2009年8月12日水曜日

「僕にその手を汚せというのか」

タクティクスオウガ

というスーパーファミコンの不朽の名作がある。
民族紛争のさなかにある大陸で、主人公が様々な運命に翻弄されながらも闘い、大陸を統一する。みたいな話だ。あんま覚えてないけど、たしか。

「僕にその手を汚せというのか」
というのは4章立てになっているストーリーの最初の章のタイトルで、
主人公はこの章の最後に、敵対する民族への敵意を煽るために、その民族のふりをして自分たちの民族の街を虐殺するという計画を打ち明けられ、従うか従わないかの選択を迫られる。

主人公がどちらを選んでも、結局虐殺は起こってしまう。
主人公が手を汚したか汚していないか、それだけの違いだ。
それだけの違いで、後のストーリーは劇的に変わる。



手を汚すか汚さないか。
それはとても大事な要素だ。
いろんな分野において。

いつか噂で聞いたけど、医者は「神の手」とか言われるレベルになると、手術でその「神の手」を行使する機会はあんまりなくなるらしい。執刀に立ち会うけれど、無難な箇所しか手を出さない。
その手術が成功すれば「神の手」の手柄になり、
万が一失敗すればその場にいる誰かの責任になる。

失敗して「神の手」の名に傷がつくことは、何よりも回避されなければならないのだ。噂で聞いただけだから本当かは知らないけど。


けれど、
手が汚れていないことの価値とは正確にはどれほどのものなのだろう。


と、この本を読んでふと考えた。


この本では、アフガニスタンでは「アフガンに軍隊を送ったことがない日本」への信頼が厚いことなどを例に挙げ、日本は第二次世界大戦以降は軍隊で攻めたことがないから信頼があり、平和構築において大きな役割を果たせる。
と述べられている。

第二次世界大戦での日本の侵略の記憶が残っているアジア諸国はともかく、
中東とかアフリカとか日本に侵略されたことがない国では、確かに日本への不信感みたいなのはあんまりないんだろうと思う。
たしかに大きな役割を果たせる可能性はあるだろう。

じゃあ、
ほんとに平和構築に「手が汚れていない」ということが価値を持つのならば、日本が自衛隊の戦闘地域への派遣を求められた時に
「あ、ぼく手を汚したくないんでやめときます」
みたいな断り方はできるのだろうか。

手が汚れていない国が平和構築に価値を持つのなら、世界は手を汚してでもその国の価値を守るべきなのだろうか。
「あ、じゃあ俺がやっとくわ」
みたいににっこり笑って代わりに戦争をする。そういう、日本は平和の国、アメリカは戦争の国、みたいな割り切った役割分担とかはどう?


とか聞かれると、賛成するのはやだ。
そういう、割り切れない世界をムリヤリ割り切った世界観に賛同してはいけない。と直感が言っている。
手を汚したくないから汚れ仕事は他人にやらせる。というのはとても汚いやり方のように聞こえる。


でもほんとに、
「手が汚れていない」ということはどれほど価値を持つのだろう。
誰か知ってたら教えてほしい。

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