2010年6月22日火曜日

暮沢 剛巳、難波 祐子「ビエンナーレの現在―美術をめぐるコミュニティの可能性」

ビエンナーレの現在―美術をめぐるコミュニティの可能性ビエンナーレの現在―美術をめぐるコミュニティの可能性
暮沢 剛巳 難波 祐子

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フィールドワークで越後妻有に行こうとしているので、ちょっと読んでみた。
演劇以外のアートに関する本をちゃんと読んだのは久しぶりなので、新鮮だった。

これは、アート全般の話ではなくて、
「国際美術展」の潮流にフォーカスしている。
市民参加、都市との関わり、美術の現在、グローバリゼーション…
いろんなキーワードが出てくるけどまとめきれないので気になったとこだけ。



ビエンナーレといえば、ベネチア・ビエンナーレが一番有名だ。
このビエンナーレは最も歴史があり、
万国博覧会をモデルにして国別の出展形式をとっている。
「美術のオリンピック」とも言われるこの場で、世界各国が文化的覇権を競い合う。

ベネチア・ビエンナーレは、世界のアートシーンをリードする一方で、
その性格上、大国主義や商業主義に陥りがちになる。

また、ベネチアはいわば覇権争いの戦場になるだけであって、
地元に還元されるものは少ない。
本には、

そのために通りの一階は全部ホテルになり、高級ブティックになってしまい、コミュニティーが存在していないと。かつてヴェネチアに住んでいた人は、とても住んでいられる状況ではなくて、みんな出て行ってしまうと。

と書かれている。


その反省として、1955年からドクメンタが開催される。
これは、ドイツで、おおよそ5年おきに行なわれている国際美術展だ。
ドクメンタでは、ディレクターを毎回選出し、
そのディレクターに展示内容やテーマが一任される。
賞制度はなく、美術の最先端を世界に紹介することを目的としている。

現在は、ディレクターを選出して一任するという、
このドクメンタの形式が国際美術展の一般的なかたちとなっている。



しかし、国際美術展がたくさん増えても、
スター性のあるアーティストやキュレータのみが選ばれてしまう。
また、地域的にも、欧米人や、欧米でアート教育を受けた人に偏ってしまう。
世界のいろんな地域でやっているのにその地域性は息をひそめて、
「どこにいっても同じ」という状況が起こりつつある。
いわゆる、グローバリゼーションという文脈から、アートもまた逃れられない。
ある意味で、国際美術展は文化的な侵略の装置だとさえ言える。


そして、アートは徐々に多様化している。
「○○アート」というような言葉でカテゴライズできなくなった。
ただ鑑賞するものから、参加するものになった。


均質化する一方で多様化もしている、混沌としたアートシーン。
そのカオスを、ひとすくいだけでも整理して意味付けしようとすることができるかが、
国際美術展に問われている。




あと、話は飛ぶけど、本の中のこの引用が印象的だった。

「アートがどんな形をしていようと問題ではない。大切なのはそれがどのように使用されるかだ。重要なことはアートのための場所を見つけ出すことで、作品の解説ではない」
ウェストの言葉を筆者なりに解釈すれば、美術作品には多層的な意味があり、文章によっては語り尽くせない。だからこそ、作品が空間や時間を超えてより多くの人々の目にふれられるよう、展覧会が開催されたり美術館に収蔵されたりすることには意味がある。評論の言葉がいかに栄えても、作品に与えられる物理的な場が貧相になっていくのでは本末転倒というものだ——言論空間以上に「現実空間に場所を」というこの考え方には、これまでにもうなずかされることが多かった。

言論空間より現実空間。
深い。

2010年6月20日日曜日

kazumasa hashimoto "Strangeness"

パソコンを学校に移動させたから、
あんまりパーソナルな使い方をしなくなる予感。
ブログとかあんまり書かなくなるかも。
でも今日は、がっこうに誰もいないので書いてみる。



昨日は、A SEED JAPANのミーティングを見学しに、新宿までいった。
ついでに就活セミナーに出ようと思ったけど、
行きの電車で、入場証を印刷したのに忘れたことに気付く。
仕方ないので行くのはやめて、
ミーティングまでタワレコで時間をつぶす。


新宿のタワレコは、
9Fにエレクトロニカとかアンビエントとかのコーナーがあって好き。


久々に行ってみると、
なんとTENORI-ONの体験コーナーが!
↓TENORI-ONってこんなやつ。



まさか触れる日が来るとは思っていなくて、テンション上がった。


そして後ろを振り向くと、
kazumasa hashimotoのアルバムが置いてあった。

strangenessstrangeness
kazumasa hashimoto

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めちゃくちゃ好きだけど、この人のCDは一枚ももっていない。
だって買い始めると切りがないから。
このアルバムもスルーしようかな、と思ったけど、

「全曲Gutevolkがボーカル!」

と書いてあるのを見て、衝動買いしてしまった。
nobleはやっぱメンツが揃ってるなー。
古い映画を見ているような、
このノスタルジックな世界観がたまらない。
kazumasa hashimotoは、音の選び方が丁寧で、好き。


ふと思えば、
こんな平和な音楽を聞きながら院生室にいるなんて。
1年前はFlying Lotusとかだったのに。
戦闘モードの音楽で武装していたのに。
なんか不思議。


好きな音楽と、普段聞いていたい音楽は違って、
後者は精神状態に強く左右される。
去年だったら、nobleのアーティストは好きだけど絶対買わなかったと思う。
今年は逆に、Flying LotusとかWarp Records系のは、好きだけど買わない気がする。
そんな気分じゃないから。なかったから。

ひょっとして、どんな音楽を聴いてるかをちゃんと記録していったら、
普通の日記よりぜんぜん、自分の心の中を思い出せるんじゃないかな、
と思った。

2010年6月13日日曜日

信じること、信じないこと。

Bloggerがデザインをいじりやすくなってたので、変えてみました。
バックは、ウトナイ湖で撮ってきた写真。




こないだ受けた、飛騨高山のファシリテーション研修のことを教授に話すと、

「お前、大丈夫か?
まさか変な自己啓発セミナーに引っかかってるんじゃないだろうな!?」

と言われた(笑)。
詳しく説明して誤解は解けたけど、
でも確かに、ファシリテーション研修というのは怪しげな自己啓発に近い。


「いつも聞けなかったホンネが引き出せる!」
「ばらばらだったチームがまとまる!!」
みたいな過剰な文言と、
高い受講料(経費的には妥当でも)。
開催者側にそんなつもりはなくても
「こんなすごい講座を金出して受けたんだから、俺はすごくなったに違いない!」
とか思ってしまう。
それって、自己啓発じゃない?


もし講座を受けて、
「このやり方が正しくて他のはみんな間違ってる!」という錯覚が生まれるとしたら、
それは教える側にとっても学ぶ側にとっても不幸だ。
ファシリテーションにはいろんな側面があって、
いろんなやり方とか技術があって、
自分の文脈に当てはめないといけない。
その作業をしないなら、
何も学んでいないのと同じだ。

自分に知識を当てはめるのではなくて、
知識に自分を当てはめるのは、
それはそれで気持ちいい。
なんか頭が良くなった気がするから。
高いところに登って、みんなを見下せる気がするから。
そうやってみんな自己啓発セミナーに引っかかっていく。



うちの教授は、
最近の若者はそうやって何でも信じるから困る、という。

えー、そんなことないよ。
俺は何も信じへんもん。

と心の中でふと思って、
でも口に出すのはやめた。
たぶん、俺も教授も、
同じことを言ってるから。


信じるとか信じないとかいうのは、
きっと相対的な問題だ。

心の中に何か信じるものが少なからずあって、
それをモノサシにどれくらい信じるかを判断していく。
何でも信じるとか、
何も信じないとか、
信じる度合いが何でも横並びだとしたら、
それはたぶんモノサシがないからだ。

信じるものが何もないから、
信じることも疑うことも出来ないからだ。

なのに、
「信じるの? 信じないの?」
という二択を迫られる。
どれくらい信じるのか、という程度は問われず、
イエスかノーかだけが問題にされる。

例えば、少年ジャンプを開けば、
「仲間の大切さを信じるの? 信じないの?」
と問われる。
学校の教科書を開けば、
「戦争はダメなことでしょ? 違う?」
と問われる。
まるで踏み絵のようにして、
問い詰められる。

詰め寄られて俺は、
薄っぺらく「信じる」と答えるしかない。
そうやって「信じる」の安売りをするたびに、
「信じる」という言葉が嘘っぽくなる。
だんだん薄まって拡散して、
信じることも信じないこともあんまり変わらない気がしてくる。

だから不安になって、
闇雲に信じられるものを探してしまう。
使い捨てのように、
信じては疑い、疑っては信じる。
信じられるものがある、
ということだけは信じ続けたいから。


俺はでも、そうする内に、
「信じる」ことが信じられなくなる。
みんながどうかはよくわからないけど。
信じる勇気も疑う勇気もないまま、
ふわふわ生きている。

2010年6月5日土曜日

水都大阪2009の跡地で思ったこと

おとつい、水都大阪2009の跡地に行ってきた。
そしたら、なにも残ってなかった。
中之島は、整備されてきれいになって、
俺が知ってる場所じゃなくなっていた。
水都大阪2009は、
去年の夏に52日間に渡って開催された水辺のアートイベント。
メイン会場である中之島公園では、アーティストのひとが作品を作っていた。
水都大阪は、作品の展示ではなくて、公開製作に近い。
52日間で100組以上のアーティストがワークショップを開き、
そこでできた作品が徐々に会場を変化させていく。
できた作品よりも、
その変化や、
さらには変化を生み出す過程(ワークショップとか)が、イベントの核だった。
静的な、完成度を問うのではなくて、
動きのある、生き生きした空間をつくることが目指された。
だってそれは、この町そのものだから。
俺たちが欲しいのは、
「お手を触れないでください」と注意書きがしてある、お高い芸術品のような、
完成した町じゃない。
もっと安っぽくてもいいから、
そこで自分たちが人間らしく暮らしていける、
未完成の町だ。

だから、
アーティストのひとだけがつくるわけじゃないし、
企画した偉いひとの思惑の中に収まるわけでもない。
ボランティアも、来場者も含めて、
みんなでつくっていくイベントだった。
俺が手伝っていたアーティストは、
「未完成をデザインする」みたいな言葉を使っていたけど、
完成の中にいかに未完成を組み込むかが問われている。
未完成というのりしろがあることで、
意図していなかったなにかが生まれる。
意図しない要素を、
いかに意図的に組み込むのか。
どこまで組み込むのか。
でも、
プランニングもマネジメントも、
「する」ことには慣れているけれど、
「しない」のには戸惑いを隠せない。
マネジメントしないこともマネジメントなんだ、
と胸を張って言えるような方法論は確立していないから。
報告書でも、完成度だけが評価されて、未完成をいかにデザインしているかはあまり顧みられない。
かくして、完成だけが闇雲に志向されてしまう。

ちょっと話がそれてきたので、
冒頭の中之島公園のことに戻すと、
俺がショックを受けたのは、
中之島公園がすっかり「完成」してしまっていることだった。
中之島は、前は更地だったところが緑地公園みたいになってて、
しかも芝生は立ち入り禁止だ。
きれいに整備されつくして、関われる「未完成」がどこにも見当たらないような気がした。
単なるお客さん扱いされている気になって、なんか悔しい。
水都大阪の名残がないのは、寂しいけどまあいい。
とにかく、形は変わっても、
あのほとばしるような可能性だけは消えないでほしかった。
いや、消えてないか。
誰かがそこに可能性をみる限り、可能性は消えない。
大阪はそういうことができる場所だと俺は思う。
次いったら、
芝生が踏み荒らされて(笑)、
みんなその上で遊んだり楽器の練習したり、
みたいな光景を見られるのを楽しみにしつつ、
関西を後にする。

飛騨高山いってきます。

2010年6月2日水曜日

はじめての、里帰り。

といっても、実家には一瞬帰るだけだけど。


でも、不思議と「帰る」という感覚はない。


なんか暗い言い方をするとさ、
俺に帰る場所なんてないんじゃないのかな、と時々思う。
誰にも好かれない代わりに誰にも嫌わないように、
どこにも属さないように生きるのが身に染み付いてしまって。


大阪は生まれただけで、

京都は育っただけで、

千葉は今たまたま住んでるだけ。


マクドナルドで延々話してる高校生みたいに、
俺はいつも家に帰りたくない。
どこでもないここにいたい。
誰でもない匿名の誰かでいたい。

いなくなりたいわけじゃなくて、
行方不明で、いたい。
そんな欲求に駆られる。


そして世界は、俺のそんな邪悪な欲求を実現する方向に回っている。
グローバル化した世界は均質で、どこでも同じ空間が広がっている。
個人は、名前とか所属みたいな情報にとって代わられ、顔が見えなくなる。

「どこでもない」「誰でもない」は、
「どこでもいい」「誰でもいい」に巧妙にすり替えられる。
場所も人も、取り替えがきくものとして大量生産されてしまう。


行方不明になりたかっただけなのに、
どこまで走っても同じ場所で、
いつの間にか人混みに紛れてみんなと同じ人間になっている。

隠れたかっただけなのに、
薄められて、さらけ出されてしまう。


どこにも逃げ場はない。
俺はどこにも行けないし、どこにも帰れない。
だってどこでも同じなんだから。

なんていう妄想を、

大阪は、乱暴に俺を叩いて振り払ってくれる。
癖が強いから好き嫌いあるけど、
俺は好き。大阪。


大阪に、帰ってきます。
実家にも帰ってきます。
つっこまれて元気になってきます。

…なにこの暗い日記?(笑)

2010年6月1日火曜日

Edward W. Soja 「ポストモダン地理学―批判的社会理論における空間の位相」

ポストモダン地理学―批判的社会理論における空間の位相ポストモダン地理学―批判的社会理論における空間の位相
Edward W. Soja

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やっと読み終わった。
実に、3週間くらいこの本を読み続けていた。
初めに本を借りた時からすると、もう半年くらいは経っている。

こんなに手ごわい本に出会うのは何年ぶりだろう。
小学3年生で「西遊記」を読もうとして以来じゃないか(笑)

書いてある内容は、かなり抽象的な話。
フーコーとかルフェーブルとか、
難解な哲学が俺の瞼を重たくする。
気を抜くと寝てしまう。。

でもなんか、こんな苦労して読み切ったのに、
詳しい内容覚えてないわ。
あんまり理解できてない。


ものごとをみるときに、
時間という軸(歴史)と空間という軸(地理)があるけど、
これまでは、歴史と地理が分断され、
しかも歴史にばかり目がいっていたのではないか。
よいうような内容。

流れとしては、マルクス主義のことが中心になっている。
マルクス主義は、社会の階級構造を批判することに集中しすぎて、
地理的な不均等性(「中心」と「周辺」)に目が向けられてこなかった。
みたいな感じ?
マルクス主義があんまよくわからない。


すごく抽象的な感じでよくわからなかったけど、
たぶんかなりラディカルな主張が書かれている。
資本主義なんて滅びればいいのに、的な。

そういうラディカルさにはそこまで賛同できないけど、
最近出た著書のタイトルにもなっているように、
ソジャは「空間的な正義」みたいなものを探している。

Seeking Spatial Justice (Globalization and Community)Seeking Spatial Justice (Globalization and Community)

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なんでスラムが出来るの?

とか、

なんで黒人と白人は分かれて住んでいるの?

とか、
そういう、空間に関わる違和感を、
俺は丁寧に探らなくてはいけない。
たぶんこの本もっとちゃんと読んだほうがいいんだろうな。

今学期中には読もう。