2009年7月14日火曜日

都市に祝祭はいらない?

祭りとはなんなのか。
ここ数日悩んでいる。


おとつい、水都大阪の事前勉強会で、大阪の歴史についての話をきいた。
水辺というのはかつて(そして今も)被差別民のエリアだった。
しかし社会的弱者でありながら、その人々は経済の重要な部分を担っていた。
その富の力は権力者をも凌駕するものであったという。
そうした「下から上への活力」のようなものが庶民の町・大阪の原動力であり、水がその象徴だったという。

と、俺が書くと薄っぺらな感じになるけど‥
また勉強してブログにちゃんと書こうと思う。




で、その勉強会をしていたときに天神祭の話が出てきて、
水都大阪は何の祭りなのか。というところに話が及んだ。


例えば、天神祭、祇園祭は怨霊信仰の祭りだ。
天神祭は太宰府で死んだ菅原道真の怒りを鎮めるために、
祇園祭は霊の祟りである疫病を鎮めるために、
それぞれ始まった。

その背景にあるのは「恐れ」だ。

会場にいた京都橘大の教授は
「すべての祭りの始まりには、恐れがある」
と言ったが、なるほど、そういう見方もできる。
収穫祭は、次の年には凶作にならないかという恐れが、
インターネットの掲示板とかで起こるいわゆる「祭り」は、自分が攻撃される側にならないかという恐れが、
あるいは背景にはあるのかもしれない。

黒沢清という映画監督が雑誌のインタビューで「すべての映画はホラー映画だ」という意味深な言葉を放っていたが、
なるほどなーと妙に納得してしまったのを思い出した。


そういえば、広告の戦略は恐れを巧みに利用する。
これを買わないと時代遅れだ、
これを買わないとあなたは幸せになれない、
という恐喝によって商品を買わせる。ときもある。

そういう意味では、祭りが商業化している今において、
祭りの原動力とはやっぱり恐れなのかもしれない。
不況への恐れ。
仲間はずれになる恐れ。



でも、と思う。
水都大阪がそういう祭りであってほしくない。



この投稿のタイトルは、平田オリザの著作の題名なのだが、
かつて祭りは、個人のアイデンティティーを共同体が担っていた時代に、
「五穀豊穣」であるとかの共通認識を確認し合う行為として成り立っていたが、個が多様化した現代においてはそうした祭りの図式は成立しない。
と指摘する。


かつての祭りに価値がなくなったわけではない。

伝統や文化に裏打ちされ、その祭りに参加することによって共同体の一員であることを再確認する。
コミュニティの一員であるという感覚。
みんなが一体になる感触。
それはひととひととの距離が遠くなる現代において、尊い体験だ。
高校の文化祭とか、楽しかったよね。


けれど、水都大阪の目的は、一体感を実感することではない。
ひとの多様さを感じるための祭りだ。
むしろ、どこか孤独になるのかもしれない。


現代芸術は、何か思想や主張を伝えるものではなくて、
世界を表現するものだと平田オリザは言う。

みんなそれぞれの目にそれぞれ少しずつ異なった世界を写しているから、
表現されている世界を見て共感する部分も少しずつ違う。
個人が多様していれば、多様な感じ方があって当然だ。

それは必ずしもいいことではない。
感じ方が人によって違うということは、時に孤独を生む。
例えば、感想を会話のネタにしにくい。
「都市に祝祭はいらない」には、
デートで青年団の公演を観に来て、感想がかみ合わずに仲が悪くなってしまっても責任がとれない、と注意が促されている(笑)。


ではなぜそんなリスクを冒してまで現代芸術は、アートは必要なのか。
それは、いやが応にも個人は多様だからだ。

アートの中に表現されている世界は、いわば自己を投影する鏡だ。
自分がどこに共感できてどこに共感できないかを知る。
多様さの洪水に流されそうになっている中で、自分と向き合える貴重な瞬間。

ともかくも、
多様性を受け入れる。
それがアートの姿だ。


かつての祭りは一体になるためにあり、
アートは多様になるためにある。
そして、水都大阪はその間のどこかにある。
単なる祭りではなく、
単なるアートではなく。


水都大阪は何の祭りなのか。
その答えはよくわからない。
「都市に祝祭はいらない」には、ぱらっと読んだだけなので分からないけれど、これからは祭りよりアートでしょ。みたいなことしか書いていなかったように思える。
祭りとアートと、という単純な二分法はいけないし、たぶん平田オリザもそんな乱暴なことはしていなかったと思うけれど。
とにかく、じぶんの中で答えが出ない。

祭りとは何なのか。
ひとによって答えが違うこの問い自体が、究極のアートなのかもしれない。

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