2015年7月28日火曜日

ロボットが蹴られてるのを見るのは痛い、けど。

半年前くらいに、こんなサイトが話題を呼んでいた。

Stop Robot Abuse
http://stoprobotabuse.com/

訴えているのは、反ロボット虐待。
Boston Dynamics のエンジニアが、四足歩行ロボットの姿勢制御機能の高さを見せつけるためにそのロボットを足蹴にしている動画に抗議してのことだった(↓の0:30あたり)。



このときは、「シュールなことを考える人もいるもんだなあ」くらいにしか思ってなかった。たしかに、鉄腕アトムとかに見るようなロボットの虐待、という問題について人類はいずれ考えなくてはならない。けれどそれはまだ数十年は先のことじゃないか、と思っていた。

が、二足歩行が蹴られてるのを見て今日ちょっと心が揺らいだ。

なぜ、とかいう理由をいえるほどの強い揺らぎではないので、二足歩行の方が人間に近いから、とかたぶんそういうことなんだろうと思う。ほんのり、痛そうだな、と思った。


けど、このロボットはほんとに「痛い」とか思うんだろうか。

痛みを感じるようなセンサーがこのロボットには備わっているんだろうか。備わっているとして、そのセンサーをオフにして、(動作に支障のない範囲で)蹴りを入れてサディスティックな欲求を満たすことは許されるんだろうか。そもそも、痛みを感じなければそれは暴力ではないのだろうか。

みたいな話をしてると、いやいや、当人が痛みを感じなくても、誰かがそこに痛みを見出しうるような仕打ちならばそれは暴力と呼べるはずだ、とか言い出す人もいるだろう。タイトルに「見るのは痛い」と書いたけど、そういう感じ。

今日俺は、四足歩行と二足歩行が蹴られているのを見て、二足歩行が蹴られている光景の方により痛みを見出しやすかったと感じた。今後ロボットはもっと人間に近づくはずだ。それはすなわち、ロボットが加速度的に「見ると痛」くなっていくことを意味する。

じゃあ、蹴られてるのを見ても心が痛まないような、ロボットロボットしたロボットをつくればいいのでは?

という素朴な発想にはしかし、むくむくと不安がこみ上げる。被害者を嫌な人間に見せたりリアルさを取り去ったりすることで、暴力を暴力でなく見せて白昼堂々と暴力をふるう。というのは社会の常套手段だ。うまくはいえないけれど、ひとからストーリーを奪うというやり口を、俺は直接的な暴力よりもさらに野蛮な暴力であると感じる。

痛みとは、当人(ロボ?)が感じる感覚なのか、周囲によって見出されるストーリーなのか。

みたいなことをぼんやり考えたりした。こうして考えていられる猶予は実はもう長くないのかもしれない、と予感させられるできごとだった。

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