というもどかしさの中にいる。
なるほどね。こうきたか、ネガティブ。
ネガティブになりますとは宣言したものの、
こんな感じで悩むというイメージトレーニングはできてなかった。
奥が深い。と、負け惜しみを言ってみても虚しく響くだけ。
悩んでるひとは身近にも遠くにもいっぱいいて、
なのに自分には何もできない。
ちょっと手を伸ばせば届くようでいて、
なんかすごく遠い気がする。
そして、
それが悩みだということがまた悩ましい。
ワイドショーを見る主婦みたいだ。
他人の悩みを、俺が勝手に悩んでいいのだろうか。
みたいな、悩んでもいいのか、という悩み。
とはいえ、悩むという行為にいいも悪いもない。
選択の余地もなく、俺たちは悩む。
悩まざるをえないから悩む。
そもそも悩みが悩ましいのは、それが不随意の感情だからだ。
にもかかわらず、俺が「ネガティブになります」と宣言したのは、
たぶんそんなわかったようなセリフを言うことで、
まあ悩まないこともできるけど、
そこを敢えて悩むことを選んだだけで、
いつでも抜け出すことができる。
と思い込むことができる。
つまり、悩みの内容そのものが解決するかははさておき、
俺がいま俺の「思い通り」に悩んでいるという事実は、
悩みが思い通りにならない、という悩ましさを乗り越えられる。
そんなもの、ただの気のせいだけど。
話は変わるけど、京都人にはよく自分の意見に、
「知らんけど」
という言葉を付け加えるひとがいる。
例えばこんな感じ。
「この料理ぜったいおいしいで! 知らんけど」
「俺テストめっちゃ自信あるわ。知らんけど。」
この「知らんけど」というのは、マジカルワードだ。
その意見が当たっていれば「ほらやっぱり、言った通りやろ」と言えて、
逆に外れたとしても「あーやっぱり、何か違うと思っててん」と言える。
「知らんけど」という言葉をつけることで、
あらゆることが自分の掌で踊っているような印象を与えることができる。
たぶん俺が「ネガティブになります」と宣言するのもおんなじ感じなんだろう。
と、身に付けたくなかった京都らしさを自分の中にまたひとつ見つけたようで悩みが増える。
知らんけど。
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