1年前に末期のがんが見つかって、だいたい余命1年くらいと言われて、
色んな人と話したり色んなところに行ったり、
普段話すことを話したり普段話さないようなことを話したり、
闘病したり弱音を吐いたり。
なんだかんだ、1年を生きた。
その1年を、あるいはもっと長いそれまでの母の人生を、
ここで物語り尽くすことばを俺は持ち合わせていない。
物語ることができないのならば、せめて、
もうひとつメタな、物語るとはなにか、ということについてぼんやりと書き留めておきたい。
最後の誕生日のプレゼントに、俺は「かないくん」をあげた。
谷川俊太郎が一晩で詩を書き、松本大洋が二年かけて絵を描いてできあがったという、『死』をテーマにした絵本。
かないくん (ほぼにちの絵本) 谷川俊太郎 松本大洋 東京糸井重里事務所 2014-01-24 |
「かないくん」は、
死んでしまったかないくん、の物語であり、
死んでしまったかないくんについて物語る死にかけのおじいさん、の物語であり、
死んでしまったかないくんについて物語る死にかけのおじいさんについて物語る孫娘、の物語でもある。
そんなふうに、ひとの物語は幾重にも折りたたまれている。
ひとは死んでも、ひとの物語は死なずに続いていく。
「あのひとはこう生きた」という物語が誰かを通して物語られ続けるから。
そんなふうに、母は死んでも母の物語は続いていく。
母につらなる物語のひとりとして俺も、直接的に、間接的に、母を物語るだろう。
それをひとは「遺志を継ぐ」 なんて呼ぶのかもしれないけれど、
俺はきっと、遺志よりも、文脈を継ぎたいのだ。
この絵本を渡す少し前、
母はじぶんの人生を、自由な人生だった、と言った。
家事に子育てにがんじがらめだったように俺の目には映っていた日々を、
自由だった、と言い切った。
そう言い切る以上、
母がじぶんを「自由に生きた」と物語る以上、
俺の物語もまた、その「自由」の文脈をなぞっていく。
それが母のことばに応えることだと思うから。
俺は、自由に生きる。
母がそうしたように。
ちょうどこの文章が、
ゆらぎ、
たじろぎ、
それでも続いていくように。
そんな自由をこれからも物語っていきたい。
2 件のコメント:
はたがどう見ようと、自分で意味づけし、物語を持ち、生き抜いて、最期に積極的な意味を持っていたと言い切ること。そして、文脈を共有できる人がいること。
私もそうありたいと思ったし、「文脈を引き継ぐ」という言葉がぴったりだと思いました。
安らかでありますように。(nakao)
ありがとうございます。
この文脈を大事にしていきたいと思います。
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