2010年10月30日土曜日

わたしの長所

(注:この日記はフィクションです。実際の人物団体等とは一切関係ありません。)
(注2:最近町田康の本を買ってしまったので、影響を受けて俺の文章はいつも以上にシュールかつぐだぐだになってるけど、まじごめん。)


ひゅるりひゅるり、風が肌寒い。
ぶるりと身震いしてマフラーを巻き直す。
かじかむ指先を息であたためながら、俺は待っている。
もうすぐ、霧で霞む向こうからやってくる、
あれを待っている。


あれの名は、
シューカツ。


伝え聞くところによると、シューカツは、
身長3メートル、体重250キロ、
鋭い牙と爪をもつ獰猛な生き物で、
目が合ったが最後、
「あなたの長所はなんですか?」的な呪詛を投げ掛け、
「そそそそれは…」などと答えに詰まろうものならば、
嘲笑ののち激怒、「社会をなめるな!」と言葉の凶刃で相手をメッタ刺しにしてしまうというから恐ろしい。



こうした、人智を越えた脅威を、ひとは災害と呼ぶ。


しかし、人智を超えているからといって、人間は手をこまねいているばかりではない。
例えば、「地震雷火事親父」という典型的災害ランキングTOP4に
「親父」がランクインしていることは周知の事実だが、
この「親父」という人智を超えた現象に対して、
人類がいかに対処してきたかを思い起こしていただきたい。


親父がある日突然、「一番風呂は俺が入る」と言い出す。
理由などない。
人智を超えれば道理が引っ込む。
日常の因果など通用しないのが災害の常である。


ではこれに対して、家族はどうするかといえば、
始めは、笑い飛ばす、眉をしかめるなどの、微細かつ婉曲的な技法を用い、
それで効果がないとなれば、
母は、朝、きつね色に焼けた食パンを、あちち、とか言いながら親父の眼前に持っていくなり、すかさず「今日の朝刊に書いてたんだけど、世論調査の結果、87%の親父は二番風呂らしいわよ」とあることないことを耳元で囁くなどし、
子は、「親父の後に風呂に入るとかマンモスやだ」と喚きたて、更には家出、非行、銭湯通いといった実力行使すら辞さない。
そして通常、母子が結託してことに臨むことも珍しくはなく、
いくら人智を超えた親父といえども、そうした波状攻撃に堪えうる者は少ないだろう。


仮に、堪えた親父がいたとしよう。
しかし、長引く闘いで家族の絆は疲弊し、一方で憎悪は深い。
かつての団欒は影形なく、待っているのは当然の結末、
つまりは離婚である。



「ただいまー」
と、親父の声が暗い家に響く。けれど答えはない。
離婚してしばらく経つけれど、親父はつい、ただいまと言ってしまう。まるで、一人で暮らすには広すぎる家に、一人で暮らしているという事実を確認するみたいに。
でも寂しくなんかないもんね、と、親父は少し酔った頭で思う。
だって、狂おしいほどに欲していた、一番風呂がこの掌の中にあるのだから。
一番風呂に魂を売った、なんて言われても気にしない。
だってほら、こんなに遅く帰って来ても一番風呂を独り占めできるのに。
寂しいなんて、まさか、ね。



親父はネクタイを緩めて、空っぽの浴槽に湯が注がれる様を眺めるのが好きだ。
まるで、自分の虚ろな心まで満たされていくようだから。
蛇口から流れ出る湯に、これまでの人生を想う。
自分はこうして、誰かを満たすことのできる生き方をしてきただろうか。
と、たまらなくネガティブになりそうになって、はっと頭を振る。
だめだ。酔っているな。


湯船に浸かると、温かい幸せが体を包んだ。
なのに、どこか冷え冷えしているのは一体なぜだろう。
天井を見上げると、黒いカビが点々と散らばっている。
あ、あれは、と親父は昔のことを思い出す。

あれは、あの子がまだ幼稚園くらいだっただろうか、あの子はお風呂を嫌がって入ろうとせず、ぐずるあの子を風呂に入れるのは親父の役目だった。
いつも、やだやだ、と言いながら風呂に入るあの子だったけれど、あの日はどうしてか、はたと上の方を向いて、唖然としたように泣き止んだ。
「お父さん、お星さまがいっぱい」
と、あの子は天井を指差した。
「ああ、あれはね、お星さまじゃないよ、カビだよ」
と親父は答える。
カビってなあに、と、あの子はカビのことがよくわからない。
「カビっていうのは」
と親父が説明しようとすると、
「きれいだね」
とあの子が呟いた。
「きれい?」
「うん、お風呂にお空があるなんて知らなかった。お風呂って、いいところだね」
そう聞いて親父はくすりと笑う。
「いつもは入りたくないって言ってるのに?」
「だって…怖いんだもん。じゃあ、次から、お父さんが先に入ってお化けいないか見てくれる?」
「ああ、いいよ。それじゃあ、お父さんは一番風呂をいただくとしようかな」
親父はなるべく頼もしそうに答えてみる。
すると、
「イチバンブロ?」
と、あの子は首をかしげた。
親父は、ぽん、とひとつあの子の頭を叩き、こう答えた。

「それはね、先に風呂に入って、お化けがいないかみることだよ」


そうか、そうだったのか、と、親父は思い出した。
思い出してしまった。
自分が一番風呂に拘泥する理由を、
楽しかったあの頃を。

天井を見つめたまま、顔を動かすことができない。
見上げていないと涙がこぼれてしまいそうで。
「俺が欲しかったのは、本当に欲しかったのは…」
と言おうとして、親父は言葉を続けることができない。
ただただ嗚咽が漏れるばかりだった。

なんてこった、
本当に欲しかったのは、
一番風呂なんかじゃなかったのに。
俺は、俺は、なんてことをしてしまったんだ!




というかたちで、
確かに一番風呂こそ奪われてしまったものの、
まあ悪くても相討ちくらいには持ち込んだわけで、
人智を超えた親父と闘っていることを勘案すれば、
ほとんど母と子サイドの勝ちだとさえ言える。
ということで、
ともかくもこれは、人智が災害に勝利した瞬間である。


でもまあ親父の話はどうでもよくて、
シューカツの話がしたいんだった俺は。

そういう、およそシューカツというものは人智を超えていて、
人智を超えたものには備えが必要で、
だからちょっと自分の長所について考えてみよう、
といった主旨の話を、平たく言うと書こうと思ったんやけど、
なんかもうぐだぐだ過ぎて収集がつかないから
次回に改めることにしよっと。

タイトルと関係ないことばっか書いてごめん。
↓これを読むとみんなもこうなるよw

どつぼ超然どつぼ超然
町田 康

毎日新聞社 2010-10-15
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2010年10月26日火曜日

コメディとホラーの境目



この動画、
ガンダムの版権を持ってるサンライズからちゃんと許可を得て、
リンキンパークの所属レーベルであるWarner Musicの公式Youtubeチャンネルで公開されているという、
むだにすごい夢のコラボレーション。

あまりのしょーもなさに思わずブログに載せてみる。



いやー、キュートンまじ気持ち悪いな。
しんじ日記を読んで思ってしまった。
もはやホラーに見えた。


理解不能なものに対してひとはどう反応するかというと、
笑うか、
怖がるか、
どっちかじゃないかな。


キュートンはそのふたつの、
際どい境目を行っている。

笑っていいのかわからない。

あげくの果てには、
笑いってなんなのかわからなくなる。

他人を笑うことが、
いつどのような場合に許容されるのか、
思い悩んでしまう。

時として、
もはや笑うしかないくらい悩んでしまう。


コメディとホラーの境目はどこにあるのか、
まるでわからない。

まあ、こういうの嫌いじゃないよ。
いろんな意味で怖いけど。

2010年10月19日火曜日

自分用メモ

int acter = 2;
int times;
MyEclipse[] me = new MyEclipse[20];
MyEclipse[] win = new MyEclipse[100];
MyEclipse winner;
MyEclipse competer;

void setup()
{
  times=0;
  size(450,450);
  background(255);
  for(int i=0; i= 100){
    println("おわった!!");
    delay(1000);
    
    fill(255,255,255);
    for(int i = 0; i < acter; i++){
      me[i].display();
    }
    
    fill(100,100,230);
    for(int i = 0; i < times; i++){
      win[i].display();
      print("(" + win[i].getX() + "," + win[i].getY() + ")");
    }
  }else{
    print(times);
  
    int winnings=0;
    
    background(255);
    fill(255,255,255);
    for(int i = 0; i < acter; i++){
      me[i].display();    
    }
  
    fill(100,100,230);
    winner.display();
    competer.display();
  
    while(winnings < 700){
      int len_w = 0;
      int len_c = 0;
      for(int i = 0; i < acter; i++){
        len_w += (winner.getX() - me[i].getX())^2 
          + (winner.getY() - me[i].getY())^2;
        len_c += (competer.getX() - me[i].getX())^2 
        + (competer.getY() - me[i].getY())^2;
        len_w += sqrt(sq(winner.getX() - me[i].getX()) 
          + sq(winner.getY() - me[i].getY()));
        len_c += sqrt(sq(competer.getX() - me[i].getX()) 
        + sq(competer.getY() - me[i].getY()));
      }
      if(len_w < len_c){
        winnings++;
        competer.setX(random(450.));
        competer.setY(random(450.));
      }else{
        winnings = 0;
        winner.setX(competer.getX());
        winner.setY(competer.getY());
        competer.setX(random(450.));
        competer.setY(random(450.));
      }
    }
  
    win[times] = new MyEclipse(winner.getX(), winner.getY());
    print("(" + winner.getX() + "," + winner.getY() + ")");
  
  /** debug **
  delay(1000);
  background(255);
  win[times].display();
  */
  
    times++;
  }
}

class MyEclipse{
  private int x;
  private int y;
  
  MyEclipse(int x, int y){
    this.x = x;
    this.y = y;
  }
  
  MyEclipse(float x, float y){
    this.x = int(x);
    this.y = int(y);
  }
  
  public void setX(int x){
    this.x = x;
  }
  
  public void setY(int y){
    this.y = y;
  }
  
  public void setX(float x){
    this.x = int(x);
  }
  
  public void setY(float y){
    this.y = int(y);
  }
  
  public int getX(){
    return this.x;
  }
  
  public int getY(){
    return this.y;
  }
  
  public void display(){
    ellipse(x,y,10,10);
  }
}

ほぼ半年ぶりくらいにプログラミングした。
授業の課題を解くために。
しかし、この雑な感じ。。

そして、なんかイマイチうまく動かないのはなぜ?
processingはちょっと特殊だから、動きが掴みきれない。
デバッグするか、プログラミングをやめて手で解くか。
悩みどころ。どうしよう。


追記:
sqrtし忘れているという凡ミスだった。
うごいたー!
そんなにむずいプログラムじゃないけど、
久々なのでやっぱ達成感。

暇があればまたちゃんと勉強しようかな。

2010年10月16日土曜日

知ってる街の、知らないレイヤー

友達と待ち合わせていると、
横で路上生活者だと思われるおばあちゃんがいて、
一心不乱にハサミをチョキチョキしている。

雑誌とか広告チラシとかを器用に切って、
1cmほどの四角い紙片をたくさんつくっては、脇においたペットボトルに詰めていく。
もうすでに、1.5リットルのペットボトルが6本ほどいっぱいになっている。
なんでそんなことをするんやろ?と、気になる。


気になってどうするかというと、

多くの人通りのひとのように、
なにこのおばあちゃんこんなとこで意味わからんことやっててめっちゃ邪魔やな、
と思いながらスルーすることもできる。

あるいは、現代人にありがちな感じで、
となりでおばあちゃんがハサミちょきちょきしてるなう、
とかツイッターでつぶやいてみることもできる。

でも、なぜなのか、というもやっと感を解消するためには、
やっぱ直接聞くしかないかな。
でも、見知らぬ人に話しかけるの怖いな。
どうしようかな。


とか迷ってると、
おばあちゃんと目が合ってしまった。

そこで目を逸らせば、
おばあちゃんと目が合ったなう。
とかで終わったのかもしれないけど、
しかし迷っている人間の動作というのは鈍いもので、
すばやく目を逸らすことができない。

おばあちゃんの目が、なに?と言っている。

せっかくなので、ためらいつつ、
「これは何に使うんですか?」と聞いてみた。

すると、おばあちゃんは、
気さくに答えてくれて、
これは鍋敷きとかになるのよ、という。


鍋敷き??
あの紙吹雪みたいなのが鍋敷きになるの?


なんかおばあちゃんの説明は、
鍋になるとか鍋敷きになるとか、
俺にはあんまりよく分からなかったけど、
とにかく、あの紙を水とかでふやかして、
固めていろんなものにするらしい。

で、付け加えておばあちゃんは、
でも私が作るんじゃなくて、すごくうまい人がいるの。
みたいな感じのことを言った。

たぶん、こういう紙片を作品に変えてしまう、
職人的なひとがどこかにいるということで、
おそらくこのペットボトル一杯の紙吹雪を、
その人のところに持っていけば買ってくれるんだろう。
その金でこのおばあちゃんは生きているんだろう。


ひょえー。

と思った。
腰を抜かしそうに感心してしまった。
ぜんぜん知らない世界の話だったから。


俺が見えない価値を、
そのおばあちゃんの目は見ている。

俺が知らない世界を、
そのおばあちゃんは渡り歩いている。


「ゼロから始める都市型狩猟採集生活」という本に書いてあったように、
都市にはまだ多くの人が気付いていないレイヤーがある。
その言葉を、今日はじめて実感した。
知っている街の、知らない顔をほんの少しだけ見た。


でも、俺はまだぜんぜん知らない。
おばあちゃんの世界の楽しさも、
おばあちゃんの世界の苦悩も、
突然話しかけてきた見知らぬ人に、
こんな深い世界のことを教えてくれたのを、
どういう感謝のかたちで返せばいいのかも。

まるでわからない。




ありがとうございます、
と軽く会釈して俺はその場を去る。

おばあちゃんの姿が人混みに消えていく。
見えかけた景色が、
分厚い街の色に上塗られ、隠されていく。
気がつけばもう、
いつもの不透明な街に、俺は立っている。

悔しいな、と思った。

補足

酔って書いた文章とはいえ、
さっきの投稿はあまりに雑だったので、
ちょっと補足します。

今日なにがあったかというと、
俺は指導教官と別のゼミにも出てるんやけど、
そっちのゼミでの発表があった。

で、そのゼミの先生のコメントが、

「制度に穴があるとか、たぶんそれが原因っていうので終わりじゃない?
もうこれ以上掘り下げられなくない?」

という感じで、
ちょっとショックだった。

ていうのは、
別にその先生の言葉にぐさっときたとかじゃない。


「もうそれ以上なにもなくない?」
的なのは、割とよくある反応で、
指導教官も、前の発表で同じようなコメントをくれた。
だから、そういう反応には慣れている。

問題は、俺が、
いつまでたっても、
タイに3週間もいっても、
「いや、確かに何かあるんだ」と自信を持って言い返せないこと。
院に入って半年。焦りを覚えはじめる。

たぶん、「何か」が見えないのは、ひとえに、
俺の問題意識がぼんやりしているからなんじゃないかな。


平等ってどういうことなのかとか、
正義って何なのかとか、
そういう、今まで避けてきた根元に目を向けてみよう。
だって、
「何か」があると思うのは、
そこに、何か、見えない不正義のような、
ひっかかるものがあるから。
俺が何にひっかかっているのか、
自分の心に決着をつけないといけない。

だから、ソジャの本を読みます。
読めるかな。
日本語でも挫折したけど。

2010年10月15日金曜日

やっぱり避けては通れないのかな。

Seeking Spatial Justice (Globalization and Community)Seeking Spatial Justice (Globalization and Community)
Edward W. Soja

Univ of Minnesota Pr 2010-04-14
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今日ゼミ発表をして、
あまりに考えてることがぼんやりしてて、
やっぱりこの本読まなあかんかなー、と思った。

いややなー。
正義とか探したくなかったな。

とか言ってみるけど、
ちょっとこういう空間論的な、
フーコーみたいな、
難解なやつを避けては通れない気がしてきた。

とりあえずこの本注文しよう。
気が重いけど。

2010年10月12日火曜日

クォーターパウンダー

無性にチバユウスケの声が聴きたくなって、
Youtubeを巡っていると、
なんか面白い名前の曲があった。

で、観てみると、




「あのCMの曲は俺たちがつくったんだ」

!!!


まじで!!!
知らんかったー!!!
あのCMそうだったのか。。

いまさら衝撃的すぎる。
気付かなくてほんとごめんなさい。

2010年10月10日日曜日

白石隆「海の帝国―アジアをどう考えるか」

海の帝国―アジアをどう考えるか (中公新書)海の帝国―アジアをどう考えるか (中公新書)
白石 隆

中央公論新社 2000-09
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半世紀前まで「東南アジア(South-east Asia)」は存在しなかった。

かつて、「中国とその周辺(China and its vicinities)」でくくられていた地域は、
1949年の中華人民共和国の成立、1950年の朝鮮戦争を経て、
共産圏とそうでない地域を区別する必要があった西側によって、
概念的な切り離しが行なわれた。
そうして、ワシントンで「東南アジア」という言葉が使われるようになった。

初めて「東南アジア」が使ったのは、第二次世界大戦中の連合軍だったと言われているが、
それはあくまで、軍事戦略を語る便宜上使われただけで、
「東南アジア」が、まとまった地域であると認識されたのは、
冷戦のために他ならない。

そうして生まれたものであるから、
いきおい、「東南アジア」とは何なのかとらえどころがない。
この本は、そのとらえどころがないものを有機的にとらえようと試みている。


この本の内容は、難しくてあんまりうまく説明できないけど、
公式なことと非公式なことが重なり合うのを丁寧に説明している。
たとえば、

国家と国民は違う。国民が「想像の共同体」、つまり、人々の心のなかに想像されたものあるとすれば、国家は社会学的実態であり、教会、大学、企業等と同様、ひとつの制度、機構である。国家はそうした機構として独自のスタッフを持ち、スタッフは年齢、教育、性別などの規則に応じて機構に「入り」またやがてそこから「出て」いく。また国家は機構としてそれ独自の記憶と自己保存、自己増殖の衝動をもっている。

とあるように、
国家というオフィシャルな帝国と、
国民というアンオフィシャルな帝国とがある。
それが有機的に重なり、関連し合い、
今日の「東南アジア」をかたちづくっていく。
あるいは、解体していく。

筆者は、「国民」が国の安定に重要な要素だと見ている。
経済がうまくいっている時には顕在化しなかった重大な軋みが、
「国家」というシステムが弱くなると具現化する。
たとえば、アジア通貨危機後に起こった東ティモールの独立みたいに。


植民地時代に手に入れたり、失ったりしたアイデンティティが、
絵の具のように混ざり合って、
「東南アジア」の未来を描いていく。
国境線が引かれた世界地図のように動かない世界ではなくて、
もっとめまぐるしく呼吸する世界が見えてくる。

たぶんこの本の本題からはちょっとずれるんだろうけど、
俺はそういう感想を持った。
興味深い本だった。


ちなみに、上の引用に出てきた「想像の共同体」というのは、
ベネディクト・アンダーソンの著書で使われた言葉だ。
読もうと思いつつまだ読んでいない、ナショナリズム研究の名著。

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険2期4)定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険2期4)
ベネディクト・アンダーソン Benedict Anderson

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2010年10月6日水曜日

ぜい

こくぜいちょうさ、まだやってない。


やる気が起こらないのは、
名前の響きが悪いからやなきっと。
特に「ぜい」が響きが悪い。

税金の「ぜい」

贅肉の「ぜい」

マッキンゼーの「ぜい」

ぜいぜいぜい!

考えるだけで息切れしてきた。

なんと醜悪なサウンド。
なんと肺活量のない俺の脳みそ。


なんてね。
なんとなく息切れしたので、
息抜きに意味ないことを書いてみた笑

人生に深呼吸を、
調査には回答を。

さあ、ぱぱっと調査票埋めて寝よ。

2010年10月3日日曜日

長いトンネル

最近、前の指導教官の悪口を言わなくなった。

たぶん、半年経って、
ようやく忘れられつつあるのかなと思う。
嫌なこととか、
悔しかったこととか、
自分の持てる全てを注いで闘っていたこととか。

忘れるということは時に、死ぬほど難しい。
悪い記憶は、死なないと治らない病のようだから。

一生それから脱け出せないひとだっているし、
トラウマを背負いながら笑って強く生きてるひともいる。


俺の場合はそんな大げさじゃなかったけど、
単に自分の期待が外れただけだったけど、
一方的にとはいえ信じていた人に、
裏切られた経験は重たくのしかかる。


闘ってはいたつもりでも、
千葉まで来たのは逃げではなかったか、
という自問自答が、ふとした拍子に頭をかすめる。


でも、半年経ってようやく、
俺は消去法でなく、自分で選んでここにいるんだ、
と言えるようになった気がする。


たぶんそれは、タイに行って、研究がほぼ白紙になりそうなことと、
就活時期が迫ってること。

自分の根本を揺るがすような事態。
きっと、そういう不安があって、
はじめて俺は地に足が着いていられるんだ。


前期は、楽しすぎて、
不安がないことが不安だった。
どっかに落とし穴があるような気がして立ちすくんでいた。
でも今は違う。
目の前に不安があるという安心に、一休みしている。


俺はたぶん、これから長いトンネルに入ることになる。
前の指導教官という、暗すぎたトンネルを抜けて、
不安の中を再び歩むことになる。
今度は、自分で選んだトンネルを。


秋が終われば、もうすぐ寒い冬が来る。
俺の季節だ。負けない。