2009年2月19日木曜日

見えない死、隠される生

最近、歯医者に通っている。
虫歯があって。

そこの診察室には席が3つあって、
1人の若い男の歯科医が順番に診察していく。
だから、呼ばれて診察イスに座っても時間がある。
今日も、最初に麻酔を刺されて、
しばらく放置プレー。

俺は本を開く。
最近、鷲田清一の「死なないでいる理由」という本を読んでいる。



まだ全部読み終わっていはいないけれど、
その中に「見えない死、隠される生」という章がある。

新聞にテレビに、友達との話題に、
死は溢れているけれど、
本当に「死」ぬところを見る人は稀だ。

例えば、親の死でさえ、
病院で心電図や血圧の数値と
医師の死亡宣告に翻訳されて、
死はもはや感じるものではなく
ニュースになってしまった。

要するにわたしたちの社会では、生きるうえでもっとも基本的な出来事がもっとも見えにくい仕組みになっている。食材となる生きものの死体処理、食材の輸入調達、女性の出産、人の死と死体の処理などの場面が視界から外されている。で、調理された肉を、パックされた食材を、胎脂や血液を拭われた新生児を死化粧をほどこされ正装した遺体をしか、わたしたちは見ないのである。

と鷲田は言う。

思えば大学生活は、
見えない死を知っていく過程でもあった。

医療に関わるひとは、まさしく人の死を、
法律に関わるひとは、人が社会的に殺されるのを、
文学に関わるひとは、言葉が滅びていくのを、
教育に関わるひとは、子供の目が死んでいくのを、
国際協力系のひとは、海の向こうでの貧困や戦争を、
農業に関わる人は、人が生きるために犠牲になるものを。

みんな、
他の人には見えにくい、それでいて、それぞれに重い死を
それぞれの目に刻み付けていく。

誰かが死ぬ、
何かが消滅するということは、
場所が一人分ぽっかり空くということで、
その穴を埋めることが
自分の居場所になるならそれもいい。
俺たちは誰かにもらったバトンを小脇に走っている。

早く俺の歯に空いた穴も埋めてほしいな。


と思ったところで先生が来て、歯を削り始める。
ちょっと響きますねー、と言われたけど
ぜんぜん痛くない。
麻酔されてるから。


そう、現代では痛みすら隠されている。


世界のどっかでは、
人は基本的には死ななくて、
でも人の恨みを買うから呪われて死んでしまう。
という世界観があって、
法律はないけど、
みんな呪いが怖いから角を立てずに仲良くする。
俺はそのシャープなものの見方に度肝を抜かれた。

でも、そういう風に、
心に落下防止フェンスを張るバランス感覚は
人類が普遍的に持っているものと思う。


たとえば、
宮崎駿は、もののけ姫のインタビューで、
タタリガミに呪われた主人公アシタカは、
アレルギーという呪われた体を抱えて生きていかなくてはいけない現代人を重ね合わせてみた、
みたいなことを言っていた。
その呪いとはつまり、
自然を壊した罰ということらしい。


たとえば、
虫歯は呪いだと子供の俺は感じていた。

他の生き物の命を奪って食べて、
しかもけっこう捨てる、肉食動物ニンゲン。
俺たちはきっといろんな恨みを買っている。
だから虫歯は、
歯を蝕む呪いであり、
甘い思いをしてすいません。
野菜食べるんで許してください。
と懺悔させるための戒めだった。
俺のおやつ断ちは3日と続かなかったけれど。


でも人類は、科学技術でもって
呪いさえも克服しようとしている。
ひょっとすると、隠蔽しようとしているだけなのかもしれない。

上の本に、パスカルのこんな言葉が引かれている。
われわれは絶壁が見えないようにするため、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁の方に走っている。

それが生きるということなのだとしたら、そんなに虚しいことはない。
虫歯は痛い方がいい。
痛かったら甘いもの断ちするのに。
と、帰り道に菓子パンを頬張りながら思っていた。

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