2011年3月29日火曜日

誰だ!



この曲シュールで好き。
誰だ誰だ?って問いつめるのが馬鹿馬鹿しくなる。


最近、原発関係のみんなの発言を見てて思うのは、
誰が悪いのかと、何が悪いのかを同時に問うのは難しいということ。

「社長出て来い! 首相出て来い! 責任をとれ!」
と言えば言うほど、情報は隠される。
だって責任取るのいややもんね。

かといって、
「責任は問わないから正しい情報を」
とか言ってしまうと、
責任を問わなくていいの?という話になる。


どっちもどっち。
全てを聞き出すことは出来ない。

でも、多くの人「誰だ!」に偏り過ぎてるように見える。
ほんとにそれでいいの?
何が悪いかには興味ないの?

2011年3月24日木曜日

補足:信頼するものって

昨日書いたのだと何を言いたいかよくわからず、
「放射能がどうとかごちゃごちゃ言わないで政府を信じようぜ!」みたいに見えるw
と思って、ちょっとだけ補足します。



データをいくら並べたって、
それだけで「信頼」につながるとは限らない。
「計算」しようと思えばいくらだってできて、
疑おうと思えばいくらでも疑える。

「信頼」するものって言うのは結局、
人の笑顔だったり涙だったりなんじゃないかな、と思った。

「信頼」はひとりでに生まれない。
きっと他人との関係性の中に育まれるもので、
だから、色んな人と話したり遊んだりしよう。
書を捨てなくてもいいよ、でも街に出よう。


なんていうことを昨日思ったんです。


政府とかマスコミがどんなに危ないって言っても、
農家から「ほんとがんばってつくってるんです!」って言われたら、
迷いつつも思わず食べてしまう、
そんな頭の悪い人間でいたいんです。

信じることは、
生きながらえることと同じくらい大切だから。



なんて言いつつ、
研究で俺が与えられるのは「計算」ばっかりだ。
たぶん仕事をしてもそうで…。

なんなんだろうなー。
ちょっと落ち着いたら、悶々としそう。

「信頼」と「計算」

チェルノブイリのことをまた何となく調べていて、
BBCの番組の動画を見つけた。

ちょっと調べてみたところ、
Cooking in the Danger Zone」という番組らしい。
日本語では「世界の食文化 食卓から社会が見える」という穏やかな名前になってるけどw
(ていうかこの映像の字幕、いろいろハショって訳し過ぎ…)




はじめは、なんかやだなーこのおっさん。と思った。
にやついて地元の人のことバカにして、出されたものをぜんぜん食べない。
「区域内のものは食べるなと言われているので」とか言って。

でも、にやけたおっさんは、
作られたスープをみんな美味しそうに食べてるのを見て、
思わずスプーンを手に取る。

汚染地域内で育てられた野菜に、汚染地域内の水。
どれほど汚染されているかもわからない危険なスープを、
おそらくはカメラマンの静止も振り切って、
彼は食べてしまうのだ。


なんだかよく分からないけど、
心温まった。


理性と制止を振り切って、リスクを食べることを選べる彼と、
「政府がちゃんと分かりやすく安心と言ってくれないと食べれない」と言ってる日本の人。
この落差はなんなのかなーと思った。


で、ふと柳美里のツイートを思い出した。



地震があって以来、
みんな色んなことを気にしてる。

数字が基準を上回ってるか上回ってないかとか、
放射性物質は風でどっちに流れるとか、
科学的に見て危険か危険じゃないかとか。

それは「計算」だ。


「計算」はもちろん、人が生きるために大切だけど、
「信頼」とはあんまり関係ない気がする。


信頼には、相手がどうかなんて関係ない。

裏切るか裏切らないか、
基準以上か以下か、
安全か安全じゃないか、
そんなのは相手の問題であって、
自分が信頼するかしないかには関係ない。

その結果、自分が死ぬことになったとしても、関係ない。
「信頼」は結果に汚されない。
どんな結果になってもいい、と思えるのが「信頼」だ。


たぶん、俺が心温まったのは、
レポーターの彼と料理を作ったおばあさんの間に「信頼」が生まれたからだ。

汚染がどうかとか、プロデューサーから怒られないかとか、
そんな「計算」に終始していた(ように見えた)彼が、
危険を顧みずに「信頼」することを選んだからだ。

その心変わりの潔さに、俺はほっこりしたのだと思う。


「計算」は命を守るためにするけれど、
「信頼」は、信じることそのものが目的だ。
信じることは、時に命よりも尊い。
特に、今みたいに信じられるものがないときは。


暗闇が広がってる今だからこそ、
暗闇にジャンプする勇気が欲しい。



↓観たい人は、さっきの動画の前後。違法アップロードのを載せて良いかためらいつつ…。




最後の、ウォッカのくだりに思わず笑った。

カザフに行く時、向こうの人は、
風邪を引くとウォッカ+コショウ、
下痢になるとウォッカ+塩、
というように「とりあえずウォッカ飲んどけば大丈夫!」みたいな感じだと聞いたけど、ほんまやなーと思ってw

2011年3月19日土曜日

リクビダートル

注:
福島原発と結びつける気はないです。
福島原発はチェルノブイリにはならない。
でも、観るとなんだかんだ暗い気持ちになる映像なので、今は観ない方がいいかも。。




チェルノブイリとか言ってるのを聞いてて、
なんとなく思い出した単語。
自分用メモ。

2011年3月17日木曜日

日常

地震が起こって考えたこと。
今すぐには役に立たないこと。
メモっときます。


自然にやっていたことが、
意識してやるとできなくなることがある。


自分は普段どう話してたのか、
どう笑っていたのか、
家に帰って靴を脱ぐのは右が先か左が先か、
ごはんは最低何回噛んでから飲み込むか、
それはどのへんの歯で噛むか、奥か手前か、右か左か。


改まって聞かれると思い出せなくない?
そつなくこなせていたことが、力むとぎこちなくなり、失敗する。
日常はこんなにも複雑な手順のかたまりで、
それをひとつひとつ、ぎっちりと、身にまとっていたことを思い知らされる。

こんなにも俺は日常を演じていたのか、と思った。




地震が起こって、

「被災地以外のひとは、いつも通り過ごしましょう。
いつも通りに仕事をして、食べて、遊んで。
日常を保ちましょう」

みたいなことを言われる。

あるべき場所で、あるべき役割を演じる。
それって、まるで演劇じゃない?


でもこれは簡単なことじゃない。

(高校時代の話なのであんまり覚えてないけど、)
舞台の上に立つと、
山のような「あれ、これってどうだっけ?」に襲われる。
どうやってやるか考えたこともない動作は、
考えてやってもなかなかできない。


何もない空間に、「いつも」をかたちづくる。
それは、過酷な作業だ。
考えてもなかなかないできないものばっかりで、
日常は成り立っている。

それを、ひとつひとつ丁寧に着直して、
やっと日常をよそおうことができる。

そんなに簡単じゃない。
でも、きっとみんな、こんな複雑なこともやってのけて、
また考えなくても日常がかたちづくれるようになるんだろうな。



演じることと、日常と。
そんなことをふらふら考えてる。
まとまらないけど。とりあえずメモ。

2011年3月8日火曜日

日本の人身売買



この動画、ずいぶん前に見たことあったけど、
なんなんだろうと思ってた。

MTV EXIT(End Exploitation and Trafficking)という人身売買防止キャンペーンの動画らしい。

MTV EXITとは、人身取引に関しての認知を広め、防止・予防を促すキャンペーンです。
私たちは普段、どこに住むか、どこで働くか、誰と友達になるか、そして誰を愛するのかということを自由を当然のように享受しています。しかし、世界中の何百何千もの人たちがこの基本的人権を奪われています。彼らは現代版の奴隷制度といえる、人身取引の犠牲者なのです。そして犯罪者たちは、だまし、脅迫して彼らにさまざまな重労働及び売春を強制しています。
国連によると、人身取引とは「強制・詐欺・脅し・偽装して性的・経済的搾取のために、人を雇い、移動させ、受け取ることにより、利益を享受すること」と定義されています。推定では世界中で250万の人身取引の被害者がいるとされ、その被害者の大半がアジア太平洋地域にいるとされています。人身取引は麻薬取引についで世界で2番目に大きな不法取引で、人を買い、売ることで、人身取引業者は年間100億米ドル(約1兆2000億円)を稼いでいるといわれています。
MTV EXITキャンペーンでは、現代の奴隷制ともいえる悲劇的な人身取引の撲滅を目的とし、番組やホームページ、イベントを通じ、人身取引の一般的な情報と、何故それが起こるのか、誰が被害にあっているのか、取引業者の手口、被害者の実情、私たちに出来ること、などを伝えていきます。
MTV EXITホームページ


人身売買、でぐぐってるうちにここに行き着いた。
で、あ、あの動画!と思って、思わずブログを書いている。

なんでそんなのをぐぐってたかというと、
こないだふと、海外の売春被害とかのことを話した時に、
「日本のセックスワーカーは自ら選んでその仕事をしてるから仕方ないけど」
みたいなことばがでてきて、んっ?、と引っかかったこと。


そういうの俺ぜんぜん詳しくないけど、
日本の人身売買って意外と深刻だ、みたいな話を聞いたことがある。
結局、ネット上にあんまりまとまった情報がなくてよくわからない。
意図的に隠してるんじゃないかなってくらい。

そうやって、情報が出て来ないことがとても問題な気がしている。

なんか一時期盛り上がっていた児童ポルノ規制の話は、
表現の自由がどうとかいう話にのみ論点が集まって、
規制することは、手段であって目的じゃないのに、
そもそも出発点のはずの、
人身売買とか売春の被害者をどう減らすか、みたいな話はどこにいったの?

いつの間にか広まりかけていた、
日本は人身売買防止後進国だ、という認識が遠のいている気がする。
そういう情報が、ぜんぜん届いて来ない。


いや、俺そんな、偉そうに言える立場ではぜんぜんないけどさ。
ほとんど知らないし。何もしてないし。。

日本の人身売買のこと、
詳しくわかるのがあれば教えてください。

鼻濁音

(こないだつぶやいたことをまとめただけで、内容に発展はないです。)


鼻濁音ってわかる?
「が」じゃなくて「んが」みたいに発音するやつ。

文頭以外の「がぎぐげご」が鼻濁音になるのは、
関東の方言なのか、少なくとも関西弁にはない音らしい。
こないだの稽古では、鼻濁音ぜんぜんできてない!って言われたけど、
そこまで修正すべきものなのかちょっと考えた。

そういう、あいうえおの50音では表せない音が色々あって、
例えば関西弁だと、「声」というのを、
若者は「こえ(_ ̄)」と発音するけど、
老人は「こえぇ(_ ̄\)」のように発音する。
(だいぶ前にNHKの番組で見た。うろ覚え)

俺の耳には聞き分けられない音がある。
その発音の違いは実用上はどうでもいい。
でも、そうやって、その地域の人しか聞き取れない音が練り込まれていることで、
同じ地域の人を識別する役割がある気がする。
文法的には問題なく話せるけどイントネーションはカタコトな外国人を「日本人」と見れないこととか。

けれど色んな地域が混ざった今では、もうその機能は果たされなくなってきている。
前述の「声」の音の違いが聞こえる人なんてほとんどいない。
鼻濁音だって、関東出身でも聞き取れないひとが増えて来ている。


言語が、通じればいい、というものだとすれば、
そういう音を付加する必要はない。
そして、標準語とはまさに、通じればいい、という言語のはずだ。

なのに、一部の人しか聞き取れない鼻濁音を矯正される。
ちなみに、標準語のメッカ、NHKでは、鼻濁音じゃなくてもよくなった。
(ちなみにNHKでは標準語ではなくて「共通語」と言う。)
そういう差異が、だんだん許容されるようになってきたのか。
単に差異が聞こえなくなって無視されるだけなのか。

うーん、だから、どこまで矯正すべきか悩むんです。
でも、演劇でしゃべる言葉は、通じればいいというものじゃない。
イントネーションや、間、表情、どっちを向いて喋るかまで含めて、台詞になる。
とりあえず出来るようになってから悩まないとね!
これからも夜の帰り道で「んがんぎんぐんげんご」を練習しますw

ピアノ炎上




山下洋輔がピアノを燃やしてる動画。

こういうの好き!
ここまでしなくても、みたいな挑発的な感じがw

何がずれているのか、何が過剰なのか。
その感覚がきっと大事。