2010年10月10日日曜日

白石隆「海の帝国―アジアをどう考えるか」

海の帝国―アジアをどう考えるか (中公新書)海の帝国―アジアをどう考えるか (中公新書)
白石 隆

中央公論新社 2000-09
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半世紀前まで「東南アジア(South-east Asia)」は存在しなかった。

かつて、「中国とその周辺(China and its vicinities)」でくくられていた地域は、
1949年の中華人民共和国の成立、1950年の朝鮮戦争を経て、
共産圏とそうでない地域を区別する必要があった西側によって、
概念的な切り離しが行なわれた。
そうして、ワシントンで「東南アジア」という言葉が使われるようになった。

初めて「東南アジア」が使ったのは、第二次世界大戦中の連合軍だったと言われているが、
それはあくまで、軍事戦略を語る便宜上使われただけで、
「東南アジア」が、まとまった地域であると認識されたのは、
冷戦のために他ならない。

そうして生まれたものであるから、
いきおい、「東南アジア」とは何なのかとらえどころがない。
この本は、そのとらえどころがないものを有機的にとらえようと試みている。


この本の内容は、難しくてあんまりうまく説明できないけど、
公式なことと非公式なことが重なり合うのを丁寧に説明している。
たとえば、

国家と国民は違う。国民が「想像の共同体」、つまり、人々の心のなかに想像されたものあるとすれば、国家は社会学的実態であり、教会、大学、企業等と同様、ひとつの制度、機構である。国家はそうした機構として独自のスタッフを持ち、スタッフは年齢、教育、性別などの規則に応じて機構に「入り」またやがてそこから「出て」いく。また国家は機構としてそれ独自の記憶と自己保存、自己増殖の衝動をもっている。

とあるように、
国家というオフィシャルな帝国と、
国民というアンオフィシャルな帝国とがある。
それが有機的に重なり、関連し合い、
今日の「東南アジア」をかたちづくっていく。
あるいは、解体していく。

筆者は、「国民」が国の安定に重要な要素だと見ている。
経済がうまくいっている時には顕在化しなかった重大な軋みが、
「国家」というシステムが弱くなると具現化する。
たとえば、アジア通貨危機後に起こった東ティモールの独立みたいに。


植民地時代に手に入れたり、失ったりしたアイデンティティが、
絵の具のように混ざり合って、
「東南アジア」の未来を描いていく。
国境線が引かれた世界地図のように動かない世界ではなくて、
もっとめまぐるしく呼吸する世界が見えてくる。

たぶんこの本の本題からはちょっとずれるんだろうけど、
俺はそういう感想を持った。
興味深い本だった。


ちなみに、上の引用に出てきた「想像の共同体」というのは、
ベネディクト・アンダーソンの著書で使われた言葉だ。
読もうと思いつつまだ読んでいない、ナショナリズム研究の名著。

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険2期4)定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険2期4)
ベネディクト・アンダーソン Benedict Anderson

書籍工房早山 2007-07
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3 件のコメント:

たけやん さんのコメント...

あっ僕も白石隆とアンダーソンの本、一応、インドネシアまで持ってきたものの、さっさと読める本ではないので全然進んでないわ。
ゆんさま、先に読んでまとめのUpお願いw

匿名 さんのコメント...

l
東南アジアの国境とか行くと、ものすごい人の流れがあるよね。

王政なりが良く見受けられるのも、「国民」へのアンチなのか。
ここでいう国民って民族主義以降の「国民」だよね?

Unknown さんのコメント...

>たけやんさん
やっぱ有名なんですね!
これは授業の課題図書なんで読んだんですが、
それまで存在を知りませんでした。
丸投げですねw

>匿名さん
民族主義以降…たぶんそんな感じ?
あんま詳しくないけど。
「アメリカ人」みたいな感じの「国民」?