せっかく東京に出てきたからには、的な。
でも、なんで全国公演しないんやろう。。
(以下、ネタバレが怖い人は読まないでね)
なんかツイッターをみてると、
「すごかった」という感想が多かったけど、
まさにその言葉が相応しかった。
書道系(?)カルト教団に入信した弟を取り返そうと姉が教団に潜入する、という話。
野田秀樹らしく、
言葉遊びで物語は巧妙に狂わされ、
歯車が噛み合わないまま回転していく。
教団の暴走がギリシャ神話と複雑に重なりあいながら、
だんだん現実と幻がよくわからなくなる。
「ことばの力」というものを、
信じる人間と信じない人間がいる。
俺は信じないタイプの方で、
だから、言葉遊びという「ことばの力」に頼る野田秀樹とは相容れないと思っていた。
でも今日劇を観て、
野田秀樹は、言葉で「遊んでいる」というよりも、
言葉を「もてあそんでいる」ような気がした。
これでもかというほど敢えてもてあそぶことで、
ことばは信じられないものだ。と言っているんじゃないだろうか。
カルト教団では教祖の言葉が絶対で、
なのに、わざとことば足らずにして解釈の余地を残す。
その余地によって、
教祖の神聖性は守られ、
意味は都合よく後付けされる。
そうして言葉は、もてあそばれる。
言葉がいかに狂わされ、
取り違えられるかを示すことで、
「ことばの力」の不完全さが見えた。
ことばに、力がないとは思わない。
でもその力は思い通りにならないもので、
信頼してはいけないと俺は思っている。
狂わされた言葉に、今度は人間が狂わされる。
それでも、
ことばを使わずに生きていくことはできない。
劇中に、こんな台詞が出てくる。
"もちろん、忘れるために祈るわ。
けれど、忘れ切れないものが残るでしょう?
忘れられないものがあることを忘れないために、私は祈るの。"
そんなふうに、
ことばへの疑念を持ちつつも、
ことばを完全に捨て去ることはできない。
その捨て去れない言葉の中に、言葉と言葉の間に、
思いを込めて、人はしゃべるんだ。
だから、
信じるために疑おう。
という、決意。
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