台所のおと (講談社文庫) 幸田 文 講談社 1995-08-02 売り上げランキング : 85534 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
負けを認めようと思う。この本について語ることばを俺は持ち合わせていない。
これは、料理人の夫婦の話。
夫は病気をして、台所と障子ひとつ隔てた部屋に臥せっている。なおりがたい、と医者はいう。その診断はしかし、妻にしか知らされていない。妻は夫にそれを隠そうとするけれど、料理人の夫は、台所で立つ音のかすかな変化からなにかを感じ取っているようでもある。
もともとこの本を知ったのは、鷲田清一の「「聴く」ことの力 ― 臨床哲学試論」という本に〈さわる〉と〈ふれる〉という概念の例として引かれていたのがきっかけ。
そこにはこうある(あき、というのは妻の名前)。
なにも伝えたくないというあきの気持ちが、まるで玉突きのように、あきの所作が立てる音を通して伝わっている。伝わるでもなく、伝わらないでもなく。
「伝えたくない」という想いだけは、伝わってしまうのだという。
料理には、生活には、生きることには、折り目正しい所作というものがあって、それがこの夫婦の間で〈型〉として共有されていればこそ相手が立てた音からその所作を逆算することができる。さらには、自分が同じ所作をしている場面を想像することができる。
自分のからだを相手のからだに当てはめて、そこにイメージのずれをみるのだ。自分ならもっと軽快に動くはずなのに、とか、このペースならひと呼吸置くはずなのに、とか。
わかるのはただ、ずれている、ということだけで、なぜずれているのかはきっと分からない。
それでも。そのかすかなずれからすらも伝わってしまうものがある。
伝えたいことを伝えられるわけでもなく。伝えたくないことを伝えないままいられるわけでもなく。
音は、ままならない。ちょうど、それを通して伝わってしまう気持ちそのもののように。
かなしいことに、と言うべきか、うれしいことに、 と言うべきか。ふさわしい言葉を俺はまだ知らない。
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