いまさらだけど、1ヶ月前、トルコであったYouth World Water Forumに行ってきた。
書くことがいっぱいありすぎて書けなかったから、一番書きたいことだけ書こっかな。
「Water For All」
というスローガンがよく使われる。
日本語で言うと、すべての人に水を。
そのためには、インターネットで情報交換したり、環境教育したりとかが大事だよね。あー、そうだよね。みたいな話をしてると、トルコ人の女の子がそれにつっかかる。
もっと「All」という言葉に真剣になろう、と。
インターネットが通じない人はどうするのか。
教育を受ける余裕もない人はどうするのか。
どうすればいいのかわからないけど、
どうすればほんとの意味で「Water For All」を実現できるのか、
私たちが頭を痛めないといけないのはそういうところじゃないの?
という言葉に俺はグサッときた。
日本に住んでいると、「みんな」という言葉について深く考えたくなくなる。
「みんな」って、誰?
在日朝鮮人のひとは?
出稼ぎ労働に来てる外国人は?
ホームレスのひとは?
みたいな煩わしい問いを避けて、
日本には「日本人」しか住んでいなくて、
みんな貧しくも豊かでもない。
という幻想にすがりたくなる。
「みんな違ってみんないい」なんて、
どれだけ違うか知っていればそんなに簡単に言えるセリフじゃない。
それはたぶん、
ほっといたら日本が2つに分裂していた、みたいなことはそうそうないからだ。
だから安心して「みんな」という言葉を、考えなく使える。
それがいいのか悪いのか、俺にはわからない。
トルコはたぶんそうじゃない。
地域によって文化が違うし、民族も違うし、宗教も違うだろう。
トルコのことをよく知らないし、それがどういう感覚なのかよくわからないけど、でもたぶん、トルコ人が「みんな」という言葉にこだわるのは、「みんな」とひとくくりにすることが難しい多様性が、トルコの中にあるからな気がした。
そのトルコ人は、「みんな」という言葉の難しさと、大切さを知っていた。
話を戻すと「Water For All」の「All」は、
当然、日本人みんなとかトルコ人みんなとかいう意味ではない。
文字通り「みんな」なのだ。
ひとつの国でさえ、「みんな」と言うことが難しいのに。
「Water For Many」なら簡単だ。
それは誰もが目指している。
企業もNGOもユースも。
でも「Water For All」を、
本当に、
本当の意味で目指している人はどれほどいるのだろうか。
すべてのひとが水を手に入れられるようになるなんて、
まあそういう方向でがんばるけどさ、正直ムリでしょ。
みたいな諦めが絶望が、世界を覆っている。
俺も正直ムリでしょ、そんな夢みたいなこと、とかって思う。
でも、それでも、
誰かが夢みたいなことを言わないと、
現実は変わらない。
きっと、夢みたいなことを真剣に言うのは、
大人じゃなくてユースの仕事だ。
「みんな」っていう言葉をもっと真剣に考えて、
もっと真剣に使いたいと思った5日間だった。
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