おとつい、水都大阪2009の跡地に行ってきた。
そしたら、なにも残ってなかった。
中之島は、整備されてきれいになって、
俺が知ってる場所じゃなくなっていた。
水都大阪2009は、
去年の夏に52日間に渡って開催された水辺のアートイベント。
メイン会場である中之島公園では、アーティストのひとが作品を作っていた。
水都大阪は、作品の展示ではなくて、公開製作に近い。
52日間で100組以上のアーティストがワークショップを開き、
そこでできた作品が徐々に会場を変化させていく。
できた作品よりも、
その変化や、
さらには変化を生み出す過程(ワークショップとか)が、イベントの核だった。
静的な、完成度を問うのではなくて、
動きのある、生き生きした空間をつくることが目指された。
だってそれは、この町そのものだから。
俺たちが欲しいのは、
「お手を触れないでください」と注意書きがしてある、お高い芸術品のような、
完成した町じゃない。
もっと安っぽくてもいいから、
そこで自分たちが人間らしく暮らしていける、
未完成の町だ。
だから、
アーティストのひとだけがつくるわけじゃないし、
企画した偉いひとの思惑の中に収まるわけでもない。
ボランティアも、来場者も含めて、
みんなでつくっていくイベントだった。
俺が手伝っていたアーティストは、
「未完成をデザインする」みたいな言葉を使っていたけど、
完成の中にいかに未完成を組み込むかが問われている。
未完成というのりしろがあることで、
意図していなかったなにかが生まれる。
意図しない要素を、
いかに意図的に組み込むのか。
どこまで組み込むのか。
でも、
プランニングもマネジメントも、
「する」ことには慣れているけれど、
「しない」のには戸惑いを隠せない。
マネジメントしないこともマネジメントなんだ、
と胸を張って言えるような方法論は確立していないから。
報告書でも、完成度だけが評価されて、未完成をいかにデザインしているかはあまり顧みられない。
かくして、完成だけが闇雲に志向されてしまう。
ちょっと話がそれてきたので、
冒頭の中之島公園のことに戻すと、
俺がショックを受けたのは、
中之島公園がすっかり「完成」してしまっていることだった。
中之島は、前は更地だったところが緑地公園みたいになってて、
しかも芝生は立ち入り禁止だ。
きれいに整備されつくして、関われる「未完成」がどこにも見当たらないような気がした。
単なるお客さん扱いされている気になって、なんか悔しい。
水都大阪の名残がないのは、寂しいけどまあいい。
とにかく、形は変わっても、
あのほとばしるような可能性だけは消えないでほしかった。
いや、消えてないか。
誰かがそこに可能性をみる限り、可能性は消えない。
大阪はそういうことができる場所だと俺は思う。
次いったら、
芝生が踏み荒らされて(笑)、
みんなその上で遊んだり楽器の練習したり、
みたいな光景を見られるのを楽しみにしつつ、
関西を後にする。
飛騨高山いってきます。
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