2010年7月14日水曜日

NODA MAP「ザ・キャラクター」

一念発起して、野田秀樹を観てきた。
せっかく東京に出てきたからには、的な。
でも、なんで全国公演しないんやろう。。

(以下、ネタバレが怖い人は読まないでね)

なんかツイッターをみてると、
「すごかった」という感想が多かったけど、
まさにその言葉が相応しかった。

書道系(?)カルト教団に入信した弟を取り返そうと姉が教団に潜入する、という話。
野田秀樹らしく、
言葉遊びで物語は巧妙に狂わされ、
歯車が噛み合わないまま回転していく。
教団の暴走がギリシャ神話と複雑に重なりあいながら、
だんだん現実と幻がよくわからなくなる。






「ことばの力」というものを、
信じる人間と信じない人間がいる。
俺は信じないタイプの方で、
だから、言葉遊びという「ことばの力」に頼る野田秀樹とは相容れないと思っていた。

でも今日劇を観て、
野田秀樹は、言葉で「遊んでいる」というよりも、
言葉を「もてあそんでいる」ような気がした。
これでもかというほど敢えてもてあそぶことで、
ことばは信じられないものだ。と言っているんじゃないだろうか。


カルト教団では教祖の言葉が絶対で、
なのに、わざとことば足らずにして解釈の余地を残す。
その余地によって、
教祖の神聖性は守られ、
意味は都合よく後付けされる。
そうして言葉は、もてあそばれる。

言葉がいかに狂わされ、
取り違えられるかを示すことで、
「ことばの力」の不完全さが見えた。
ことばに、力がないとは思わない。
でもその力は思い通りにならないもので、
信頼してはいけないと俺は思っている。
狂わされた言葉に、今度は人間が狂わされる。



それでも、
ことばを使わずに生きていくことはできない。
劇中に、こんな台詞が出てくる。

"もちろん、忘れるために祈るわ。
けれど、忘れ切れないものが残るでしょう?
忘れられないものがあることを忘れないために、私は祈るの。"

そんなふうに、
ことばへの疑念を持ちつつも、
ことばを完全に捨て去ることはできない。
その捨て去れない言葉の中に、言葉と言葉の間に、
思いを込めて、人はしゃべるんだ。


だから、
信じるために疑おう。
という、決意。

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