2010年5月2日日曜日

涙の理由

電車の中で、不覚にも泣いてしまった。
涙でにじむ常磐線。

それはたぶん、
これでいいんだ、という安堵感。
自分は一人じゃないんだという類いの感動だった。


そんな俺の涙の理由は、この本:

庶民の発見 (講談社学術文庫)庶民の発見 (講談社学術文庫)

講談社 1987-11-04
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人間の愚かさとか過ちに対して取る態度は二種類あって、
それはダメだ!と糾弾することと、
愚かさや過ちも含めてその人間なんだと認めることと。
人間と関わろうとする限り、
俺たちはどちらを選ぶか苦悩し続ける。


どちらがいいという話でもないし、
どちらかしか選べないという話でもない。

でも、どっちかしかないような気がして、
たまになんだか暗い気持ちになってしまう。



例えば、貧困問題に関わるとき、
愚かさや過ちを認めるだけでは何も改善されない。
かと言って、これはダメだ!と、愚かさや過ちを否定することは、
その人間を否定することになる。


俺はかなり前者に偏っていて、
貧しい(と言われている)地域に行っても、
何もかもが自然に見えてしまう。
そこでの生活は合理的で、
愚かさや過ちなんてどこにもない気がしてしまう。

アラル海まで行って何を見てたんだ、と言われるけど、
たぶん何も見ていない。
ただそこにある景色を眺めてきただけだ。
そこに貧しさを「見る」ことは俺にはできなかった。
それではダメなんだと思いつつ。


おとつい読んだ「土地と日本人」という本の中で、
司馬遼太郎は「このままでは日本は滅びる」と、
日本人の愚かさを糾弾していた。
それが俺にはひそかにショックだった。
やっぱり糾弾しないとなにも変わらないのか。とか考えた。
そのまなざしの冷たさにどこか納得できないけれど。



でも「庶民の発見」の中で、宮本常一の視線は温かい。

冒頭で、敗戦前のときのことを語っている。
宮本常一は中学校の先生をしていた。

生徒たちが敗戦の日に失望しないように、戦争の状況についてよくはなし、また戦場における陰惨な姿について毎時間はなしてきかせた。生徒たちは熱心にきいてくれたが教室の外ではあまり他人にははなさなかったらしい。私は憲兵にも警官にもとがめられることなくして済んだ。別に口どめしたわけではなかった。ただ、これだけのことは言った。「私たちは敗けても決して卑下してはいけない。われわれがこの戦争に直面して自らの誠実をつくしたというほこりをもってほしい。それは勝敗をこえたものである。そしてまだ私たちはこのきびしい現実を回避することなく、真正面から見つめ、われわれにあたえられた問題をとくために力いっぱいであってほしい。そういう者のみが敗けた日にも失望することなく、新しい明日へ向かってあるいてゆけるであろう」—この言葉はあやまっているかもわからない。しかし私はそんなふうに説かざるをえなかった。
(宮本常一「庶民の発見」)

宮本自身が「あやまっているかもわからない」と言うように、
この言葉はたぶん褒められたものではない。
日本の勝利に志向しているわけではなく、
かといって愚かな戦争を反省するわけでもない。

そのかわりに、この言葉はまっすぐ生徒に向かっている。
宮本にとっては、日本が勝つことよりも、戦争が終わることよりも、
目の前にいる生徒が死なないこと、敗戦のとき失望しないことが大切なのだ。

目の前の人間に向き合うということは、とても難しい。
不可能じゃないかとさえ思う。


例えば、平和教育。
「平和は大事だ」という言葉を生徒は刻み込まれる。
それが教えられるのは、
平和が大事だからであって、生徒が大事だからじゃない。

もちろん、平和な世界は生徒にとっても大事だ。
それでも、平和教育のときの教師の姿勢は、
上の宮本常一の言葉とは根本的に違う気がする。
むしろ、戦争の重要性を教える戦前の教育と似ている。

生徒は、教師が理想とする「平和な世界」という絵のパズルピースになってしまう。
自分のイメージを具現化する駒に過ぎないのだ。


翻って俺はどうかというと、
他人を自分の駒として使わないか、まるで自信がない。
人間を、研究で立てた仮説を証明するための駒のように見てしまわないか、不安で仕方ない。

この本は「フィールドワークと仮説形成」という授業の必読文献なのだが、
まさにこれっていう本。
このチョイス、さすが。



宮本常一は、太平洋戦争は上層部の暴走であった誤った戦争だったという論に反論し、
「圧迫せられた民族の心の底のどこかに、あるいは血の中にその圧迫をはねかえそうと意欲が強く動いていた」ことが原因であり、自然な戦争だった、と、ある面では戦争肯定とも取れる意見を述べている。

宮本は、戦争を否定することで自分たち自身をも否定することを何よりも問題視している。
自身のスタンスについてこう書いている。

 自らを卑下することをやめよう。人間が誠実をつくしてきたものは、よしまちがいであっても、にくしみをもって葬り去ってはならない。あたたかい否定、すなわち信頼を持ってあやまれるものを克服してゆくべきではなかろうか。
 私は人間を信じたい。まして野の人々を信じたい。日本人を信じたい。日常の個々の生活の中にあるあやまりやおろかさをもって、人々のすべてを憎悪してはならないように思う。たしかに私たちは、その根底においてお互いを信じて生きてきたのである。
(宮本常一「庶民の発見」)


善悪の倫理を通り越した、
その透徹した姿勢にとても共感する。

この本、心して読もう。

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