2010年5月1日土曜日

司馬遼太郎「土地と日本人」

土地と日本人 対談集 (中公文庫)土地と日本人 対談集 (中公文庫)

中央公論社 1996-10
売り上げランキング : 87758

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


司馬遼太郎の対談集。
30年前、バブルに入りかけの頃の本。


司馬遼太郎の問題意識は、
土地所有の概念というのが日本ではうまく形成されていなくて、
それがために、例えば土地投機のような問題が起こってるんじゃないか。
土地の思想なくしては国は成り立たず、このままでは日本は滅びる。
土地はやっぱり公有にするしかないよね。
という感じのこと。



「公」と「私」というのは光と影のようなもので、
対極に位置しながら、実は連続していて切り離せない。
だから、「私」が何かを所有しているとしても、
そこにはかならず「公」の存在が入ってくる。
所有しているから何をしてもいいんだ、自由なんだ!
というのは未成熟な自由だ。


しかし日本は、天皇と大名という二重支配の中で
「公」が曖昧であり、だから「私」もふらふらと定まらない。

日本では、明治維新まで土地を私有するという概念がない。
大名に与えられるのは、土地所有権ではなく、租税権だけで、
ヨーロッパでは「農民に土地を!」という土地革命が起こったが、
大名がそもそも土地を持っていないから、日本では土地革命を起こらなかった。


しかし、地租改正で意識は真逆に変わる。
お金さえ払えば土地は自分のもので何をしてもいい、
という絶対的な所有が芽生えた。

そして、農地改革で農地が農民に配られ、
土地とともに強すぎる所有意識もまた、民衆に配布される。

かくして、
所有の概念を十分確率しないまま、日本は土地バブルの時代を迎えることになる。
「私」と「私」が重なり合うところに「公」があるが、
肥大化し柔らかさを失った「私」に重なる余地などなく、
ただ擦れ合い、ぶつかり合い、互いに傷付け合う。

30年経って、「私」は変わっただろうか。
「私」は傷つけ合うのをやめただろうか。
そしてその傷は癒えたのだろうか。

ゆっくり考えたい問題だ。




という内容の興味深さはあるけど、
でも俺はこの本そんなに好きじゃない。
その理由はふたつある。


ひとつめは、
司馬遼太郎のまなざしの温度。

この本の中で司馬は繰り返し
「このままでは日本は滅びる」
という言葉を使う。


滅びるとしたらなんなのか。
司馬は、日本の過去に目を凝らし、
滅びたり、滅びそうになる人々を、その愚かさも含めて、
温かみを持って描いてきた。

なのに、現代人を見る時のまなざしはどこか冷たい。
いや、冷たいというかはわからない。
自分が今生きるこの世だからこそ、
滅びてほしくない、と思うし、だからこそ厳しい言葉を投げかけるのかもしれない。

けれど、たとえ滅びるとしても、
みんなが厳しい言葉を投げかけるとしても、
せめて司馬遼太郎だけはあの温かい目でいてほしかった。



もうひとつは、視点の偏り。

あるものごとを見る時に、
時間的な視点と空間的な視点があって、
歴史学と地理学は相互に関連し合うはずなのに、
前者は重視され、後者は軽視されて来た。
と、この次に読もうとしてる本

ポストモダン地理学―批判的社会理論における空間の位相ポストモダン地理学―批判的社会理論における空間の位相
Edward W. Soja

青土社 2003-06
売り上げランキング : 351507

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

の前書きに書いてある。

司馬遼太郎は歴史小説家なので、
まあその視点が歴史に偏るのは仕方ないかなとは思うけど、
でも、小説の中ではその時代の地理的な説明も出てくるし、
何よりの対談では「土地」という空間的なものを問題にしている。
なのに、日本の統治システムの変遷という、時間的なことしか言わなくて、
それは確かに深い洞察をしているし、納得できるけれど、
その一方で、この議論ではなにか足りない気がしてしまう。
空間的な議論が何なのか、ぜんぜんイメージ湧かないけれども。


まあおもしろい本だった。
日本の土地所有についてここまで考察した人は少ないと思う。
でも、司馬遼太郎だからと期待しすぎるとちょっとがっかりするかも。

0 件のコメント: