2013年2月24日日曜日

鷲田 清一『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』

「聴く」ことの力―臨床哲学試論「聴く」ことの力―臨床哲学試論
鷲田 清一 植田 正治

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鷲田清一の本は好きで、何冊か読んでる。
自己と他者の距離とか関係について書いている、
みたいな感じに勝手に理解してるけど違ったらごめんなさい。

この本も、そういう話。
臨床においては、匿名の人間として、仕事と割り切って、ということが叶わないことがある。

それがどういうことかというと、ちょっと長いけど引用:
キュアを担当する医師は多くのばあい、その職務の中にじぶんの行動を限定する。ケアを担当する看護チームは、看護婦としてだけでなく、ひとりのひととしてもそれを見ている、というか、かかわらざるをえない。長患いになったら、なじみ、つまり職務以外の関係が生まれるので(中略)、その果てに人が生まれたり死んだりすると、こころを平らにしておくことができない。シンパシーということばはふつう同情と訳されているけれども、これはもともと苦しみをともにするという意味である。他人の苦痛が部分的に自分のそれになるということである。
他者と個人として関わることは、自己の輪郭をゆるがすことなので、
距離をとることが必要になる。

ケアするひととケアされるひと、
支援するひとと支援されるひと、
聴くひとと聴かれるひとの、
放っておけば距離がどんどん縮まっていきがちな関係の中で、
可能な距離というのはなんなのか。

これは「臨床」って書いてあるけど、
けっこう身に覚えのある悩みについて書いてある気がした。
なんとか自分の文脈に置き換えてみたい。

この本、哲学の臨床における存在意義とは、
みたいなマニアックなとこもあってけっこう読みづらかったけど、
六章「〈ふれる〉と〈さわる〉」で引かれている
幸田文の「台所の音」例がぐっときたので興味あればぜひ読んでください。

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