「あけまして」の枕詞の後に続くことばが、
いつも「おめでとう」だなんて限らない。
そのひとの新年の文脈を、不完全にでも推し量りながら、
紙にしたためて、メールで、心のなかで、俺は年賀状を送る。(いつも、いろんなひとに送り忘れるけど)
で、じゃあ俺にとっての新年は何なのかと考えてみるけど、
やっぱりとりあえず、研究できるのも、あとちょっとしかないこと。
それに尽きるな、と思う。
少し遠回りな話をすると、
なぜ、という疑問を解消するやり方は、2つある。
ひとつめは、その疑問に答えること。
ふたつめは、その疑問の原因を取り除くこと。
たとえば、非常にざっくり過ぎる例をあげると、
貧困に苦しむひとがいるのはなぜ、という疑問があるとすると、
貧困がいかに人間を苦しめているか明らかにするか、
人間を苦しめる貧困をやっつければ、
俺はもう「なぜ」に悩まなくて済む。
でも、
「なぜ」の答えを明らかにしたからといって貧困はなくなるわけじゃない。(逆もそうだけど)
「なぜ」に拘泥することは、非人道的な贅沢ですらある。かもしれない。
そんな贅を、貪ることができるのもあと少し。
いろんな人のお金と、時間と、気持ちに後押しされながら、
登場人物ではなくストーリーを、
リアルなものではなくリアリティを、
救済しようとできるのも、あと少し。
社会人になって、また別の「なぜ」へのアプローチに取り組む前に、
いま目の前にある「なぜ」に答えを出したい。
みすぼらしくても誠実に、自分の答えを書き綴りたい。
あと少し、研究できるという幸せ。
あけまして、おめでとう。
0 件のコメント:
コメントを投稿