2009年7月7日火曜日

「誰でもよかった」

「誰でもよかった」


と、此花のパチンコ屋に放火した男は言う。
最近、犯人がそんなことを供述する事件が増えている。


あるいは、そう思わされているだけなのかも知れない。
メディアが、刺激的な記事になるなら「誰でもよかった」という精神で、みんなの不安を煽る事件だけをいたずらにクローズアップしているのかも知れない。
その実、認めたくないけれど、俺がいま書いているのだって「誰でもよかった」という言葉について語る題材になるなら「誰でもよかった」のかも知れない。

それでも、「誰でもいい」といわれるのを恐怖に感じているひとが増えているのは事実だろう。

ひとが薄っぺらに扱われ、薄っぺらに殺されていく。
同質な人間の大量生産大量消費。
そんな時代の合言葉が、「誰でもいい」だ。


でも、ほんとうにそうなのか。
「誰でもいい」って、そんな悲しい言葉じゃないはずだ。


誰でもいいのは、みんな同じだからじゃない。
俺たちは工場でつくられた製品じゃない。
それぞれにいびつで濁っている。
違いがぶつかり合い傷つけ合い、みんなが仲がいいわけでもない。
けれど、「誰でもいい」んだ。

誰でも、違っていて、いい。

誰でも、ここにいて、いい。

そんなポジティブな「誰でもいい」を、どうして連想することができないんだろう。
それはきっと、俺たちの弱さだ。



話はちょっと飛んで、水都大阪の話。

水都大阪に対して、なぜアートなのか、という問いかけがなされる。
赤字の大阪にはそんなのに使ってるお金はないんだ、と。
水都大阪期間中には、そんな言葉を幾度となく聞くだろう。

でも大阪にはアートが必要だ。
俺は自信を持ってそう答えたい。
アートは、違いを「いいんだよ」と受け止める、強さだから。

大阪の魅力は人だ、と言われる。
若者、サラリーマン、おっちゃんおばちゃん、外国人、在日のひと。
いくらビルを天高くそびえ立たせても、都市は人でできている。
そこにいる人の多様さ、人間ひとりひとりの価値。
それを見つめ直すところにしか、都市の未来はない。

アートは、人間はひとりひとり違うんだと叫ぶことであり、その叫びを聞くことだ。
だから、大阪がひとの魅力を再発見するために、アートが必要なんだ。



でも、
と思うことがひとつある。

アートが大事なのは確かにそうだけれど、これは単なる理論だ。
水都大阪が、ほんとうに大阪を元気にできるのか。
もっとわかりやすくいうなら、
パチンコ店に放火した男のような絶望を、
アートは、
大阪は、
打ち砕けるのか。受け止められるのか。


そういうシビアな質問に、
俺は自信をもって「できる!」と答えられない。

けれど、「誰でもいい」の意味を変えるくらいのつもりでボランティアスタッフをがんばるので、
中之島の会場には「誰でも」お越し下さい。
8/22〜10/12 です。

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