2009年6月22日月曜日

「ボランティア」と「奉仕活動」

昨日、お世話になっているNPOの総会でスタッフをした。
といって、書籍販売の番をしてただけだけれど。

そこで初老のひとに話しかけられた。
典型的な話が長いおじいちゃんで、俺はちょっとうんざりしながら話し相手になってあげる。
どういう流れか忘れたけれど、おじいちゃんは、
「俺はボランティアって言葉、嫌いなんや。奉仕ならいいけど」
と言った。

俺は、あーなるほど、老人にありがちなカタカナ恐怖症か。
もー、現代社会についてきてよね。日進月歩なんだよね、日本語は。
みたいな風に思ったけど、
よくよく聞くとどうも違うらしい。

おじいちゃんは、
ボランティアは、相手のためだけじゃなくて自分のためでもあるが、
奉仕活動は、純粋に相手のためだけに行う善行だ。と定義する。

それはぴったり俺の理解と一致する。
では一致しないのは何なのか。
それは、価値観だ。


おじいちゃんが「ボランティア」という言葉を嫌うのは、
「ボランティア」は自分のためにやっているから、
相手のためにならない活動でも、「俺っていいことしてる」みたいな感じで正当化されてしまう危険を孕んでいるかららしい。
他方、「奉仕」は見返りを求めないものだから、そんなことはない。だから「奉仕」という言葉を使って、見返りを期待するよこしまな気持ちを戒めるべきだ。
みたいなことを主張していた。

それはまあ一理ある。

一方で、俺が、そしてたぶん俺ら世代が「ボランティア」という言葉を好むのは、誰かのために何かをするという活動は、必ず自己実現とか成長とかの見返りを伴っていて、
むしろその見返りを、
偽善とか欺瞞に陥る危険性が常に潜んでいることを、
心に留めておくことが必要不可欠だ。
みたいな思想が背景にある。

俺たちは逆に「奉仕」という言葉が怖い。
その響きは、何か得たいという欲望を隠してしまう。
欲望をコントロールするためには、
目の届くところに欲望を置いておかないといけないのではないだろうか。


誰かのためだけにやっている、と主張することはもはやタブーになっている。
「ホーシって気持ち悪いよね。えっ? 宗教?」
みたいな警戒感。

例えばの話、環境系のボランティア活動をしている学生を「すごいね」とかって誉めると
「地球のためですから」とか
「私たちの子どもの未来のためだわ」みたいな答えは返ってこない。
代わりに少しはにかんで、
「いや、ただ楽しいからやってるだけなんで」という風に反応する。


おじいちゃんと俺、どっちの理解が間違ってるとか、そういうことはない。
どっちの考え方も大事で、ただし違うという事実を直視しないといけない。
しかし、それを必死に説明したけど伝わらなかった。


価値観の壁。
それはとても厚い。

2 件のコメント:

sayon さんのコメント...

久しぶりに遊びに来ました。

「ボランティア」と「奉仕活動」ね。
なるほど~そういうことか、と考えさせられました。

取り組んでいる課題の原因が自分とまったく無関係なら、「奉仕活動」という言葉は成立するかもしれない…と思った。

そこで自分に置き換えてみて。
貧困という問題に取り組む私にとって、私は常に貧困を生み出している側の人間であることから逃れられないと思って。先進国で、安いバナナやらコーヒーやらチョコやらを好きなときに食べて、安い服着て、生きてますからね(笑)。
そういう立場を考えたときに、やっぱり私は「奉仕」という言葉を使うことに躊躇してしまうと思った。

できれば私自身が楽しみ、成長しながら、私が加害者であり続けるという現実を変えていけたらいいなと思う。
気の遠くなる話やけど~。

そして考えれば考えるほど、「楽しむ」だけではできない、責任感を感じて、辛くても「辛い」って言えない状況でがんじがらめになっていく自分がいることに気づく…ははは。

「奉仕活動」と考えるというのは、ある意味で自分が自分を大切にして生きるということなのかもしれませんな。

yung さんのコメント...

こんにちは。

なるほどー、確かに。
躊躇せずに「奉仕活動」と言える生き方って、すごく充実してるんだろうなと思います。