2009年4月29日水曜日

ぜつぼう

というタイトルの小説を読みたい。
本谷有希子の描く、ぬるい絶望はすばらしい。

みたいな話をしたいわけではないけど、
日常はぬるい絶望に満ちている。
昨日もちょっとした絶望を味わった。
研究室の準教授の頭悪さに。


俺の第一希望の院は、院試に研究計画書が要る。

でもうちは卒論後期からなので、
そんなのどうやって書けばいいかぜんぜん分からなくて、
きのう準教授に聞きにいった。


すると、準教授は、
「そんなの適当にやったら通るんだよー!」と言う。
真正面に構えないことが占い師のコツだというが、
学問もまあ占いみたいなもんで、
どうやら俺の質問に真正面からは答える気はないらしい。

‥いらっ。


俺がイラっとしているのを察したのか、
「じゃあ俺が受かりそうな研究計画書のタイトルを考えてやるよ!」
と言って、おもむろに院のパンフレットをめくり始める。
「こういうのは教授が好きそうな言葉を入れとけばいいんだ!」
と、その辺に書いてあるキーワードをつなげてみる。

エンジニアは専門家ではなくて、
いろんな知識をきれいにつなげ合わせれる仕事だ。
というのがその人の持論だが、
紡ぎだされた研究計画書のタイトルは、しかし
フランケンシュタインのようだった。

「水利施設の防災プロジェクトのリスクマネジメントのアカウンタビリティについて」

確かに、「の」の法則を押さえたネーミングではあるけれど。
準教授は誇らしげに「これで合格間違いなし!」と言う。


‥いらいらっ。


仕方ないので、研究計画書の話はやめて、
もうちょい一般的な話題をしてみる。
土木計画にもっと弱い人の意見とかを入れるには
どうすればいいかに興味があるんですよー。
みたいなことを言うと、
「あー、じゃあパブリックマネジメントの研究とかをしたらいいんじゃない?」と言われた。
パブリックマネジメントというのはたぶん「ちゃんと市民の意見とかも取り入れつつ政策決定するマネジメント技術」みたいな意味だと思う。

ここまではいい。たぶん俺の興味と一致している。
でも、よくよく聞いていると、
準教授は、パブリックマネジメントのことを
「文句を言う市民をなだめすかし納得させる方法」
だと思い込んでいる。

なにその上から目線?


‥いらいらいらっ。


まさか、ここまで話が通じない人間だと思っていなかった。
40代くらいだけど、化石のような考え方のオッサンだ。
このひとのもとに一年間いるなんて。

ぬるい絶望を覚えた。

Điện Biên Phủ


西島大介「ディエンビエンフー」


ベトナム戦争を題材にしたマンガ。
をジャケ買いした。
こういう絵が描けるようになりたかった。


アメリカ軍の臆病な従軍カメラマンが、
北ベトナムの戦闘員の女の子を好きになって、
超人的なアメリカ軍の兵士が戦うけど、
その女の子の魔人的な強さの前に殺されていく。
という話。

かわいいキャラがグロいことをする。
という構造がアメリカのアニメによく似てる。
グロいことをちゃんとグロく描く、その真面目さが違うけど。


ベトナム戦争が舞台だけど、
ベトナム戦争のことを描きたいわけではないのかもしれない。
戦争を題材にしたマンガにありがちな、ことさらに「平和」とか「愛」みたいなのを振りかざしたりしないのに共感を覚えた。

2009年4月26日日曜日

【本】CasaBRUTUS特別編集 ニッポンのモダニズム建築100


CasaBRUTUS特別編集 ニッポンのモダニズム建築100



思うに土木には、空間論が足りない。
世界は物質だけでなりたっているわけではないことを忘れている。
俺たちは意味の宇宙を泳いでいるのに。

建築と土木の一番大きな違いは、
人がそこにいることを想定しているかいないかだ。
だから土木の足りない部分を知るために、建築の本を読もうと思う。


モダニズムというのは日本語で言うと「近代化」だけど、
西洋にとっての近代化は、伝統様式と決別して機能性・合理性を重視することで
日本にとっての近代化は、西洋の伝統様式を真似ることで、
別の、というかむしろ逆の意味だ。
なのでややこしいので、前者の意味での近代化は「モダニズム」と呼ぶことになっている。


日本でのモダニズムの歴史を少し振り返ってみる。
(この本の受け売りだけど)


日本の様式や西洋の様式の表面的な模倣をやめて、
新しい建築をつくっていこうとする運動が起こったのは、1920年代。
伝統をうわべだけなぞるのではなくて、
西洋と日本の伝統の根源にある考え方を融合させようという運動。

しかし、戦争中のナショナリズムの高まりによって、
日本の様式を過度に重視する帝冠様式が台頭し、
モダニズムは一時影を潜める。

戦後になるとモダニズムはまた復活して、
丹下健三や前川国男などがモダニズム建築をひっぱっていく。
高度経済成長期で、みんなが発展や未来の可能性を信じていた時代だった。

1970年代、モダニズムの合理性・機能性追求は行き過ぎているんじゃないか、
モダニズムみたいな味気ないやつじゃなくて、
もっと芸術的な建築をつくろう。というポストモダンの動きが生まれる。
よくわからないけどたぶん、
モダニズムは理論重視で、
ポストモダンはセンス重視、
みたいな感じなのかな。

でもそれも1980年代くらいで収まってきて、
いまもモダニズムは続いている。
モダニズムは、未来を目指す運動だ。


そんなモダニズム建築がどんどん取り壊されている。
過去の未来は、過去だ。
モダニズム建築は機能性重視だから、
ぱっとみてもすごさがわからないものも多い。
でも、その地味な外見の中には、建築家の想いや知恵が込められている。


そんな優れたモダニズム建築を残そう、という世界的な運動が
DOCOMOMO(Documentation and Conservation of buildings,sites and neighbourhoods of the Modern Movement)
だ。

DOCOMOMOが残そうとしているのは、
どっちかというと物質としての建物ではなくて
建物に込められた意味だ。

でも、それはとても難しい。
たとえ建物は残せても、
その建物にまつわるストーリーはどんどん鮮度を失っていく。
意味は死に絶えるかもしれない。

まだまだモダニズムの延長線上にある現代において、
建物に込められた意味や知恵を、
そしてそれだけでなくて、失敗を。
学ぶことは、とても大切だ。
歴史に学ばない者は歴史を繰り返す。

2009年4月25日土曜日

日本の意地、本の意地

グーグルの書籍サービス、作家ら174人が和解案拒否(NIKKEI NET)
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20090425AT1G2500P25042009.html

Googleが、絶版の書籍を、著作者に許可なくスキャンして一部公開したことで、著作者が怒っていた問題。アメリカでは日本の著作物は手に入りにくいから、勝手に「絶版」とされってしまうる可能性もある。アメリカでは著作権者とGoogleは、Googleが収益の63%を支払うことで和解して、日本の著作権者がそれを受け入れるかどうか、判断を迫られていた。

答えは、ノーだった。

「米国の作家らとの和解が、日本の作家に一方的に押しつけられるのは認められない」

みたいな感じのことを言ってるらしい。

63%は、Googleにとって赤字覚悟とも言える数字で、決して低いわけではない。
問題は、この数字が妥当かではなくて、それを決める過程が妥当だったか、という部分だ。
和解したのはアメリカだけでやってた話で、なぜそれに日本が従わないといけないのか、という、プライド。
ここで引き下がっては、ますますグローバル化する世界の中で、生きていくことはできない。
そういう覚悟でやっている。
としたらカッコいいけど、そんなのじゃなくて、ただの意地っ張りなだけのかもしれない。

探偵ナイトスクープに調べてほしい



バーニングって何?と思ってWikipediaを見ても、「バーニングプロダクション」の項目が削除されている(「バーニングプロダクション」4月21日の差分)。

別に北野誠のファンなわけではない。
でもなんか、逮捕された草なぎ剛は戻ってこれるのに、
違法行為をしたわけでもない北野誠が追放になるのは、不公平だ。

【本】資源を見る眼 現場からの分配論


佐藤仁「資源を見る眼 現場からの分配論」東信堂 2008



こんなに本を読むのはたぶん1回生以来で久しぶりだけど、
昔と違うのは、
新しい知識でも、新しく学ぶというより
再発見する、みたいな感覚を覚える。
3年間ほとんど勉強しなかった気がしたけど、
意外とパズルピースは自分の中に揃っているのかもしれない。

読むのが遅いのは相変わらずだけど。


この本は、研究員をしている先輩から勧められた。
勧められるだけあって、視点がとても鋭い本だった。
開発に関わる人間は、必ず読むべき本だとも言える。

「資源」と聞いて何を思い浮かべるだろうか。
石油、木材、水、ウラン。
でもここで取り上げられているのは、そういうものではない。
「地域資源」とかいうときの「資源」のニュアンスに近い


そもそも資源とはなんなのか。
この本の中では「働きかけの対象となる可能性の束」と定義されている。
何が資源になるのかは、資源が決めるわけではなく、
あるものに利益になる可能性を見出す、人間が決める。
何が資源かは人間が決めるから、ひとによって何が資源かという認識は違う。
その違いに眼を向けることが大切だ。


例えば、森林。
ただそこにあるだけでは「自然」だが、
それが材木になるという可能性を見出す人にとっては「資源」となる。
そしてそれは材木という「利益」に変わっていく。
しかし、これはたまたまその人が材木としての可能性を見ただけで、
ある人にとっては観光の「資源」だし、
ある人にとっては文化的なアイデンティティだろう。
そういう違いを見ないことには、現地に即した開発は望めない。

近代科学は物体と事象を分けてみようとするが、
「資源」は、可能性を秘めた物体と、それに可能性を見出すという行為が合わさってはじめて「資源」になる。
ときには物体と事象を一体視しないといけない。

みたいなことが書いてある。
この本で取り上げられている「資源」は、ため池とか農地とか、そういうわかりやすいものから「貧しいというアイデンティティ」とかいう、ちょっと考えただけでは思いつかないようなものまで論じられている。

こういう鋭い視点を、俺ももちたいと思った。

大阪を水の都に

水辺の文化座
http://www.suito-osaka2009.net/


そんなことできるわけないやん。
というのをあえてやろうとする頭の悪さ。
それが大阪の真髄だなーと思う。

8月22日から10月12日まで、大阪中之島で水辺の楽しさを再発見するためのお祭り「水都大阪2009」がある。
今日はそのサポーター説明会に行ってきた。
ヤノベケンジが「あの某知事に、『いやー僕は初めからアートっておもしろいと思ってたんですよ』と言わせるのが目標」と言っていた。
いやほんと、それくらいおもしろい。

52日間は、作品展示のためにあるのではない。
市民が参加して、いっしょに会場も作品もつくっていく。
52日間で会場がどう変わっていくか、その変化も見てほしい。と言っていた。その変化はつまり、大阪そのものの変化になる。

アートディレクターの北川フラムが最後に、なぜこんな時代にアートなのか。と言う説明をしていた。
気候変動とか水質汚染とかで地球はやばいし、
世界同時不況で経済もやばいし、
そんな時代なのに、なぜアートなのか。

それは、アートは「ひとりひとり違うんだ」と伝えることだからだ。と北川は言う。

個性だとか表現だとか言うのは、そういうことでしょ。
東京とかって、ものと情報は集まるけど、なんか人間味がない街だ。
大阪はそういう「大都市さ」で東京と競うんじゃなくて、
多種多様なひとがいることをいかして大阪を盛り上げていくことが大事なんだよ。
アートは多様性を感じるためのツールになる。
みんながロボットみたいに生きてるこんな時代だからこそ、アートが必要なんだ。

的なことを言ってた。
そういう考え方ができることがすでにアートだと感じた。

今年の夏が待ち遠しい。

2009年4月24日金曜日

フィルムカメラ買おうかな。

最近、カメラ欲しいなーと思ってデジカメを探してたけど、
フィルムカメラ買おうかなと思ってきた。

パソコンに読み込むのも、現像するときにCD焼いてもらえるし、
値段も意外と2万5000円くらいであるみたいだし、
自動で露光補正とかしてくれる。

http://fujifilm.jp/personal/filmcamera/35mm/naturaclassica/index.html

GWまでには買いにいこう。

2009年4月23日木曜日

世界水フォーラムに行ってきて

いまさらだけど、1ヶ月前、トルコであったYouth World Water Forumに行ってきた。
書くことがいっぱいありすぎて書けなかったから、一番書きたいことだけ書こっかな。



「Water For All」

というスローガンがよく使われる。
日本語で言うと、すべての人に水を。
そのためには、インターネットで情報交換したり、環境教育したりとかが大事だよね。あー、そうだよね。みたいな話をしてると、トルコ人の女の子がそれにつっかかる。
もっと「All」という言葉に真剣になろう、と。

インターネットが通じない人はどうするのか。
教育を受ける余裕もない人はどうするのか。
どうすればいいのかわからないけど、
どうすればほんとの意味で「Water For All」を実現できるのか、
私たちが頭を痛めないといけないのはそういうところじゃないの?

という言葉に俺はグサッときた。


日本に住んでいると、「みんな」という言葉について深く考えたくなくなる。

「みんな」って、誰?
在日朝鮮人のひとは?
出稼ぎ労働に来てる外国人は?
ホームレスのひとは?

みたいな煩わしい問いを避けて、
日本には「日本人」しか住んでいなくて、
みんな貧しくも豊かでもない。
という幻想にすがりたくなる。
「みんな違ってみんないい」なんて、
どれだけ違うか知っていればそんなに簡単に言えるセリフじゃない。

それはたぶん、
ほっといたら日本が2つに分裂していた、みたいなことはそうそうないからだ。
だから安心して「みんな」という言葉を、考えなく使える。
それがいいのか悪いのか、俺にはわからない。

トルコはたぶんそうじゃない。
地域によって文化が違うし、民族も違うし、宗教も違うだろう。
トルコのことをよく知らないし、それがどういう感覚なのかよくわからないけど、でもたぶん、トルコ人が「みんな」という言葉にこだわるのは、「みんな」とひとくくりにすることが難しい多様性が、トルコの中にあるからな気がした。

そのトルコ人は、「みんな」という言葉の難しさと、大切さを知っていた。


話を戻すと「Water For All」の「All」は、
当然、日本人みんなとかトルコ人みんなとかいう意味ではない。
文字通り「みんな」なのだ。
ひとつの国でさえ、「みんな」と言うことが難しいのに。


「Water For Many」なら簡単だ。
それは誰もが目指している。
企業もNGOもユースも。

でも「Water For All」を、
本当に、
本当の意味で目指している人はどれほどいるのだろうか。
すべてのひとが水を手に入れられるようになるなんて、
まあそういう方向でがんばるけどさ、正直ムリでしょ。
みたいな諦めが絶望が、世界を覆っている。

俺も正直ムリでしょ、そんな夢みたいなこと、とかって思う。

でも、それでも、
誰かが夢みたいなことを言わないと、
現実は変わらない。
きっと、夢みたいなことを真剣に言うのは、
大人じゃなくてユースの仕事だ。

「みんな」っていう言葉をもっと真剣に考えて、
もっと真剣に使いたいと思った5日間だった。

Worldometers

Worldometers
http://www.worldometers.info/jp/

世界のいろんな統計が、リアルタイムな数字で表示される、ただそれだけのページ。
なんか、数字を見るのがいやになる。
もっとぼやっと世界を見ていたいのに。

2009年4月22日水曜日

【本】土木計画学 - 公共選択の社会科学

本を読まないと。
第一希望の大学院が、研究計画書を書かないといけなくて。というか自分が何をしたいのかよくわからなくて。久々に勉強している気がする。

でもひとつ問題があって、
詰め込まないゆとり教育を受けてきて、
テスト前日に詰め込むことを学んだ俺の頭は、
しかしあまりに風通しが良すぎる。
覚えたそばから忘れていく。

それはさすがに困るので、忘れないために本の内容をブログに書いていこうと思う。
たぶん読んだことないとわからない内容になるので、【本】って書いてあるやつはスルーでいっすよ。



藤井 聡「土木計画学—公共選択の社会科学」学芸出版社 2008


3部構成になっている。

I) 土木計画学とはなにか
技術的プランニングと包括的プランニング、プランニングとプラン、とかについて書いてある。序論的な感じでまわりくどい。めんどくさい。

II) 数理的計画論
PERT、CPM、線形計画法(ガウスジョルダン法、シンプレックス法)、非線形計画法(キューン・タッカー条件)、点予測、区間予測、モンテカルロシミュレーション法、費用便益分析(純現在価値、費用便益比、内部収益率)などなど。いつかやったような気がするけど思い出せない。特に線形計画法・非線形計画法が何を言ってるのか理解できなかった。でもけっこう概要は知れて興味深かった。

III) 社会的計画論
帰結主義と非帰結主義、中央的決定と民主的決定、社会的ジレンマ、態度が変容するのを前提にするかしないか、多数の専政、パブリックインボルブメント。民主的に決めるのは合意形成には効果的だけど、それがいい選択に合意するとは限らない。だから頭が悪い大衆の意見を聞くのはそこそこにして、頭がいいエリートが決めるべきだ。的なことが書いてあった。なんかイラっときた。世の中には頭がいいひとと頭が悪いひとと、二種類の人間がいる。という世界観をこの筆者は持ってるわけだが、問題は「頭がいいエリート」をどうやって決めるかという話で、「あ、俺あたまいっすよ」と言ったやつがエリート。みたいな自己申告制かというと、そんなことはない。大体は便宜上、どういう大学出てるかとかそういうので判断するけど、きっとその基準でいくとこの筆者はエリートだ。頭がいいエリートが決めるべきだ、っていう意見は、自分がエリートの座に安穏と座っていられる人間の言葉に聞こえる。まるで他人事みたいな。
っていうのは俺の考え過ぎなのかも知れないけれど、でも意思決定の難しさを知った気がした。

2009年4月21日火曜日

太陽の行く末

Oracle、Sunを買収(ITMedia)
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0904/20/news110.html


えっ!!!


確かに、Oracleのデータベースと、SunのJavaとかサーバ技術を合わせたら、大概のシステムはできる。これはきっとすごいことだ。IBMなんて目ではない。
でも、それはビジネス的に見た場合の話で、オープンソースの発展という意味で言うと‥うーん。って感じがする。

例えば、Sunが2008年に買収したオープンソースデータベースMySQL。
MySQLは、Oracle社の主力製品であるOracle Databaseの最大の競合製品だ(MySQLはフリー、Oracleは商業用)。
はっきり言って、MySQLが幅を利かすようになると(もうなってる?)、Oracleはぜんぜん儲からない。みんな経費削減とか言ってデータベースにお金を出してくれなくなる。

そんな問題児MySQLを、果たしてOracleが本腰を入れて支援するのか。
飼い殺しにされるのではないか、という憶測がネット上で飛び交っている。


IBMが買収するっていう話を聞いた時は、もっとEclipseとかOOoの開発が進むのか、と思って期待してたけど。
まーでもオープンソースって、儲かる訳じゃないもんね。
そもそも買収話が出たのはSunの業績がまずかったからだし、儲からないとマズいですよね。

なんか現実を突きつけられた気がした。

2009年4月20日月曜日

テストテストテスト

犬山市も学力調査 これで全自治体参加へ


教育に競争原理を持ち込むことになるからと、全国一律の学力テストに不参加の姿勢をとっていた犬山市が、09年度は参加することになった。参加賛成派の教育委員を増やして根回しした結果らしい。これで、4月の09年度の学力調査は初めて全国の公立校すべての参加となる。


教育に競争なんて必要ない。


みたいなかっこいい言葉は、俺には言えない。残念ながら、それなりの競争を勝ち抜いて今のポジションにいるわけだから。でもいっこ思うのは「テスト = 競争」みたいな発想は短絡的過ぎるんじゃないか。テストは何のためにあるのかを、検定ブームが通り過ぎて、漢検の不祥事とかもあって、ちょっとはそういう根本的なことを考えてもいい気がしてきた。


高校ではけっこうな頻度で実力テスト(模試)があった。「実力テスト」という名前はしかし、実力を知るためのテストではない。試験直前に勉強して少しでも点数を伸ばすことが奨励される。姑息な競争だ。それでも、その点数は文字通り「実力」として扱われる。自分と他人の「実力」を見比べて一喜一憂する。悪い点数なら、こんなもん俺の「実力」じゃない、と切り捨て、いい点数なら、俺の「実力」を見てくれと嬉々として見せびらかす。
ひとは見たいものしか見ない。

テストをやるのはいい。テストの答えは教師が教えてくれる。問題は、テストの結果と向き合う方法を誰も教えてくれないことだ。自分の「実力」と、自分の弱みと、向き合う勇気がない子どもが、競争へと駆り立てられていく。ていうかそもそもそれってほんとに「実力」なの?という疑念を抱きつつも知らぬ間に「テスト = 競争」みたいな発想の貧困を背負わされていく。手段が、目的になっていく。

2009年4月14日火曜日

人が罵り合っているのを見るのが好きですか?

と、聞かれたらどう答えるだろうか。
俺は最近大好きだ。

MCバトルが。



即興ラップで交互に罵り合うという競技。
ディスるテクニックとかヒップホップの精神とか、俺には正直よくわからないけど、
こんなに、溢れ出るように言葉がでてくるのがうらやましい。言ってる内容はともかくとして。


最近、言葉で悩むことが多くなってきた。
それはきっと日本語が下手になったわけじゃなくて、うまくなったせいで逆にアラが見えるからなのかもしれない。
ここは敬語を使わないといけない、ここはちょっとぼかしておこう、みたいなブレーキがいろいろかかる。加速して行く時代の中にあって、俺のことばを思考をスピードダウンさせる。

でも罵り合うのにはブレーキはいらない。
自分も相手も、会場も音楽も、ただただ加熱していく。
そういう高揚感に身を置けるのは、幸せなことなのだろう。
言葉は自分一人でしゃべっているわけではない、ということを思い出させる。
相手がいるから、言葉は溢れてくる。


話は変わって、
「詩のボクシング」という競技がある。



これはMCバトルと似てるようでぜんぜん違う。
即興ではないし(決勝以外)、相手に向かって言葉を放つわけではない。でも、ひとりで悩んでひねり出した言葉の重みがある。言葉はこんなにも孤独になれる。ひとの心を動かすほどに。

話し言葉と書き言葉の違い。

ことばは奥が深い。

2009年4月12日日曜日

cutman-booche

友達から聞いた。



そこそこいい感じ。
これってそこそこ有名なの?
最近邦楽を聴かないので俺はよくわからない。

2009年4月8日水曜日

悪の組織マネジメント

ヒラ団員はみんな覆面で同じようなカッコをしている悪の組織があって
主人公の一味がそこに、同じようなカッコに変装して潜入する。
外見上は同じだけど、やっぱりわかってしまうんじゃないかなー、
でも意外とばれないのかなー。

ハラハラドキドキ。

みたいな感じで物語は進んでいるときに、俺はふと思った。
こういう組織のマネジメントは一体どうなっているのだろうか。


悪の組織のミッションは「お金を稼ぎましょう」なんてことはなく、「世界征服」だとか「世界破滅」とかいう感じの四字熟語になることが多い。
後者の場合は、自己利益のためでなく、私財を投じ、よかれと思って世界を破滅させようとしている、ボランタリーな活動の場合も少なくない。
そういう意味で、悪の組織はもはやNPOだ。


非営利組織の組織マネジメントでは、

信頼

共感

みたいな単語がよく出てくる気がする。(あんまり詳しくないけど)


しかし、では上述の組織はどうか。
覆面をかぶり、誰が誰かわからない。
こんな状態では、信頼とか共感どころか、
友達すらできない。

そんな寂しい集団に、組織力もへったくれもない。
そういうリスクを背負ってまで、彼らはなぜ覆面を制服として採用するのか。
その妥当性が俺には理解しかねる。

マネジメントなき組織に未来はない。
いまや悪の組織でさえ、
いや、世界がどうとか崇高な目的を掲げる悪の組織だからこそ、
組織マネジメントが必要だ。


とかいう感じのシュールな話が書いてある本ないかなーとおもったら、
意外とそれっぽいのがあった。


空想プロジェクトマネジメント読本(http://www.amazon.co.jp/%E7%A9%BA%E6%83%B3%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%8D%E3%82%B8%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E8%AA


面白そう。今度読んでみよう。

2009年4月6日月曜日

ロボットの魚

有害物質の監視する魚型ロボット、スペインの港に放出へ
http://japan.zdnet.com/news/ir/story/0,2000056187,20391128,00.htm

↓こんなのが5体、スペインの海を泳ぐようになるらしい。


1体300万円くらい。
なんかおしゃれな感じ。いいなー。

2009年4月1日水曜日

にほんご

子供に言葉をしゃべらせろ - 最後のデモシカ教師の不謹慎発言

こどもが鍵を借りたくて、
「センセエ〜、カギ!!」
と言う。

そのふとした日常の一コマに、この先生は日本語の崩壊を感じ取る。

「先生は鍵じゃありません」
みたいな冷静な突っ込みを入れつづけて、
「先生、(〜〜〜で使うので、)放送室の鍵を貸してください!」
という文章になるまで鍵を渡さない。
自分が嫌な先生と思われても、
生徒が「正しい日本語」を身につける方が大事だから。


これがいいのか悪いのか、俺には分からない。


言語が短くなることは進化だ。
コミュニケーションにかかる時間は可能な限り短縮されるべきで、
そのためには省略可能な言葉は次々と省かれていく。
そして何より、日本語は主語と述語が遠すぎる。
一文で言うべきことをすべて一文に盛り込むと、とても長くて言いにくい。

上の文脈でいくと、放送室をあけるために鍵を借りるのはたぶん日常のルーチンワークで、生徒と先生の間で了解が成り立っている。
「鍵」の一言ですべては伝わる。
ひょっとすると何も言わず手を出すだけで事足りるかもしれない。

1秒で伝えられることをわざわざ10秒かかって伝える必要が、どこにあるのか。
それは社会に出たときに、ある。
当然のように必要になる。

そのために、日常的に会っている先生は、
お前の言ってることはよくわからない、と
よそよそしい振りをしないといけない。
だって社会はよそよそしいから。


でも。


なるほど、社会には適合できるかもしれない。
しかし、それは「正しい日本語」ではあっても、
正しい日本文化ではないと思う。

察する文化

という言葉をしばしば聞く。
日本文化を指して言われる。
すべてを言語化するのではなくて、
言いたいことはうまく隠す。

No.072 ■察する文化と言語化する文化 - ろう者で日本人で…


昔、テレビのクイズ番組で、
「総理大臣に醤油をとってもらう時はなんと言うでしょう?」
みたいな問題があって、

お醤油を、とってください。
おとりいただければ幸いです。
おとりくださいませ。
おとり遊ばせ。

とかっていろいろ考えたけど正解は、

「総理、お醤油」

らしい。

とってくれと意思表示をするなんておこがましい。
お前らのような愚民が。

みたいな感じの解説に納得がいかなかった。
でもとりあえず、察することの大切さ、
逆に言うと隠すことの大切さが語られていた。

それなら、
「総理、お醤油」が正しいなら、
「先生、鍵」だって正しいはずだ。

とにかく「先生、鍵」というのは日本語の乱れではなくて、日本文化に深く根ざした言葉遣いだと俺は思う。
いわゆる「正しい日本語」を守るために、
正しい日本文化が否定されていく。
どっちがいいとか悪いとか、もう俺には分からない。
どっちも大事だと思うから。

そのジレンマの中に、子どもも教師も立たされている。
そうやって自分の使ってる言葉とか文化について悩めるのは、
ある意味で幸せな時代なのかも、と思った。