2009年4月1日水曜日

にほんご

子供に言葉をしゃべらせろ - 最後のデモシカ教師の不謹慎発言

こどもが鍵を借りたくて、
「センセエ〜、カギ!!」
と言う。

そのふとした日常の一コマに、この先生は日本語の崩壊を感じ取る。

「先生は鍵じゃありません」
みたいな冷静な突っ込みを入れつづけて、
「先生、(〜〜〜で使うので、)放送室の鍵を貸してください!」
という文章になるまで鍵を渡さない。
自分が嫌な先生と思われても、
生徒が「正しい日本語」を身につける方が大事だから。


これがいいのか悪いのか、俺には分からない。


言語が短くなることは進化だ。
コミュニケーションにかかる時間は可能な限り短縮されるべきで、
そのためには省略可能な言葉は次々と省かれていく。
そして何より、日本語は主語と述語が遠すぎる。
一文で言うべきことをすべて一文に盛り込むと、とても長くて言いにくい。

上の文脈でいくと、放送室をあけるために鍵を借りるのはたぶん日常のルーチンワークで、生徒と先生の間で了解が成り立っている。
「鍵」の一言ですべては伝わる。
ひょっとすると何も言わず手を出すだけで事足りるかもしれない。

1秒で伝えられることをわざわざ10秒かかって伝える必要が、どこにあるのか。
それは社会に出たときに、ある。
当然のように必要になる。

そのために、日常的に会っている先生は、
お前の言ってることはよくわからない、と
よそよそしい振りをしないといけない。
だって社会はよそよそしいから。


でも。


なるほど、社会には適合できるかもしれない。
しかし、それは「正しい日本語」ではあっても、
正しい日本文化ではないと思う。

察する文化

という言葉をしばしば聞く。
日本文化を指して言われる。
すべてを言語化するのではなくて、
言いたいことはうまく隠す。

No.072 ■察する文化と言語化する文化 - ろう者で日本人で…


昔、テレビのクイズ番組で、
「総理大臣に醤油をとってもらう時はなんと言うでしょう?」
みたいな問題があって、

お醤油を、とってください。
おとりいただければ幸いです。
おとりくださいませ。
おとり遊ばせ。

とかっていろいろ考えたけど正解は、

「総理、お醤油」

らしい。

とってくれと意思表示をするなんておこがましい。
お前らのような愚民が。

みたいな感じの解説に納得がいかなかった。
でもとりあえず、察することの大切さ、
逆に言うと隠すことの大切さが語られていた。

それなら、
「総理、お醤油」が正しいなら、
「先生、鍵」だって正しいはずだ。

とにかく「先生、鍵」というのは日本語の乱れではなくて、日本文化に深く根ざした言葉遣いだと俺は思う。
いわゆる「正しい日本語」を守るために、
正しい日本文化が否定されていく。
どっちがいいとか悪いとか、もう俺には分からない。
どっちも大事だと思うから。

そのジレンマの中に、子どもも教師も立たされている。
そうやって自分の使ってる言葉とか文化について悩めるのは、
ある意味で幸せな時代なのかも、と思った。

4 件のコメント:

メリフにいたマサ さんのコメント...

俺の答えは「先生、鍵をください」が正しいと思います。
目的は先生になぜ?と聞かれてた時に返答すればよいのではないか。
小学生のバーバルコミュニケーションはその程度で十分だし先生も文句はないと考えます。
まあこのやり取りには複数の問題点と課題があるようですが、相手に正確に意思を伝える力を養うのは言うまでもないです。
単純なシチュエーションでこそ省略形が成り立つわけだけど、これだと応用が利かない。
頭の中で瞬時に文章を組み立てる能力、すなわち書く能力とは違った意志表現を身につける第一歩といえる。
それをきちんと把握して初めて察するというノンバーバルコミュニケーションを用いることが許されるような気がします。
まあ僕は大学を出てからもう10年以上なので仕事など世間の荒波にそこそこもまれてきました。
正確に少し丁寧なくらいが会話としてちょうどよいかと思います。
ただ、流れ作業的な、もしくはやっつけ作業的なチームワークを必要とする場面では察するという手段がなくてはならないのは事実です。
まあ、俗に言う阿吽の呼吸ってのは高学歴でまともな会社(まあ今の世にまともな会社なんてないのかもしれないけど)に入って生きていくのであれば、肉体労働や工場仕事で働くほど重要ではないわけでバーバルコミュニケーション命みたいな世界なんだろうなあって思います。
それからもうひとつ、省略形にすると丁寧語や敬語、謙譲語が省かれてしまうのが問題になります。
これはれっきとした日本の文化なので人間関係を潤滑に保つためには必要です。
まあ、僕の小学生の時代なんて先生にタメ語なんて使おうならば即体罰なんて時代でしたからね。
忘れ物して張り手、廊下走ってケツバット、授業中におしゃべりなんてしたら髪の毛引っ張って引きずられるなんて今から考えるとうそのような時代でしたから。
先生という存在は勉強ではなく道徳や人間性をはぐくんでくれるまさに先生でしたから。
だから面倒でも敬語をすらすら話せるようにしとかないと、社会に出てからつまはじきにされます。
まあ結論から言うと、省略と察するってのはノットイコールってことですね。
なんかくだらない理屈をこねてしまいました。

yung さんのコメント...

なるほどー。そうですよね。
重みがある意見ありがとうございます◎

crabfaceguy さんのコメント...

 大変興味深い批評を読ませていただきました。
 文章を省略できるのが「文化」でもある、という考えかたは確かにその通りだと思います。一方、たとえばイタリアでイタリア語を知らなくても地下鉄の切符売り場に立って「ウノ」といえば切符を1枚出してくれる。知らないで(幼児的に)省略しちゃうのと、「総理、お醤油」というのは、発想が違う、と思います。まず知ってから、身につけてから省略、かな~、生徒と交わる感覚としては。

yung さんのコメント...

ご意見ありがとうございます!

そうですね、省略しないできちんと日本語を使える能力があった上での省略だからこそ、省略しても伝わるのだと思います。
でも、「正しい日本語」の能力と、省略する能力とを同時に教えるのはたぶん難しくて、どちらかを選ぶとしたら自分はどうするのかな、と悩んで書いた文章でした。
学校の現場の文脈を知らないのに勝手なことを言ってしまって恐縮です。。