2010年2月26日金曜日

ベケットと「いじめ」

ベケットと「いじめ」 (白水uブックス)ベケットと「いじめ」 (白水uブックス)

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何年ぶりかに図書館に行った。
なんとなく行きたくなって。
演劇の本の棚を見てたら別役実の本があった。
別役も、本のタイトルにあるベケットも、
小難しい戯曲を書くのであんまり好きじゃない。

でも、昨日「ヘヴン」といういじめが題材の小説を読んだので、

ヘヴンヘヴン

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「いじめ」という文字が気になって手に取ってみた。
そして、結局最後まで読んでしまった。

圧倒的な鋭さ。
20年以上前に書かれた本なのに、
その洞察はまるで未来を知っているかのようだった。







「ベケットと「いじめ」」では、
1986年に起こった中野富士見中学いじめ自殺事件と、ベケットの戯曲を題材に、
現代社会が考察されている。
「個」と「関係性」がキーワードになっている。


中野富士見中学いじめ自殺事件は、
1986年に起こった、初めて世間から注目されたいじめ自殺事件だ。
俺が生まれる前の出来事だから、
そんなに詳しくは知らないけれど。


この事件では「葬式ごっこ」といういじめがクローズアップされた。
少年の写真を黒板に飾り、線香を立て、
色紙に「安らかに眠ってください」という寄せ書きを書く。
寄せ書きには、担任も加わったという。

このいじめに対して、
少年はこんな反応をする。


始業前、遅れて教室に入ってきた鹿川君は、机を見て、「なんだ。これー」。その周りでクラスメートがニヤニヤして、様子をうかがっていた。鹿川君は「オレが来たら、こんなの飾ってやんのー」と笑っていた。(後略、『朝日新聞』朝刊、1986年2月6日)。


笑っていたのは、
もちろん楽しかったからではない。

いじめる側もいじめられる側も、
それが冗談であるのだと笑うしかない。
あからさまに隠された悪意に、気付いているからこそ、
気付いていないふりをすることしかできない。

担任も、「冗談だから」と言われれば、
「ああ、冗談なのか」と無理にでも納得して寄せ書きに加わるしかない。
「それは冗談じゃないだろう、いじめだろう」とは言えない。


そして、
そこに「個人」は存在しない、
と別役は続ける。

「個人」は友達グループというシステムに吸収され、
思い思いの行動をすることは叶わない。
「関係性」が「個人」に取って代わり、主体がいなくなるのだ。

そのくせ、
関係性に圧殺されそうになりながらも、
自立した「個人」であることが求められる。
だから、いじめという「関係性」に目を向けることはできない。
そんなものないのだと振る舞わなければならない。

例えるならそれは綱渡りに似ている。
関係性という細い綱の上で際どいバランスをとりながら、
下を向いては怖くなって落ちてしまうからと、
前を向いて進むことしかできない。

そして結局、足を踏み外してしまう。


個人であろうとするばかりに、
関係性を直視できず、あるがままにされ、
個人が持つべきはずの主体性を失っていく。



この主体が消えるという奇妙な現象は、
近代演劇からベケットらの不条理演劇への変化と相似している。

近代演劇においては、
個人は周囲から自立していて、
科学的、論理的な言葉を話す。

しかし、不条理劇においては、
人間はそんなに強い存在でも理性的な存在でもない。
主体性や存在そのものさえ否定される。

なんでそんなことをするかというと、
現実の世界が不条理だからだ。
世界は思い通りにいかないし、暗い。
おまけに戦争や大量生産大量消費で、人間の主体性はどんどん否定されていく。
不条理演劇は、そんな世界をリアルに表現しようとしたのだ。

しかしやがて、
不条理演劇は不条理な世の中を黙認してしまっているからダメだ、
という批判が現れはじめる。

個人的には、不条理演劇は、
今まで近代が目を背けてきたもの、
つまり例えば、
「個人」が目を背けてきた「関係性」のようなものを、
反射に逆らって直視しようという試みだと思っている。


まあでもとにかく、
不条理さをいかに超えるのか、
いかにして主体性を取り戻すか。
そういったことに悶々としながら、
別役実たちは、
演劇と、そして人間というものと、向き合い続いけていくことになる。






話は変わって「ヘヴン」について。

ヘヴンは、主人公の男の子がいじめられていて、
同じくいじめられている女の子とのやりとりを通して葛藤する、みたいな話。

帯にはこう書いてある。
「苛められ、暴力をふるわれ、
なぜ僕はそれに従うことしかできないのだろう」

彼女は言う。苦しみを、弱さを受け入れたわたしたちこそが正義なのだ、と。
彼は言う。できごとにいいも悪いもない。すべては結果に過ぎないのだ、と。
ただあてのない涙がぽろぽろとこぼれ、少年の頬を濡らす。

少年の、痛みを抱えた目に映る「世界」に救いはあるのか。

「僕」というのは主人公の少年。
「彼女」というのは同じくいじめられている女の子。
そして「彼」というのはいじめる側の少年だ。



「彼女」は、自分はただ受け身にいじめられているのではなくて、
むしろ積極的に、自分の意志でいじめられているのだ。と主張する。
いじめから逃げることはたやすいけれど、
あえていじめられることを選んでいるのだと。
そうすることで、彼女はこの世界の「主体」たりえる。

いじめの苦しさから逃げない。というかすかな主体性を握りしめることで、
彼女はかろうじて生きている。



「彼」は、主体性というものを否定する。
じぶんが「僕」をいじめているのはたまたまだ。
世界というのは自分たちの預かりの知らぬところで回っていて、
いじめるのもいじめられるのも、
主体的にすることではなくて、なりゆきに過ぎないのだという。

そうして主体性を否定することが、
彼に唯一残された主体性なのだ。



「彼女」は、いじめという、自分が否定される状況を積極的に選び、
「彼」は、自分の主体性を否定することを積極的に認める。
「彼女」も「彼」も、
自分を否定することでしか自分を肯定できないのだ。



そして、
じゃあ「僕」の主体性というのはなんだろう。


それがこの本のキーワードであり、
関係性の中にいる限り、
つまり生きていく限り、悩み続けなくてはいけないことだ、と思う。




いじめることか、いじめないことか、
いじめられることか、いじめられないことか、
他殺することか、自殺することか、
何が主体的な行動なのかまるでわからない。
ほんとに主体的な行動なんてあるのかすらもわからない。

そういう絶望の中で、
いじめというのは生まれるんだな、と思った。

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