2010年12月30日木曜日

今年の10曲(2010年)

高校ぐらいから毎年、今年印象に残った曲を10曲書き残している。
完全に自分用メモ。

↓去年のはこっち。
http://notchained.blogspot.com/2009/12/10.html

これはあくまで、「俺にとっての」今年の10曲なので
別にめっちゃ昔の曲でも今年初めて聴いたら
俺にとっては「今年の曲」です。


2010年12月27日月曜日

たまには日記。

端的に言うと、今年は、
失恋の年だった。


好きなひとにふられ、
タイと研究にふられ、
古巣にふられた。
つながるってそんなにうまくいくことじゃないねんな、と思った。

冬だから、寒さに寂しさが増幅されて、
いきおいそう感じてしまうだけなのかもしれない。

でも、寂しいとか寂しくないとかそういうことじゃない。
とかいうよくわからない言葉で強がってみたいけど、
やっば寂しいな、と思う。


思い返せば俺は、違う舞台に上がるたびに人間関係をリセットしてきた。
中学から高校、高校から大学、そしてサークルの引退。
すごく狭い世界で生きてきたから、
その世界同士がつながってるなんて、信じなかった。
茶番劇だと思った。
中学には中学の、
高校には高校の、
サークルにはサークルの、
つながらず交わらない世界がそれぞれあった。

というと、社会かなにかが悪いみたいな感じがするけど、
悪いのは俺だ。
俺が逃げていたからつながらなかった。
何から逃げているのか、そのときはあんまりわからなかったけど。


「百万円と苦虫女」という映画で、
百万円を貯めては居場所を転々と変える主人公(蒼井優)が、
「自分探しみたいなものですか?」と問われるシーンがある。
主人公は、いえ、と答える。


むしろ、探したくないんです。探さなくたって、嫌でもここにいますから。逃げてるんです。

と、彼女は言う。
全力で「じぶん」から逃げているのだと。

それでも、最後には追い付かれてしまう。
自分でも知らなかった「じぶん」を見てくれていたひとがいて、
逃げ切れなくなる。

俺は、あの場面を思い出すたびうるっとくる。
どんなに世界を閉ざそうとしても、
いろんなひとの優しさとか想いに支えられて生きているのだと、思い知らされる。


「じぶん」から逃げるというのは、
そういう、優しさとか想いから逃げることだ。
逃げ続けてきた俺自身がそうであるように。


そして、ここにきて、
「じぶん」から逃げられなくなってきているな、と思ったりする。
という言い方をするとまた、社会か何かのせいな感じがするけど、
そこそこ俺のせい、というか、おかげ、なんじゃないだろうか。
もっと単刀直入に言うと、俺、今年はそこそこ逃げなかったんじゃない?
逃げ腰だけど、たまには逃げずに踏みとどまれたんじゃない?

だからいろいろ失恋したし、
寂しいなんて思うし、
それはそれでぜんぜんダメだったけど、でも、がんばったよ俺は。
ぜんぜん大したことないけど、がんばってたよ。
と、親バカな気持ちで誉めてあげたい。


いろいろ繋がらない。

ひとの想いも、
いろんな活動も、
夢とか未来とかも、
まるでうまくつながらない。
こんがらがって見失いそうになる。

それでも、投げ捨ててしまわずに、来年につなげたい。
寂しいって思うのは進歩だ。
つながらないことを素直に悔しがれたから。


「じぶん」を、来年につなげよう。
来年もこんがらがってもがこう。

いい年になりますように!

2010年12月22日水曜日

平田オリザに対する批判まとめ

「まとめ」とか大層なことを書いたけど、
まとめ切れない。

平田オリザは、「青年団」を主宰する演出家、劇作家。

2009年10月に鳩山内閣で内閣官房参与となって以来、
ほんとにいろんな批判があると思う。
けっこう的を得たものから、
虚実ないまぜになったものまで。

つまりは目立ちすぎたんだな、と思う。


「平田オリザ」がアイコン化している。
まるで何かの象徴のように崇拝され、攻撃され、
焦点を結ばない虚像だけが膨張して、
批判のつぶてに打たれるだけのサンドバッグになっている。


高校の頃から平田オリザのファンな俺としては、
それは「平田オリザ」の虚像であって、
ほんとうの平田オリザではないと思う。

思うけれど、

「こんな批判なんて整理する価値もない」
と思うけれど、

それでも、直視しなくてはいけないものがある気がする。
たぶん、俺が目を背けたいのは、
俺への批判だから。



平田オリザへの批判は、主に2つに分けられる。
1)いわゆる「劇場法」への提言について
2)俗に言う「日本解体法案」について

ちなみに、平田は、
鳩山内閣では主に文化行政を担当し、
菅内閣では、国際交流を担当している。
上のうち、1)は鳩山内閣時代のもので、
2)は菅内閣時代の話だ。



1)いわゆる「劇場法」への提言について
これは、演劇関係者の事実誤認によるものが大きいと思われるが、
朝日新聞大阪本社版2010年3月19日付夕刊の、「劇場法」に関する平田の記事を読んで、
「劇団への助成をなくして、すべてを劇場へと振り向ける」のだという誤解が生じ、
様々な批判が飛んだ。

平田は後日、
劇団への助成はそのままで、劇場への助成を増やしていく、という意図だったと釈明する。

繰り返しになりますが、劇団関係者にご理解いただきたいのは、一部報道されているように、「劇団への助成を減らして、劇場への助成を増やす」といったパイの取り合いを目指しているのではないという点です。ただし、全体で見れば、演劇制作の主体は、すでに劇団から劇場に移りつつあり、この流れは世界の演劇の潮流からいっても、間違った方向ではないと思います。このことについての私の発言が、誤解を呼ぶ元になっているとすれば、説明不足をお詫びするしかありません。

http://www.seinendan.org/jpn/oriza/msg/index2.html?

と釈明しているが、
説明不足なのは否めないし、
「平田オリザが抱える青年団は劇場付きの劇団だから、
劇場をもってない劇団のことなんてどうでもいいんだ」
と思われても仕方がない。


個人的には、
平田オリザが言ってるのはかなり的を得ていると思う。
たとえ劇団への助成が減ったとしても、
劇場への助成が増えさえすればそれでいいと思う。
劇場を、単なる「ハコ」ではなくて、血の通った「場所」にしなくてはいけない。

だって例えば、東京芸術劇場に野田秀樹が来て面白くなったでしょ?


でも、平田が提案していることは、
自分(青年団)に都合が良すぎる。
こういうことはもっと中立的な人間が提言すべきだった。

もちろん、そんな人間がいないから、
平田が矢面に立たされているのだけれど。




2)俗に言う「日本解体法案」について
これは、あんまり深く説明するのはめんどくさいけど、
外国人参政権、夫婦別姓、人権擁護委員会、とかそういう辺を右翼の人が、
「日本解体法案」とかって呼んでいるらしい。


その中でも、平田オリザが関係するのは、外国人参政権だ。
講演で、在日韓国・朝鮮人への参政権付与について言及するなど、
外国人参政権に賛成の立場を取っている。

たしかに、「対話」が重要だという平田の理念からして、
国民でなくても住民なら政治的に意見を言えて当然だ、
というのは自然な考えだと思う。


でも、またちょっと問題発言があったりする。
それは、2010年2月29日のこと、
「友愛公共フォーラム発会記念シンポジウム」の席上で、

「ずっと10月以来関わってきて、鳩山さんとも話をしているのは、やはり21世紀っていうのは、近代国家をどういう風に解体していくかっていう百年になる。しかし、政治家は国家を扱っているわけですから、国家を解体するなんてことは、公(おおやけ)にはなかなか言えないわけで、それを選挙に負けない範囲で、どういう風に表現していくのかっていうことが、僕の立場」「国にやれることは限られるかもしれませんっていう、実はすごく大きな転換を、すごく巧妙に、(演説に)入れているつもりなので、先々、研究対象として、何が変わったのかということを、考えていただきたい」等の発言をした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%B6

という風に、右翼が使う「国家」「解体」というキーフレーズを使ってしまっている。
(出所が週刊誌だから、脚色されている可能性はある)
これは怪しまれても仕方がない。

まあ、外国人参政権賛成なのは変わらないし、
どうあがいても右翼受けが悪いのは変わらないけど。
でもそれにしても、もうちょっと味方をつくる言い方もあったんじゃないだろうか。


近代国家の解体、というのは、
「日本人」というアイデンティティに閉じこもる/閉じ込める
のではなくて、もっとグローバルな世界に対応した、
多文化共生な社会に開いていかなくてはいけない、
といったニュアンスだろうか。

ここで切り取られた短い言葉からはコンテクストが読めないけれど。





という感じで、
演劇関係者に反感を買い、
右翼を敵に回し、
というのが今の平田オリザだ。

なんか見てて切なくなる。

こんなぼろぼろになるまで、なぜ闘わなくてはいけないのか。
できるなら、平田オリザには演出家と劇作家だけしていてほしい。


そんなことを思いながら、俺もまた、
平田のインタビューから誤解を招きそうな部分だけを抜き取ってみて、
まとまらないまとめを終わりにしたい。

演劇はこういう、コピペの文化に、
つぎはぎと分断に満ちた世界に、
どう生きていくのかなあ、なんて考えながら。

興味あれば全部読んでね。

http://www.wonderlands.jp/interview/010hirata/


…要するに、劇団はそれ単体では原理的に金にならないから、若い人たちをだまさない限り絶対に存続しない。いつもずーっと文化大革命しているようなもんだから。「毛沢東だ!」って言って若者をついてこさせないといけない。

少なくともぼくの活動の中に新しいところがあったとすれば、「だましているんだ」ということを、はっきり言ったことでしょう。それが革新的だったと思うんです。それまでは、だましてないことにしていたし、主宰者も騙していないと思い込んでいた。でも、劇団というのは、若者をだましてるんだと。だましていることを前提にして、お互いに納得ずくで契約を結ばせようというところまではきた。
http://www.wonderlands.jp/interview/010hirata/5/

2010年12月21日火曜日

Boards of Canada

最近日記書いてないから、
どんなことでもいいからとりあえず書こうと思って、
どうでもいいこと書きます。


最近、自分の中で、
Boards of Canada熱が再来している。

Boards of Canadaは、スコットランド出身のテクノバンド。
Autechreの目にとまってメジャーデビュー。
その後、Warp Recordsに移籍。

俺が初めにこのバンドを知ったのは高校生のとき。
受験生の心に電子音はよく沁みる。
これ聴きながら勉強してたなあ。

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電子音でありながら、どこか懐かしい感じがして、
昔の色あせた写真を見るような気分になる、

BoCの音が持つ中毒性は、
冬の朝に布団から抜け出せないときの気持ちによく似ている。
ぬくぬくと夢の中を生きていたい、という欲求と、
このままじゃいけない!、という意思が、
耳元でせめぎあっている。






2010年12月5日日曜日

最近、

柏市民劇団 CoTiK
http://www.cotik.org/


Twitterとかでちょこちょこつぶやいたりしてて、
気付いている人もいるかもしれないけど、
俺は劇団に入ろうとしています。

で、昨日は初めて稽古の見学に行ってきた。
5人だけのこじんまりした練習で、
集まる時間が少ない中でどうすればうまくできるか考えられていて、
さすがプロだなーと思った。


まだ入るって決まったわけじゃないけど。
軽い近況報告でした。

2010年11月26日金曜日

OracleによるSun買収の影響

2009年4月20日、
Oracle社がSun MicroSystems社を買収することが合意された。

↓その時に書いたブログがこれ。

手を離してみようぜ。: 太陽の行く末


今読むと、楽観的すぎたと思う。


ちょっと今回のブログはマニアックになるけど、
俺はかなり怒ってる。Oracleに。
もし興味あれば読んでね。





Sunは、オープンソースに優しかった。

オープンソースというのは、
簡単に言うなら、ソフトウェアのプログラムをみんなに無料公開して、
みんなの力でつくりあげよう、みたいな概念のことを言う。

Sunの下で、Java、MySQL、OpenOffice.org、OpenSolarisといった重要なオープンソースプロジェクトが成長してきた。


えっ、でも無料でどうやって金を稼ぐの?
と思うかもしれないけど、オープンソースだって金を取る。
ソフトを売るんじゃなくて、サポートやカスタマイズを売る。
そのために、オープンソース化は重要だ。
企業目線で見るなら、

・無償で開発に協力するコミュニティができる
・会社の技術力の宣伝になる
・会社のイメージアップになる

というような効果があるから。


まあ、そうはいっても、
オープンソースは、うまくやらないと金になりにくい。
公開するよりも隠して、「欲しかったら金を出せ」という方が、
(少なくとも短期的には)儲かりそうな感じがする。


Oracleは、そう思う企業で、
オープンソースがあまり好きじゃない。
もっと技術を隠して、顧客に金を払わせたい。

それはそれでいいと思う。
その方針自体を批判するつもりはない。
実際、Sunがつぶれたのは、
オープンソースの収益化がうまくいかなかったためだ。
二の徹を踏む訳にはいかないのはわかる。

けれど、Oracleは、
Sunが身を削ってまでオープンにしたものを、
それを支える多くの人が作り上げてきたものを、
利益のためというだけで食い潰している。

たくさんの人間の思いを踏みにじっている。
オープンソースの未来すら摘み取ろうとしている。

それは許せるものではない。



1)OpenSolaris
Solarisは、MacのようにUNIXをベースにしたOSで、
そのほとんどの部分をオープンソースとして公開したものがOpenSolarisだ。
管理は「OpenSolaris Governing Board(OGB)」というコミュニティが行なっている。
SolarisもOpenSolarisも、サポートなしの使用は無料、
OpenSolarisはライセンスに従って改変することもできた。

しかし、Oracleによる買収以降、
Solarisの使用が有料化され、
OGBがOracleに連絡を取ろうとしても取れない、
という状況が続いた。

そんな中、2010年8月13日には、
「OpenSolaris is officially now dead.」
というOracleの内部文章がリークされた。

OracleはSolarisの技術を再びクローズドにして、
オープンソースを消し去ろうとしている。

Solarisに関しては、
元々Sunの場合も完全にオープンな技術ではなかったけれど、
Oracleの買収によって明らかに閉鎖的な方向に向かっている。

これに対抗して、OpenIndianaというプロジェクトが動き始めている。

参考URL:
http://japan.cnet.com/news/business/story/0,3800104746,20416852,00.htm



2)MySQL
MySQLは、オープンソースのデータベースだ。
元々、Oracleは自社の名前を冠した商用データベース「Oracle Database」を持っており、
MySQLとの競合が予想された。

今月、OracleはMySQLのサポート料金を大幅に引き上げた。
実に3倍〜7倍の値上げとなる。

MySQLの創始者マイケル・ウィデニウスは、
それを察知するように買収交渉が進みつつあった2009年2月に、
Sunを退社して、MariaDBというオープンソースプロジェクトを立ち上げている。
同プロジェクトのウェブサイトには、
「Help Save MySQL」という文言が掲げられていたという。

参考URL:
http://builder.japan.zdnet.com/member/u48681/blog/2010/07/20/entry_27041196/


3) OpenOffice.org(OOo)
OpenOfficeは、Microsoft Office互換のソフトだ。
Linuxではこれがないとやってられない。
しかし、Oracleは、OpenOfficeへの支援を小さくしてしまった。

我慢しきれなくなって、開発元であるOpenOffice.orgコミュニティは、
2010年9月にOracleからの独立を発表、
The Document Foundationという組織をつくって、
OpenOfficeの名称を「LibreOffice」と変えてリリースを続けるという。

ちなみに、
The Document Foundationの立ち上げには、
Free Software Foundation(FSF)、GNOME Foundation、Open Source Initiative(OSI)、英Canonical、米Google、米Red Hat、米Novellなどの組織や企業が賛同を寄せていて、
OracleはまだOpenOfficeの版権を持っているけど、
正統性は失ったと考えていいと思う。

コミュニティの勝利に、ほっとする。

参考URL:
http://sourceforge.jp/magazine/10/09/28/0847252
http://journal.mycom.co.jp/news/2010/09/29/078/index.html


4) Java
そして、Java。


Oracleが欲しかったのは、
Javaの技術ではなくて、特許だということが明らかになりつつある。

8月にはAndroidの特許侵害についてGoogleを提訴したが、
これには、多くのコミュニティや企業がOracleを批判している。
オープンソースを支える「みんな」を敵に回してまでも、
賠償金を手にしたいOracle。

その利益追求の姿勢を、
Adobeは「悪の枢軸」と呼んでいる。


Javaについての態度がいちばん許せない。
もっと詳しく書きたいけど、
今日は時間がないので日を改めます。。


↓興味ある人はこの辺を。

“Javaの父”ゴスリング氏、Oracle退社の理由を語る
http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1009/27/news020.html(前編)
http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1009/27/news020_2.html(後編)


Google、Oracleの提訴に反撃――Androidとオープンソースを防衛へ
http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1008/17/news030.html
http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1008/17/news030_2.html

IS01買わなくてよかった。

今日はIS03の発売日。
俺は発売日には手にできない気がするけど。


先日auから、IS01のアップデートは提供されない、ということが発表された。
いまはAndroid 1.6だけど、いずれ2.2になる、と信じて買った人は衝撃を受けている。
↓それを皮肉った動画がこれ。



ところどころ音声が字幕通り聞こえるとこがあって面白い。
ちなみに、「総統閣下は〜」っていうのはなんか元ネタがあるの?


でも、
IS01って2台目用だからそんなに怒ることはないでしょ、と思うのだけど。
キーボードついてるってそれなりにいいはずだし、
この動画ではSkype使えないって言ってるけど使えるらしいし。

なんて、自分が買ってたら言わなかったと思うけどw

2010年11月22日月曜日

乱暴と待機

乱暴と待機という映画を観てきた。
本谷有希子に興味があって。


復讐のため、と言って女を監禁しつづける男と、
監禁されつづける女と、
その隣に引っ越してきた夫婦と。
そんな感じのアブノーマルな恋愛の話。

筋書きだけ聞いても分かると思うけど、
かなりアブナイ感じの内容なのに(笑)、
くすっと笑えて、最後は爽やかに終わる。
きっと、世界観に飲み込まれすぎて。

すごいなー。
面白かった。




この映画の中で、


永遠の愛は疑ってしまうけど、
永遠の憎しみなら信じられる。

愛に理由はないけど、
憎しみには必ず原因がある。


という言葉が出てくる。

それがなんか心にすっときた。
ああそうだな、と思う。
きっとこれが俺の世界観なんだろう。


就活する時も、
永遠の愛じゃなくて、永遠の憎しみを探そう。

好きなものとじゃなくて嫌いなものといっしょに生きていきたい。
それが嫌いでいる間はきっと、
俺がここで生きている理由があるから。

Androidとキーボード

ひさびさにちょっとIT的な話。

IS03に機種変更しようと思うのだけれど、
Bluetoothでキーボードをつなげようと思ってたら意外とつながらないらしい。
iPhoneとかiPadだったらつながるのに。


なんかドライバの問題らしくて、
Bluetoothにはいろんなプロファイルがあるけど、
マウスとかキーボード用のHIDというのに対応していないとキーボードがつなげない。
IS03はHID非対応らしい。

Android自体が繋がらないわけじゃない。
2.xはHIDを実装可能のはずなのだけど、
メーカーが実装しないと使えない。
(Galaxy Tabとかはつながる)

ということで、まあキーボードさえ使えれば、
わざわざメール打ちに学校まで行かなくていいようになるかな。
と思った俺の出鼻は打ち砕かれる。。



↓と思ってると、こういうのがあるらしい。
BlueKeyboard


ただ、キーボードによって使えたり使えなかったりらしいので、
しばらくは様子見かなー。
アップデートされたら使えるようになったりするのかな。きになる。

2010年11月19日金曜日

自分用メモ

これから書きたいこと:

・情報流出の時代のメディアのあり方(Wikileaks、尖閣ビデオ)
・Ustreamと著作権(Ustream音楽使用Q&A http://www.ustream.tv/recorded/10928906
・X Window SystemとWayland
・FlashとHTML5
・タイの洪水被害、被害への支援費の不正流用 まとめ(タイ)
・タクティクスオウガ


でもこんな書けないだろうなー。。
いちおうメモ。


追記:

・OracleによるSun買収の影響まとめ
・ベルヌ条約、万国著作権条約、TRIPs協定、WIPO著作権条約の違い

2010年11月17日水曜日

みえるか?

「見える化」ってなに?


と、唐突に思う。

動詞に名詞がムリヤリ接続されて、
これって日本語として正しいの?

透明性を上げる、
ということを分かりやすく言っているようでいて実は分かりにくくて、
かわいい字面の裏に牙を隠し持っている気がしてならない。


まずもって語感が悪い。
耳で聞くと、
「見えるか?」と、眼前に事実を突き付けられるような、
そんな圧迫感を持っている。


例えば、水戸黄門。

「懲らしめてやりなさい」という、老人の一言に端を発した戦闘は、
やはり老人の、
「もう良いでしょう」という一方的な通告で終わる。

そして放たれるこの一言。


「この印籠が目に入らぬか!!!」

これは、
「見えるか?」という恫喝であると同時に、
水戸光國公という強大な権力の、「見える化」でもある。


「見える化」の先にある「見えるか?」。
それはなんだか、暗いイメージがつきまとう。

きっと、見たくないものまで見てしまうという恐怖からくるのかもしれない。
逆に言うと、見たいものだけ見ていたいという、
自分勝手な願望に俺は、しがみついているのかもしれない。

でも一方で、都合のいい部分だけ見せられて、都合が悪い部分は見せない、
そんな事態に対する正当な危惧かもしれない。

「見える化」が進んだ先に何があるのか。
その未来はいまだ見えない。

2010年11月15日月曜日

中西準子「食のリスク学―氾濫する「安全・安心」をよみとく視点」

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今年の文化功労者に選ばれた、中西準子の著書。

中西は「環境リスク学」という分野を確立した元東大教授で、
リスクを定量的に評価して比較することの重要性を説いている。
この本に書いてあることも、従来の主張の繰り返しで、
目新しいことはそんなにない気がする。

でも、この本には、前の著書には書かれていない、
「リスクとは何なのか」という根本的な部分が説明されている。

西原理恵子の「この世でいちばん大事な「カネ」の話」という本に出てくる、
「その国の貨幣価値がわかる3つの質問」を引用しつつ、次のように書いている。

…第一は汁そば一杯はいくらですか? 第二は、玉子一個いくらですか? そして第三は、人一人殺すといくらですか? など。
 この三つの質問をすると、その国の経済価値がよく分かると西原さんは言っています。そして、人一人殺すとベトナムで二十万円という話が出ています。
(中略)
 逆から考えてみましょう。三番目の質問に対する答え、二十万円が命の価値、命の値段を示す一つの指標だということは誰でも分かるでしょう。命が失われようとするときに、この金額を支払えば助けることができるのに、それができないということです(社会的、統計的な話ですが)。そのお金がないために、命を失っているということです。


つまり、命はお金だという。
さらに中西はこう続ける。


 貨幣価値の違いは、命の値段の違いを示しています。その違いは、リスクに対して支払いができるかどうかによって決まっているのです。お金があればリスクを回避できます。つまり、お金がかかることそのものが、リスクなのです。

リスクとはお金であり、
そのお金を支払えないために、
健康や、ときには命さえ失われていく。


中西は、
経済的なゆとりがないために病院に行くことができず、
結核に苦しみ続けたという自身の小学校時代を回想して、
自分にとってのお金は、「健康」であるという。


なのに、

命を救うお金が、
減らす必要のないほど小さいリスクにつぎ込まれる一方で、
多くのひとを危険に晒しているリスクには使われない。

「ゼロリスク」の幻想に振り回され、
政治的・パフォ−マンス的に、
非合理な金の使い方がされる。

なぜリスクを定量的に評価し、比較することが大事なのか。
それは、リスクとはお金であり、
お金は有限だからだ。





彼女の憤りは、そうした現状から生まれて、
ファクトを見つめる研究に注がれる。

俺が中西準子を好きなのは、
その背後に、凛とした、負の力を感じるからだ。

怒りとか、
恨みとか。

そういうネガティブなものを、力に変えて闘う、
けれど思想に突き動かされるのではなく、
ただただ事実を求め続ける。

そんな研究は非常に希有だと思う。
思想に振り回される研究ならいっぱいあるけど。


個人的には、環境リスク学はあんまり好きじゃない。
あらゆるものを数値化、モデル化してしまえるということに疑問を感じるし、
リスクが均一でない場合のことがあまり想定されていない気がする。

だから、納得はするけれど賛成はできない。

それでも、この信念を認めざるを得ない、
そんな力を持った研究だと思う。



身近なことが知りたい人は標題の本、
環境リスク学についてもうちょい詳しいことが知りたい人は下の本を。
いろんな分野の人に読んでほしい本。


環境リスク学―不安の海の羅針盤環境リスク学―不安の海の羅針盤
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2010年11月9日火曜日

これめっちゃやりたい。




InterFMを聴いてたら、
このゲームの紹介をしてた。

目の付けどころがすごいよね。こういうの。
誰かいっしょにやりにいこう!

2010年11月3日水曜日

わたしの長所(2)

【前回までのあらすじ】
親父との壮絶な死闘の末、安寧を取り戻した世界。しかし、その平和も長くは続かなかった。平和ボケした主人公に、大怪獣シューカツの魔の手が迫る!

みたいな感じの、

青春熱血冒険ファンタジーな路線で、
闘いを忌みながらも闘わないといけない現実に葛藤しつつ、
毎回、強敵との闘いに死線を彷徨いながらも勝利、
徐々に成長しながら冒険を続けてゆき、
最終的には「ひとつなぎの大秘宝(ワタシノチョウショ)」を手に入れる。

「海賊王に、俺はなる!」

というような、
どこかで聞いたことある感じに茶番劇を続けることもまあ可能だったけど、
果たしてこれは、めんどくさそう。
まじで。
ということでやめときます。

じゃあ端的にいって俺の長所はなにかというと、
悩むことかなー、と最近思う。


ざっくりむりやり言ってしまうと、
人間のあらゆる行動は、
「悩む→答えを出す」というプロセスの中に位置付けられて、
そのどっちかを、あるいはどちらもを肩代わりすることが
価値の源泉なんじゃないだろうか。
とかって思う。


たとえば、ものづくりなんていうのは、
答えを出すのが仕事だ。
成果物のない職人が金を稼げるはずがなく、
製品という答えが価値を持つ。

一方、報道とかっていうのは、悩むのが仕事だ。
「こうすればいい」なんていうことは少なくて、
「こういうのもあってこういう意見もあって、もうどうすればいいかわかんないよ。
こっからは自分で考えて答えを出してね」
的な、葛藤はそこそこ整理されてニュースになって、
金と引き換えに買われてゆく。


なんかそんな感じで、
「あなたの悩み、代行します」
と看板に標榜する仕事、なんかないかな。
天職だと思うんですけど。


しかし、一生悩んでだけいればいいわけではなく、
答えを出さないといけない局面が、ままある。
例えば、就活がそうで、
どんな仕事をしないのかという答えを出さないといけない。


うーん、悩ましい。。

2010年10月30日土曜日

わたしの長所

(注:この日記はフィクションです。実際の人物団体等とは一切関係ありません。)
(注2:最近町田康の本を買ってしまったので、影響を受けて俺の文章はいつも以上にシュールかつぐだぐだになってるけど、まじごめん。)


ひゅるりひゅるり、風が肌寒い。
ぶるりと身震いしてマフラーを巻き直す。
かじかむ指先を息であたためながら、俺は待っている。
もうすぐ、霧で霞む向こうからやってくる、
あれを待っている。


あれの名は、
シューカツ。


伝え聞くところによると、シューカツは、
身長3メートル、体重250キロ、
鋭い牙と爪をもつ獰猛な生き物で、
目が合ったが最後、
「あなたの長所はなんですか?」的な呪詛を投げ掛け、
「そそそそれは…」などと答えに詰まろうものならば、
嘲笑ののち激怒、「社会をなめるな!」と言葉の凶刃で相手をメッタ刺しにしてしまうというから恐ろしい。



こうした、人智を越えた脅威を、ひとは災害と呼ぶ。


しかし、人智を超えているからといって、人間は手をこまねいているばかりではない。
例えば、「地震雷火事親父」という典型的災害ランキングTOP4に
「親父」がランクインしていることは周知の事実だが、
この「親父」という人智を超えた現象に対して、
人類がいかに対処してきたかを思い起こしていただきたい。


親父がある日突然、「一番風呂は俺が入る」と言い出す。
理由などない。
人智を超えれば道理が引っ込む。
日常の因果など通用しないのが災害の常である。


ではこれに対して、家族はどうするかといえば、
始めは、笑い飛ばす、眉をしかめるなどの、微細かつ婉曲的な技法を用い、
それで効果がないとなれば、
母は、朝、きつね色に焼けた食パンを、あちち、とか言いながら親父の眼前に持っていくなり、すかさず「今日の朝刊に書いてたんだけど、世論調査の結果、87%の親父は二番風呂らしいわよ」とあることないことを耳元で囁くなどし、
子は、「親父の後に風呂に入るとかマンモスやだ」と喚きたて、更には家出、非行、銭湯通いといった実力行使すら辞さない。
そして通常、母子が結託してことに臨むことも珍しくはなく、
いくら人智を超えた親父といえども、そうした波状攻撃に堪えうる者は少ないだろう。


仮に、堪えた親父がいたとしよう。
しかし、長引く闘いで家族の絆は疲弊し、一方で憎悪は深い。
かつての団欒は影形なく、待っているのは当然の結末、
つまりは離婚である。



「ただいまー」
と、親父の声が暗い家に響く。けれど答えはない。
離婚してしばらく経つけれど、親父はつい、ただいまと言ってしまう。まるで、一人で暮らすには広すぎる家に、一人で暮らしているという事実を確認するみたいに。
でも寂しくなんかないもんね、と、親父は少し酔った頭で思う。
だって、狂おしいほどに欲していた、一番風呂がこの掌の中にあるのだから。
一番風呂に魂を売った、なんて言われても気にしない。
だってほら、こんなに遅く帰って来ても一番風呂を独り占めできるのに。
寂しいなんて、まさか、ね。



親父はネクタイを緩めて、空っぽの浴槽に湯が注がれる様を眺めるのが好きだ。
まるで、自分の虚ろな心まで満たされていくようだから。
蛇口から流れ出る湯に、これまでの人生を想う。
自分はこうして、誰かを満たすことのできる生き方をしてきただろうか。
と、たまらなくネガティブになりそうになって、はっと頭を振る。
だめだ。酔っているな。


湯船に浸かると、温かい幸せが体を包んだ。
なのに、どこか冷え冷えしているのは一体なぜだろう。
天井を見上げると、黒いカビが点々と散らばっている。
あ、あれは、と親父は昔のことを思い出す。

あれは、あの子がまだ幼稚園くらいだっただろうか、あの子はお風呂を嫌がって入ろうとせず、ぐずるあの子を風呂に入れるのは親父の役目だった。
いつも、やだやだ、と言いながら風呂に入るあの子だったけれど、あの日はどうしてか、はたと上の方を向いて、唖然としたように泣き止んだ。
「お父さん、お星さまがいっぱい」
と、あの子は天井を指差した。
「ああ、あれはね、お星さまじゃないよ、カビだよ」
と親父は答える。
カビってなあに、と、あの子はカビのことがよくわからない。
「カビっていうのは」
と親父が説明しようとすると、
「きれいだね」
とあの子が呟いた。
「きれい?」
「うん、お風呂にお空があるなんて知らなかった。お風呂って、いいところだね」
そう聞いて親父はくすりと笑う。
「いつもは入りたくないって言ってるのに?」
「だって…怖いんだもん。じゃあ、次から、お父さんが先に入ってお化けいないか見てくれる?」
「ああ、いいよ。それじゃあ、お父さんは一番風呂をいただくとしようかな」
親父はなるべく頼もしそうに答えてみる。
すると、
「イチバンブロ?」
と、あの子は首をかしげた。
親父は、ぽん、とひとつあの子の頭を叩き、こう答えた。

「それはね、先に風呂に入って、お化けがいないかみることだよ」


そうか、そうだったのか、と、親父は思い出した。
思い出してしまった。
自分が一番風呂に拘泥する理由を、
楽しかったあの頃を。

天井を見つめたまま、顔を動かすことができない。
見上げていないと涙がこぼれてしまいそうで。
「俺が欲しかったのは、本当に欲しかったのは…」
と言おうとして、親父は言葉を続けることができない。
ただただ嗚咽が漏れるばかりだった。

なんてこった、
本当に欲しかったのは、
一番風呂なんかじゃなかったのに。
俺は、俺は、なんてことをしてしまったんだ!




というかたちで、
確かに一番風呂こそ奪われてしまったものの、
まあ悪くても相討ちくらいには持ち込んだわけで、
人智を超えた親父と闘っていることを勘案すれば、
ほとんど母と子サイドの勝ちだとさえ言える。
ということで、
ともかくもこれは、人智が災害に勝利した瞬間である。


でもまあ親父の話はどうでもよくて、
シューカツの話がしたいんだった俺は。

そういう、およそシューカツというものは人智を超えていて、
人智を超えたものには備えが必要で、
だからちょっと自分の長所について考えてみよう、
といった主旨の話を、平たく言うと書こうと思ったんやけど、
なんかもうぐだぐだ過ぎて収集がつかないから
次回に改めることにしよっと。

タイトルと関係ないことばっか書いてごめん。
↓これを読むとみんなもこうなるよw

どつぼ超然どつぼ超然
町田 康

毎日新聞社 2010-10-15
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2010年10月26日火曜日

コメディとホラーの境目



この動画、
ガンダムの版権を持ってるサンライズからちゃんと許可を得て、
リンキンパークの所属レーベルであるWarner Musicの公式Youtubeチャンネルで公開されているという、
むだにすごい夢のコラボレーション。

あまりのしょーもなさに思わずブログに載せてみる。



いやー、キュートンまじ気持ち悪いな。
しんじ日記を読んで思ってしまった。
もはやホラーに見えた。


理解不能なものに対してひとはどう反応するかというと、
笑うか、
怖がるか、
どっちかじゃないかな。


キュートンはそのふたつの、
際どい境目を行っている。

笑っていいのかわからない。

あげくの果てには、
笑いってなんなのかわからなくなる。

他人を笑うことが、
いつどのような場合に許容されるのか、
思い悩んでしまう。

時として、
もはや笑うしかないくらい悩んでしまう。


コメディとホラーの境目はどこにあるのか、
まるでわからない。

まあ、こういうの嫌いじゃないよ。
いろんな意味で怖いけど。

2010年10月19日火曜日

自分用メモ

int acter = 2;
int times;
MyEclipse[] me = new MyEclipse[20];
MyEclipse[] win = new MyEclipse[100];
MyEclipse winner;
MyEclipse competer;

void setup()
{
  times=0;
  size(450,450);
  background(255);
  for(int i=0; i= 100){
    println("おわった!!");
    delay(1000);
    
    fill(255,255,255);
    for(int i = 0; i < acter; i++){
      me[i].display();
    }
    
    fill(100,100,230);
    for(int i = 0; i < times; i++){
      win[i].display();
      print("(" + win[i].getX() + "," + win[i].getY() + ")");
    }
  }else{
    print(times);
  
    int winnings=0;
    
    background(255);
    fill(255,255,255);
    for(int i = 0; i < acter; i++){
      me[i].display();    
    }
  
    fill(100,100,230);
    winner.display();
    competer.display();
  
    while(winnings < 700){
      int len_w = 0;
      int len_c = 0;
      for(int i = 0; i < acter; i++){
        len_w += (winner.getX() - me[i].getX())^2 
          + (winner.getY() - me[i].getY())^2;
        len_c += (competer.getX() - me[i].getX())^2 
        + (competer.getY() - me[i].getY())^2;
        len_w += sqrt(sq(winner.getX() - me[i].getX()) 
          + sq(winner.getY() - me[i].getY()));
        len_c += sqrt(sq(competer.getX() - me[i].getX()) 
        + sq(competer.getY() - me[i].getY()));
      }
      if(len_w < len_c){
        winnings++;
        competer.setX(random(450.));
        competer.setY(random(450.));
      }else{
        winnings = 0;
        winner.setX(competer.getX());
        winner.setY(competer.getY());
        competer.setX(random(450.));
        competer.setY(random(450.));
      }
    }
  
    win[times] = new MyEclipse(winner.getX(), winner.getY());
    print("(" + winner.getX() + "," + winner.getY() + ")");
  
  /** debug **
  delay(1000);
  background(255);
  win[times].display();
  */
  
    times++;
  }
}

class MyEclipse{
  private int x;
  private int y;
  
  MyEclipse(int x, int y){
    this.x = x;
    this.y = y;
  }
  
  MyEclipse(float x, float y){
    this.x = int(x);
    this.y = int(y);
  }
  
  public void setX(int x){
    this.x = x;
  }
  
  public void setY(int y){
    this.y = y;
  }
  
  public void setX(float x){
    this.x = int(x);
  }
  
  public void setY(float y){
    this.y = int(y);
  }
  
  public int getX(){
    return this.x;
  }
  
  public int getY(){
    return this.y;
  }
  
  public void display(){
    ellipse(x,y,10,10);
  }
}

ほぼ半年ぶりくらいにプログラミングした。
授業の課題を解くために。
しかし、この雑な感じ。。

そして、なんかイマイチうまく動かないのはなぜ?
processingはちょっと特殊だから、動きが掴みきれない。
デバッグするか、プログラミングをやめて手で解くか。
悩みどころ。どうしよう。


追記:
sqrtし忘れているという凡ミスだった。
うごいたー!
そんなにむずいプログラムじゃないけど、
久々なのでやっぱ達成感。

暇があればまたちゃんと勉強しようかな。

2010年10月16日土曜日

知ってる街の、知らないレイヤー

友達と待ち合わせていると、
横で路上生活者だと思われるおばあちゃんがいて、
一心不乱にハサミをチョキチョキしている。

雑誌とか広告チラシとかを器用に切って、
1cmほどの四角い紙片をたくさんつくっては、脇においたペットボトルに詰めていく。
もうすでに、1.5リットルのペットボトルが6本ほどいっぱいになっている。
なんでそんなことをするんやろ?と、気になる。


気になってどうするかというと、

多くの人通りのひとのように、
なにこのおばあちゃんこんなとこで意味わからんことやっててめっちゃ邪魔やな、
と思いながらスルーすることもできる。

あるいは、現代人にありがちな感じで、
となりでおばあちゃんがハサミちょきちょきしてるなう、
とかツイッターでつぶやいてみることもできる。

でも、なぜなのか、というもやっと感を解消するためには、
やっぱ直接聞くしかないかな。
でも、見知らぬ人に話しかけるの怖いな。
どうしようかな。


とか迷ってると、
おばあちゃんと目が合ってしまった。

そこで目を逸らせば、
おばあちゃんと目が合ったなう。
とかで終わったのかもしれないけど、
しかし迷っている人間の動作というのは鈍いもので、
すばやく目を逸らすことができない。

おばあちゃんの目が、なに?と言っている。

せっかくなので、ためらいつつ、
「これは何に使うんですか?」と聞いてみた。

すると、おばあちゃんは、
気さくに答えてくれて、
これは鍋敷きとかになるのよ、という。


鍋敷き??
あの紙吹雪みたいなのが鍋敷きになるの?


なんかおばあちゃんの説明は、
鍋になるとか鍋敷きになるとか、
俺にはあんまりよく分からなかったけど、
とにかく、あの紙を水とかでふやかして、
固めていろんなものにするらしい。

で、付け加えておばあちゃんは、
でも私が作るんじゃなくて、すごくうまい人がいるの。
みたいな感じのことを言った。

たぶん、こういう紙片を作品に変えてしまう、
職人的なひとがどこかにいるということで、
おそらくこのペットボトル一杯の紙吹雪を、
その人のところに持っていけば買ってくれるんだろう。
その金でこのおばあちゃんは生きているんだろう。


ひょえー。

と思った。
腰を抜かしそうに感心してしまった。
ぜんぜん知らない世界の話だったから。


俺が見えない価値を、
そのおばあちゃんの目は見ている。

俺が知らない世界を、
そのおばあちゃんは渡り歩いている。


「ゼロから始める都市型狩猟採集生活」という本に書いてあったように、
都市にはまだ多くの人が気付いていないレイヤーがある。
その言葉を、今日はじめて実感した。
知っている街の、知らない顔をほんの少しだけ見た。


でも、俺はまだぜんぜん知らない。
おばあちゃんの世界の楽しさも、
おばあちゃんの世界の苦悩も、
突然話しかけてきた見知らぬ人に、
こんな深い世界のことを教えてくれたのを、
どういう感謝のかたちで返せばいいのかも。

まるでわからない。




ありがとうございます、
と軽く会釈して俺はその場を去る。

おばあちゃんの姿が人混みに消えていく。
見えかけた景色が、
分厚い街の色に上塗られ、隠されていく。
気がつけばもう、
いつもの不透明な街に、俺は立っている。

悔しいな、と思った。

補足

酔って書いた文章とはいえ、
さっきの投稿はあまりに雑だったので、
ちょっと補足します。

今日なにがあったかというと、
俺は指導教官と別のゼミにも出てるんやけど、
そっちのゼミでの発表があった。

で、そのゼミの先生のコメントが、

「制度に穴があるとか、たぶんそれが原因っていうので終わりじゃない?
もうこれ以上掘り下げられなくない?」

という感じで、
ちょっとショックだった。

ていうのは、
別にその先生の言葉にぐさっときたとかじゃない。


「もうそれ以上なにもなくない?」
的なのは、割とよくある反応で、
指導教官も、前の発表で同じようなコメントをくれた。
だから、そういう反応には慣れている。

問題は、俺が、
いつまでたっても、
タイに3週間もいっても、
「いや、確かに何かあるんだ」と自信を持って言い返せないこと。
院に入って半年。焦りを覚えはじめる。

たぶん、「何か」が見えないのは、ひとえに、
俺の問題意識がぼんやりしているからなんじゃないかな。


平等ってどういうことなのかとか、
正義って何なのかとか、
そういう、今まで避けてきた根元に目を向けてみよう。
だって、
「何か」があると思うのは、
そこに、何か、見えない不正義のような、
ひっかかるものがあるから。
俺が何にひっかかっているのか、
自分の心に決着をつけないといけない。

だから、ソジャの本を読みます。
読めるかな。
日本語でも挫折したけど。

2010年10月15日金曜日

やっぱり避けては通れないのかな。

Seeking Spatial Justice (Globalization and Community)Seeking Spatial Justice (Globalization and Community)
Edward W. Soja

Univ of Minnesota Pr 2010-04-14
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今日ゼミ発表をして、
あまりに考えてることがぼんやりしてて、
やっぱりこの本読まなあかんかなー、と思った。

いややなー。
正義とか探したくなかったな。

とか言ってみるけど、
ちょっとこういう空間論的な、
フーコーみたいな、
難解なやつを避けては通れない気がしてきた。

とりあえずこの本注文しよう。
気が重いけど。

2010年10月12日火曜日

クォーターパウンダー

無性にチバユウスケの声が聴きたくなって、
Youtubeを巡っていると、
なんか面白い名前の曲があった。

で、観てみると、




「あのCMの曲は俺たちがつくったんだ」

!!!


まじで!!!
知らんかったー!!!
あのCMそうだったのか。。

いまさら衝撃的すぎる。
気付かなくてほんとごめんなさい。

2010年10月10日日曜日

白石隆「海の帝国―アジアをどう考えるか」

海の帝国―アジアをどう考えるか (中公新書)海の帝国―アジアをどう考えるか (中公新書)
白石 隆

中央公論新社 2000-09
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半世紀前まで「東南アジア(South-east Asia)」は存在しなかった。

かつて、「中国とその周辺(China and its vicinities)」でくくられていた地域は、
1949年の中華人民共和国の成立、1950年の朝鮮戦争を経て、
共産圏とそうでない地域を区別する必要があった西側によって、
概念的な切り離しが行なわれた。
そうして、ワシントンで「東南アジア」という言葉が使われるようになった。

初めて「東南アジア」が使ったのは、第二次世界大戦中の連合軍だったと言われているが、
それはあくまで、軍事戦略を語る便宜上使われただけで、
「東南アジア」が、まとまった地域であると認識されたのは、
冷戦のために他ならない。

そうして生まれたものであるから、
いきおい、「東南アジア」とは何なのかとらえどころがない。
この本は、そのとらえどころがないものを有機的にとらえようと試みている。


この本の内容は、難しくてあんまりうまく説明できないけど、
公式なことと非公式なことが重なり合うのを丁寧に説明している。
たとえば、

国家と国民は違う。国民が「想像の共同体」、つまり、人々の心のなかに想像されたものあるとすれば、国家は社会学的実態であり、教会、大学、企業等と同様、ひとつの制度、機構である。国家はそうした機構として独自のスタッフを持ち、スタッフは年齢、教育、性別などの規則に応じて機構に「入り」またやがてそこから「出て」いく。また国家は機構としてそれ独自の記憶と自己保存、自己増殖の衝動をもっている。

とあるように、
国家というオフィシャルな帝国と、
国民というアンオフィシャルな帝国とがある。
それが有機的に重なり、関連し合い、
今日の「東南アジア」をかたちづくっていく。
あるいは、解体していく。

筆者は、「国民」が国の安定に重要な要素だと見ている。
経済がうまくいっている時には顕在化しなかった重大な軋みが、
「国家」というシステムが弱くなると具現化する。
たとえば、アジア通貨危機後に起こった東ティモールの独立みたいに。


植民地時代に手に入れたり、失ったりしたアイデンティティが、
絵の具のように混ざり合って、
「東南アジア」の未来を描いていく。
国境線が引かれた世界地図のように動かない世界ではなくて、
もっとめまぐるしく呼吸する世界が見えてくる。

たぶんこの本の本題からはちょっとずれるんだろうけど、
俺はそういう感想を持った。
興味深い本だった。


ちなみに、上の引用に出てきた「想像の共同体」というのは、
ベネディクト・アンダーソンの著書で使われた言葉だ。
読もうと思いつつまだ読んでいない、ナショナリズム研究の名著。

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険2期4)定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険2期4)
ベネディクト・アンダーソン Benedict Anderson

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2010年10月6日水曜日

ぜい

こくぜいちょうさ、まだやってない。


やる気が起こらないのは、
名前の響きが悪いからやなきっと。
特に「ぜい」が響きが悪い。

税金の「ぜい」

贅肉の「ぜい」

マッキンゼーの「ぜい」

ぜいぜいぜい!

考えるだけで息切れしてきた。

なんと醜悪なサウンド。
なんと肺活量のない俺の脳みそ。


なんてね。
なんとなく息切れしたので、
息抜きに意味ないことを書いてみた笑

人生に深呼吸を、
調査には回答を。

さあ、ぱぱっと調査票埋めて寝よ。

2010年10月3日日曜日

長いトンネル

最近、前の指導教官の悪口を言わなくなった。

たぶん、半年経って、
ようやく忘れられつつあるのかなと思う。
嫌なこととか、
悔しかったこととか、
自分の持てる全てを注いで闘っていたこととか。

忘れるということは時に、死ぬほど難しい。
悪い記憶は、死なないと治らない病のようだから。

一生それから脱け出せないひとだっているし、
トラウマを背負いながら笑って強く生きてるひともいる。


俺の場合はそんな大げさじゃなかったけど、
単に自分の期待が外れただけだったけど、
一方的にとはいえ信じていた人に、
裏切られた経験は重たくのしかかる。


闘ってはいたつもりでも、
千葉まで来たのは逃げではなかったか、
という自問自答が、ふとした拍子に頭をかすめる。


でも、半年経ってようやく、
俺は消去法でなく、自分で選んでここにいるんだ、
と言えるようになった気がする。


たぶんそれは、タイに行って、研究がほぼ白紙になりそうなことと、
就活時期が迫ってること。

自分の根本を揺るがすような事態。
きっと、そういう不安があって、
はじめて俺は地に足が着いていられるんだ。


前期は、楽しすぎて、
不安がないことが不安だった。
どっかに落とし穴があるような気がして立ちすくんでいた。
でも今は違う。
目の前に不安があるという安心に、一休みしている。


俺はたぶん、これから長いトンネルに入ることになる。
前の指導教官という、暗すぎたトンネルを抜けて、
不安の中を再び歩むことになる。
今度は、自分で選んだトンネルを。


秋が終われば、もうすぐ寒い冬が来る。
俺の季節だ。負けない。

2010年9月26日日曜日

坂口恭平「ゼロから始める都市型狩猟採集生活」

ゼロから始める都市型狩猟採集生活ゼロから始める都市型狩猟採集生活
坂口 恭平

太田出版 2010-08-04
売り上げランキング : 906

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タイに行く前から、ずっと読まなければと思っていた本。
俗な紹介をするなら、「路上生活の仕方」。
だけど、ここに書いてあるのはもっと深いことだと思う。
実際、この本の筆者も、

 ぼくが繰り返し言う都市型狩猟採集生活というのは、ただの路上生活のことではない。最終的な目標は、自分の頭で考え、独自の生活、仕事を作り出すことにある。
 既存の生き方は一度横においておこう。法律で認められていることすら一度疑って考えてみる必要がある。

と書いている。
そう、この本は、都市の持っている別のレイヤーを見るための本だ。
路上生活というのは、その一例に過ぎない。
都市にはもっと多様な、多くの人には見えない、レイヤーがある。

そもそも誰のものでもないはずの水や土地が、
管理されてお金を払わなければ使えないという現実に疑問を感じ、
ゴミは毎日新しく実る果物、
水道は涸れることのない泉、
という風に<都市の幸>を捉えるその視点に、
俺はとても共感する。


何を言っているんだ、
都市の幸なんてない。
水は山に育まれ、
食べ物は農家が育てる。
俺たちは農村と自然に生かされている。

というのが、
学部までの俺の模範解答。


でも、それは模範解答であって、
俺の現実じゃない。
都市から農村は見えない。

見えるようにすることと、
見えない視点にあえて立つことと。
俺は後者を選んだから、いまの場所にいる。

都市には都市でいろんな良いところも悪いところもあるし、
そのためには、都市の視点に立たないと見えないことがある。
いろんなことが逆に見えなくなるけど。
模範解答から遠ざからないといけない。


この本には、そうやって俺が探している、
「都市の視点」のひとつのモデルケースが書いてある。

もちろん、誰もが「都市の達人」になれるわけじゃない。
それを分かりつつ、路上生活の仕方を軽やかに説明する文体は、
なんかちょっとマッチョな感じがしてやだけど。

ところどころ違和感を感じつつも、
でも面白い本だった。
↓この部分が心に残った。

 きみは二十一世紀の狩猟採集民となる。都市を駆けぬける遊牧民となる。
 社会システムは、いくら変化させてもまた同じ循環を繰り返し、人間を苦しめつづけるだろう。それよりもまず、きみの精神、視点、創造性を変革させるのだ。そこにこそ、希望が隠されている。
 <都市の幸>で暮らすことは、きみが起こすことのできる、唯一の革命なのだ。

吉川勝秀「河川の管理と空間利用―川はだれのものか、どうつき合うか」

河川の管理と空間利用―川はだれのものか、どうつき合うか河川の管理と空間利用―川はだれのものか、どうつき合うか
吉川 勝秀

鹿島出版会 2009-09
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お世話になっている日大の教授の本。


河川の管理と利用に関する教科書的なの。
だけど、「利用」のことが主になっている気がする。
今まで、「河川整備」に関する本は見たことあるけど、
タイトルにあるような「空間利用」に関する本はほとんどない。
と、この本に書いてあるし、
俺も出会ったことがない。
(もしおすすめがあれば教えてください!)


河川の空間利用は、
河川計画と都市計画が重なる部分で、
その両方をわかる人はあんまりいない。

河川敷地を利用するためには、治水や公共の利益とかに配慮したルールがあって、
(具体的には「河川敷地占用許可準則」「河川管理施設等構造令」「河川環境管理基本計画」など)
それを逸脱することはできない。

なのに、そのルールを理解しない政治家や意見団体が圧力をかけてくる、という。
この本の筆者は、元建設省のひとで、
あまり具体的には書いてないけど、

また、行政担当者に圧力をかけるなど、危険を伴う神聖に関する打ち合わせ・協議は、隔離された場所で行なうべきでなく、多くの行政担当者がいる場所で行なう、場合により警察官の立ち合いを依頼することもあってよいであろう。

とかって書いてあるから、
相当タフな場面もあるんだろうな。


防災のことに関する記述がやや散漫な気がするけど、
空間利用についてここまでまとまってる本はなかなかない。
うちの指導教官から借りたけど、自分でも買おうかな。

2010年9月23日木曜日

ほほえみの国、に来てしまったわたし、のほほえましい日々 写真編

とりあえず、適当に写真載せます。
ほほえましい雰囲気を感じてください。


合掌するドナルド



カオサン通り。2週間ここにいました。ナイフ持った人が出た時もいましたw




ネ…ネコバス的な?


象に乗りました(写真は俺じゃないよw)。



なんか落ちてる、と思ったら犬でした。
この国では、こんな感じで犬が死んでるかのようなポーズで寝ています。
せめて日影で寝ればいいのに。。



なんということでしょう!
下は鶏、上は鶏肉。劇的すぎるビフォーアフター!





お寺。


ダイソー。60Bは150円くらいなので、日本より高級!



フローティングマーケット。




っていう感じでした。
まあ楽しかったよ! ヒマやったけど。。

以下、おまけ。
ヒマすぎて調査ノートの表紙を描いてしまいました。

作品1「ほほえまないわたし」



作品2「ほほえみの国」

2010年9月18日土曜日

ほほえみの国、に来てしまったわたし、のほほえましい日々 その5

バンコク滞在も残すところあと2日。
なんかこれまで観念的な日記しか書いてこなかったので、
今までの19日間をざっくり振り返ってみる。


8月30日 空港のATMで、口座残高が持って行く予定だった額の半分しかなくて、一瞬凍りつく。
8月31日 都市計画コンサルタントの人と会う。ぼったくりツアーに申し込んでしまう。
9月1日 元BMA(バンコク都庁)、Department of Drainage & Sewageの人と会う。
9月2日 ぼったくりツアー
9月3日 ぼったくりツアー
9月4日 休息日
9月5日 やっさんの友達2人に王宮周辺を案内してもらう。
9月6日 やっさんの友達3人にバンコク中心部を案内してもらう。
9月7日 やっさんの友達1人にカオサン通り周辺を案内してもらう。
9月8日 ひたすら船に乗る。
9月9日 ひたすら街を歩く。
9月10日 タイ政府のRoyal Irrigation Departmentの人と会う。やっさんの友達2人にチャイナタウンを案内してもらう。
9月11日 休息日
9月12日 やっさんの友達2人にウィークエンドマーケットを案内してもらう。
9月13日 ひたすら街を歩く。
9月14日 休息日
9月15日 元BMAの人ともう一度会う。
9月16日 現BMA、Department of City Planningの人と会う。公用車で街の説明をしてもらう。
9月17日 カオサン通りを脱出。
9月18日 休息日


ということで、

インタビュー → 5回
街の観察 → 4回
やっさんの友達 → 5回

と、ノープランで来たにしてはかなり充実した感じでした。
よく言うけど、
人の縁って大事やね。



特に、9月16日が急展開で、
もう無理かなと半ば諦めていた都市計画マップを手に入れ、
さらには公用車を出して洪水危険地域の解説をしてくれるという、
至れり尽くせり。
日本の公務員もこんなに優しかったらいいのに、と思う一方で、
この人たち、半日も俺の相手をして、仕事いつするの?とつっこみたくなった笑

そして、やっさんの友達。
一回も約束した集合時間に揃ったことないけど(笑)、
でも、他にいろいろやることもあるはずなのに、
そんなそぶりも見せずいろいろ相手をしてくれてありがたかった。




しかし、
充実しすぎて俺は情報過多に陥っている。
たとえば、インタビューだけとっても、
覚えている範囲で書いたやつだけでも1万5000字くらいあって、
とても一気に把握できる情報量ではない。

何もかもを見ることはできない。
なのに、何もかもに目がいってしまって、
俺の頭はおなかいっぱい過ぎる。

なんかこう、
いっぺんタイを離れて、
「これを見るんだ」という明確なフレームが必要だと思った。
研究したいことがあまりにもぼやっとしていて。

2010年9月15日水曜日

ほほえみの国、に来てしまったわたし、のほほえましい日々 その4

バンコクに来て、
ずっと考えていることがひとつある。


それは、王宮とか政府機関が川沿いにあること。
だって、危ないやん、洪水が起きたら。

権力者は安全な場所に陣取るのが社会の鉄則で、
ということは水辺に追いやられるのは弱い人、
という固定観念が俺の中にあったけど、
タイはそうなっていない。

川のすぐそばまで建物がいっぱいあって、
それも、ボロそうなのもあれば、
国賓を迎えるような豪華な施設まで、
いろいろある。
そこには何の傾向も見いだせなくて、
俺はただただ混乱する。


でも、固定観念は単なる固定観念で、
よく考えると、日本でも必ずしもそうなってないのかも。
あんまりちゃんと確かめたわけじゃないし。
てことで、固定観念は思い込みに過ぎないという可能性がひとつ。


あともういっこの要素は、
タイでは洪水が起こると、
どこかが被害にあうとかではなくて、
あらゆる場所が水に浸かる。(10年前までの話)

だから、川沿いとか川から遠いとかはそれほど重要ではなくて、
むしろ排水しやすいとかしにくいというの方が考慮されるのかもしれない。
そういう意味で言うと、
バンコクの東のほうには海抜0m以下の地域があって、
そこでは一度浸水すると、水がなくなるまで数ヶ月かかる。

つまり、タイでは、
「洪水危険地=洪水が起こる場所」ではなくて、
「洪水危険地=浸水が長引く場所」なのかもしれない。


日本とは違う、
とわかってたつもりで全然わかってなかった。
そもそも、「洪水対策」が何を意味するのかという前提が違うんだ。きっと。
そういう中での都市計画がどうなっているのか、
つかみどころを見つけられないまま、
俺のもがきは空振りし続けている。

むむむ。。

2010年9月13日月曜日

ほほえみの国、に来てしまったわたし、のほほえましい日々 その3

カオサンを出ます。
9月19日までに。



9月19日。
なんの日か知ってる?
4年前、タクシン元首相がクーデターで失脚した日だ。

以来、ニュースでも報道されているように、
タクシン派と政府の間でたびたび衝突が起きている。
今年も、4ヶ月前にはタクシン派が市内の一角を占拠、
軍と衝突して、約90人が死亡、約1800人が負傷した。
ロイター通信のカメラマンの村本博之さんも命を落とした。
そして、それはカオサン通りの入り口付近だという。

カオサン通りの近くには、
民主記念塔というモニュメントがある。
1932年、タイが絶対君主制から立憲君主制に変わったことを記念して立てた、タイの民主主義のシンボルだ。
いままでの反政府デモの犠牲者が祭られているという。
民主主義は、血を吸ってできあがる。

まあとにかく、ここは民主主義の象徴で、
民主主義を求めて、ここに人は集う。
たぶん、9月19日も。

と、友達の友達のタイ人にいわれた。

彼はほぼ毎日のようにバンコクを案内してくれて、
ほほえみの国にふさわしいスマイルの持ち主で、
おとつい爆弾が見つかったこととか言っても、
「ああ、大丈夫大丈夫(微笑)」と答えるけど、
9月19日だけは、
「外に出ないほうがいい、できれば泊まる場所を変えたほうがいい」
と言う。
なので、おとなしく移動することにした。


俺はいま、
4ヶ月前に90人が死んだ場所に立っている。
その事実以外なにも知らず、
何もないことを祈るだけしかできずに。

過去を覆すこともできず、
未来に手を出すこともできない、
そんな無力を味わいながら。




…なんかもはや、
ほほえましい路線を捨てた感があるこのシリーズ。。
まあ笑えない感じに書いたけど、
危ないかもしれないので念のため場所を変える、
というだけのビビリな日記でした(微笑)。

でも、最近爆弾が見つかってることとか、
治安部隊が19日に向けて警戒を強めてるのはほんとなので、
もしもその時期、バンコクに旅行してる友達がいれば、
カオサンは危ないかも、ということを一応伝えてあげてください!

2010年9月8日水曜日

ほほえみの国、に来てしまったわたし、のほほえましい日々 その2

基本的に、
すべてのハッピーな人間は、敵だと思っている。

なにに、
カオサン通りにいると、
幸せに生きてる感じのバックパッカーによく話しかけられる。
で、あげくの果てに、
「バンコクに3週間? 飽きない?」とかいわれるけど、

俺は飽きるほどバンコクにいるために、いろんなことをすっぽかしてまでここにいるんです。

自分の未来を、穴が開くほど見つめないといけないんです。


とか言って、
じゃあ何か大したことしてるのかというとそんなことはなくて、
まだタイ政府の人と開発コンサルの人にあって話を聞いただけで、
あまりに密度の低い日々を送ってる気がする。研究的には。

今日一日、船に乗って川から街を眺めてみたけど、
なんかイマイチよくわからない。
川沿いにずっと堤防(といっても道路からの高さは1mくらいの壁)があって、
人と水の関わりは見えてこない。
10年前にはまだ堤防がなくて、そのときならまだわかったのかな。

でも、考えてみれば、わかるための知識を俺は持っていない。
農学部だったから、それが農村なら多少はわかる。たぶん。
けれど、年は俺にとって未知の領域だ。
いつも都市に暮らしてるのに。

建物のことも、
道路のことも、
地理学のことも、
空間論のことも、
タイ語も、
俺はぜんぜん知らない。

まるで自分の知らなさを知るためにここに来たみたいで、
なんかやだ。
「自分の足りないところを知れてよかったです」
なんていうのは、ハッピーな人の言葉で、
俺はそんなこと、口が裂けても言わない。
とかいって帰ったらうっかり言ってしまうんだろうな。



あーあ。
バンコクはもう飽きた。
ひとに言われなくても分かってる。
もう飽き飽きしてる。


ただ観光するだけなら、
もう飽きてしまったんだ。


でも、知りたいことがある。
うわべを撫でるだけでは見えないものを見たい。
飽きるほどここにいてその先に、何があるのか、知りたい。

バンコク滞在ももうすぐ折り返しだ。

2010年9月4日土曜日

ほほえみの国、に来てしまったわたし、のほほえましい日々 その1

とかいいながら、ほほえましいというか悩ましいことを書きます(微笑)
それなりにほほえましい日々を送ってるんやけど、
このブログに書くと悩ましくなるとか、あるやんね。
まあほほえましいことはまた次回ということでひとつ、手を打ってください。


3日前、こっちでのカウンターパート的なひとと会ってきた。
バンコクの公務員で治水にかかわる部署にいた人。
今は定年退職したけど、週3でアドバイザー的な立場で出勤している。

マクドナルドで待ち合わせだったのでそのままそこで話すのかと思いきや、
家まで招かれて、めっちゃ豪邸で、
マクドナルドで話すイメージトレーニングとのギャップに緊張を隠せない。

彼は、キリスト教徒だった。
なぜなのか聞くと、キリスト教と仏教の世界観の違いについて説明してくれた。
キリスト教では神の前にみんな平等だけど、
仏教は、前世での行いによって人間に優劣がつく。
だからタイでは、不遇に遭っている人がいても、
「あの人は前世での行いが悪かったからああなんだ」と片付けられてしまう。
人は本来、平等なはずなのに、不平等が是認されてしまう、
これは、インドから入ってきたけどタイ本来の文化じゃないと私は思うんだ、
と彼は言う。

その見方はしかし、日本の仏教からはあんまり想像できない。
そういう「自己責任」がどんどん拡張されていくのは、
責任がどんどん個人になすりつけられていくのは、
確かに日本でも同じだ。
けれど、仏教がそれに迎合しているようには思えない。
南伝仏教と北伝仏教の違いだとも思えない。
きっと、タイではたまたま仏教が言い訳に使われているだけだ。

不平等という得体の知れないものに向き合うときに、
それを何かのせいにするのはたやすい。
「それは仏教のせいだ」と責任をなすりつけてしまえばいい。
ちょうど、彼が嫌う人々が、
不平等は「前世の行いのせいだ」と責任をなすりつけるみたいに。

でもこれでは、責任のなすりつけ合いに過ぎない。
果て無き責任転嫁という、諸行無常。
何かのせいにしたところで、不平等を理解したことにはならない。


俺がタイでやりたいと思っている研究も似たようなところがあって、
ひとことで言えば、住む場所の平等にかかわる研究だ。
洪水で危ない場所と危なくない場所があって、
そこに住んでる人たちがいて。
危ない場所に人が住んでしまうのを、不平等と呼んで、
その不平等をなにかになすりつけるのはたやすい。
お金がないから、とか、知識がないから、とか。
でも、そんな浅いことを知るために大学院に来たんじゃない気がする。

何かのせいにすることと、
メカニズムを知ることの違いがわからないまま、
もう半年が過ぎたけれど。


そして、何が平等なのかというのも難しい。
彼は、水害危険地でも、水害のたびに補償をする仕組みがあれば平等だ、という。
でも、洪水のたびに補償がもらえるところと、洪水が起こらないところと、
どっちに住みたいかというとやっぱり後者じゃない?
じゃあどうしろっていうのって聞かれても分からないけど。

平等とか不平等とか、
それがいいのか悪いのかとか。
価値観にかかわる問題はすごく難しい。
タイの価値観を知って、
それを自分の価値観とすり合わせないといけない。

きっと、タイの価値観を知る前に、
自分の価値観をもっと確立しないといけない。
と思った。


まだまだ長い旅になりそう。

2010年8月30日月曜日

The Back Horn

昨日は友達に誘われて、

ガンダム00 Supporter's Gathering 2010 -A trailer for the trailblazerII-

というイベントに、ガンダム全然知らんのに行ってきました。
未知の世界で、めっちゃ楽しかった。
けど、俺なんかが冷やかしでいていいのかな、と非常に申し訳ない感じでした。。

ごめん!


で、そこで生The Back Hornを観て来た。
あの中で、7年も前からバクホンを知っているのは俺くらいじゃない!?
思わず「まさしー!」と叫んでしまった。
…とか言いつつ、最近あんま聴いてないけど笑

実は、生で姿を見るのは初めてだけど、
生で曲を聴くのは2回目、というトリッキーなことになっている。
4年前、バクホンは「弾き叫びツアー」という路上ライブツアーをやっていて、
それを俺は三条大橋の上で「なんかこれバックホーンに似てるかも」と思いつつ、
受験前で急いでて通り過ぎざるを得なかったという、すれ違い。
なので、4年越しの雪辱でした。


俺がバックホーンを知ったのは、
↓この曲だった。




アルバム「イキルサイノウ」のころの悩ましい感じの音が好き。
↓シングルじゃないけど、これも名曲。



最近は曲調が力強い感じに変わりつつあるけど、
でもやっぱ好き。

↓昨日演奏してた曲。2曲目はわからなかった。「警鐘」って曲だった?





9月15日にアルバム出るって。
買おうかな。


あ、そうそう、
今日から21日朝までタイに行ってきます。
不在通知でした。いちおう。

2010年8月28日土曜日

自衛隊みてきた。

「ドン!」

という音とともに、バスが揺れる。トランクを閉めた音だ、と誰かが言った。けれど、その後でまたドンドン!と空気が揺れて、あ、そうか。これも砲弾の音なのか。と僕は気付く。

 皮肉なもので、バスという壁いちまいを隔てて聞いた音のほうがリアルに感じる。昼間に観覧席から見ていたときは、こんなに体の芯に響く音だと気付かなかったのに。それはたぶん、僕たちの生活が、戦争というものと幾重もの壁を隔てているからだ。テレビを観るように、バスの窓越しに感じる方が、僕の知っている「戦争」に近い。つまり、いつかどこかで誰かがやってる、自分とは関係のないこと。

 僕たちは、戦争との距離を掴めずにいる。きっと、実際に戦争が目の前で起こってもそうだろう。目の前で起こっているからリアルかと言えばそんなことはない。鼓膜を突き破るような大きい音、炸裂する閃光、上がる土煙。こんな光景をいままで見たことがないし、すごいと思う。思うけれど、心に響くかといえば、そうでもない。正直、富士総合火力演習を見ても何も分からなかった。延々と続く火器の解説を聞きながら、まるで兵器の見本市にいるような感覚になる。砲弾が発射されると起こる「おおっ」というざわめきに混じって声を上げつつも、一体これは何を見せたいのか、そして何よりも自分は何を見たいのかがわからない。けれど少なくとも、動いている機械の、機械的な説明じゃない気がした。

 そう、聞きたかったのはきっと、耳を塞いでも響いてくる轟音じゃない。遠くからだと聞き取れないような、息づかいに耳を澄ませたかった。自衛隊にはどういう人がいて、どういう汗を流して、どういう悩みを抱えて国防の最前線に立っているのか。そのストーリーを、リアルさを、僕は知りたかった。目の前で兵器が動くのを見ればリアルかと言えば、そんなことはない。富士総合火力演習がただのショーに見えて、残念だった。

もっと想像力を働かせて、いろんなことをリアルに感じれるようになりたい、と思った1日だった。良い経験になった。







自衛隊の火力演習にゼミで行ってきた感想。
「自衛隊すごかった! これからもがんばってね!」という感想を書けという無言のプレッシャーみたいなのがあって、じゃあ絶対違うこと書こう、と思って書いた文章(笑)。


とにかく、
「リアルさ」に関しては簡単に譲れない。
目の前で見ればリアルかと言えばそんなことはない。

むしろこの火力演習は、
軍事マニアみたいな、「非現実」を求めてくる人に媚びたつくりになっている。
目の前で「非現実」をぶっ放せばリアルになるかというと、
兵器のディテールを語ればそれがリアルかというと、
そんなことないんじゃない。
少なくとも俺はそんなマニアックなことを聞きに来た訳じゃない。


でもじゃあ、
何を観に来たのかというとあんまりはっきり答えられなくて、
自分の立ち位置の曖昧さに絶望する。
俺の「リアル」は何なのか。
よくわからない。

そういう、よくわからなくなる、良い機会になった。
上の感想の最後、「良い機会になった」というのはなんか取って付けた感じがするけど、
まあ良い機会にはなったと思うよ。

そんなすぐに答えが出ることじゃない。
リアルさって何なのかとか、平和とか戦争とか。
いろんなことが頭の中をぐるぐる回る。
そういう良い機会になったと思う。ほんと。

2010年8月19日木曜日

久しぶりに高校演劇みた。

北千住で友達と飲む約束があった。
その前にいろいろ買い物しようと思ったら行こうと思ってた店がことごとく休みで途方に暮れる。
時間もて余しまくり。


でもたまたま、高校演劇フェスティバルが、
OIOI(マルイ)にある、
シアター1010(せんじゅ)というところでやってたから、
一校だけ観てきた。


劇場には、高校生とその保護者だらけで、
なんか俺には場違い感が漂う。
すごく年を取った気分になる。
もうちょい年を取ったら、逆になじめるようになるのかな。


でも実は、高校演劇を生で観るのって、二回目?
演劇ぜんぜんみてないなー、と反省した。


俺が観たのは、
授業参観のときの生徒会室で、現生徒会とその親がとりとめなくしゃべる、という劇だった。
舞台装置はすごくシンプルで、机と椅子だけ。
ストーリーも、なんか事件が起こるでもなく淡々と進む。


初めは、間の取り方がなんか息があってない感じで、
笑いを取るとこもすべってたけど、
一度笑いが起こった後は、なんだかスイッチが入ったみたいで、
別に大したストーリーじゃなかったけど、
なぜか面白かった。


それはたぶんひとつには、俺が年をとったというのがあって(笑)、
若い人を見てるだけで面白い気がする。
未知との遭遇だから。
別に何が違うってわけでもないけど、
一日中眺めてても飽きない風景みたいに、
人間観察は面白い。たぶんそれは若い人に限らず面白い。


で、もひとつは、高校生の力量だ。
俺はあんまうまいへたとかわからんけど、
なんとなく客席の空気を読みながら丁寧にやってた気がする。
ただそこで延々流れてる映像と演劇は違う。
なんかそうやって舞台と客席が互いに探りあってる空気感みたいなのがあって、
初めの微妙な空気がいつの間にかいい空気に変わってて、
面白かった。


なんかいいな、高校演劇。
誰か、来週末土日の、優秀高東京公演観に行きませんか? チケットまだあるか怪しいけど。

2010年8月18日水曜日

神聖かまってちゃん

きのうカラオケ行って、
みんなが神聖かまってちゃんを知らないことに衝撃を受けたので、
あと、俺がかまってちゃんの曲を歌えなすぎることに衝撃を受けたので(笑)、
ブログに書こうと思って。





かまってちゃんは、
非リア充界のカート・コバーン、の子(Vo.)を擁する4人組のバンド。
音楽性のなさと、薄っぺらさでもって、
ネット世代のリアルを体現している。

音楽って、音楽性があればいいかといえばそういうわけじゃなくて、
例えば、いつも吉野家を食べてる人が、
突然、高級料亭に行っても食べ物が喉を通らないみたいに、
非リア充には非リア充の音楽がある。
安っぽさが逆にしっくりきたりする。


もはや、モテない男が聞く音楽と言えば、
神聖かまってちゃんか銀杏ボーイズか、
というくらいの活躍っぷりなんです。


中でも、の子のカリスマ性は圧倒的で、
俺はずっとかまってちゃんを敬遠してたけど、
↓この非リア充っぷりを見て、おののいた。




…すごくない?
真似できない!
というか真似したくない(笑)

2010年8月16日月曜日

じこはおこるさ

この名曲を知っていますか?
なんかこれ、つぶやいたけどブログには載せてないなと思って。
歌詞といっしょにどうぞ。


「じこはおこるさ」(日本語歌詞)

スリルなんてちょっとなら楽しみさ
でもイライラすると事故が起きる
へっちゃらさ なんて知らん顔して
走っているとそんな時

事故がほら起きるよ いきなり来る
調子乗ってやってるとバチがあたる
事故がほら 起きるよ
いい気になってると
そうさ、よそ見してるその時に
事故は 起きるものさ

思いつきでやると きっと 失敗するよ
幸運の女神は気まぐれだから
ウキウキしてるとまっさかさま
忘れないで気をつけてね いつだって

事故がほら起きるよ 突然さ
運が無い時はしょうがない
なんとかしよう

事故がもし起きたら
落ち込まないで
うまくやれるようにがんばろうよ
事故は起きるものさ

”標識はいくつもあるのにさ
大事なモノばかり見落とすね”
そんな時必ずやってくる
二度とやらなければいいけど

事故がほら起きるよ いきなり来る
調子乗ってやってると
バチがあたる
事故がほら起きるよ
いい気になってると
そうさ、よそ見してるその時に
事故は起きるものさ

事故がほら起きるよ突然さ
運が無い時はしょうがない
なんとかしよう
事故がもし起きたら
落ち込まないで

「まぁ、自信過剰だと集中力なんて
たいがい散漫になっちゃうからね」

事故だ 事故だ
忘れてると事故は起こるさ
ほーら!



このポジティブさ!

いやー、こういうひといるやんな。
おかしいやろ、そこ笑うとこちゃうやろ!とか、
いっぺん電車にひかれてみればいいのに!みたいな人。


でも、
きかんしゃトーマスの話って、だいたい事故が起こるのが多い。
福知山線脱線事故以降なら、即打ち切りやろうな。。



さいきんこういうどうでもいい話ばっかやね。
ごめんなさい。。

2010年8月14日土曜日

越後妻有

大地の祭りに行ってきました。
アートと地域の関係性。
去年の水都大阪2009を思い出した。
1年前の今ごろは、中之島でハンガーと格闘してたことを思い出してなんか不思議な気分になる。
あれからまだ1年しか経ってないのか。



とりあえず写真を載せます。

カメラ使うのが半年ぶり。
もうちょっと、月にフィルム1本くらいのペースで撮っていこう。



解説はめんどいから適当やな。ごめん。。

俺に似てる、と専攻の友達からいわれた。そうかも。

地元の料理バイキング。ベジタリアン料理みたいだった。




有名な作品。もともとある棚田を使ったインスタレーション。借景的な。

教室中が黒板になってて、自由に落書きできる。



竹炭ロールケーキ。

鍋がめっちゃいっぱいぶら下がってる作品。

小学校の校舎全体を使った作品。ちょっとブレてるなこれ。


「夢の家」という。家を一軒つかった作品。こういうホラーな棺桶に入って寝て、見た夢を「夢の本」に書き溜めて行く。ちなみに寝てるのはうちの専攻長です。



もうちょっと写真あるけど、見たい人はfacebookに上げたからみてね。

2010年8月8日日曜日

正しいタバコの吸い方

なんか友達とタバコトークをしていて、
この動画を思い出した。
ちなみに俺は吸いませんすいません。




そんだけです。
これ前もブログに書いたやんな。
使い回しでごめん。

2010年8月6日金曜日

ずーん

という気分で帰省。
しばらく立ち直れなさそう。



昨日まで、北海道は洞爺湖に行ってた。
水の活動をしている中高生のフォーラムがあって、俺はファシリテーターをしていた。
もう3回目なのに、今年が一番うまくいかなかった。

はたから見ればうまくまとまったし、
参加者の子も割と楽しそうだったし、
何かトラブルがあったわけでもない。

でも、なんかしっくりこないねん。


なんとなく。


子どもたちに申し訳ないとか言いつつ、
実は自己満足したいだけなんやろうなーと思いつつ、
悶々とする。




なんかうまく言えないけど、
いっしょに楽しむことはできたけど、
いっしょに悩むことができたのか。
ということに、俺はひとり悩んでしまう。

自慢じゃないけど、
悩むことにかけては、病的に自信がある。
ほっといても悩む。
悩むなと言われても逆に悩む。

だからきっと、
俺がファシリテーターとしてできることがあるとすれば、
いっしょに悩むことしかないんじゃないかな。
楽しむことは当然として。

でも今回は、
俺は俺で悩んで、
みんなはみんなで悩んで、
それぞれ自分の中に悩みを抱えたままで、
悩みが交じり合わなかったような気がする。


別に、悩みを解決しようなんて思わない。
いっしょに悩んだくらいで解けてしまう、
簡単なことを話してるわけじゃないから。
でも、そんな簡単じゃないから、
せめていっしょに悩みたい。
何もできないけど、せめてそばにいたい。



そういうことができると思っていた。
他のことはまるでヘタクソだけど、
悩むくらいできると自分を過信していた。


みたいな悩みが空の青さと混ざって、ずーんとのしかかってくる。
メロディのないセミの鳴き声が、思考のループを連想させる。
そんな、実家の夏。


しばらく悩みます。

2010年7月28日水曜日

紙に書くととりとめがない。

ちょっと前、
ブログになんかネガティブなこと書いたけど、
紙の日記を1年ぶりに開いて、
とりとめのないことを書いてすっきりした。

紙っていいな、
書き進めるうちに
なんか書きたいことがどんどんずれていって。
そして、ブログと違ってあんま書き直せない。

ずれというのは、言い換えれば、変化だ。
書くことで俺は、ずれてぶれて、変わっていける。
気持ちとか言いたいこととかが、
どんどん変わっていく。


それって、人生そのものじゃない?

紙に残ったずれの中に、
俺の過去と未来がある。
明日も、とりとめなく生きていこう。

2010年7月26日月曜日

ラブ・パレード

7月24日にドイツ西部のデュイスブルクで行なわれた、
欧州最大のテクノイベント「Love Parade」。
容量オーバーの会場で、観客が押し寄せて19人が死亡した。


このイベントは、
YoutubeとかUstreamでも中継されていて、
俺もUstreamでちらっと見ていた。
けっこういい音を出してた気がする。

そのライブカムの向こうで、
その音楽の後ろで、
人が死んでいたという事実に動揺してしまう。


↓このページに証言がいっぱい書いてあって、
BBC News - Eyewitness accounts: Duisburg stampede

和訳とかあんま正確じゃないけど、
上の記事からの抜粋です。


"The people couldn't get any air. I saw the dead there. One person was completely pale and I wanted to give him some water but a medic said that wouldn't help him - he was already gone."
(みんなぜんぜん息を吸えなかった。死んでいる人を見た。ある人はまったく生気がなくて、私は彼に水をあげようとしたけど、救助隊にムダだと言われた。もう死んでる、って。)


"...we saw that the first people were already lying on the ground.

Others climbed up the walls and tried somehow to get into the grounds from the side, and the people in the crowd that moved up simply ran over those who were lying on the ground."
(一番先頭(の列)の人はもう地面に倒れていた。
他の人たちは、壁を登ってどうにかして横から会場に入ろうとした。そうやって登っていった人は、倒れてる人を踏みつけていったんだ。)


"I was lucky. I found a hole to escape through but two women were killed right next to me."
(私はたまたま助かったの。逃げるためのすきまを見つけて。でも私の隣で2人の女性が死んだわ。)



ほんとひどい。
まるで戦争の話を聞いてるみたい。

人間ってひどいことするな。
なんかすごく暗い気分になる。




でも朝起きて、
↓この映像を見て、一瞬泣きそうになった。



みんな手を取り合っている姿。

これだけの人が死んでしまったけど、
助け合う心が死んでしまったわけじゃない。
それだけが、救いだ。

なんかそれにほっと安心する。
安心していいのかわからないけど。


亡くなった方のご冥福をお祈りします。

2010年7月24日土曜日

くさっても

タイに行くことにしました。

でももうこんな時期だから安いチケット残ってなくて、高い。
高いけど、でまここで予約しなかったらまた悩む。
と思って予約したけど、
もっと安いのあったんじゃないかな、とか、
ほんとに行っていいのかな、とか、
やっぱり悩む。

悩むときは、何をしたって悩む。

悩まなかったら今度は逆に、
「こんな重大なことに悩まない俺っていいん??」
と、悩むことになる。
実際、今もひとつ悩んでるのはこれ系。


なんていうか、
悩んでるときのほうが逆に安心するみたいな。
心の貧乏性的な。

まあ悩みつつもちっちゃな一歩を踏み出したので、
タイで調査をがんばります。
タイについて詳しい人、教えてね!

2010年7月19日月曜日

ふぁみま






なんとあのワンフレーズでこんなことできるの??
すげー。
なんかファミマというより、もはや、
別の世界に入店してしまった的な。

最近、Electribeが欲しくてたまらない。
赤い方。
めっちゃ高いけど、買いたい。。

2010年7月14日水曜日

NODA MAP「ザ・キャラクター」

一念発起して、野田秀樹を観てきた。
せっかく東京に出てきたからには、的な。
でも、なんで全国公演しないんやろう。。

(以下、ネタバレが怖い人は読まないでね)

なんかツイッターをみてると、
「すごかった」という感想が多かったけど、
まさにその言葉が相応しかった。

書道系(?)カルト教団に入信した弟を取り返そうと姉が教団に潜入する、という話。
野田秀樹らしく、
言葉遊びで物語は巧妙に狂わされ、
歯車が噛み合わないまま回転していく。
教団の暴走がギリシャ神話と複雑に重なりあいながら、
だんだん現実と幻がよくわからなくなる。






「ことばの力」というものを、
信じる人間と信じない人間がいる。
俺は信じないタイプの方で、
だから、言葉遊びという「ことばの力」に頼る野田秀樹とは相容れないと思っていた。

でも今日劇を観て、
野田秀樹は、言葉で「遊んでいる」というよりも、
言葉を「もてあそんでいる」ような気がした。
これでもかというほど敢えてもてあそぶことで、
ことばは信じられないものだ。と言っているんじゃないだろうか。


カルト教団では教祖の言葉が絶対で、
なのに、わざとことば足らずにして解釈の余地を残す。
その余地によって、
教祖の神聖性は守られ、
意味は都合よく後付けされる。
そうして言葉は、もてあそばれる。

言葉がいかに狂わされ、
取り違えられるかを示すことで、
「ことばの力」の不完全さが見えた。
ことばに、力がないとは思わない。
でもその力は思い通りにならないもので、
信頼してはいけないと俺は思っている。
狂わされた言葉に、今度は人間が狂わされる。



それでも、
ことばを使わずに生きていくことはできない。
劇中に、こんな台詞が出てくる。

"もちろん、忘れるために祈るわ。
けれど、忘れ切れないものが残るでしょう?
忘れられないものがあることを忘れないために、私は祈るの。"

そんなふうに、
ことばへの疑念を持ちつつも、
ことばを完全に捨て去ることはできない。
その捨て去れない言葉の中に、言葉と言葉の間に、
思いを込めて、人はしゃべるんだ。


だから、
信じるために疑おう。
という、決意。

2010年7月3日土曜日

インドのインターネット検閲

インド、「ブラックベリー」「スカイプ」規制か (日経新聞)
http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C9381959FE2E0E2E6878DE2E1E2E5E0E2E3E2E2E2E2E2E2E2?n_cid=DSGGL001


前にTwitterで、スカイプはフリーだけどオープンじゃないのが課題だ、とつぶやいたけど、
これはそういう問題とはちょっと別みたい。


インドは、テロ対策という大義名分を掲げて、
ブラックベリー、スカイプ、Gmail
に通信方式を15日以内に暗号解読可能な形式に変えるように要請している。


ちなみに、中国と比べると、

ブラックベリー → 利用可能。個人向けには、今年6月に発売開始。
スカイプ → 使用可能(ただし、検閲されている
Gmail → もうすぐ使えなくなる?

というかたちになっている。
ブラックベリーに関しては情報はないけど、
たぶん個人向けのがこれだけ遅くなったのは検閲機能を組み込んだからなんじゃないかな。

だって、中国にとって「通信の監視ができること」というのはルールだから。
「これは社会のルールなんだ。みんな守ってるからあなたも守ってくださいね」
と、ここまで開き直られてしまうと、
なんかそれはそれで潔い気もしてくる。
内容はともかくとして、姿勢の話。


それに対して、
インドの検閲という話はあんまり聞かない。
IT系の仕事っていうのはインドの生命線のひとつで、
だからあんまり規制を課せない、とか?
理由はよくわからないけど、
とにかくこうやって突然規制が来るのは理不尽な感じがする。
15日以内とか、絶対むりやろw


でも、↓こんな記事を見ると、

The government has been restricting imports from Chinese telecom equipment manufacturers because of Indian intelligence agency fears that "spyware" could be embedded in the equipment.
It has also restricted the use of mobile phones in violence-wracked Indian Kashmir, where pay-as-you-go phones and the use of text messages have been curtailed. The area is a hotbed of anti-India activity.
AFP

中国並みの検閲体勢があるのかな、とかいう印象を受ける。
WikipediaのInternet Censorship in Indiaという項目を見るとそうでもないみたいだけど。
厳しい検閲体勢をつくりたいけど、まだそこまででもない。的な?


インドのことよくわからない。
でもこれはたぶん、
スカイプがオープンでもプロプライエタリでも関係ない問題みたい。
どうなるのかな。
詳しい人教えてください。

インターンとか行かんとこっかな。

今日、多摩川ゼミという集まりで、
河川工学の権威、高椅裕先生の話を聞いてきた。
もう80歳を超える老人ながら、
その研ぎすまされた思想は衰えない。

今回は、多摩川の基礎情報と歴史の概要みたいな内容だった。
いろいろ面白い話があったけど、そのことはまた回を改めて書きます。



多摩川の基礎情報を話す部分で、
粗度係数とか流量とかの話が出てきて、

勾配とか流量を目で見てわからないと、
いい河川技術者とは言えない。

と言っていた。



そうか!と思った。
俺に足りないのは、こういう技能だ。
知識ではどうにもならないことがある。

前にアラル海に行った時に、
「見ればわかる」という言葉は嘘だ、と思ったけど、
それは俺の目が「見ればわかる」というレベルに達していないからだ。
もっと経験値を増やさないといけない。


いずれ川に関わりたいと思いながら、
遊水地の研究をすると言っておきながら、
俺は実物をぜんぜん見たことがない。

夏休みは、インターンとか全然やめて、
川と遊水地を見まくる旅に出ようかな。
河川工学の本とか引っ張りだして、
勉強し直そうかな。

就活の勉強するのもいいけど、もっと自分の能力を磨きたい。
この夏を逃すともうそんなチャンスはこない。
大して行きたいインターンもないし。



7割くらい決定に近い、思いつき。
残りの3割とは、眠気が収まったら決着をつけます。

2010年6月22日火曜日

暮沢 剛巳、難波 祐子「ビエンナーレの現在―美術をめぐるコミュニティの可能性」

ビエンナーレの現在―美術をめぐるコミュニティの可能性ビエンナーレの現在―美術をめぐるコミュニティの可能性
暮沢 剛巳 難波 祐子

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フィールドワークで越後妻有に行こうとしているので、ちょっと読んでみた。
演劇以外のアートに関する本をちゃんと読んだのは久しぶりなので、新鮮だった。

これは、アート全般の話ではなくて、
「国際美術展」の潮流にフォーカスしている。
市民参加、都市との関わり、美術の現在、グローバリゼーション…
いろんなキーワードが出てくるけどまとめきれないので気になったとこだけ。



ビエンナーレといえば、ベネチア・ビエンナーレが一番有名だ。
このビエンナーレは最も歴史があり、
万国博覧会をモデルにして国別の出展形式をとっている。
「美術のオリンピック」とも言われるこの場で、世界各国が文化的覇権を競い合う。

ベネチア・ビエンナーレは、世界のアートシーンをリードする一方で、
その性格上、大国主義や商業主義に陥りがちになる。

また、ベネチアはいわば覇権争いの戦場になるだけであって、
地元に還元されるものは少ない。
本には、

そのために通りの一階は全部ホテルになり、高級ブティックになってしまい、コミュニティーが存在していないと。かつてヴェネチアに住んでいた人は、とても住んでいられる状況ではなくて、みんな出て行ってしまうと。

と書かれている。


その反省として、1955年からドクメンタが開催される。
これは、ドイツで、おおよそ5年おきに行なわれている国際美術展だ。
ドクメンタでは、ディレクターを毎回選出し、
そのディレクターに展示内容やテーマが一任される。
賞制度はなく、美術の最先端を世界に紹介することを目的としている。

現在は、ディレクターを選出して一任するという、
このドクメンタの形式が国際美術展の一般的なかたちとなっている。



しかし、国際美術展がたくさん増えても、
スター性のあるアーティストやキュレータのみが選ばれてしまう。
また、地域的にも、欧米人や、欧米でアート教育を受けた人に偏ってしまう。
世界のいろんな地域でやっているのにその地域性は息をひそめて、
「どこにいっても同じ」という状況が起こりつつある。
いわゆる、グローバリゼーションという文脈から、アートもまた逃れられない。
ある意味で、国際美術展は文化的な侵略の装置だとさえ言える。


そして、アートは徐々に多様化している。
「○○アート」というような言葉でカテゴライズできなくなった。
ただ鑑賞するものから、参加するものになった。


均質化する一方で多様化もしている、混沌としたアートシーン。
そのカオスを、ひとすくいだけでも整理して意味付けしようとすることができるかが、
国際美術展に問われている。




あと、話は飛ぶけど、本の中のこの引用が印象的だった。

「アートがどんな形をしていようと問題ではない。大切なのはそれがどのように使用されるかだ。重要なことはアートのための場所を見つけ出すことで、作品の解説ではない」
ウェストの言葉を筆者なりに解釈すれば、美術作品には多層的な意味があり、文章によっては語り尽くせない。だからこそ、作品が空間や時間を超えてより多くの人々の目にふれられるよう、展覧会が開催されたり美術館に収蔵されたりすることには意味がある。評論の言葉がいかに栄えても、作品に与えられる物理的な場が貧相になっていくのでは本末転倒というものだ——言論空間以上に「現実空間に場所を」というこの考え方には、これまでにもうなずかされることが多かった。

言論空間より現実空間。
深い。