2009年9月24日木曜日

切り離さない

なんか閃きかけたのでメモ。
とりとめのない俺の頭の中を、書き留める。


小6の俺は、「10年後の私」という作文の課題で、
22才の俺が、大学生で引きこもって、時代に流されずスーファミにはまっているだろう、
という大胆な予言をしていた。

その予言はノストラダムスのように外れて、
俺は意外と引きこもらない。
ひとと出会うのだって割と好きな方だ。きっと。

でも、
何かをすればひとと出会うけれど、
俺は、出会うために何かをしたくない。

生きた先には死があるけれど、
死ぬために生きることはできないように。


出会いたくないのに出会ってしまうから、
出会いはすばらしい。
出会いはいつも目的ではなくて、
付随するものでしかない。
どんなにすばらしくても、少なくとも俺は、
出会うために出会うことはできない。



そんな風に、結果を目的にはできないことが、世の中にはたくさんある。

「目的」という言葉は、過程と結果を切り離す、悪い風習だ。
と最近思う。
それはたぶん、水都大阪で関わっているアーティストのひとの影響もあるだろう。

「未完成をデザインすること」

という言葉で語られているのは、
完成するかどうかが大事ではなくて、
完成させようとするベクトルが大事だということ。

完成したものはすばらしい。
けれど、完成してしまえばそれまでだ。
未完成は、他の未完成と刺激し合い、関係し合い、
予想もしなかったものを生んでいく。

あなたの中の未完成を掘り起こしていく。


作品と、
作品をつくるプロセスと。

まったく別のことのようで、
完成しているかしていないかという些細な違いしかない。
佐藤仁「資源を見る眼」にも、物体と事象を一体視することの重要性が説かれているけれど、
分けて考えてしまっては見えないものがある。

細かい例を出すと、
確か平田オリザと誰かの対談の中に、
歌舞伎の見得に関する考察があった。
あれは、集中すると自然と寄り眼になるのを、
逆に寄り眼になることで集中しようという型なのではないか、という。

寄り眼と集中は、一体のものなのだ。


冒頭の方に書いたことで言うと、
何かすることと出会うことは、切り離すことができない。
目的が何かわからないまま、
何かをしたくなる。
それはきっと自然なことだ。


物体と事象の一体視。
「資源を見る眼」を最初読んだ時はしっくりこなかったけど、
最近、ちょっと分かってきた気がする。
研究をするときも、こういう視点を持てるようにしたい。

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