石田紀郎「ミカン山から省農薬だより」北斗出版 1988
部屋を片付けているとふと本が出てきた。
友達のサークルでミカン山の調査の手伝いをしたときにもらった本だ。
カザフスタンに行くときにお世話になった先生が執筆している。
そういえばぜんぜん読んでなかったなと思って、せっかくなのでページを開いた。
「京大農薬ゼミ」というイカツい名前のそのサークルは、20年以上も和歌山のミカン山で省農薬ミカンの調査を続けている。
その活動がなぜ始まったのかは、今から40年以上も昔にさかのぼる。
1967年7月14日、1人の少年が死んだ。
彼は農芸高校に通うミカン農家の子どもで、
夏の農業実習の前に農薬散布のことを教えておこうと思った両親は、
彼にニッソールという農薬の散布を体験させる。
ニッソールは、効果がとても高いかわりに毒性も高いフッソールという農薬を改良し、効果はそのままにして毒性は低くした農薬だった。
「10リットル浴びても大丈夫です」と声高に宣伝されたニッソールはしかし、
きちんとカッパを着て手袋をして散布したにもかかわらず、
わずかに露出していた皮膚から彼の体を蝕む。
彼は中毒で倒れ、ひきつけとれいれんに苦しんだ。
両親はただ、発作を起こすたびに彼の体を抱いて抑えることしかできなかった。
特効薬はなく、彼は苦しみ続け3日後に息を引き取った。17歳だった。
いったい誰が彼を殺したのか。
2年後、両親はニッソールの製造販売会社と国を相手に裁判を起こした。
といって文章にするとさらっと書けるけれど、そんなことはない。
都会からは「農民は金もうけのために毒と知りつつ農薬をまいたのだから自業自得だ」と罵られ、農村からは「お上にたてつくようなことはやめておけ」と釘を刺される。
そもそも農薬中毒そのものが隠蔽されてきた。
農薬で死んだのではなくて、
自業自得で死んだのだと、
人の死が隠されてきた。
そういう社会状況の中で、この決断がいかに重いものだったか、
俺たちには想像できない。
地方裁での裁判は8年続き、果たして両親は敗訴した。完全敗訴だった。
けれど彼らをとりまく環境は少し変化していた。
初めは冷たい目で彼らを観ていた農村の仲間も、都市の消費者も、少しづつ理解を示し始めた。
高裁に移って更に7年。裁判官は和解を勧告した。
両親は和解を受け入れる。納得してかどうかはわからない。
17歳だった彼が死んでから17年。たった2人の農家が闘い続けるには長過ぎる年月だった。
しかしそれでも、
誰が彼を殺したのか。
という問いに明確な答えは見つからない。
農薬を売った会社が殺したのか、
販売を許可した国が殺したのか、
農薬を使った農家が殺したのか、
それとも、農薬を使わなくてはつくれない「きれいな」作物を要求する、消費者が殺したのか。
たぶん誰に責任を押し付けたところで、虚しい。
兼業で農業に時間を割けない中で、
事実として農薬を使わなければ売れる作物はつくれなくて、
つまり、事実として農家は農薬を浴び続けている。
だから農薬はダメなんだ。なんて、その人の生活を知らない他人が身勝手に言えることではない。
省農薬ミカン園の試みは、まだ裁判が行われている1972年に、父親の弟が新しく開くミカン農園で始められた。
実際、農薬を可能な限り省いたミカン栽培は可能なのか。
以来30年ほど、その挑戦は続いている。
ここまで書いて疲れたので、あとは農薬ゼミを見てね(笑)
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