2008年12月7日日曜日

Python 3.0

mixiに日記を公開してみることにした。
でも、ITと音楽のマニアックなネタをマニアックに書いてるだけなので、コメントとかいいっすよ。
俺もコメント返さない派だし。


Python3.0が出た。

「誰にとっても明確な手法が,一つだけあることが好ましい(There should be one-- and preferably only one -- obvious way to do it.)」


というPythonの哲学をより鮮明に端的に表現している言語になった気がする。

しかし、すべての技術がそうであるように、Pythonもまた哲学のみで成り立っているわけではない。
それを支えるコミュニティや過去の遺産に裏打ちされて始めて、精神は実体になる。

特に、Pythonはプログラミング「言語」だ。
言語とはつまり、数の暴力である。
ハングルが世界で一番優れた文字だといって、では国連の公文書はすべてハングルにしましょう、と事務総長が意気揚々と宣言したところで、英語圏に返り討ちにされるだけだ。
ビル・ゲイツが、Vistaが出ました。買ってね。と意気揚々と宣言しても、みんなXPにしがみついて離れなかった、Microsoftにとっては悪夢のようなこの現状は記憶に新しいが、
それと同じことがPythonでも起こっている。変化に適応するという苦役を負わされるコミュニティの反発にあっている。

変化と保守。
それは当然、守っているほうが有利だ。
戦うのではなく守るのだ、という理論はしばしば、少年漫画の主人公がふるう暴力を正当化するために用いられる論理だが、それはつまり、タテマエ上でも守っていると言った方が世間体がいいということだ。
たとえば文化を守るとき、
既存の文化はアイデンティティという言葉で正当化され美化される。


住めば都という言葉がある。

これは、昔のひとが、
極度にネガティブな住まい、例えば、トイレ風呂共同、部屋にテレビがない、冷暖房も当然ないといったような部屋、これは俺が住んでいるところなのだが、そんな住まいに住まわなければならないという状況に直面したときに、
いやー、でもこういうのって心の問題だよね。ネガティブにとらえるからネガティブなだけで、ポジティブにとらえればそれはもうポジティブだよねー、
というポジティブシンキングというか負け惜しみというかを指して定義された言葉であり、なるほど質素節約を美徳とする今の日本社会では、ポジティブに受け入れられているが、

だがしかし。

それはある視点から見れば、精神の怠惰。
進歩をしようとする向上心を否定することによって得られる、背徳の快感。そんなものさえ暗示している。
というと言い過ぎかもしれないけれど。

しかし、ITという、時代の最先端をつっぱしる分野で、もう突っ走らなくてもいいんじゃない、という冷めた意見が出てくるのは、改めて考えてみると興味深いことだ。

Pythonはもう突っ走らなくてもいいんだろうか。
現代社会はもう進歩しなくてもいいんだろうか。

ここまできたらもう居心地がいいからと、テレビでモンティ・パイソンを見て刹那的に笑っていればそれでいいのだろうか。
もっともそんなことは、テレビを持たない俺には不可能なことだけれど。

そんなことを思いながら、
Python3.0を住めば都だと思うひとが増えることを祈っている。

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