例えばの話。
そういえばあの先輩とあんまりちゃんと話したことがない。
いつも発言がクールで、ちゃんと話してみたらきっとノリが合うかも。面白いかも。
でも先輩は今日もクールにパソコンを叩いていて、なんだか話しかけるのがためらわれる。
なんだろうこの胸のドキドキは。
恋? これって恋?
「何か用?」
と先輩が言った。
あ、やっぱりずっと見つめてたのがマズかったのかな。
いや、用はないんですけど。
と釈明しようとして、やっぱりやめた。
少しの勇気とちっちゃな声を振り絞る。
「先輩、今度飲みに行きませんかっ?」
先輩のキーボードを打つ手が止まる。
沈黙。
穴があったら入りたい。
やっぱり言わなければよかった。
と思った次の瞬間、先輩はひとこと、
「いいよ」
と言うかと思いきや、
いいともいやだとも言わず、
ただこっちを一瞥してまたパソコンに向き直った。
ええっ。
これは、お前の誘いなど答えるにも値しない、みたいな意味?
それとも、声がちっちゃくて聞こえなかっただけ?
あるいは、これは先輩への気持ちを試す試練なのだろうか。
わからない。
先輩、わからなくてごめんなさい。
話しかけてごめんなさい。
生きててごめんなさい。
というように「答えない」という答えは人の心をかくも鋭くえぐる。
(上の物語はフィクションです。実際の人物団体等とは一切関係がありません笑)
答えることはめんどくさい。
日常生活は問いに溢れていて、
俺たちは常に答えを求められる社会に憔悴している。
でもだからといって答えることを怠ければ、
生きててごめんなさい、
という風に感じてしまう人も中にはいるという事実を人は経験的に学ぶ。
誰かの涙と眠れない夜を授業料にして、
はにかんでごまかすとか、
とりあえず「了解」ってメールを返しておく、
みたいな高等テクニックを学習していくのだ。
でも、俺の印象なんだけど、
子どもは、
答えがわからないと答えないことがよくある気がする。
おとついこのブログに「子どもが怖い」って書いたけど、
俺は子どものそういう部分が怖い。
生きててごめんなさいな感じになるのが怖い。
今日小学校に行っても何回かあったなあ。
オブラートに包むことを知らない、むき出しの回答拒否。
最近慣れてきたけど。
でも俺は、あの沈黙の意味をちゃんと理解したい。
沈黙が意味するところは文化によって違う、
という話をこないだ行った難民問題のイベントでちらっと聞いた。
同じ黙秘でも、その人の背後にある文化を理解しないとそれがどういうことか理解できない。
だから、難民認定にはもっとそれぞれの国の文化に明るい人が必要だ。みたいな話。
といって、
同じ日本文化の中でも、沈黙の意味はいろいろだ。
暗黙の了解、
コミュニケーションの拒絶、
あ、ごめん聞いてなかった。と言うのが恥ずかしい、
ぼーっとしてるだけ。
沈黙の意味を他人が外から推し量れるのか、
俺にはよくわからない。
でもなんかそういう、
些細な空気とかも読めるような
些細な人間になりたいなと思った。
あ、全然話はそれるけど、
10年ぶり?に給食を食べた。
小学校のころってあんまり覚えてないけど、給食のことだけは覚えている。
そんな食欲の塊だった、ぽっちゃり系のあの頃。
を思い出して、食べ過ぎには注意しようと決意した。
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