2009年9月26日土曜日

10月1日、関東にいきます。

合格者交流会のために、関東に行きます。
いまの研究室に新教授をウェルカムするのをサボって笑

夜行バスで0泊1日の旅です。
朝と夜はあいてるので、ひまなひとは遊びませんかー?
それか、なんかおもろいイベントあったら教えてください◎

2009年9月24日木曜日

切り離さない

なんか閃きかけたのでメモ。
とりとめのない俺の頭の中を、書き留める。


小6の俺は、「10年後の私」という作文の課題で、
22才の俺が、大学生で引きこもって、時代に流されずスーファミにはまっているだろう、
という大胆な予言をしていた。

その予言はノストラダムスのように外れて、
俺は意外と引きこもらない。
ひとと出会うのだって割と好きな方だ。きっと。

でも、
何かをすればひとと出会うけれど、
俺は、出会うために何かをしたくない。

生きた先には死があるけれど、
死ぬために生きることはできないように。


出会いたくないのに出会ってしまうから、
出会いはすばらしい。
出会いはいつも目的ではなくて、
付随するものでしかない。
どんなにすばらしくても、少なくとも俺は、
出会うために出会うことはできない。



そんな風に、結果を目的にはできないことが、世の中にはたくさんある。

「目的」という言葉は、過程と結果を切り離す、悪い風習だ。
と最近思う。
それはたぶん、水都大阪で関わっているアーティストのひとの影響もあるだろう。

「未完成をデザインすること」

という言葉で語られているのは、
完成するかどうかが大事ではなくて、
完成させようとするベクトルが大事だということ。

完成したものはすばらしい。
けれど、完成してしまえばそれまでだ。
未完成は、他の未完成と刺激し合い、関係し合い、
予想もしなかったものを生んでいく。

あなたの中の未完成を掘り起こしていく。


作品と、
作品をつくるプロセスと。

まったく別のことのようで、
完成しているかしていないかという些細な違いしかない。
佐藤仁「資源を見る眼」にも、物体と事象を一体視することの重要性が説かれているけれど、
分けて考えてしまっては見えないものがある。

細かい例を出すと、
確か平田オリザと誰かの対談の中に、
歌舞伎の見得に関する考察があった。
あれは、集中すると自然と寄り眼になるのを、
逆に寄り眼になることで集中しようという型なのではないか、という。

寄り眼と集中は、一体のものなのだ。


冒頭の方に書いたことで言うと、
何かすることと出会うことは、切り離すことができない。
目的が何かわからないまま、
何かをしたくなる。
それはきっと自然なことだ。


物体と事象の一体視。
「資源を見る眼」を最初読んだ時はしっくりこなかったけど、
最近、ちょっと分かってきた気がする。
研究をするときも、こういう視点を持てるようにしたい。

2009年9月23日水曜日

La Roux

今日ラジオでこの曲が流れてて、
曲名を思い出すのに苦労した。
La Rouxは、無難そうでありながら、なかなか面白い曲をつくるなーと思った。

忘れないようにクリップ。

La Roux - Bulletproof

人生の一里塚

ついにここまできたか。

きのう俺は、人生の一里塚をひとつ通過した。



水都大阪のかえっこ屋に橋本知事、嘉田知事とかがきていた。
人だかりをよそ目に、しかし俺は子どもの相手をする。
かえっこ屋では、いらなくなったおもちゃを持ってくるか、お手伝いをしてくれると「カエルポイント」という世界共通のポイントがもらえる。
カエルポイントはおもちゃと交換できるから、会場はお手伝いをしたい子どもで溢れている。
でも手伝ってもらうことってそんなにないので、ときに需要と供給のバランスは崩壊し、失業率が急上昇する。

という事態はあんまりないけど。でもなんとかして雇用創出の施策を打ち出さないといけなくて、スタッフは大変だ。
こどもニューディール政策、みたいな。




話がそれた。
シュールでごめんなさい。

とにかく俺たちスタッフの仕事は、こどもに仕事を教えることと、がんばった分だけポイントをあげることだ。
でも、スタッフはいろんな場所を行ったり来たりしていて、そこにいる子どもがいつから働いているのかわからなかったりする。
そんな時はこどもに自己申告させる。

「どれくらいがんばった?」
「何ポイントほしい?」

みたいな感じで聞いてみて。

そして俺は、そんな感じで

「いつから働いてる?」

と小1くらいの女の子に尋ねてみる。
するとその子は

「はじめから」

と答えた。

はじめって??
かえっこバザールが始まったのはもう2時間前なので、そんな前から働いてるのか!
こいつすげー!

これはめっちゃポイントあげよう。と思ったけど、念のため、

「はじめっていつ?」

と聞いてみる。
すると、

「おっちゃんが来たとき」

という答えが返ってきた。
あ、橋本知事が来た時か。
なんや、まだ15分くらいしか働いてないのか。

「おっちゃんって誰なん? 橋本知事?」

と聞いたら、その子は首を横に振る。
あれっ?

「じゃあおっちゃんって誰なん?」

と尋ねると、その子はゆっくり指を挙げ、
「おっちゃん」を指差した。
おっちゃんとは果たして誰なのか。
俺はゆっくりその指の先を確かめる。

それは驚きの人物だった。

なんと
「おっちゃん」は
俺だったのだ。


えっ???


おっちゃんが俺ということは、
言い換えるとつまりそれは、
俺はおっちゃんなわけで、
あ、そうか俺ってそうだったのか。


ちょっとショックだった。


初「おっちゃん」という通過儀礼。
男なら誰もが通過する人生の一里塚だ。
そんなわけで、俺はもうおっちゃんです(笑)。

おっちゃんは今日も水都に行ってきます。
おっちゃんだからそろそろ体がしんどいけれど。

2009年9月18日金曜日

北海道に行ってました。

14日〜16日、苫小牧で水フォーラム参加者同窓会をした。
お金を使い果たした。
写真撮ったけど、
現像するお金がないので載せるのはまた今度。。

北海道って意外とあったかい。
もっと寒いところに俺は行きたいのに。

同窓会っていいなって思った。
つらかったことも楽しかったこともそこそこ忘れて、
朝のまどろみのように、何もかもがどこか曖昧になる。

夢なのか、現実なのか。

過去なのか、今なのか、未来なのか。


けれど俺たちは、
曖昧な中から、曖昧にしてはいけないものを見つけないといけない。

それは、友情とか、
人生の目標とか。
時を経ても移ろわないもの。
挫折を味わっても色あせないもの。


俺らの場合でいうとそれは、次回の水フォーラムだ。

英語がしゃべれなかったこと。
水のユースネットワークができなかったこと。
帰ってきて、まだ日本の中でアクションを起こせていないこと。

今回できなかったことを、できるようになりたい。
次回の水フォーラムは3年後。
そんな先のことだけど、
久しぶりにみんなで会って、ちょっと先が見えた気がした。

過去も未来も、
京都も北海道もイスタンブールも、
俺たちはつながっている。

マソソソマソソソ

最近、Marilyn Mansonにはまっている。
昔はめっちゃ嫌いだったけど。

マンソン食わず嫌いのひとはとりあえず聴いてみてね!
聴いてから嫌いになっても遅くない。


マンソンを始めて見たのは、
「ボーリング・フォー・コロンバイン」でインタビューを受けてるところ。
頭良さそうにしゃべってた。


こう言ってはなんだけど、
こんなにブサイクな顔をしていて、
こんなに気持ち悪い動き方をしていて、
ここまで人気が出るのは才能だなーと思う。

かっこいいひとが、
かっこいい音楽をやってても何の感慨もない。
かといって、
キムタクがマンソンみたいな曲を歌ったらみんな引くよね。

鬱屈した人間にしか奏でられない、
鬱屈した音楽がある。


銀杏ボーイズの峯田和伸は、
銀杏BOYZ聴いてるーっつってよ、そのよ、会社の中でそんなのがバレてしまったらよ、「うえっ、アイツ銀杏BOYZ聴いてんの?」なんてよ、差別されるような音楽を俺は作っていきたいワケ。

と言っているけど、こういうのを目指してるのかな。

差別されてるひとのための、
差別される音楽。


Marilyn Manson - This Is The New Shit
http://www.youtube.com/watch?v=_4IVxpulRf8

2009年9月13日日曜日

簡易チェック法

お前は今、何かを憎んでいるか?

憎しみは力になる

もっと憎め

もっと、もっとだ!

何かを憎みながら生きていけ

人生ってのは旅だ

憎めない奴、

みんなのヒーロー、

聖人面した聖人を探し出して、

憎む旅だ

たくさん憎め

次、次だ!

敵を憎め

親を憎め

親友を憎め

道ですれ違うひとを憎め

最後に、憎むものがなくなったなら

自分を憎め

今まで他人に振りまいてきたのと同じだけの憎悪を自分に与えろ

やがてお前は鏡に殴りかかり

逆に鏡に殴られて果てるだろう

死んでもまだ憎しみを抱き続けろ

お前を焼く炎が激しさを増すように

そしてお前が骨だけになったなら

憎しみを捨てて世界を見回してみるといい

お前のために誰かが悲しんでいたんなら

それは憎しみが足りなかったっていうことだ

すなわちお前は、

人間だったっていうことだ



という詩が、昔のノートに書きなぐられているのを見つけた。
人間かどうかの、簡易チェック法。

あ、簡易じゃないかな?笑


高1のときに書いたやつな気がする。
そのころの将来の夢は、詩人(笑)。
上田假奈代さんという「闘う詩人」を肩書きにもつひとがいるけど、
そういうのがカッコいいなーと思っていた。
言葉一つで社会と闘う、的な。

やがて大人になって、
自分の言葉のチョイスに限界を見た俺は、
あっさりさっくり諦めるのだけれど、
しかし詩人を目指した後遺症があるような気が最近している。


俺は、無駄に抽象的な言葉を使う癖がある。

例えば。
昨日、水都大阪で中学生がハンガーで作品をつくる補助をしてたときのこと。

ハンガーとハンガーをつけるには、針金で止めた後にホットボンドで接着するのだが、
間違っても、針金は切ればいいし、ホットボンドも固まったらペリっとめくればいい。

「あ、間違えた」

と狼狽する中学生に、

「大丈夫やで、何回でもやり直せるねん、」

とすかさずフォローした後、
何を思ったのか俺は

「人生と違って。」

という一言を付け加えてしまった。
あれっ?

なんやったんやろう。
中学生の若さへの嫉妬?笑

こんな感じで、自分でもよくわからない、シュールな言葉を口にしていることがある。
よくある。

「生きるってそういうことだよね」
「人間っていうのは」
とか、そういう類いの言葉が俺の口から発せられるのを
聞いたことある人はけっこういる気がする。

それはとりもなおさず、俺がシュールだということで、
由々しき問題だ。

最近の悩み。
なんか解決法はないですか?