでっかくてびっくりしてヘッドフォンを外す。

という経験はありませんか。
俺はしょっちゅう。

この場合、悪いのは、
音がちっちゃい方なのか、
音がでっかい方なのか。

俺の耳に直接的に被害を与えたのは
音量がでっかい曲の方だけれど、
その被害を増幅させたのは、
俺に音量を上げさせた音量ちっちゃい曲の方だ。


それは、善意に隠された悪意。

「あなたの耳を気遣っています」という風を装いながら、
しかし、そのあと俺の耳がどんな目に遭うか、
想像力を働かせることをしないという怠惰。

アメリカの食料援助によって、
戦後の日本のコメ農業がだんだんやせ細っていったように、
そうして俺の聴力はだんだんやせ細ってゆく。
僕のやさしさもだんだん齢をとる。


オートボリュームもうちょっと進化しないかな。

2008年6月23日月曜日

「株式会社」SCRAP

SCRAPが株式会社になった。

SCRAPとは。
京都の、ロボピッチャーが率いる、
ロックなフリーペーパーを生み出す団体だ。

HP:
http://www.scrapmagazine.com/


「団体だ」といったときに、それがなんなのかはわからない。
NPOってなに?
サークルとNGOの違いはなに?
そして、株式会社ってなに?

団体って何?という問いは、
人間って何?というに等しい。
漠然としてて答えが出ない。

はずなのに。

「株式会社です」と言われた瞬間に身構える俺。
あ、ノリが売りのフリーペーパーと思っていてすいません。
みたいな。

でも、株式会社だってノリで売っていいよね。
Googleだって、ノリが大事だ。
SCRAPもそうだろう。
どんな組織になっても、ノリを失っては生きてゆかれない。
どんな人間でも、ノリなしでは平凡な人生は退屈すぎる。

名前に惑わされてはいけない。
株式会社って言われただけですいませんって思って、すいません。
みたいな。

そんなことを、
人間って何?ということも含めて考えさせてくれた、
SCRAPの株式会社化。

SCRAPはやっぱりロックなことをするなと思う。

2008年6月22日日曜日

Sub Pop

The Shins say so long to Sub Pop


The ShinsがSub Popから離れるらしい。
なんで?
そんなにレーベルが合ってないわけではないのに。

でも、今はアーティストが流通形態を選ぶ時代だ。
さながら、農協の求心力が低下した日本の農産物流通のように、
多種多様な音楽の届け方がある。
RadioheadがIn Rainbowsでやったみたいに
革新的なかたちが、これからどんどん生まれてくるだろう。

そんなときにSub Popは、
過去の栄光にしがみついていては生き残れない。
Nirvanaはもういない。

違法コピーが蔓延する時代。
音楽業界なんて、ひとの良心で成り立っている。
反感を買うようなことをすれば、みんなお金を払わない。
Radioheadの音源を勝手にリリースしたEMIにファンは切れているように、
大衆を敵にまわすと痛い目をみるこの時代。

音楽業界が変わろうとしている。

2008年5月11日日曜日

Portishead

PortisheadのThirdを聴いた。

すごい。


としか言えない。
誰にも追いつけない音世界がそこにはある。
陰鬱さという点ではRadioheadと似ていても、
もっともっと深くて鋭い。
なんでこんな音を出せるのかな、と思う。
Portisheadにしても、Radioheadにしても、ベテランってもっと丸くならないんだろうか。
なんでこんな鋭いまま生きていけるのかな、と思う。

若手が萎縮する。

けど、こんなんで萎縮するなら、若手なんていなくていい。
若さはどうした?
青春の鬱屈した感情をどこに落としてきた?

若手がベテランに勝てるのは、
その感情の鋭さにおいてしかないのに、
そこで負けてたらどうしようもない。