なんか閃きかけたのでメモ。
とりとめのない俺の頭の中を、書き留める。
小6の俺は、「10年後の私」という作文の課題で、
22才の俺が、大学生で引きこもって、時代に流されずスーファミにはまっているだろう、
という大胆な予言をしていた。
その予言はノストラダムスのように外れて、
俺は意外と引きこもらない。
ひとと出会うのだって割と好きな方だ。きっと。
でも、
何かをすればひとと出会うけれど、
俺は、出会うために何かをしたくない。
生きた先には死があるけれど、
死ぬために生きることはできないように。
出会いたくないのに出会ってしまうから、
出会いはすばらしい。
出会いはいつも目的ではなくて、
付随するものでしかない。
どんなにすばらしくても、少なくとも俺は、
出会うために出会うことはできない。
そんな風に、結果を目的にはできないことが、世の中にはたくさんある。
「目的」という言葉は、過程と結果を切り離す、悪い風習だ。
と最近思う。
それはたぶん、水都大阪で関わっているアーティストのひとの影響もあるだろう。
「未完成をデザインすること」
という言葉で語られているのは、
完成するかどうかが大事ではなくて、
完成させようとするベクトルが大事だということ。
完成したものはすばらしい。
けれど、完成してしまえばそれまでだ。
未完成は、他の未完成と刺激し合い、関係し合い、
予想もしなかったものを生んでいく。
あなたの中の未完成を掘り起こしていく。
作品と、
作品をつくるプロセスと。
まったく別のことのようで、
完成しているかしていないかという些細な違いしかない。
佐藤仁「資源を見る眼」にも、物体と事象を一体視することの重要性が説かれているけれど、
分けて考えてしまっては見えないものがある。
細かい例を出すと、
確か平田オリザと誰かの対談の中に、
歌舞伎の見得に関する考察があった。
あれは、集中すると自然と寄り眼になるのを、
逆に寄り眼になることで集中しようという型なのではないか、という。
寄り眼と集中は、一体のものなのだ。
冒頭の方に書いたことで言うと、
何かすることと出会うことは、切り離すことができない。
目的が何かわからないまま、
何かをしたくなる。
それはきっと自然なことだ。
物体と事象の一体視。
「資源を見る眼」を最初読んだ時はしっくりこなかったけど、
最近、ちょっと分かってきた気がする。
研究をするときも、こういう視点を持てるようにしたい。
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