闘う意味、
愛する意味、
生きる意味。
生きる限りは自分にまつわるあらゆる意味が問われ続ける。
社会から、自分自身から、
「それって意味があることだよね?」
「俺って意味のある人間だよね?」
と、拷問のように問い詰められる。
繰り返し、繰り返し。
そして俺は、意味に染まっていくんだ。
世界は意味でできてるから、
意味を持たなければそれは死んでいるのと同じだ。
なにかしなくちゃ。
早くしなくちゃ。
なにか、意味があることをしなくちゃ。
そんな焦りに駆られて、俺はやがて、
意味のあることしかしなくなる。
お金が稼げること、
世界を救うこと、
モテること。
なんだっていい。意味があればいい。
その逆に、意味を求めれば求めるほどに、
意味のないことを避け、嫌う。
そして、恐れ、怯える。
なのに、意味を簡単に見失ってしまう。
あれほど確固としてあった意味が、
忽然と消えてしまう。
こんなことして意味あるのかな。
と頭を抱えてしまう。
悪い時には、生きる意味さえ見失う。
俺は、「それって意味があるの?」と問い続けるあまり、
意味の中から「意味のなさ」を見つけることに慣れてしまった。
誰が見てもこれは絶対に意味がある!というようなことでも、
一片の「意味のなさ」もないということはない。
もちろん意味がなくなる訳じゃない。
意味はあるけど、
「意味のなさ」をあまりに恐れるばっかりに、
そっちにばかり目がいって、意味が見えなくなる。
だったら、
どんなにあがいても意味から「意味のなさ」を見つけてしまうならば、
「意味のなさ」から意味を見つける練習をしないといけない。
でないと意味のブラックホールに呑まれてしまう。
俺は意味がなくなって、消えてしまう。
昼は陽光に潜む影に目を凝らし、
夜は闇に瞬く光に目を凝らすように。
闇の中で、無意味さの中で、俺はもがかなくてはいけない。
今回、トレハ星人になって卒業式に出ようと思ったのは、
意味なんてない。
あえて言うなら、「意味のないことをする」という、意味があった。
こんな大げさな言い方はきっと後付けだけど(笑)
まあ別に意味なんて後付けでいい。
後にならないとわからない意味もあるから。
そして、その意味とは何か、
そんなものあるのか、
今もわからないけれど、
これは、意味と意味のなさの間を右往左往する、
俺なりのもがきだった。
これから俺は、大学院生になって、社会人になって。
幾度となく「意味のなさ」を突きつけられる。
「それって意味あるの?」と言われることが何回だってある。
誰も言わなければ自分で自分に言ってしまうだろう。
定期的に自分を傷つけなければ、
痛みがなければ生きているなんて実感できない、
そんな不便な生き方しかできないから。
そして、幾度となく意味を見失う。
時には生きる意味に悩む。
そんなときに、トレハ星人のことを思い出したい。
「意味のなさ」にどっぷり浸かって、
意味を見つけようと必死になったこの2ヶ月のことを。
あ、ぜんぜん関係ないけど、
町田康の小説に出てくる言葉を締めくくりとして載せてみます。
内側の虚無。
しかし、この感覚は獅子頭をかぶっているゆえの感覚だろうか。確かに獅子頭の内側は闇で外は明るい。その闇に阻まれて俺自身と獅子がひとつながりにならないのかも知れない。けれども俺はいつもこんな闇を意識してきた。俺の思弁は闇に遮られて言葉につながらない。俺の思いは闇に閉じ込められて光の中に放たれることはない。つまり俺はずっと獅子頭のなかにいて内側の闇、内側の虚無をみて生きてきたのだ。北野田。ところが光しか見ないものには、俺がそんな闇や虚無をみているとは知らないから、俺が暴れ狂うのは、ただ暴れ狂いたいから暴れ狂っているのだと思って俺を馬鹿にしている。違う! 俺が暴れ狂うのはそのような内側の虚無が絶えず視界に入って人間としていたたまれないから暴れ狂うのだ。咆哮するのだ。
うおお。(町田康「告白」)
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