2010年4月8日木曜日

「対話」についての雑記

友達のブログを見てインスピレイテド。


ネガティブな「対話」観
http://12768.blog17.fc2.com/blog-entry-32.html


「ワールドカフェ」「OST」「AoH」などなど海外の実践を追いかける動きや
ハウツー本に載る「こうすればうまくいく」対話法、的なもの。


これらの動きには「何か違う」と感じてしまう。
一様に感じるのは、どうも「ポジティブ」過ぎる感が否めないところです。


「対話しようよ」と呼びかけて人が集まれば、対話できてしまうのは当然だろう、
などと思ってしまうのです。



という辺になんか共感するところがある。

以下、適当に思ったことを書きます。
雑です。
たぶんファシリテータのひとが読んだら、
「ええっ?それはひどい誤解だ」と思うこともあるけど、
まあその辺は適当に読み流してね。



ひとつめ。

ワークショップという枠の中で対話をするのは、
「日本文化」という枠の中で生きていくのと同じなんじゃないか。
と、時おり思う。

それはどういう意味かというと、
結局、何かしらの枠が必要になるということ。
枠の中に閉じ込められて、
その枠の、鼻先がぶつかりそうな狭さに駆られてはじめて、
対話は可能になるということ。




建築史学家の藤森照信は、著書(↓)の中で、

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「団らん」が生まれたのは、
火があるところに人が集まって来て、なんだか楽しげに話し始めたのではなくて、
ただ暖をとりたいという利己的な理由で火のそばに行ったのに、
なんか隣には人がいて、ちらちらこっちを見てくる。
その息も詰まりそうな沈黙に耐えきれずに、話し始めたのではないか。
「団らん」はそうして、消極的に生まれてきたものなのではないか、
と言う。
根拠は何もない想像だ、と付け加えながら。


ちょっと待て、それは対話じゃなくて会話じゃないか。
いっしょにするな。と言われるかもしれない。

でも、俺が気になるのはまさにそこ。
対話という意味を辞書で調べると、

[名](スル)向かい合って話し合うこと。また、その話。「市長が住民と―する」
Yahoo!辞書-大辞泉

とあるけれど、
向き合って話せばそれは対話かというと、
そんなことはないんじゃないか、という点。
対話と会話の境界というのは非常に曖昧で、
対話と思っているのが実は会話かもしれないし、
会話と思っているのが実は対話かもしれない。


例えば、話したくないけど話さざるを得ない状況で話すのが対話だとするなら、
上の団らんだってある意味で対話なのではないかとか。

しゃべりたくてしゃべるのが会話だとするなら、
対話をしたくてくるひと同士がワークショップで話すとき、それって会話じゃないのかとか。

そしてそれはどちらも、
話すシチュエーションに置かれることでしか発生しない
(そのシチュエーションに自分から飛び込むかどうかの違いはあるにしても)
コミュニケーションであることとか。


会話ってなに?
対話ってなに?

そして、対話を起こすのに必要な環境というのはなんなんだろう。

俺にはまだよくわからない。




もひとつ。

対話とコミュニケーションは違う。
平田オリザは、中学校で劇を作る時のことをこう書いている。

たとえば、朝の、先生が来るまでの授業の風景を子どもたちと考える。
「朝は、みんな、どんな話をするかな?」
と聞くと、たいてい、優等生的な子どもが、
「宿題の話をする」
とか、
「運動会が近いから運動会の話をしよう」
と答える。そこで、少し黙っている子にも話を振ってみる。
「君は、どう、何を話す?」
と尋ねると、たとえば、
「話さない」
という子どもがいる。
「いつも寝ているから話さない」
と言うのだ。
「あぁ、いいね、いいね、話さない子の役も作ろう」
ということになる。まだ他の子にも聞いてみると、
「いない」
と言う子もいる。
「いつも遅刻寸前で来るからいない。いないから、他の子が何を話しているかも知らない」
と言うのだ。私は、
「いいね、いいね。じゃあ、遅刻してくる子も作ったらどうだろう」
と話を進める。こうしてできた芝居は、優等生的に、全員が宿題の話をしている班よりも、圧倒的に面白くなる。それは子どもたちも観ていればわかる。このことを通じて、話さないことも、いないことさえも、コミュニケーションの一つなのだということに気がついていく。
(平田オリザ「演劇のことば」)

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「話さないこと、いないこと」も、コミュニケーションだ。
でも、対話ではない気がする。
向き合っていないから。
話さない人やいない人と対話をする術を、俺は知らない。

その人と向き合えなくても、
その沈黙や不在と対峙することが、あるいはできるのかもしれない。
けれど、できたとして果たして、それは必要なのだろうか。

そもそも、
「話さないこと、いないこと」というコミュニケーションは、
日常生活で必要なものなのか。

平田オリザはそのコミュニケーションのかたちを
「圧倒的に面白くなる」という言葉で肯定している。
けれど、面白くなるのは演劇であって、
実際の生活ではない。

話したいし、いてほしい。
そっちのほうが面白いに決まってる。




最後にもひとつ。

ほんとうの対話というのが、
話したくないものを話す、
見たくないものを直視する、
そういうことだとすれば、
「ほんとうの対話」というのはフィクションなんじゃないかと思う。

きっと俺たちは、話したいことしか話さない。
そして、聞きたいことしか聞かない。
「話したくないこと」「聞きたくないこと」がいつの間にか
「話したいこと」「聞きたいこと」に変わる、
そのプロセスがむしろ重要だ。
話される中身の絶対値よりも、
変化量が大事なんだ。

つまり、
どんなことが話されたかよりも、
どういう風にして話されたかに、目を凝らさないといけない。

なので、
「対話しようよ」と呼びかけて人が集まって、
かなり重たい話をしたことをもって「対話ができた」と言っても
それはたぶん絶対値の話に過ぎない。
みんな対話しようと思って来ていて、
気持ちの変化量は、それほど大きくない。

対話したくないひとが対話するとき、
それは「ほんとうの対話」になるけど、
そんなシチュエーションあるのかな。



‥自分でも何を言ってるかよくわからない。
とりとめがないのでこの辺で終わり!

雑やなーしかし。。ぜんぜん考えがまとまらない。
最後まで読んでくれた人、ごめんなさい。

4 件のコメント:

中尾泰治 さんのコメント...

興味あるテーマなので、長文で失礼。

これらの動きには「何か違う」と感じてしまう。
一様に感じるのは、どうも「ポジティブ」過ぎる感が否めないところです。


「対話しようよ」と呼びかけて人が集まれば、対話できてしまうのは当然だろう、
などと思ってしまうのです。

現状では、そういうところが多くて、これには同感です。
すごく不自然だし。

でも、最初はしょうがないのかな。と思う。
広がって行く過程の中で。

私の場合は、人と、大切にしていることや普段考えていることを話すのが好きだから、
不自然でもそういう「対話」も好きですけど、そのまま広まっていくとも思えない。

会話と対話の違いは正直よくわからない。

平田オリザの例は、「観察者たれ」ってことじゃないかな。
沈黙や不在について、観察してみると、ステレオタイプだと思っていた朝の時間もいろんなことがあるよって
見えてきて。それがいいとか、悪いとかじゃなくて、そういう風にできていると。
面白みもあるし、つらさとかもあるのが見えてきて、世界が広がるよっていう。
だからって、みられている本人は何も変わらないのだけれど、「不在」の人も観察者の視点で眺められたら、
また、違う風景が見えるんじゃないかな。


個人的な、OSTやワールドカフェに感じている可能性でいうと、対話の意味とは、問題に直面している当事者がぶっちゃけて話すこと。
だと思う。
(AoHってまた、新しいのがでてきたのかな?)

ポジティブさは必要。
でも、「あなたの周りにいる、利害関係者で、あなたと価値感の違う人にちゃんと説明できる?」
っていうことを考えてなかったら、それは、そういう現実と対話してないよね。

そんな場所は、寂しいというか、むなしいよね。

Unknown さんのコメント...

> でも、最初はしょうがないのかな。と思う。
> 広がって行く過程の中で。

確かにそうですね。
やりやすいとこを出発点にしないとって感じですね。
けっこうポジティブさを食わず嫌いになりやすいのですが、
反省します。



> 平田オリザの例は、「観察者たれ」ってことじゃないかな。

それはわかるし、
いいとか悪いとかじゃないっていうのもわかります。
平田オリザは著書の中で、

文人としてのわたしは、日本は滅びると信じていますし、滅びてもかまわないとも思っています。劇作家としてのわたしの仕事は、かつてチェーホフが、百年前に、滅びゆくロシア帝国の人々を愛情を持って描き続けたように、滅びゆく日本人の姿を記録していくことだと思っています。(「ニッポンには対話がない」)

と書いていますが、
そこまで「観察者」に徹する平田オリザの姿勢が俺は好きです。

でも上の文章は「けれど、教育者としてのわたしは、」と続くのですが、そんなふうに、観察者じゃなくて当事者としての視点になったとき、
「話さない、いない」に対して、
自分は何をできるんだろう、
と思うんです。

中尾泰治 さんのコメント...

内田樹とお坊さんの釈 徹宗の対話集の「現代霊性論」の中で、釈 徹宗さんが、宗教者が踏み込めないが、占い師は踏み込める、みたいな話があって、それを思い出した。

本では、夫や親戚とうまく言っていない主婦に、
「あなたは、今、運気がないから、毎日黙って夫にビールを注ぎなさい。そうすれば、幸せになれる。」
みたいなことをいって、それを実践して、周りとの関係がよくなるっていう例があって。

宗教者は、そこまで言えないと。

不在の人に対する、youngの葛藤も、似たあたりにあるんじゃないかな。

「おせっかいのジレンマ」とでもいおうか。

価値観は相対的だから、何がいいかなんてわからない、のは事実だが、
私とあなたは具体的に生きていて、
縁あって、私はあなたとつながりがあって、今、私はあなたがこうしたほうが幸せになれると信じるがゆえに、
私は、いやがるあなたを朝の学校に連れてこようとしているのです。

もし、あなたのことを今以上によく知ったら、上の考えを撤回して、「不在」であるあなたを尊重するかもしれないけれど。

Unknown さんのコメント...

その話面白いですね。
いずれ読んでみます!


そうですね。
ジレンマですね。
そこまで踏み込めるのか、ということをいつも悩むことになるんでしょう。
そういう対話の前のいろんな揺れ動きも含めて、対話なんだろうなと思っています。