2011年10月14日金曜日

身近じゃない人が死んだ。

死んだ、という表現は正確じゃない。
死んでいた。
1ヶ月ほど前に。


その間、俺は呑気にメールを送り、

返事を待っていた。
催促をした。

生きていると思っていた。




研究でお世話になった方で、けれど2回しか会ったことがなく、
亡くなったと聞いても実感が湧かない。





死とは何なのだろうと思う。

死んだと聞くまでは、俺の中であの人は生きていたのに、
死んだと聞いた瞬間に死んでしまう。
「死」はただの言葉なのに、
ただの言葉だけで、俺の頭の中にいたあの人は死んでしまう。

死とは何なのか、まるで分からない。

身近でない人の死というのは、特にどうしていいか分からない。
死は悲しまなくてはならないという義務感と、
けれどどう悲しんでいいか分からない実際とがせめぎあう。

あの人が死ぬことは、誤解を恐れずに言えば、
「困る」ということばがしっくりくる。
研究が進まなくなるし、
「ありがとう」という言葉の宛先がなくなるし。

困る。

あの人の死は俺を困らせる。
そんな風に利己的に「死」を意味付けすることはできる。

けれど、
悲しい、と言っていいのかが分からない。
こんなにも身近でない人の死を、
身勝手に悲しんでいいのか分からない。

困るのは俺ひとりだけれど、
悲しみはひとりのものじゃない。
人間は、ひとりでは悲しむことが難しい。

「悲しい」という感情を「悲しむ」という動作に変えるには、
というよりむしろ、
「悲しむ」という動作によって自分の「悲しい」という感情を発見するには、
誰かと悲しまなくてはいけない。

悲しみを共有し、ともに悲しむ人がいてはじめて、
「悲しい」という感情が生まれる。そんな気がする。
葬式とかって、「悲しい」という感情を生み出すための装置だと思う。



でも、俺はいま、

誰とも悲しみを共有しないまま、こっそり悲しもうとしている。
身近な人の悲しみを共有せず、一方的に悲しもうとしている。


もっと悲しんでいる人の悲しみを共有するほどの覚悟はない。

身近じゃない死を、身近に感じる勇気がない。

たぶん、
身近じゃないあの人を、身近にする努力もしてなかったんだな。
ずるかったんだな。


行くあてのない悲しみのように、
もうちょっとふらふら生きよう。
いつかこの悲しみを、ちゃんと悲しめるようになろう。

別れの秋に、死を想う。

2 件のコメント:

s さんのコメント...

作家の平野啓一郎さんの昨日のリツイと内容もタイミングもシンクロしてる感じがしました。

私は故人の連絡先を電話帳から消せません。

Unknown さんのコメント...

まさに、半分くらいは平野さんのリツイートを見て考えたことです。
3日前に知って、いろいろ考えてたときにあれを見て、もやっとしたことを書き留めてみました。答えが出ることではないけど。