2011年1月29日土曜日

"How long must we sing this song?"




明日は1月30日、日曜日。

39年前の1月30日も、日曜日だった。

1972年1月30日、北アイルランドのデリーで、
丸腰のデモ隊にイギリス軍が発砲し、13人が死亡、13人が負傷した。
「血の日曜日事件」と呼ばれるできごとだ。
この事件を境目に、北アイルランド紛争は激化していき、
3500人以上が犠牲になった。

イギリス政府は「発砲は武装したデモ隊に向かって行なわれ自衛のためだった」と主張し、
軍の過失を否定し続けて来た。

その姿勢がようやく変わったのは、事件から38年後も経った去年。
「軍は丸腰の人々に無警告で発砲した」とする調査報告書が発表され、
キャメロン首相が、初めてイギリス政府として公式謝罪した。



その血の日曜日事件を題材に作られたのがこの曲。


北アイルランド紛争とか、俺は全然知らない。
でもなんか、この曲を聴くと時々泣きそうになる。

ぜんぜん感情移入する理由なんて、ないのに。



歌詞に、

"How long, how long must we sing this song?"

という部分があって、

ほんとに、いつまで同じようなことを繰り返してんねやろ。
世界の色んなとこで。



ちなみにこのライブの歌詞は、普段のより言葉が足されてて、

Sunday Bloody Sunday - U2 Lyrics from @U2
http://www.atu2.com/lyrics/songinfo.src?SID=525

に載っています。

いちばん最後、犠牲者の名前を読み上げて、

Too many!

って叫ぶボノ。

ほんと。多すぎる。

2011年1月27日木曜日

柳美里「ゴールドラッシュ」

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柳 美里

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最近、気持ちが重いことの原因の一つに、
柳美里をフォローしたことがある気がする。

つぶやきのいっこいっこが重い。
重いのはきっと、この世界観に共感できてしまうからなんだろう。

共感できなかったら、
目を逸らすこともできるかもしれない。

けれど、自分の中に、そのミニチュアの闇があるから、
たとえ急いで視線を外しても、
心に焼き付いた残像が消えることはない。

きっと、直視することでしか乗り越えられない。
そういうことが、生きてるといっぱいある。


直視する、というのがどういうことかわからないけど、
とりあえず柳美里の本を読んでみる。


「ゴールドラッシュ」は、1999年に書かれた小説。
裏表紙の筋書きには、
風俗店が並び立つ横浜黄金町。14歳の少年は、中学を登校拒否してドラッグに浸っている。父親は、自宅の地下に金塊を隠し持つパチンコ店経営者。別居中の母、知的障害を持つ兄、援助交際に溺れる姉など、家庭崩壊の中、何でも金で解決しようとする父に対し、少年が起した行動とは…。生きることはゲームだと思っていた少年が、信じるという心を取り戻すまでを描く感動的長編。

とかって書いてあるけど、
筋書きが意味を持つ本じゃない。
柳美里の世界観の中に放り出されて、呆然とするための本だ。

文章はけばけばしくて読み手を威嚇していて、
登場人物はこれでもかと不幸を山盛りにされ、
ただただグロい物語が、淡々と続いていく。
淡々と、理解を拒んでいる。

閉塞が未来を覆っている。



これはフィクションだけど、
きっと柳美里はこういう世界を生きているんだろうな。

そういう世界、なんか分かる。
分かる、だなんておこがましいけれど。
あんまり分からないけど。

その分からなさを、俺は分かりたい。

2011年1月25日火曜日

笑っていいのか、怒っていいのか。

こないだのBBCの話が自分の中でずっと尾を引いている。


22日朝日新聞朝刊には、山口さんの長女のコメントが載っている。

家族のなかでは二度の被爆を『運が悪い』と笑いながら話したことはあるが、むごい記憶や後遺症を乗り越えるために笑い話にしたのであり、人から笑われるのでは意味が違う。


誰なら笑っていいのか。

身内ならいい。
人から笑われるのはいやだ。

そんなの当たり前だ。

その当たり前さを、BBCの不謹慎さが侵した。
だから遺族は怒った。


でも、
誰なら怒っていいのか。

「原爆被爆国である日本の一員として許せない」
みたいなことを言って憤慨してる人がいっぱいいるけど、
それっていいの?


みたいな、なにげない論理の段差に、
たぶん思考停止しといた方がいいところに、
俺は、つまずいてしまった。




ここで、「原爆の悲惨さを知れ!」とかって、
それっぽい言葉で怒ることはできるのかもしれない。
俺は「被爆国である日本の一員」だから。

でもじゃあ、
被爆国に生まれて、被爆者に対して何か寄り添うことをしてきたかというと、
ぜんぜんそんなことなくて、
むしろ面倒くさいから他人のフリをしてきて、
原爆症認定訴訟があるのも知ってたけど、
あんまり興味がなくて。

二重被爆者の存在だって、
今回のことで初めて知って、



そんな、知らんぷりして来た人間が、
華麗に当事者に変身できるなんて、
俺は信じられない。


ネットにつぶやくだけなら、カンタン。


でも、どうせ怒ってるなんて演技で、
それで終わりなんでしょ?

Youtubeのコメント欄にはいっぱい書き込むけど、
「被爆者」ってぐぐることすらしないんでしょ?

原爆被害者の味方のフリして、
「分かります」とか言えばそれで、
ほんとに分かる努力なんてしなくていっか、
とか思ってるんでしょ?

知るのが面倒くさいから、
他人の知らなさを攻撃して、
自分のことを棚上げしたいんでしょ?



薄っぺらい、口先だけのそれを、
怒りなんて呼ばない。
呼んではいけない。


そういう俺も、
これをブログに書いて終わってしまうだけの薄っぺらい人間。
書けば書くほど全部自分に跳ね返ってくる。

やだこれ。
思考の、暗いループ。

グラミン銀行が取り調べを受けてる話

最近、小難しい話ばっかでごめんね。
もうちょいしょーもないブログを書きたい。。


グラミン銀行は、貧困層向けに低利子無担保の貸出を行なっている銀行。
2006年には、グラミン銀行とその総裁のムハマド・ユヌスがノーベル平和賞を受賞した。
いわばソーシャルビジネス界の英雄的な存在だ。


そのグラミン銀行が取り調べを受けていて、
ユヌスが辞任するとかしないとか、みたいな噂が、
年末にツイッターで流れてきた。

ニュース検索をしてみると、
辞任するというのは噓だけど、
取り調べを受けているのはほんとらしい。


きっかけは、2010年11月にノルウェーで放映されたドキュメンタリー番組で、
1996年にノルウェー政府が援助した金を、グラミン銀行が不正にグループ別会社に横流ししている、
と報じられたことだった。
(グラミングループには色んな企業があって、非営利目的のと営利目的のがある。
グラミン銀行は非営利で、横流し先だと言われたGrameen Kalyanは営利企業?)

↓ちなみに、ノルウェー政府は調査を行なった上で、これを否定している。
http://www.regjeringen.no/en/dep/ud/press/news/2010/report_grameen.html?id=627366


でも、これを受けてバングラデシュ政府はグラミン銀行の取り調べを始めた。
どうもその背景には、
ユヌス総裁の発言権を小さくしたいという、
ハシナ首相の政治的な狙いがあるらしい。

参考:
Bangladesh's Nobel winner Yunus in trouble at home(AFP)
http://www.google.com/hostednews/afp/article/ALeqM5hXWFZSQTM95PcX5u6mSz4nQAkHLg?docId=CNG.c3a333665f6dad754512adfdf748f478.2b1


2006年の10月、Bangladesh National Partyの内閣が任期満了になった。
その後、2007年1月に総選挙が行なわれるはずだったが、
Bangladesh National PartyとAwami Leagueという二つの政党間で激しい対立があり、
混乱のために延期される。

その2007年に、
ユヌスは「市民の力」みたいな名前の政党を作って選挙に参加しようとしたが、
うまくいかずに頓挫してしまう。

そして2008年末に行なわれた選挙で、
Awami Leagueが勝利し、シェイク・ハシナが首相に就任する。


ハシナ首相は、おそらくユヌスのことを快く思っていない。
ユヌスは、Bangladesh National PartyもAwami Leagueも、
汚職の政治を支えてきたとして批判していた。
「貧しい人の味方」がそんなこと言うと、影響力があって困る。
その影響力をなくしたい、というのが今回の狙い?

今がチャンスとばかりに、ハシナ首相は、
ユヌスは「sucking blood from the poor」だとか、強い言葉で批判している。




確かに、グラミンはいいとこばっかじゃなくて陰の面もあるみたいだけど、
今回のはなんか政治的な感じなのかな?
よくわからん。
バングラデシュに詳しい人、教えてください!!

2011年1月23日日曜日

BBCが原爆を笑いのネタにしたという話。

こんなことしてる場合じゃないけど。。
でもちゃんとまとめといた方がいいと思ったので書きます。




↓このブログに発言が訳されています。
http://blog.goo.ne.jp/mithrandir9/e/5d8249376ac2592288a873dcbf11e412


昨日ぐらいから、特にネットを中心にBBCのコメディー番組で、
二重被爆者である山口さんを笑いのネタにしたことに対し、
非難の声がたくさん上がっている。

でも、その中に、
元の映像を見た人がどれくらいいて、
しかもその英語が全部聞き取れて、
さらにはイギリスの笑いの文脈が分かってしまう、
というひとはどれくらいいるんだろう。


かくいう俺も、
元の映像を見ただけで、英語もイギリスの笑いもよくわからない。
けれど、笑いの文脈は世界で全然違うことはわかる。


BBCの番組は、
確かに山口さんを笑いのタネにしたけど、
山口さんのことを笑っていたんじゃない。
この微妙な、けれど重要な違いを見落としてはいけない。




ネット上に出回っている意見を並べると、

・まず前提として、山口さんのことを笑いの場で取り上げたのは不謹慎。それはダメ。
・もっと前提として、イギリスのジョークは超ブラックで、しかもその矛先はこういう微妙な事柄にも等しく向けられる。笑いの文化が日本とは違う。
・「lucky」「unlucky」のニュアンスは、カタカナ語の「ラッキー」「アンラッキー」みたいに軽いものじゃない。
・編集で入れられてる笑い声は不適切。
・回答者の回答も一部不適切(「the glass half empty or half full」の辺)
・でも、少なくとも司会者が山口さんを軽く扱っていることはない。回答者も、神妙にしゃべっている。
・「原爆の次の日も鉄道が動いていた」の辺で笑ったのは、よく止まるイギリスの鉄道のことを笑っていただけ。そこから後半盛り上がったのは、イギリスの鉄道という、別の話題で笑っていたのであって、山口さんを笑ったのでも日本を笑ったのでもない。(それでも、原爆に強い拒否感がある人にとっては、原爆という深刻な話題から軽い話題に移れるのが理解できないのかも知れない)

みたいな感じかなー。
言葉足らずな感じもありますが。。

まあ、詳細も、向こうの文化も知ろうとしないのに、
頭ごなしに批判するのはおかしいということ。
日本の被爆者の想いがこんなに知れていないのは、悔しいけど。


↓あと、いずれ消されると思うけど、それを報道したNHK映像はこれ。

2011年1月21日金曜日

昨日聞いた新聞業界の話メモ。

(これは、俺の不正確な知識、不正確な理解に基づく文章です。
あんま信じすぎないでね!)


大手新聞社の育成システムがどうなってるかというと、
入ってまずは、地方で警察担当をする。
そして、朝晩、警官の家の前に立って警官の出入りを待ち構える。
これは、「朝駆け」「夜回り」とかいって、
初めは話しかけても無視されるけど、それにめげずに話しかけているうちに、
だんだん信頼関係を築く、という訓練になっている。

そして、地方で取材のイロハを叩き込まれた後、
中央に戻ったり、どっか他のとこに行ったり、

みたいな道をたどる。



しかし、これが崩れかけている。
なんでって、地方のネットワークを維持するのは費用がかかる。
斜陽産業の新聞業界にとって、だんだんそれが辛くなってきた。


例えば毎日新聞は、
地方は地方紙に任せて、もっと大都市近郊での独自記事に集中する、
というパワーシフトを狙っている。

2010年4月には有力地方紙12紙と契約を結んでいる。
http://www.mainichi.co.jp/info/2010/04/news000753.html

朝日新聞も、
いままで地方でやっていた新人研修を、
都市の近くでやることに検討している。



こうやって、毎日新聞のように、
全国紙と地方紙の棲み分けができていくのかなあ。




話は変わって、アメリカでは、
ニューヨークタイムズとか、有名紙は新卒採用は行なっていない。
地方紙とかで優秀な成績を上げた記者が、有力紙にステップアップしていく。

それが如実に現れるのは例えば、ツイッターの扱い。
大リーグ報道担当の人が言ってたけど、
アメリカの記者は個人のツイッターアカウントですぐつぶやく。
日本の記者は、個人のツイッターでニュースをつぶやくことは禁止されている。
それは、アメリカはニュースが「記者の功績」になるのに対し日本は「新聞紙の功績」
になるという違いから来るのだと思われる。


話はちょっと戻って、
じゃあアメリカでは、地方で起こったニュース報道をどうするかというと、
「通信社」の配信が中心となる。
(参考:Wikipedia - 通信社#アメリカの通信社

という仕組みになっている。



つまり、アメリカの新聞業界では人材もニュースも流動的で、
人材育成から地方のニュースまで全てを一手に引き受ける、日本の大手紙とは仕組みが全然違う。
毎日新聞が変化しようとする方向には、
そういう、流動性が高くなるようなのがあるのかもしれない。

流動性が、新聞業界にまで押し寄せてるとは。
いいのか悪いのかわからないけど。

2011年1月16日日曜日

Actress

っていう、
Darren J Cunninghamという黒人男性のソロプロジェクト。
検索すると、同名のバンドもあるみたいだけど、別です。

トム・ヨークのプレイリストで見つけた。
ローファイでふわふわしてて、
聴くものを不安にさせる音。
こういう感じの、好き。





なんか初期のFlying Lotusっぽい。
↓こういうやつ。最近はもっと音が分厚くなってしまったけど。

古市 憲寿、本田 由紀「希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想」

希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)
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去年読んだ本。
時間がなくて感想が書けなかったけど、面白かった。


この本のキーフレーズは、
「若者をあきらめさせろ!」

ここで大事なのは、この本は、
若者に「あきらめろ」と言っているのではなくて、
社会に対して「若者をあきらめさせろ」と言っていること。

あきらめずに夢を掴む天才がいる一方で、
あきらめ切れないばかりに夢に身も心も削られてゆく凡人がいる、
そんな「あきらめさせない社会」の構造を問題としているのだ。



じゃああきらめるにはどうしたらいいかというと、
という話がこの本の核心。

それは、
コミュニティだと著者はいう。


コミュニティが、
現実と希望のギャップに苦しむ「希望難民」を吸収し、
やがてはその「希望」を冷却させる。


コミュニティには「目的性」と「共同性」がある。

 「共同性」と「目的性」というのは、この本の議論を整理するために用意した二つの軸だ。ここでもホネット(Honneth 2000=2005)を参考にしている。彼は様々な共同体理解を整理しながら、「共同体」には二つの前提があることを示した。一つ目は共同体に所属している人が相互評価の関係にある連帯関係にいあること、二つ目はその集団内で何かの価値が共有されていることである。そのままだと使いづらいので、それぞれを「共同性」と「目的性」という二つの軸に読み替えることにする。
 要するに、「共同性」とは「一緒にいる」とか「共同体の雰囲気に馴染んでいる」状態、「目的性」とは「何か特別の理念や政治的関心がある」程度の意味だと思ってもらえばいい。

つまり、コミュニティは、
何らかの目的のもとに人が集まって来て、
やがてみんな仲良くなってできる。

で、だんだん当初の目的を忘れて、
コミュニティで仲良くしていることの方が大事になる。

これを逆に言うと、
コミュニティで仲良くできれば、
当初の目的を忘れられる=「あきらめ」られる。

だから、夢をあきらめるためにはコミュニティが必要だ。

みたいなことを言っている。



その論理は若干荒いけど、
この本はピースボートを例に取り上げて、
「世界平和」と叫んでいた若者たちが3ヶ月の航海を経ていかに「あきらめ」たかを説明している。

その中身が面白かった。
ピースボートの成り立ちとか、
参加者がどんなひとかとか、
ポスター貼りをしてるうちに「ピースボート信者」になってることとか、
航海中でのいざこざとか、それを止めるための言論統制とか。

ピースボートを、知っているようでぜんぜん知らなかった。

なのに、知らないはずなのに、どこか知ってるようなストーリー。
学生団体の活動とか、すっぽりこれに当てはまるなー、と思った。
活動しながらもやっとしてたことが、ちょっとはっきりした気がする。

誰か、この本読んで語り合おうぜー!!




もちろん、「あきらめる」ことがいいのかは分からない。
あきらめて幸せになれるかと言えば、そうでもない。
それでは社会は何も変わらない。

でも、「あきらめる」という道をつくることが必要だという主張には、とても共感する。

あきらめられない社会は、
あきらめるしかない社会と同じくらいに有害だ。

「あきらめ」ということについて考えさせられた一冊。

2011年1月14日金曜日

ことばの宛先

ことばには宛先が必要だ、と思う。

古臭いと言われようと、
誰がなんと言おうと、
そう思う。

手紙のように、
届かなくたって、拒絶されたって、
ことばは宛先のあるベクトルだ。


なんでだろう、そう思ったのは。
年賀状の季節だからかな。


だから俺は、
つぶやきという、宛先のないことばのかたちがわからない。
で、ツイッターをちょっと休んでみる。

ツイッターでは、
つぶやきが、洪水のように流れていく。
言葉が、大量生産大量消費されてゆく。

ことばは、そこに込められた気持ちは、
どこへ向かうのだろう。


とか言って俺は、
伝わらないのをことばのせいにしたい。
自分への不信を、ことばへの不信にすり替えたい。

そんなことをするから余計に自分を信じられなくなるのに。


たぶん俺がつぶやきを憎く思うのは、
宛先なんてなくてもいいという気楽さが羨ましいんだろうな。

その気楽さが、信じられない。
気楽につぶやくくらいなら、
悶々と誰とも話さずにいたい。


なんていいつつ、寂しくなってつぶやいてしまうけど。

2011年1月6日木曜日

音楽用プログラミング言語

そういえば、年末にちょっとSuperColliderという言語を触ってみた。
SCは、音楽用のプログラミング言語。
オウテカとかが使ってるらしい。



まあとりあえずこの映像と同じことをしてみただけ。


Processingとつなげて、いろいろ面白いことができるみたい。





でも面白いことができるまでにはそうとう時間取られそう。。
とりあえず放置かな。
触ったことすら忘れそうなのでとりあえずメモ。

2011年1月5日水曜日

年賀状


あけましておめでとうございます。
年賀状、こんな絵でした。
うさぎが自販機で缶コーヒー買ってる衝撃的瞬間です。というのは嘘です。なんなんやろうね、この人差し指。自分で書いたのによく分からない(笑)。


そして、この場を借りてお詫びしておくと、
ことし年賀状を送れなかった全ての方々、まじごめん。
他意はありません。
単純に住所聞き忘れてました。。気がつくと今年でした。

来年こそは!