2012年6月20日水曜日

振り仮名

さいきん三国志を読んでる。

三国志 (1の巻) (ハルキ文庫―時代小説文庫)三国志 (1の巻) (ハルキ文庫―時代小説文庫)
北方 謙三

角川春樹事務所 2001-06
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と、さらっと書くけど、
歴史物は超苦手分野だった。

なんでって、名前を覚えられないから。

歴史物には、
これでもかというくらい読めそうにない漢字の人々が、
これでもかというくらい多数フィーチャリングされていて、
俺への嫌がらせだとしか思えない。

たぶん多数の人が読めないことを予想しつつも敢えて振り仮名を付けず、
「えっ、こんな漢字も読めないで歴史物よもうとしてんの?www まじうけるんですけどwww」とかって、
難読人名を読めてしまう自分と、まるで読めない俺とを比較して
嘲笑し悦に浸る、
そんなために存在する邪悪なツールだとしか思えない。




でも予想に反して、
この三国志には振り仮名が群雄割拠している。


もっと直截的にいうなら、
振り仮名がけっこうな頻度で振ってあって、
めっちゃ読みやすい。ほんと読みやすい。


ちょっと読み方忘れても、
だいたいひとつ前くらいのページを見れば分かる、
てな具合になってる。

しかも別に、大して振り仮名がうるさいということもなく。

こんなに快適に読めるのなら、
もっとがんがん振り仮名を振りまくるべきだ。
公文書にも歌の歌詞にも科学書にも、
振って振って振りまくればいいと思った。

これはひょっとして、
ジャンプとかマガジンとかの少年漫画に親しんだ経験が、
無意識に振り仮名を処理する能力を養っているのかもしれない。
(未だに、なぜ少年漫画では全部に振り仮名がつくのに、
他の漫画になると振り仮名がなくなるのか、疑問)

振り仮名の振り方を体系的に学んだことはなくて、
でもけっこう大事な気がしてきた。
どっかまとまってるとこあれば教えて下さい。


内田樹がちょっと関連しそうなこと書いてる。
あとで読もっと。

内田樹の研究室 - 日本語って変かも
http://blog.tatsuru.com/2008/04/23_1545.php

2012年5月22日火曜日

雑記

ふと就活のことを振り返る機会があって、
思ったことをメモ。例によって漠然としてるけど。

いろいろがんばって思い出したけど、
いまだに皆目見当がつかないなと思ったのは
就活がなんであんなに辛かったのか、ということ。

結果的に今の会社でとてもよかった、
という事後的なハッピーエンドを抜きにしても、
別に、ずっと就活をしてなかなか決まらないことも、
未来が見えない感じも、
大して辛いと思ったことはなかった。

じゃあ何が辛かったというと、昔書いた記事を読んでいて、

誰かの「分かる」に閉じ込められたくない。  
こんなにも分からないことを、分かるなんていいたくない。

っていうことばが書いてあるのを見付けて、
あ、これか、と思った。

誰かの「分かる」に閉じ込められたくない、
という恐れはたぶん変わらずにずっと持ち続けてて。
もっと自由に歩きたいなと、いつも思ってて。

「分かる」と「分からない」のいたちごっこを繰り返して、
今日も歩いている。歩いていく。

2012年4月22日日曜日

円城塔「後藤さんのこと」

後藤さんのこと (ハヤカワ文庫JA)後藤さんのこと (ハヤカワ文庫JA)
円城塔

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きっと高校生の時に町田康じゃなくて円城塔を読んでたらいまごろ数学者か物理学者を志していたんじゃないかと思ってしまうような、面白さ。

たぶんあんまり解説にならないことを承知で、
ちょっと解説めいたことを書き残しておこうかなと思っていま書いてみる。


小説は、ある意味で、
ラストシーンという名の結論を導出する論理だ。
結論が妥当な(かつ心揺さぶられる)ものだと万人に納得してもらうためには、
まずはその結論が導き出される文脈を共有しないといけない。

例えば、
「愛は大事だ」という結論があるとして、
愛とは何なのかも、大事ってどういうことなのかも、
ひとによって違う。あまりに違う。

だから多くの小説の場合、
ここでいう愛とは何なのか、どう大事なのか、
その文脈を詳細に描写することに文章のほとんどは割かれる。
描写が詳細であればあるほどストーリーは精緻さを増し、
結論は一意に定まりやすくなる。

でも円城塔の取っている戦術は違う。
文脈の共有をストーリーの精緻さに求めるのではなく、
むしろもっと最大公約数的な、
どっかで聴いたことある気がするけどよくわからない表現やロジックを
つぎはぎして作ってあるパッチワークみたいな。


例えば、この「後藤さんのこと」という表題作が象徴的で、
通常の小説であれば、この後藤さんが誰なのかを説明する。

ここで言う「後藤さん」っていうのは、
あなたが知っているあの後藤さんでも、はたまたあっちの後藤さんでもなく、
30歳の男性で証券会社に務めていて順風満帆に見える人生だけれど、
呪縛から逃れるために親を殺したという過去を持ち、
そのために人を愛することができないんですねこれが。

みたいな設定に設定を重ねて、ストーリーの頑健性を増していく。
頑健なストーリーから導き出される結論は頑健であり、
頑健な感動や気付きを提供してくれる作品をして人は名作と呼ぶ。


しかし、円城塔が語るのは「後藤さん一般」の話だ。
例えばこんな調子:
(略)会社の休憩時間に後藤さん一般と立ち話をしていたところ、向こう側で待ち構えているではないですか。見るからに後藤さん一般としか見えないものが。ついでに自分にしか見えない人も。これはちょっとまずいのであり、いくらなんでも後藤さん一般といるときにそれはまずい。
「刺すね」
と言い切ってしまうのが後藤さん一般であって、これは後藤さん一般の性質というものなのでどうにもしようが無いのである。(円城塔「後藤さんのこと」) 
特定の「後藤さん」について語る気はさらさらないらしく、
「後藤さん一般」の性質についてを延々と語っていく。

それは抽象的すぎて意味不明で、ピンと来ない。
ピンと来ないけど、というよりむしろピンと来ないからこそ、
でもどっかで聞いたことあるような、という印象を受ける。
理解できない難解な言い回しも含めて、
どっかで聞いたことがある気がする。
この「どっかで聞いたことがある気がする」という感覚に依拠するのが円城塔の戦略だと思う。

つまり文脈の共有の仕方は二通りあって、
かたや、誰も聞いたことのないストーリーを細かく描写して、文脈を共有しようとするやり方がある。
かたや、すでに文脈を共有している、誰もが聞いたことのある要素を抜き出して語るやり方がある。
円城塔は後者を過剰に、挑発的に使っている気がして、
こういう文脈の共有の仕方もあるのかと感嘆した。

コピペ世代のコミュニケーション方法だなと思った。
すてき。

2012年4月8日日曜日

「信じられるデザイン」展


東京ミッドタウン・デザインハブ5周年記念/第33回企画展
「信じられるデザイン」展

http://www.designhub.jp/exhibition/2012/03/15-1500.html


に行ってきた。
51人のクリエイターが、「信じられると思うデザイン」を挙げて解説する、という展示。
信じられるってどういうことか考えた。
以下、軽くメモ。


展示の中に
「信じられる」と「信用できる」の差異について語っているのがあって
「信じられる」というのは能動的な行為で、
「信用できる」は受動的な、うんぬんかんぬん。
みたいな細部は覚えてないけど、なんとなく共感した。

だいぶ前に書いたことにも近いけど、
「信じる」かどうかは、相手によるのではなくて自分で選ぶものだと思う。
その意味で「信じられるデザイン」というタイトルには、
「信じられる」ものをしか信じようとしないナイーブさを感じてしまう。
なんか違うんじゃない、それ?
問われるべきは、信じられるか信じられないかじゃなく、
信じるか信じないか、だと思う。

一方で、また別の展示に、
ポルシェは「かんぺき」じゃなくて「あやうい」から好き、
みたいなのがあったけど、
これは逆に「信じられない」から、自分で能動的に「信じる」ことをしなくてはいけない。
「かんぺき」じゃないから、欠損を「信じる」ことで埋めないといけない。
「あやうい」ことが「信じる」を際立たせているように思う。

未完成をデザインする、ということばを思い出した展覧会だった。

2012年4月7日土曜日

グーグルアイ

↓これの本名が、

「ステファーノ・グーグルアイIII世」だということは周知の事実だが、
どうもグーグルがグーグルアイなるもの作ろうとしているらしい。

いや、だからなにってこともないですけど。

さっそく現れたGoogle Project Glassのパロディービデオ〔製品名はGoogle Eyeになる?〕
http://jp.techcrunch.com/archives/20120405heres-a-more-realistic-look-at-googles-project-glass-video/

要は、メガネがディスプレイ兼入力装置になってる、みたいなやつ。
↓にしてもこのビデオ面白いね。センスある。

2012年4月1日日曜日

ぽいっ。

明日から社会人。

思えば俺は「ぽくない」と言われることに全神経を注いできた。
常に、所属しているところからはみ出るためにはどうすればいいのかを考えてきた。たぶん。
けっきょく「A型っぽいね」とか「京都っぽい!」とか言われたとしても。
注いできたったら注いできた。

しかし、
「ぽくない」と言われるためには、何が「ぽい」のかを知る必要がある。
「ぽい」を踏み外し過ぎると、ただの「ない」になってしまう。

ならば「社会人っぽさ」って、
というかむしろ「社会人」って、何なんだろう。
「社会人」は文字通りなら、社会にいる人を指しているはずだけど、
巷で囁かれているには、そのほんの一部をしか範疇に含まないらしい。

とすると、
「明日から社会人」なんて冒頭で豪語したけれど、
実は公には知られていないが社会人というのは許認可制だったり世襲制だったりリース契約制だったりするかも知れず、
その場合、俺は無許可で社会人を名乗った罪に問われお縄頂戴、
てなことにもなりかねない。

ここはひとつ慎重に、社会人とは何かを耳をそば立てて学ぼうと俺は思うのです。
しばらくは薄氷を踏むように恐る恐る、
「これはダメ」という落とし穴を避けるようにしか歩けないけれど、
いずれ「社会人」という本質の上に片足立ちとか三点倒立とか、できるようになりたいのです。

「ぽくない」に足を踏み出せる力が、欲しい。
何かを跳び越える力がいつだって欲しい。
アクロバッティブに生きたいわけじゃなくて、
いつか、行きたい場所とか行かないといけない場所ができたとき、そこに行くために。


社会人について何かご存じの方はご一報ください。

2012年3月27日火曜日

雑記

とある人に久しぶりに会って話をした。年齢聞いた事なかったけど、聞くともう70歳過ぎだと言う。そうなのか。

放射能のせいで元の土地に住めなくなった人を、日本はどう扱うのか、みたいな話をした。国とは何なのかが問われている、と。
具体的には双葉町とかのことを言っているらしい。そこが、ほんとに、ずっと、住めないのかという議論はとても大事だけれど、ひとまず脇においておいて。


テロが起こればいい、と彼はまた極論を言う。
人から土地を奪い切り捨てるのならば、仕返しに奪われ切り捨てられることを覚悟しなくてはならない、と。
というか、むしろ切り捨てて切り捨てられればいいのに、と。

どうしてこの世代の人は、こんなにも「敵」をつくりだすことが得意なのだろう。
皮肉でも賞賛でもなく、ただただ感心してしまう。
「絆」だとか「日本はひとつ」だとか言って、そこに厳然とあるはずの壁とか境界をぼやかすことに腐心する私たちと違って、
加害者と被害者、「わたしたち」と「あなたたち」を生真面目に線引こうとする。

線を引かねば目に見えず、目に見えなければ解決しない。
怒りにも似たその信念を、正義と呼んで差し支えはないはずだ。

とはいえ私はぼんやり不真面目に生きていて、
これは正しいけれど自分の文脈ではない。きっと。
じゃあ何なのか、考え込んでしまう。