地震が起こって考えたこと。
今すぐには役に立たないこと。
メモっときます。
自然にやっていたことが、
意識してやるとできなくなることがある。
自分は普段どう話してたのか、
どう笑っていたのか、
家に帰って靴を脱ぐのは右が先か左が先か、
ごはんは最低何回噛んでから飲み込むか、
それはどのへんの歯で噛むか、奥か手前か、右か左か。
改まって聞かれると思い出せなくない?
そつなくこなせていたことが、力むとぎこちなくなり、失敗する。
日常はこんなにも複雑な手順のかたまりで、
それをひとつひとつ、ぎっちりと、身にまとっていたことを思い知らされる。
こんなにも俺は日常を演じていたのか、と思った。
地震が起こって、
「被災地以外のひとは、いつも通り過ごしましょう。
いつも通りに仕事をして、食べて、遊んで。
日常を保ちましょう」
みたいなことを言われる。
あるべき場所で、あるべき役割を演じる。
それって、まるで演劇じゃない?
でもこれは簡単なことじゃない。
(高校時代の話なのであんまり覚えてないけど、)
舞台の上に立つと、
山のような「あれ、これってどうだっけ?」に襲われる。
どうやってやるか考えたこともない動作は、
考えてやってもなかなかできない。
何もない空間に、「いつも」をかたちづくる。
それは、過酷な作業だ。
考えてもなかなかないできないものばっかりで、
日常は成り立っている。
それを、ひとつひとつ丁寧に着直して、
やっと日常をよそおうことができる。
そんなに簡単じゃない。
でも、きっとみんな、こんな複雑なこともやってのけて、
また考えなくても日常がかたちづくれるようになるんだろうな。
演じることと、日常と。
そんなことをふらふら考えてる。
まとまらないけど。とりあえずメモ。
2 件のコメント:
今日、小学校の先生している方と話した。
今回の震災があったのは金曜日だから、14日に震災後初めての朝礼があったみたい。
そこで壇上に立った校長先生は、被災地の話に触れなかったそうだ。僕が話した先生以外のほとんどの先生は震災の件はスルーして授業をスタートさせたそうだ。
きっとその瞬間の教室って、
どこかぎこちなかったんだろうな。
記事に関係あるか分からないけれど触発されました。
あー、なるほど。
なんなのかわからないけど、そのぎこちなさの原因はきっと、日常を支えるものと関係あるんやと思う。
大事な気がする。
今はうまく見えないけど。
ありがとう。
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