くるりの新曲「三日月」を聴いた。
前のアルバム「ワルツを踊れ」はなんだかストリングばっかりで、壮大な感じが好きじゃなかったけど、
やっぱりくるりは偉大だ。と思った。
ちなみにこのブログのタイトルは、くるりの「ハイウェイ」の歌詞から取っている。
俺は、岸田繁を超える作詞家はそうそういないと思う。
メロディーは日本的だけれど、
その曲作りは日本離れしている。
日本の歌詞は、往々にして説明的すぎる。
恋を歌う曲は、恋を歌っていて、
勇気を歌う曲は、勇気を歌っていて、
ポニョの曲は、ポニョのことを歌っている。
なるほど、それはそれで当たり前かもしれない。けれど。
平田オリザは「演劇入門」の中で、
近代芸術と現代芸術は、伝えたいことが先にあるか、描写する世界が先にあるか、という違いがある
と述べている。
近代芸術は、宗教的や政治的な争いの中で、イデオロギーを伝える道具として使われてきた。
そこにはテーマが必ずあり、テーマを伝えるための世界をつくるのが芸術家の仕事だった。
しかし、芸術が宗教や政治と縁遠くなった現代では、テーマがない。
何かの主義主張ではなく、もっと心の奥深くにある何かを表現するために自分の目に写る世界のかたちを描写するのが現代芸術だという。
演劇はそうやって変わってきた。
音楽だって。
風景を描くようにあっていいと思う。
くるりの曲は、何のことを歌っているのか判然としない。
でも、何もわからないわけではない。
そのバランス感覚。
歌詞を頭の中で噛み砕きながら、
あ、こういうことかな。
と思った次の瞬間、
あ、違うか。
みたいなことを繰り返す。
なにか大事なことを思い出しかけて、
けれどすぐに忘れてしまうような、
ふわふわした感覚。
そこにテーマはない。
いろんな風景が、意味が、
浮かんでは消える。
抽象的な歌詞を書ける歌手はたくさんいるけれど、
ここまでテーマが希薄な曲は、
きっとくるりにしか奏でられない。
日本語もここまで進化したのか。
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