ラベル グローバリゼーション の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル グローバリゼーション の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016年10月20日木曜日

小川さやか「「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済」

「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済 (光文社新書)
小川 さやか
光文社 (2016-07-14)
売り上げランキング: 5,986

この本おもしろかった。Living for Todayという切り口で、ピダハンからはじまって2章以降はタンザニアのインフォーマル経済に焦点を当てている。本筋とずれたところでちょっとだけメモ。(経済学よくわからないままに書いたので話半分くらいに読んでもらえれば)

2012年1月28日土曜日

【追記】Twitterが検閲されるという話

昨日の、Twitterが検閲されるという話はちょっとわかりにくかったと思うので補足。
何が言いたかったかというと、

メディアが検閲だ検閲だと騒いでるけど、
要は、ツイートの削除要請が来たら、
いままでは「完全に削除」してたのが、
「その国からのみ見えなくなる」に変わるだけじゃない?
そんな騒ぐほどでもないやん。

っていう話でした。
↓ここの解説がわかりやすい。

What Does Twitter’s Country-by-Country Takedown System Mean for Freedom of Expression? | Electronic Frontier Foundation -  https://www.eff.org/deeplinks/2012/01/what-does-twitter%E2%80%99s-country-country-takedown-system-mean-freedom-expression


あと、ネット上のコンテンツ削除がどういうことかという一般的な話だと、
「グーグル八分」の事例が参考になると思います。

2012年1月27日金曜日

Twitterが検閲されるという話

(※追記も合わせて読んでください)

BBCのアカウントから、物騒な見出しのニュースが流れてきた。




ツイッターが検閲されるようになるという。
↓ええっ、と思って元のアナウンスメントを見てみた。(訳は適当です。)

Tweets still must flow
http://blog.twitter.com/2012/01/tweets-still-must-flow.html

As we continue to grow internationally, we will enter countries that have different ideas about the contours of freedom of expression. Some differ so much from our ideas that we will not be able to exist there. Others are similar but, for historical or cultural reasons, restrict certain types of content, such as France or Germany, which ban pro-Nazi content.
 いろんな国で使われるようになると、中には「表現の自由」の概念が異なる国もある。
たとえば、フランスやドイツではナチスに肯定的なコンテンツは禁止されている。

みたいなことが書いてある。


Until now, the only way we could take account of those countries’ limits was to remove content globally. Starting today, we give ourselves the ability to reactively withhold content from users in a specific country — while keeping it available in the rest of the world. We have also built in a way to communicate transparently to users when content is withheld, and why.
これまで、そうした国の制約に対応するには、全世界的にコンテンツを削除するしかなかった。
今日からは、特定の国だけにコンテンツを見えなくできる(他の国のユーザーには見える)ようになった。
また、コンテンツがこの機能の対象となったときは、その理由とともに知ることができるようにする。

みたいな感じ? withholdがうまく訳せません。。


We haven’t yet used this ability, but if and when we are required to withhold a Tweet in a specific country, we will attempt to let the user know, and we will clearly mark when the content has been withheld. As part of that transparency, we’ve expanded our partnership with Chilling Effects to share this new page, http://chillingeffects.org/twitter, which makes it easier to find notices related to Twitter.
まだこの機能は使われていないが、もしツイートを検閲するときはユーザーに知らせるようにし、いつから見えなくなったかはっきり示す。
透明性確保策のひとつとして、Chilling effectsとの連携を強化する。

みたいなことが書いてある。
Chilling effectsは、オンラインの表現の自由を法律面から支えるサイト(?)。
有名なとこだと、グーグル八分に遭うとここに削除依頼が載せられたりする。
ツイッターもたぶん、削除依頼がくるとここに載せられるようになる。



There’s more information in our Help pages, both on our Policy and about Your Account Settings.
ということで、Policyのページを見てみる。



ツイートが検閲対象となったときは、以下のような表示になるらしい。


で、上に書いたように、
検閲は国ごとに行われるわけですが、
その「国」をどうやって判断するかというと
We use the IP address from which you are viewing Twitter to determine your country. For more information, please see the Country Setting support article.
てことで、 IPアドレスから判断しているので、
ツイッター公式ページにアクセスすると見えないけど、
別のサイト(モバツイとか)を通したら見える、
みたいな感じだと思われる。たぶんね。



しかし、さらっと書いてある、
Until now, the only way we could take account of those countries’ limits was to remove content globally.
というのが気になる。
これまでどれくらいが削除されてきたんだろう。

2012年1月22日日曜日

Appleの児童労働のこととかのメモ

アップルの児童労働に関する話が流れてきて、ちょっと調べたことのメモ。
(注:リンク先あんまりちゃんと読んでません)


まず、「Apple Child labor」でぐぐると、ちょうど1年前くらいの記事がいっぱいでてくる。

↓たとえばこれはテレグラフの記事。
Apple's child labour issues worsen
http://www.telegraph.co.uk/technology/apple/8324867/Apples-child-labour-issues-worsen.html

なんで1年前の記事が多いかというと、アップルの2010年度「Supplier Responsibility report」が出たかららしい。
その中で、アップルの下請けの児童労働の問題を、アップル自身が糾弾しているという。

これを「下請けにまで責任を持つなんて、さすがアップル!」と言うか、
「え? 今までNGOとかに言われて来なかったの?」と思うかは人によると思う。
↓そのへんについて、記事の一部が参考になる。
Apple is the only major technology company to audit its supply chain and publish the results. Of the suppliers that Apple visited last year “more than 40pc stated that Apple was the first company ever to have audited their facility for social responsibility compliance,” it said.
However, it does not name individual suppliers, which makes it impossible for outside scrutiny of the firms involved. By contrast, Dell and HP both publish lists of who they buy their components from.

HPとかDellは、下請けの名前リストを公開しているらしい。でも自社で下請けの監査はしてない。コンプライアンスは外部任せ、という感じ。
アップルは、下請けの名前リストを公開しない。でもサプライチェーンを監査して公開している。内部でしっかりやる代わりに、外部チェックは拒否する感じ。(最近変化あり。追記参照)

とにかく、一年前の記事は、アップルの問題をアップル自身が糾弾する、という構造になっている。



一方、今年のニュースもないのかなと思って検索すると結構出てきた。

↓これはガーディアンの記事。
China's Foxconn workers: from suicide threats to a trade union?
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2012/jan/16/foxconn-suicide-china-society

これはアップルに関する記事じゃないけど、
iPhoneとかの部品を作ってるFoxconnという企業についての記事。
工場労働者によるストライキが起こっているらしい。
もちろん、日本企業の下請け工場でも。

アップルのいい独裁に期待するんじゃなくて、
労働者自身がちゃんと声を挙げられるようになってきてるのかな。
なってきてるんだといいな。


追記:
アップルは下請けの名前を公開し、第三者の監査も受けるようにしたらしい。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1201/16/news027.html

まさか、秘密主義のアップルにこんなことができると思わなかった。
これが実際の下請けの改善につながってるのかまだ分からないけど、
ちゃんと改善されていくんだな、と希望を持てる結果にほっとした。

2011年5月4日水曜日

"Justice has been done."

オサマ・ビンラディンが殺害されてオバマ大統領が言ったこの言葉に、
違和感を感じてる人が多い。

俺はでも、同じくらいにやなせたかしの「正義」に納得できない。
納得できないけど、そのアブノーマルさが好きだ。

Justiceの語感がよくわからないので、
日本語の「正義」と一緒に論じていいのかよくわからないけど。



やなせたかし氏 日本人の正義とは困った人にパン差し出すこと
http://www.excite.co.jp/News/column_g/20110503/Postseven_18844.html



戦時中の飢えに苦しんだ記憶から、
正義とは飢えている人に食べ物を差し出すことだ、
という結論を導きだしたらしい。


やなせたかしは、なぜ、
正義は相対的なものであると気付きながら、
それでも絶対的な正義があると信じられるのだろう。

自分の過酷な体験から導きだされた、個人的な正義を、
なぜ、誰にとっても「正義」だと断言できるのだろう。

例えば、アメリカの食料援助でその国の農業がやせ細っていく事実を知っても、
食べ物を差し出すことがどんなときでも正義だと、断言できるのか。



俺にはぜんぜん理解できない。
でもまあ、そんなに悪いとも思わない。

やなせたかしが言う「正義」は、
自分の負の体験を極限まで積分してつくられたもので、
サンデルの「これからの正義」みたいな普遍的な正義とは正反対だ。
もっと個人的で、本来は他人には共感されないはずの、
歪みきった感情のことを俺たちは「正義」と呼んでる気がしてきた。

そのアブノーマルさを認識した上での「正義」なら、
まあいいんじゃない、と思う。


なんかよくわかんないけど、端的に言うと、
正義って、復讐なんじゃないかと思う。


個人的なトラウマとか、憎しみとか後悔とか、
そういう心の傷から生まれた反動が、「正義」なんじゃないか。
だから、正義には必然的に復讐が伴うんじゃないか。
というより、正義とは復讐そのものなんじゃないか。

だから、今回の復讐をもって、
Justice has been done.なんて言えてしまうんじゃないか。


とか、そういうことを考えてしまった。


グラウンド・ゼロのお祭り騒ぎを見て、人が死んで喜ぶなんておかしいよ、
と言ってる人がいる。
俺もそう思う。

でも、これで復讐から解放されるのだとしたら、
まあ祝っていいんじゃない。
ぜんぜん賛成できないけど、その「正義」をまるで理解できないけど、
祝いたくなる気持ちはわかる。
復讐して残るのが虚しさだけだとしても。



何を書いてるかだんだん分からなくなる。
俺にとって正義とは何なんだろう。
どんな復讐をしたいんだろう。

2011年2月27日日曜日

ハーフ




「単一民族国家」だという幻想が信じられていた(いる?)日本で、
多国籍、多民族の人間がどのように生きているのか、
みたいなドキュメンタリー。

めっちゃ面白そう!
2011年末に完成を目指してるらしい。

公式ホームページ:
http://www.hafufilm.com/



ところでこのへんはいろいろ難しくて、

「あなたは何人ですか?」と聞かれたら、
よどみなく「日本人」と答えられるけど、

「あなたは何民族ですか?」と聞かれると、
へっ?とか思ってしまう。

「民族紛争」とか「多民族国家」とか、
「民族」という言葉は聞き慣れているのに、
日本には関係ない、他人事だと思ってる自分がいる。
そういえばアイヌ民族とかあったっけな、くらいの感覚。
ずるいやんな、そういうの。

ちゃんと考えないと、と思いつつ、
いつも忘れてしまう。


↓この本になんか詳しく書いてあった記憶がある。もっかい読んでみよう。

民族とネイション―ナショナリズムという難問 (岩波新書)民族とネイション―ナショナリズムという難問 (岩波新書)
塩川 伸明

岩波書店 2008-11-20
売り上げランキング : 87417

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

2010年12月22日水曜日

平田オリザに対する批判まとめ

「まとめ」とか大層なことを書いたけど、
まとめ切れない。

平田オリザは、「青年団」を主宰する演出家、劇作家。

2009年10月に鳩山内閣で内閣官房参与となって以来、
ほんとにいろんな批判があると思う。
けっこう的を得たものから、
虚実ないまぜになったものまで。

つまりは目立ちすぎたんだな、と思う。


「平田オリザ」がアイコン化している。
まるで何かの象徴のように崇拝され、攻撃され、
焦点を結ばない虚像だけが膨張して、
批判のつぶてに打たれるだけのサンドバッグになっている。


高校の頃から平田オリザのファンな俺としては、
それは「平田オリザ」の虚像であって、
ほんとうの平田オリザではないと思う。

思うけれど、

「こんな批判なんて整理する価値もない」
と思うけれど、

それでも、直視しなくてはいけないものがある気がする。
たぶん、俺が目を背けたいのは、
俺への批判だから。



平田オリザへの批判は、主に2つに分けられる。
1)いわゆる「劇場法」への提言について
2)俗に言う「日本解体法案」について

ちなみに、平田は、
鳩山内閣では主に文化行政を担当し、
菅内閣では、国際交流を担当している。
上のうち、1)は鳩山内閣時代のもので、
2)は菅内閣時代の話だ。



1)いわゆる「劇場法」への提言について
これは、演劇関係者の事実誤認によるものが大きいと思われるが、
朝日新聞大阪本社版2010年3月19日付夕刊の、「劇場法」に関する平田の記事を読んで、
「劇団への助成をなくして、すべてを劇場へと振り向ける」のだという誤解が生じ、
様々な批判が飛んだ。

平田は後日、
劇団への助成はそのままで、劇場への助成を増やしていく、という意図だったと釈明する。

繰り返しになりますが、劇団関係者にご理解いただきたいのは、一部報道されているように、「劇団への助成を減らして、劇場への助成を増やす」といったパイの取り合いを目指しているのではないという点です。ただし、全体で見れば、演劇制作の主体は、すでに劇団から劇場に移りつつあり、この流れは世界の演劇の潮流からいっても、間違った方向ではないと思います。このことについての私の発言が、誤解を呼ぶ元になっているとすれば、説明不足をお詫びするしかありません。

(http://www.seinendan.org/jpn/oriza/msg/index2.html?)

と釈明しているが、
説明不足なのは否めないし、
「平田オリザが抱える青年団は劇場付きの劇団だから、
劇場をもってない劇団のことなんてどうでもいいんだ」
と思われても仕方がない。


個人的には、
平田オリザが言ってるのはかなり的を得ていると思う。
たとえ劇団への助成が減ったとしても、
劇場への助成が増えさえすればそれでいいと思う。
劇場を、単なる「ハコ」ではなくて、血の通った「場所」にしなくてはいけない。

だって例えば、東京芸術劇場に野田秀樹が来て面白くなったでしょ?


でも、平田が提案していることは、
自分(青年団)に都合が良すぎる。
こういうことはもっと中立的な人間が提言すべきだった。

もちろん、そんな人間がいないから、
平田が矢面に立たされているのだけれど。




2)俗に言う「日本解体法案」について
これは、あんまり深く説明するのはめんどくさいけど、
外国人参政権、夫婦別姓、人権擁護委員会、とかそういう辺を右翼の人が、
「日本解体法案」とかって呼んでいるらしい。


その中でも、平田オリザが関係するのは、外国人参政権だ。
講演で、在日韓国・朝鮮人への参政権付与について言及するなど、
外国人参政権に賛成の立場を取っている。

たしかに、「対話」が重要だという平田の理念からして、
国民でなくても住民なら政治的に意見を言えて当然だ、
というのは自然な考えだと思う。


でも、またちょっと問題発言があったりする。
それは、2010年2月29日のこと、
「友愛公共フォーラム発会記念シンポジウム」の席上で、

「ずっと10月以来関わってきて、鳩山さんとも話をしているのは、やはり21世紀っていうのは、近代国家をどういう風に解体していくかっていう百年になる。しかし、政治家は国家を扱っているわけですから、国家を解体するなんてことは、公(おおやけ)にはなかなか言えないわけで、それを選挙に負けない範囲で、どういう風に表現していくのかっていうことが、僕の立場」「国にやれることは限られるかもしれませんっていう、実はすごく大きな転換を、すごく巧妙に、(演説に)入れているつもりなので、先々、研究対象として、何が変わったのかということを、考えていただきたい」等の発言をした。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%B6)

という風に、右翼が使う「国家」「解体」というキーフレーズを使ってしまっている。
(出所が週刊誌だから、脚色されている可能性はある)
これは怪しまれても仕方がない。

まあ、外国人参政権賛成なのは変わらないし、
どうあがいても右翼受けが悪いのは変わらないけど。
でもそれにしても、もうちょっと味方をつくる言い方もあったんじゃないだろうか。


近代国家の解体、というのは、
「日本人」というアイデンティティに閉じこもる/閉じ込める
のではなくて、もっとグローバルな世界に対応した、
多文化共生な社会に開いていかなくてはいけない、
といったニュアンスだろうか。

ここで切り取られた短い言葉からはコンテクストが読めないけれど。





という感じで、
演劇関係者に反感を買い、
右翼を敵に回し、
というのが今の平田オリザだ。

なんか見てて切なくなる。

こんなぼろぼろになるまで、なぜ闘わなくてはいけないのか。
できるなら、平田オリザには演出家と劇作家だけしていてほしい。


そんなことを思いながら、俺もまた、
平田のインタビューから誤解を招きそうな部分だけを抜き取ってみて、
まとまらないまとめを終わりにしたい。

演劇はこういう、コピペの文化に、
つぎはぎと分断に満ちた世界に、
どう生きていくのかなあ、なんて考えながら。

興味あれば全部読んでね。

http://www.wonderlands.jp/interview/010hirata/


…要するに、劇団はそれ単体では原理的に金にならないから、若い人たちをだまさない限り絶対に存続しない。いつもずーっと文化大革命しているようなもんだから。「毛沢東だ!」って言って若者をついてこさせないといけない。

少なくともぼくの活動の中に新しいところがあったとすれば、「だましているんだ」ということを、はっきり言ったことでしょう。それが革新的だったと思うんです。それまでは、だましてないことにしていたし、主宰者も騙していないと思い込んでいた。でも、劇団というのは、若者をだましてるんだと。だましていることを前提にして、お互いに納得ずくで契約を結ばせようというところまではきた。
(http://www.wonderlands.jp/interview/010hirata/5/)

2010年10月10日日曜日

白石隆「海の帝国―アジアをどう考えるか」

海の帝国―アジアをどう考えるか (中公新書)海の帝国―アジアをどう考えるか (中公新書)
白石 隆

中央公論新社 2000-09
売り上げランキング : 19702

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

半世紀前まで「東南アジア(South-east Asia)」は存在しなかった。

かつて、「中国とその周辺(China and its vicinities)」でくくられていた地域は、
1949年の中華人民共和国の成立、1950年の朝鮮戦争を経て、
共産圏とそうでない地域を区別する必要があった西側によって、
概念的な切り離しが行なわれた。
そうして、ワシントンで「東南アジア」という言葉が使われるようになった。

初めて「東南アジア」が使ったのは、第二次世界大戦中の連合軍だったと言われているが、
それはあくまで、軍事戦略を語る便宜上使われただけで、
「東南アジア」が、まとまった地域であると認識されたのは、
冷戦のために他ならない。

そうして生まれたものであるから、
いきおい、「東南アジア」とは何なのかとらえどころがない。
この本は、そのとらえどころがないものを有機的にとらえようと試みている。


この本の内容は、難しくてあんまりうまく説明できないけど、
公式なことと非公式なことが重なり合うのを丁寧に説明している。
たとえば、

国家と国民は違う。国民が「想像の共同体」、つまり、人々の心のなかに想像されたものあるとすれば、国家は社会学的実態であり、教会、大学、企業等と同様、ひとつの制度、機構である。国家はそうした機構として独自のスタッフを持ち、スタッフは年齢、教育、性別などの規則に応じて機構に「入り」またやがてそこから「出て」いく。また国家は機構としてそれ独自の記憶と自己保存、自己増殖の衝動をもっている。

とあるように、
国家というオフィシャルな帝国と、
国民というアンオフィシャルな帝国とがある。
それが有機的に重なり、関連し合い、
今日の「東南アジア」をかたちづくっていく。
あるいは、解体していく。

筆者は、「国民」が国の安定に重要な要素だと見ている。
経済がうまくいっている時には顕在化しなかった重大な軋みが、
「国家」というシステムが弱くなると具現化する。
たとえば、アジア通貨危機後に起こった東ティモールの独立みたいに。


植民地時代に手に入れたり、失ったりしたアイデンティティが、
絵の具のように混ざり合って、
「東南アジア」の未来を描いていく。
国境線が引かれた世界地図のように動かない世界ではなくて、
もっとめまぐるしく呼吸する世界が見えてくる。

たぶんこの本の本題からはちょっとずれるんだろうけど、
俺はそういう感想を持った。
興味深い本だった。


ちなみに、上の引用に出てきた「想像の共同体」というのは、
ベネディクト・アンダーソンの著書で使われた言葉だ。
読もうと思いつつまだ読んでいない、ナショナリズム研究の名著。

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険2期4)定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険2期4)
ベネディクト・アンダーソン Benedict Anderson

書籍工房早山 2007-07
売り上げランキング : 178003

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

2010年6月22日火曜日

暮沢 剛巳、難波 祐子「ビエンナーレの現在―美術をめぐるコミュニティの可能性」

ビエンナーレの現在―美術をめぐるコミュニティの可能性ビエンナーレの現在―美術をめぐるコミュニティの可能性
暮沢 剛巳 難波 祐子

青弓社 2008-01
売り上げランキング : 254607

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


フィールドワークで越後妻有に行こうとしているので、ちょっと読んでみた。
演劇以外のアートに関する本をちゃんと読んだのは久しぶりなので、新鮮だった。

これは、アート全般の話ではなくて、
「国際美術展」の潮流にフォーカスしている。
市民参加、都市との関わり、美術の現在、グローバリゼーション…
いろんなキーワードが出てくるけどまとめきれないので気になったとこだけ。



ビエンナーレといえば、ベネチア・ビエンナーレが一番有名だ。
このビエンナーレは最も歴史があり、
万国博覧会をモデルにして国別の出展形式をとっている。
「美術のオリンピック」とも言われるこの場で、世界各国が文化的覇権を競い合う。

ベネチア・ビエンナーレは、世界のアートシーンをリードする一方で、
その性格上、大国主義や商業主義に陥りがちになる。

また、ベネチアはいわば覇権争いの戦場になるだけであって、
地元に還元されるものは少ない。
本には、

そのために通りの一階は全部ホテルになり、高級ブティックになってしまい、コミュニティーが存在していないと。かつてヴェネチアに住んでいた人は、とても住んでいられる状況ではなくて、みんな出て行ってしまうと。

と書かれている。


その反省として、1955年からドクメンタが開催される。
これは、ドイツで、おおよそ5年おきに行なわれている国際美術展だ。
ドクメンタでは、ディレクターを毎回選出し、
そのディレクターに展示内容やテーマが一任される。
賞制度はなく、美術の最先端を世界に紹介することを目的としている。

現在は、ディレクターを選出して一任するという、
このドクメンタの形式が国際美術展の一般的なかたちとなっている。



しかし、国際美術展がたくさん増えても、
スター性のあるアーティストやキュレータのみが選ばれてしまう。
また、地域的にも、欧米人や、欧米でアート教育を受けた人に偏ってしまう。
世界のいろんな地域でやっているのにその地域性は息をひそめて、
「どこにいっても同じ」という状況が起こりつつある。
いわゆる、グローバリゼーションという文脈から、アートもまた逃れられない。
ある意味で、国際美術展は文化的な侵略の装置だとさえ言える。


そして、アートは徐々に多様化している。
「○○アート」というような言葉でカテゴライズできなくなった。
ただ鑑賞するものから、参加するものになった。


均質化する一方で多様化もしている、混沌としたアートシーン。
そのカオスを、ひとすくいだけでも整理して意味付けしようとすることができるかが、
国際美術展に問われている。




あと、話は飛ぶけど、本の中のこの引用が印象的だった。

「アートがどんな形をしていようと問題ではない。大切なのはそれがどのように使用されるかだ。重要なことはアートのための場所を見つけ出すことで、作品の解説ではない」
ウェストの言葉を筆者なりに解釈すれば、美術作品には多層的な意味があり、文章によっては語り尽くせない。だからこそ、作品が空間や時間を超えてより多くの人々の目にふれられるよう、展覧会が開催されたり美術館に収蔵されたりすることには意味がある。評論の言葉がいかに栄えても、作品に与えられる物理的な場が貧相になっていくのでは本末転倒というものだ——言論空間以上に「現実空間に場所を」というこの考え方には、これまでにもうなずかされることが多かった。

言論空間より現実空間。
深い。

2010年4月22日木曜日

平野 秀樹「奪われる日本の森―外資が水資源を狙っている」

奪われる日本の森―外資が水資源を狙っている奪われる日本の森―外資が水資源を狙っている

新潮社 2010-03
売り上げランキング : 7318

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



俺らの知らんうちに外資が森を買っていて、
油断していると森も水も奪われてしまうんじゃないか、
という内容の本。


日本の森は、
その6割で国土調査が終わっていない。
森はここまでは誰のものでここからは誰のものだ、
という所有関係がはっきりしていない。

その上、林地市場は不透明だ。
農地は農地法によって監視されているし、
宅地の売買は衆目が集まる。
しかし、林地の場合は、
周囲に知られたくない売り手と、世間に気付かれたくない買い手が、
山奥でこっそり売買を成立させてしまう。

こっそり森が、奪われていっている。
というのがこの本の主旨だ。
でも、こっそりだから証拠はあんまりない。という。
だからあんまり信憑性はない。
完全に嘘ではないにしても、
どこか筆者の妄想であるように思える。
陰謀論ぽい。


けれども、
森が奪われているというのが妄想だとしても、
この本が指摘する日本の法制度上の問題点は興味深い。

ひとつは、外資の買収に対する規制が弱いこと。
ふたつめは、土地所有権が強すぎること。
そしてもうひとつは、地下水利用のルールがないこと。




1点目。
外資の買収に対する規制としては、
航空法、電波法などの個別法に加えて、
「外国為替及び外国貿易法」(外為法)という法律が存在する。
Wikipediaによると、

外為法にもとづき、以下のような外資規制が設けられている。

・対内直接投資に関する条約等がない国(アフリカ・中央アジアの一部)からの投資
・上記以外の国からの場合は、航空機、武器、原子力、宇宙開発、エネルギー、通信、放送、鉄道、旅客運送、石油、皮革等の産業に対する投資

上記に該当する投資については財務大臣及び主務大臣への事前届出が必要となる。審査の結果、投資内容の変更又は中止の勧告を実施する場合がある。
上記に該当しない投資についても、15日以内に財務大臣及び主務大臣に報告しなければならない。
(Wikipedia - 外資規制)

ということでわかりにくいけど、つまり、

外為法で指定されたもの → 事前届け出で許可が必要
外為法で指定されていないもの → 許可不要で、事後報告でいい

ということらしい。 
不動産は、後者に当たる。

規制緩和だ規制緩和だと声を荒げている欧米諸国は、
もっとちゃんと安全保障を脅かすような買収への対抗策を用意している。
例えばアメリカでは、通称「エクソン・フロリオ条項」と呼ばれる制度があって、
これはちょっとまずいんじゃね?という買収は、大統領権限でストップさせられる。





2点目。
日本の土地所有権が絶対的だということ。
この点に関しては、省略します。
「日本は土地収用もまともにできないダメな国だ」
というニュアンスの書き方がしてあって、俺は好きになれない。

土地収用は、今でもやってるし、
無理矢理国民を立ち退かせて山に穴をぶちあけることができるのが、
果たしていい国なのか。
そういう疑問を払拭しきれない。

でも今、
司馬遼太郎の「土地と日本人」という本を読みかけていて、

土地と日本人 対談集 (中公文庫)土地と日本人 対談集 (中公文庫)

中央公論社 1996-10
売り上げランキング : 126067

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

司馬遼太郎は、野坂昭如との対談の中で、

成田空港だって、土地を渡すのはいやだといって頑張っている人には、土地に対する思想が小規模ながらあるわけね。買収に行くほうにはない。金で解決できると思っている。思想を持っているおじさんが頑張るのは当たり前だよ。要するに、日本にいちばん欠けているのは、地面に対する思想ですね。野坂さんは変な顔して聞いているけれども(笑)、ぼくはみんなでこの思想を確立することをやらなければ、日本の何もかもが滅亡するんじゃないかと思う。(司馬遼太郎「土地と日本人」)

と言っている。
そのことばに、なんだか深く共感する。
「土地に対する思想」が何なのかはわからないけど、
土地収用ができるできないとか、そういう表面的なことよりずっと大事なことだと思う。





3点目。
日本では、河川など、地表を流れる水に関しては、
水は公共のものであると認識され、その使用や汚染をコントロールする法制度がつくられてきた。
しかし、地下水は、公共のものか個人のものか議論が分かれており、
そのため地下水に関する法律は整備されていない。

法的には土地の所有権について「法令の制限内に於いて其の土地の上下に及ぶ」(民法207条)としていることから、地下水は私有財産とされているが、公水とする判例もでている。現在まで国の各省庁による議論が行われてきたが、定まった・統一された地下水に関する考え方はない。(Wikipedia - 地下水)



以上。
興味深いけど、でも内容がちょっと怪しい。
買うほどの本じゃなかった気がする。

2009年8月8日土曜日

セミパラチンスクについて、思ったこと。

64年前。


原爆が投下されてもうそんなに経った。
ここ数日のNHKは、64年前のヒロシマ・ナガサキを振り返る番組のオンパレードになっている。
いつもならあんま観ないけど、
カザフスタンのセミパラチンスクが取り上げられていたので観てしまった。


世界各地の核の被害者を「こんな悲劇を繰り返してはいけない」とつなぐ、その技術は名人芸だ。
世界中のひとが、核兵器廃絶のために心をひとつにしている。
ような気がする。


誤解を避けるため言っとくと、
俺は、日本は核武装しろ!みたいに言いたいわけではもちろんなくて、
ただ、カザフスタンの核兵器廃絶運動が過度に美化されている感じがしたので、そこにきちんとツッコミをしたい。


事実、オバマ大統領のプラハ演説を経て、運動は盛り上がっている。
けれど、この手の運動には3種類ある。

1) 「核」廃絶運動
2) 「核兵器」廃絶運動
3) 核による被害の補償要求運動

この3つはお互いに補完するものでありながら、世間はどれかひとつに注目すると他を忘れてしまう。
いま、この中で中心となっているのは「核兵器」廃絶運動だ。

その方向性は間違っていない。
原子力発電所よりもまずは核兵器の方が危険だし、
国内問題である補償要求と比べて世界連帯しやすいし、
プラハ演説で世界はそっちに傾いている。


そしてカザフスタンもこの核兵器廃絶運動に加わっている。
その背景には、セミパラチンスクの過去があるからだ、とテレビは言う。

セミパラチンスクは冷戦下の1949年から1989年の間に、合計456回の核実験があった場所だ。
そこから離れた村でも、「死の灰」によって広島原爆の爆心地から1.6kmに匹敵するレベルの被曝を受け、住民はいまも健康被害に苦しんでいる。

それは、予期せぬ失敗ではない。
わざと風が強い日を選んで実験した。一部住民を汚染地域に移住させもした。
被曝した住民のための診療所を開くが、そこで行われたのは治療ではなく診断だけだった。
放射線の影響データを取るための、人体実験だった。

1989年、住民は立ち上がって核実験反対運動を始めた。
その年以来実験は行われず、1991年に公式に閉鎖された。
核への反対運動の、数少ない成功例だ。
テレビはそう言う。


しかし。
ここで2つの「しかし」を指摘したい。

しかしカザフスタンは、「核兵器」廃絶は訴えても、「核」廃絶を訴えることは決してないだろう。
カザフには世界で2番目に多くのウラニウムが眠っている。
重要な外貨獲得手段であるウランを、間違っても廃絶するなんてありえない。
むしろ、「核」を使い続けるための「核兵器」廃絶だと言える。
カザフスタンはIAEAが押し進める「核燃料バンク」の受け入れを真っ先に表明している。

それがいいか悪いかはひとによると思う。
ただ、「核」廃絶と「核兵器」廃絶は大きく差があることを指摘しておきたい。


そして、
しかしカザフスタンは、セミパラチンスクのことは過去だとして蓋を閉じようとしている。
セミパラチンスクのひとは、もちろん今も健康被害に苦しんでいる。
ナザルバエフ大統領(カザフ)が核兵器廃絶をいくら声高に叫んだ所で、心はわずかに休まるかもしれないが、体は救われない。
セミパラチンスクの人々が治療を受けるには補償が必要なのに、それは意図的に忘れ去られようとしている。
国からも、世界からも。

日本でも水俣病患者への支援がようやく決着がついたように、
補償問題の解決には往々にして時間がかかる。
しかも、セミパラチンスクの場合は、当事国であるソ連が今では消滅しているのだからなおさらだ。
「核兵器」廃絶という運動に心をひとつにすることは、それぞれの地域の問題である補償問題から視線をそらすことにつながりやすい。
未来と過去のことを同時に考えることの難しさがそこにはある。


核の問題に限らない。
多様なひとと、それに付随する多様な思想や利害がつきまとう問題があるとする。
その解決のために大規模な運動を起こすことは、大きな目的を達成するために細部を忘れることであり、
けれどその「細部」の中に少なくない人の生活や人生が含まれているかもしれない。

自分が何を見て、
何を忘れようとしているのか。
それを直視しないといけない。

2009年7月12日日曜日

アラル海はいま

アラル海、3年で8割縮小 かんがいシステム導入で(AFP)
http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/environment/2620056/4348919


えっ!?
と思った。
こんなに縮んでるのか、アラル海。

上の記事の写真は、いつかわからないけれど、2008年。
Wikipediaに載っている写真は2008年4月。
1年経たないうちにこんなに干上がるなんて‥


ところで、
AFPのはきっとわかっていないひとが書いたやつだ。
頭悪いでしょこの記事。

「かんがいシステム導入」と「3年で8割縮小」はまったく関係がない。
というか、記事をよく読めば、
内陸の水域としては、かつては世界4位の規模を誇っていた同海だが、半世紀ほど前の旧ソ連時代に綿花栽培のためのがかんがいシステムが導入されたことで同海に注ぐ川からの流入量が減り、海岸線が後退し続けている。(アラル海、3年で8割縮小 かんがいシステム導入で(AFP))

とあって「かんがいシステム導入」は3年前とかの話ではないことがわかる。

もちろん灌漑は、アラル海が半世紀間干上がり続けてきた原因だ。
地球温暖化はぜんぜん関係ない。
冷戦で入ってこなくなった農産物(特に綿)をまかなうためにソ連が新規に農地を開墾し、灌漑に水を使われてアラル海に流れ込む川の水は激減した。
ひどいときには1日で200mも海岸線が遠のいたという。


でも、繰り返すけど、灌漑はこの3年の急激な縮小の主犯ではない。
じゃあなぜか。
それは、2005年8月にアラル海を上下に分断するコカラル堤防ができたからだ。

干上がっていったアラル海は、北の小アラル海と南の大アラル海に分かれていた。
流れ込む川の水はしかし、そのどちらも潤すほどはない。
それならいっそ、大アラル海は見捨てて小アラル海を残そう。
と、水が北から南に流れ込まないように堤防をつくった。

果たして大アラルは涸れ、小アラルは残った。
予想通りの結果だ。


といって、もちろんハッピーエンドではない。
まわりに住む人にとっては、
みんなハッピーなわけではないし、
これがエンドなわけでもない。

もっとそこに住む人々の暮らしに思いを馳せないといけない。
地図から見た変化なんて、どうでもいいんだ。

海岸が200m動くのが問題なのではなくて、
漁に行くのが200m遠くなるのが問題だ。

塩まみれの砂漠の広大さが問題なのではなくて、
舞い飛ぶ塩によって起こる健康被害が問題だ。



アラル海に行ってきたことはこのブログにはまだ書いていないと思うので、
またいずれ書きます。

2009年6月19日金曜日

Twitterとイランのいざこざ

片付けているはずなのに、
片付ける前よりも
片付いてない気がする。

これはなんかあれだよね、
治りかけがかゆい的な。
つまり俺の部屋は今かさぶた的な。

あーやだやだ。
考えるだけでもかゆい。
かゆいのはいやだ。
と思って現実逃避にブログを書いてみます。



米国務省、Twitterへのメンテナンス変更要請に関して見解を表明
http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000056023,20395210,00.htm

16日の夜に、Twitterのメンテナンスが予定されてたけど、アメリカ政府の意向で延期になった。
なぜかというと、イランの選挙後のどたばたがあるかららしい。
イランはいま国内外の記者に対して報道管制を敷いていて、情報の発信が極端に少ない。
だから、TwitterとかFacebookとかのソーシャルメディアからの情報が重要になるからだそうだ。


新聞とかテレビが規制されてる時でも自由に報道できる、
やっぱりネットのパワーはすごいよね。

というのがポジティブな捉え方なのだろうけれど、
俺はちょっとやな感じがした。
なんかやだ。かゆい感じがする。


アメリカ国務省がネットを情報収集に利用するということは、
その逆にアメリカがネットの情報発信を遮断することもあるわけだ。


ネット上は個人の世界だ。
ブログでTwitterで情報を発信する個人メディアは、
自由なように見えて、意外と脆弱な気がした。

オールドメディアは、発信する人は少ないけれど、伝達する媒体はいろいろ(新聞、テレビ、口コミとか)あった。
一方でネット上のメディアは、発信する人は多くても情報が伝わるルートがインターネットしかない。
そしてみんながインターネットしか使わないことで、他のメディアは衰退していく。
でも、インターネットという公共インフラを使っている以上は、自由を謳歌しているようで国の手のひらの上で踊っているだけ、ということもある。
例えば中国みたいに。


確かにネットは自由だ。
Twitterの自由さはすばらしい。
でも、それは誰かに与えられたからすばらしいんじゃない。
俺たちはもっと、自由を勝ち取ることに真剣でないといけない。
でないと自由はやせ細る。

2009年5月18日月曜日

アイスランド行こうかな。

アイスランドへのツアーを見つけてしまった。

アイスランド・エアウェイブスツアー
http://www.tour.free-bird.co.jp/campaign/Iceland/airwaves_column.php#03

アイスランドで10月にある音楽フェス、Iceland Airwavesに参加するツアー。
これは高いので無理だけど、自分で航空機探して行ってみようかな。卒業旅行とかに。


最近、自分の中でアイスランド熱が再燃してきている。
院が関東になったら日本アイスランド学生外交会議に入ろうかな。
この団体まだあるのかな?


なんでアイスランドかって、
この国は、

・音楽がすごい(Björk、Sigar Ros、Múm、Kira Kira‥) ← 人口31万人に音楽学校が90校!
・自然エネルギー率世界一 ← 水力、地熱で7割をまかなっている
・軍隊がない
・「地球のへそ」がある
・以外と寒くない(笑)

とかとか、魅力に溢れている。
日本にシシャモを輸出するだけの国じゃない。



といって、アイスランドは夢の国ではない。
開発か環境保護かで人々は揺れ、
金融危機で国は傾いている。


アイスランドは、グローバリゼーションの被害者だ。
みたいなことを、↓の映画は言いたいのだろう。







アイスランドの産業は、漁業以外はぱっとしなかった。
有り余る電力は安価だが、それを使ってくれる企業はあまりいない。
唯一の漁業は、1980年代初めに漁業資源を守るために漁獲割当が課せられると、個人で漁師をしていた人々は生業が立ち行かなくなった。他の手工業も技術革新で人の手を必要としなくなっていった。アイスランド東部は仕事がなくなり、過疎化していく。

そんな折、2003年に米国のアルミニウム製造会社アルコアが、アイスランドに新たな製錬所を建設し、国営電力会社ランズビルキンとの間で、水力でつくった電力の40年間にわたる供給契約を結ぶという話がもちあがった。
アルミニウムは電力を大量に使うので、企業にとっては輸送コストを考えても電力が安価なアイスランドでの精製は魅力的だ。
アイスランド政府にとっても、貧しいアイスランド東部に400人の雇用を生み出し、重化学工業にも力をいれていくことにつながる。

そのためにつくられるダムは、国全体の電力消費量の約半分を発電できるとても巨大なダムだ。しかし、その巨大さは代償も大きく、氷河から流れ出た二つの川がせき止められ、自然を残す土地が水没する。

はじめは計画を好意的に受け止めていた住民も、反対を始める。
反対運動はやがて、Björkとかも巻き込んだ大きなものになっていった。

(NATIONAL GEOGRAPHIC 2008年7月号「相克の島国アイスランド」)




Björkの有名さは海外まで及び、環境保護を求める声は世界中に広がっていく。

でも、上のNATIONAL GEOGRAPHICの記事にはこんなことが書いてある。
東部に暮らす人びとは、これまでに考えつくかぎりの事業や観光開発を試みてきたという。「でも、どれもうまくいきませんでした」と、地元高校の歴史の教師で、東部地域の行政機関の長を務めたこともあるスマウリ・ゲイルソンは語る。彼が続けた言葉は、この国のもめごとの核心をついている。「プロジェクト反対派が気にするのは土地やトナカイ、鳥たちのことであって、人びとの窮乏状態について議論しようとは思ってもいません。レイキャビクに住みながら、私たちがこの土地で石ころ一つ動かしたって反対するのです」と言いながら、石をつまむふりをして見せた。「自分たちはコンクリートとアスファルトの世界に住みつつ、ここへ来て美しい自然や人びとの暮らしを眺めたがる。住人が少ないほど、その生活が風変わりなほどよいのです」と、スマウリはうんざりだというように頭を振りながら語った。


開発か環境か。
アイスランドの貧困がどういうものなのか俺は知らないけれど、こういう言葉は、アイスランドに観光に行きたい!と言っている俺みたいな人間の胸にグサッと刺さる。



そして、この記事は金融危機の前に書かれたものだからさらっとしか触れられていないけれど、このプロジェクトの為に電力会社は15億ドルの資金投資をしている。
これは大半は海外の銀行からの借り入れらしいけど、アイスランドでは国内銀行が海外から投資を集めて、建設ラッシュが起きていた。重化学工業化、という国是のためというのも背景にあるのだろう。
そして結果、開発を急ぎすぎたことがあだになりアイスランドは負債の山に苦しんでいる。



結果だけを見てアイスランドを責めることができるのか、
グローバリゼーションのせいにして責めないことができるのか、
俺にはわからない。

とにかく、夢の国なんてどこにもないということを再確認しつつ、
俺は等身大のアイスランドを見に行きたい、と改めて思った。