2009年7月5日日曜日

だるまさんがころんだ

だるまさんが転んだとは、

鬼ごっこの変種のひとつである。鬼が「だるまさんがころんだ」という呪文を唱えることから、この名前がついた。鬼を一人立て、その鬼が他の参加者をすべて捕虜にすることを目的とする。また、鬼以外の参加者は、次の鬼になることを回避すべく、鬼に触れた後により遠くへ逃げることを目的とする。(Wikipedia - だるまさんがころんだ


らしい。
呪文?とつっこみたくなるけど、そこは本題ではないので自制することにする。


今日子どもたちがだるまさんがころんだをやっているのを見て、
子どもの頃だるまさんがころんだはどうすれば成立するのか謎だったことを思い出した。


例えば、鬼が「だるまさんがころんだ」と、
Wikipediaの文言を借りるならば「呪文を詠唱」(笑)して振り向くとする。そして、動く人間の姿を目ざとく発見して「動いた!」と指摘したとする。

しかし大概の場合、動いた人間は「動いていない」と反論する。
するとどうなるか。
動いたか動いていないか、
悲しいかな議論は平行線をたどる。


客観的証拠はない。
いかに子どもたちにケータイが普及しようとも、
「あ、俺のケータイでさっきの瞬間を録画していたから動画判定してみようぜ」
など誰かが言い出すことは、少なくともあと10年くらいはないだろう。


結局、話し合いでケリを付けるしかない。
ここでの真実の追究とはつまりディベートであり、勝者が正義だ。


対話の果てに自分の主張が認められなかったとき、
正しいこととか正義が世の中にただ一つ厳然と存在するんだ、という確信が崩れる。
自分の目に映る真実が、必ずしも誰にとっても真実ではないことを噛み締める。
だるまさんがころんだは、
朝日新聞のコラム「天声人語」によると、韓国で「達磨さんが寝転んだ」という掛け声で日本と同じ遊びをするのを筆者が目撃したそうだ。ここで言われる『達磨さん』とは、寝ずに岩壁を見続けて悟りを得たと言われる達磨大師を指し、大人達からそれを耳に蛸ができるほど言い聞かされた子供達が、「達磨さんだって、誰も見ていないところでは寝転んでいただろう」と反発して始めたのが『だるまさんがころんだ』ではないか、という推測をこの筆者はしている。(Wikipedia - だるまさんがころんだ

という起源だという説もあるが、
これはそういう、正義とか道徳とか大人が決めた価値観の薄っぺらさを知るための高尚な遊びなのではないだろうか。

と、昔に妄想していた。
ともかく、こどもの遊びには色んな哲学が潜在している。
もっといろいろ学びたい。

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