2010年6月5日土曜日
水都大阪2009の跡地で思ったこと
そしたら、なにも残ってなかった。
中之島は、整備されてきれいになって、
俺が知ってる場所じゃなくなっていた。
水都大阪2009は、
去年の夏に52日間に渡って開催された水辺のアートイベント。
メイン会場である中之島公園では、アーティストのひとが作品を作っていた。
水都大阪は、作品の展示ではなくて、公開製作に近い。
52日間で100組以上のアーティストがワークショップを開き、
そこでできた作品が徐々に会場を変化させていく。
できた作品よりも、
その変化や、
さらには変化を生み出す過程(ワークショップとか)が、イベントの核だった。
静的な、完成度を問うのではなくて、
動きのある、生き生きした空間をつくることが目指された。
だってそれは、この町そのものだから。
俺たちが欲しいのは、
「お手を触れないでください」と注意書きがしてある、お高い芸術品のような、
完成した町じゃない。
もっと安っぽくてもいいから、
そこで自分たちが人間らしく暮らしていける、
未完成の町だ。
だから、
アーティストのひとだけがつくるわけじゃないし、
企画した偉いひとの思惑の中に収まるわけでもない。
ボランティアも、来場者も含めて、
みんなでつくっていくイベントだった。
俺が手伝っていたアーティストは、
「未完成をデザインする」みたいな言葉を使っていたけど、
完成の中にいかに未完成を組み込むかが問われている。
未完成というのりしろがあることで、
意図していなかったなにかが生まれる。
意図しない要素を、
いかに意図的に組み込むのか。
どこまで組み込むのか。
でも、
プランニングもマネジメントも、
「する」ことには慣れているけれど、
「しない」のには戸惑いを隠せない。
マネジメントしないこともマネジメントなんだ、
と胸を張って言えるような方法論は確立していないから。
報告書でも、完成度だけが評価されて、未完成をいかにデザインしているかはあまり顧みられない。
かくして、完成だけが闇雲に志向されてしまう。
ちょっと話がそれてきたので、
冒頭の中之島公園のことに戻すと、
俺がショックを受けたのは、
中之島公園がすっかり「完成」してしまっていることだった。
中之島は、前は更地だったところが緑地公園みたいになってて、
しかも芝生は立ち入り禁止だ。
きれいに整備されつくして、関われる「未完成」がどこにも見当たらないような気がした。
単なるお客さん扱いされている気になって、なんか悔しい。
水都大阪の名残がないのは、寂しいけどまあいい。
とにかく、形は変わっても、
あのほとばしるような可能性だけは消えないでほしかった。
いや、消えてないか。
誰かがそこに可能性をみる限り、可能性は消えない。
大阪はそういうことができる場所だと俺は思う。
次いったら、
芝生が踏み荒らされて(笑)、
みんなその上で遊んだり楽器の練習したり、
みたいな光景を見られるのを楽しみにしつつ、
関西を後にする。
飛騨高山いってきます。
2010年2月9日火曜日
今年の具体的な抱負(3) 卒業式、仮装します!
卒業式仮装します。
えっ、なんで?
って、じゃあ逆になんでスーツを着るの?
いっぱいあるはずの個性を全部隠して、
みんなと同じふりをする。
そっちの方がよっぽど仮装やん。
なんていう
ラディカルな意見を言うキャラじゃなかったのに。。
話は変わるけど、
そんな風に、どっちの方が仮装だろうと思うことがたまにある。
呼吸のように覚えた「いつもの自分」を身にまとうことと、
ムリして背伸びして「演じてない自分」になりきってみるのと、
どっちが演じてるってことかというと、
それはどっちもでしょう。
何も演じてないなんてありえない。
という話は置いといて、
なんで仮装をしようと思ったかというと、
うちの大学がそういうところだということと(笑)、
そして、水都大阪2009で、
「しでかすおともだち」というアーティストを見て衝撃を受けたことと、
というのが背景にありつつ、
まあなんとなくやろうかなーみたいな。
まあでも、いい案がなかったらやらへんよー!
勝ち目のない戦はしない。
てことで、何の仮装をしたらいいか募集中です。
・なるべくニッチなやつ
・といってオタク受けする路線ではない
・メッセージ性があるやつ
・顔がかくれる方がいいかも
っていう感じの。
なんかない?
例えば、
トレハロース星人父とか?
あ、ちなみに卒論は、
終わらなかったけど終わったことにした。
すっきり!
2009年10月20日火曜日
水都大阪の写真
何か見えたような、見えなかったような、そんな日々を振り返らなくては。と思いつつもう一週間だ。
とりあえず写真を載せます。
感想はまた。
今回は、全体的に写りが悪い。
曇りだったからかな。反省。
ラッキードラゴン。台風の次の日で川はゴミだらけ。
要らなくなったおもちゃでできた恐竜、トイ・ザウルス。
赤い方が母親、青い方が父親。
要らなくなったおもちゃでできたお城。
トイ・ザウルス。
この黄色いのは子どもです。
京都のギャラリーで11月21日まで展示されてるので、機会があったら観に行ってね◎
ヤノベケンジ「ジャイアント・トらやん」。
今回はたまに動くだけだったけど、ホントは火炎放射ができるらしい。
淀川テクニック「金チヌ」。淀川と大阪湾のゴミでできている。
風でキラキラ揺れる金属片。
ひとつひとつに小学生の願い事が書いてあって、じっくり見るとけっこう面白い。
風で揺れると音が出る。
こういうのが会場中にちりばめられて、妙な音を出していた。
段ボールでできた船。
もらい手募集中ってなってたけど、行き先は見つかったのかな。
インフォメーションの建物。
周りの壁は土壁で、手形がびっしり。俺の手形もある。
wahというアーティストの「紐タワーをつくろう」というワークショップ。
風船にいろんな方向から紐をつなげて、風船を上げると、あやとりのタワーのように紐のタワーができる。とっても細くて、ゆらゆら揺れるタワー。
このアーティストはけっこう面白い。うまい棒を一万本積み上げたりしてる。
巨大サッカーゲーム。
人形たちは毎週塗り替えられる。
最終週には某猫型ロボットと、某メガネ小学生がいた。
なぜか、その某メガネ小学生が原作のキャライメージに反して、エースストライカーのポジションにいたのが印象的だった。
ご当地体操を考えるアーティストの「水都体操」。
前夜祭では、橋本知事も平松市長も踊らされたという。
色んな意味で。
日本で唯一のプロ砂像家がつくったドラゴン。
表面はスプレーのりで固められていて、台風をも堪えうる防御力をもっている。ラスボス級の堅さ。
ちなみにこの砂場は誰でも遊べて、橋本知事がお忍びで何回も来ていたという。
文化座劇場という建物で、ライブとかトークセッションをやっていた。
自分の持ち場があったので行けなかったけど、音楽が漏れ聞こえてくるのがいいBGMになっていた。
そんないい雰囲気を出しながらも、
構造的にはギリギリ感が漂っている。
亀裂が入ったり雨漏りしたりするのを騙し騙し延命していた。
ほんと、川に沈まなくてよかった。
カラーのガムテープで、
浅井祐介というアーティストのひとが描いた植物模様。
あ、テープ貼るのも「描いた」って言うのかな?
絶滅危惧種の動物を白黒で板に描いたのが、会場中に展示されている。
写真で見ると立体っぽいけど、ほんとはぜんぜん平面で、その平面感と立体感が入り交じったのが不思議な感じ。
バンブーフォレストという、竹で組まれた構造物。
新聞のこれをつくった人のインタビューが載ってて、
「勘でつくっていると思われるかもしれないが、きちんと緻密に構造計算をして設計している。科学技術の勝利です。」みたいに自信満々に言っていたが、
よく見るとところどころで竹が折れている。
勝利の中に、敗北の芽を見た。
ポリフといって、ポリ袋を熱で圧着させてつくったフラッグ。
くっつけたいポリを、引っ付かないようにクッキングシートで挟んでアイロンをかける。
ポリクラフト。ビニール袋を細切りにしてつなげていく。
ハンガーの飾り。
かえる工房。
俺は、主にここにいた。
ハンガー。
一見するとハンガーってわからないけど。
ホットボンドと針金でくっつけた。
クリスタルの結晶をイメージしてつくったらしい。
ペットボトルのソファー。
ペットボトルのイスとテーブル。
かえる工房の小屋の後ろ側。
ハンガーでつくった海の生き物で彩られている。
ぬいぐるみカーテンと、俺。
ここは、「かえっこ」といって、いらないおもちゃを持ってきて交換する、お金の要らない子どもの遊び場だった。
ポリフでつくった服。
着ると、固くて動きにくいばかりか、脇の辺で角が痛い。
かえっこ屋の看板。
ペットボトルのソファーとテーブル。
外から見た中之島。
夜。会場を囲む川には光の船が行き来する。
これはなんかファイアーダンスっぽいの。
風船の中にLEDを入れたものをそれぞれ手に握っている。
この船が12隻川を行き交う様子は壮観だった。
剣先公園にある、噴水。
たしか安藤忠雄が提案した。
以下、おまけ。
水都大阪とは関係ない写真です。
さびれたボート乗り場。
昔の水都の名残な気がした。
コルテオのテント。
観に行きたい!
水都大阪はどうでしたか?
もしも見に行ったひとは感想を聞かせてねー◎
2009年10月17日土曜日
あいさつ
かもめ食堂で働く3人がそれぞれ「いらっしゃい」といってみるシーンがある。
もたいまさこのあいさつは、
ゆっくり「いらっしゃいませ」と深々と礼をして、丁寧すぎる。
片桐はいりのあいさつは、
早口で「いらっしゃい」と言うだけで、ぞんざいすぎる。
そして、小林聡美のあいさつは
丁寧過ぎずぞんざい過ぎず、ちょうどいいよね。みたいな話に落ち着く。
あいさつは難しい。
水都大阪2009で学んだことのひとつは、それだ。
意識が向きすぎると息苦しくて、
かといって向かなすぎると不安にさせる。
ちょうどいい距離感が難しい。
「ここにいていいんだよ」という空気をつくるのは、
並大抵の技ではない。
俺は、客が来ると、
「こんにちは」と言いつつ、
視線は向けずに作業を続けることでバランスを取る。
たぶんぎこちないけど。
演技力が足りない。
視線の使い方はとても大切だ。
例えば、ミーティングでみんなに意見を言ってもらうには2つ方法があると思う。
ひとつは、
「どう思う?」と誰かに視線を向けながら言うこと。
質問があって、対象がいて。
単純明快だ。
時計回りに回して行けば、一通りみんなが発言できる。
でもこのやり方は、振られなければ意見を言わない雰囲気をつくってしまうという欠点がある。
もうひとつは、
「どう思う?」と特定の個人ではなくて、その場に対して問うこと。
これは、とても難しい。
誰かと目が合ってしまえば、
それは「場」ではなくて「誰か」に問うていると誤解されがちだ。
「誰か」ではなくて「場」という得体の知れないものを相手にするという構図は、演劇によく似ている。
いやむしろ、演劇とは場づくりの一種なのだろう。
役者は、目の前にいる他の役者と話しているようでいて、
意識は舞台上すべてに向いている。
「見られている」という意識が人間を役者にする。
それはもう、色んな意味で。
水都大阪にしろ、カフェにしろ、学校にしろ、
「ここにいたい」と思えるような空間をつくるために、
スタッフは巧妙な演技をしなくてはいけない。
それは、おばちゃんの話し相手になったり、
こどもを誉めたりしかったり、
一心不乱に何かをつくっていたり。
水都大阪のメインアーティストのひとり、藤浩志さんも「つくり続けるふりをする。」と言う言葉で、自分に役割を課していた。
「ふりをする」のに重要なのは、あいさつだ。
出会ってから、会話はあいさつではじまる。
もちろん、あいさつをしないことも、
ガンを飛ばすなんていう「ごあいさつ」も、あいさつのうちだろう。
自分の立ち位置とか、相手との距離感を知らせるシグナリング。
例えば水都大阪でいうと、
藤さんは、つくることに没頭している(ふりをしている)から、あんまりあいさつをしない。
俺は、つくること優先だけど聞かれたら答える(ふりをしている)から、「こんにちは」と言ってすぐに視線を作業台に戻す。
あいさつは難しい。
そもそも俺は人見知りなので、
初対面の人間が難しい。
でも、水都大阪を経て、難しいなりにちょっとわかった気がした。
水都大阪の写真は現像中なので、また載せます。
2009年10月5日月曜日
あと1週間
終わってしまう。
人間は関係性の中で生きていて、
その関係性が全て断ち切られてしまえば、
自分の存在を失ってしまう。
と、メインアーティストのひとり、藤浩志さんは言う。
いま中之島で紡がれている関係性は、
1週間先に途切れる。
中之島という、滅亡すると決まった世界の中で、
俺たちは生きている。
水都大阪を、
たくさんのひとの想いを、
次につなげないといけない。
でもどうやって?
俺が最近暗い気持ちなのはきっと、
その答えが見つからない閉塞感と、
出口のなさに真剣にもがく、アーティストの暗い雰囲気に影響されているからだ。
多くのボランティアのひとは、
ふつうの大学生とか会社勤めなら、その日常に帰ればいいし、
アーティストとして生きていくなら「ひとつの経歴」として次につなげればいい。
けれど、俺は、
遭難してしまう。
水都大阪が、これから俺が考えないといけないことと重なり過ぎている。
つまり、ひとと水との関係性を知ること。紡ぐこと。
逃げ場所がない。
「好きなことをやってもいいよ」と言われた時感じたショックの正体が、
少し分かった気がする。
好きなことではなくて、
やらなければいけないことを、やるのだろう。
アーティストのひとたちも、水都大阪にかける想いはとても深くて、
その分、苦悩も深い。
でも、俺にできることはほとんどない。
それぞれにはそれぞれの
作品があって、
理想があって、
悩みがあって。
つながりながらも、
それぞれ別々の闘いを生きている。
別々だけれど、
この場所に真剣に向き合っている戦友のような。
あと1週間。
なんかすごくひとりで悩んでる気がしてたけど、
そうじゃないことに気付いた。
がんばろう。
まだ中之島に来たことがない人はぜひ来てね!
2009年10月3日土曜日
ディジュリドゥ
俺はディジュリドゥを演奏することになった。
親が旅行で買ってきたのが家にあったから。
俺の理解では、ディジュリドゥというのは、空きビンの口に息を吹いてボーッという音が鳴るのの延長線上にある、
超単純明快な楽器だと思っていたけれど、
えっ?
こんな演奏できるの!?
どうやって息継ぎしてんの??
と、とても反省しました。
↓この辺の動画を観て、ちょっとしばらく練習しようかな。。
Didgeridoo Tutorials Beginner (1) - learn how to play
2009年9月24日木曜日
切り離さない
とりとめのない俺の頭の中を、書き留める。
小6の俺は、「10年後の私」という作文の課題で、
22才の俺が、大学生で引きこもって、時代に流されずスーファミにはまっているだろう、
という大胆な予言をしていた。
その予言はノストラダムスのように外れて、
俺は意外と引きこもらない。
ひとと出会うのだって割と好きな方だ。きっと。
でも、
何かをすればひとと出会うけれど、
俺は、出会うために何かをしたくない。
生きた先には死があるけれど、
死ぬために生きることはできないように。
出会いたくないのに出会ってしまうから、
出会いはすばらしい。
出会いはいつも目的ではなくて、
付随するものでしかない。
どんなにすばらしくても、少なくとも俺は、
出会うために出会うことはできない。
そんな風に、結果を目的にはできないことが、世の中にはたくさんある。
「目的」という言葉は、過程と結果を切り離す、悪い風習だ。
と最近思う。
それはたぶん、水都大阪で関わっているアーティストのひとの影響もあるだろう。
「未完成をデザインすること」
という言葉で語られているのは、
完成するかどうかが大事ではなくて、
完成させようとするベクトルが大事だということ。
完成したものはすばらしい。
けれど、完成してしまえばそれまでだ。
未完成は、他の未完成と刺激し合い、関係し合い、
予想もしなかったものを生んでいく。
あなたの中の未完成を掘り起こしていく。
作品と、
作品をつくるプロセスと。
まったく別のことのようで、
完成しているかしていないかという些細な違いしかない。
佐藤仁「資源を見る眼」にも、物体と事象を一体視することの重要性が説かれているけれど、
分けて考えてしまっては見えないものがある。
細かい例を出すと、
確か平田オリザと誰かの対談の中に、
歌舞伎の見得に関する考察があった。
あれは、集中すると自然と寄り眼になるのを、
逆に寄り眼になることで集中しようという型なのではないか、という。
寄り眼と集中は、一体のものなのだ。
冒頭の方に書いたことで言うと、
何かすることと出会うことは、切り離すことができない。
目的が何かわからないまま、
何かをしたくなる。
それはきっと自然なことだ。
物体と事象の一体視。
「資源を見る眼」を最初読んだ時はしっくりこなかったけど、
最近、ちょっと分かってきた気がする。
研究をするときも、こういう視点を持てるようにしたい。
2009年8月23日日曜日
水都大阪、はじまる。
大阪に「水の都」としての活力を取り戻すための、水とアートのお祭り。
10月12日まで、52日間続く。
おとつい、最終設営を手伝いに行ってきた。
目に映るのは、
立ち並ぶブース、
ちりばめられたアート作品、
汗を流して働くスタッフ。
気取った祭りではない。
「みんなでつくりあげてきた」
という言葉が似合う。
アーティストのひととボランティアのひとがアイディアを出し合ってきた。それが具現化して、会場になっている。
それはもう、泣くほど感慨深い。
俺が関わっただけでも、事前準備は7日間に及ぶ。
大阪も、
みんなでつくりあげていくのだろう。
水都になるのか、
滅亡していくのかは、
みんなの手にかかっている。
いっしょに歴史をつくりましょう!
とかいうとなんか選挙のフレーズみたいだけど(笑)、
まあ普通に楽しいお祭りやでー。
俺はペットボトルとかハンガーで作品をつくる手伝いをしたり、
こどもといっしょにおもちゃをいじっています。
大阪にいる人、寄る人はぜひ来てね◎
↓もっとくわしくはこの辺のホームページで。
水都大阪2009
http://www.suito-osaka2009.jp/
水都大阪2009 水辺の文化座
http://www.bunkaza.suito-osaka2009.jp/
あと、俺がこのブログで水都大阪に関して書いたのは「水都大阪」というラベルでまとめてます。
↓読みたければどうぞ。
http://notchained.blogspot.com/search/label/水都大阪
2009年7月14日火曜日
都市に祝祭はいらない?
ここ数日悩んでいる。
おとつい、水都大阪の事前勉強会で、大阪の歴史についての話をきいた。
水辺というのはかつて(そして今も)被差別民のエリアだった。
しかし社会的弱者でありながら、その人々は経済の重要な部分を担っていた。
その富の力は権力者をも凌駕するものであったという。
そうした「下から上への活力」のようなものが庶民の町・大阪の原動力であり、水がその象徴だったという。
と、俺が書くと薄っぺらな感じになるけど‥
また勉強してブログにちゃんと書こうと思う。
で、その勉強会をしていたときに天神祭の話が出てきて、
水都大阪は何の祭りなのか。というところに話が及んだ。
例えば、天神祭、祇園祭は怨霊信仰の祭りだ。
天神祭は太宰府で死んだ菅原道真の怒りを鎮めるために、
祇園祭は霊の祟りである疫病を鎮めるために、
それぞれ始まった。
その背景にあるのは「恐れ」だ。
会場にいた京都橘大の教授は
「すべての祭りの始まりには、恐れがある」
と言ったが、なるほど、そういう見方もできる。
収穫祭は、次の年には凶作にならないかという恐れが、
インターネットの掲示板とかで起こるいわゆる「祭り」は、自分が攻撃される側にならないかという恐れが、
あるいは背景にはあるのかもしれない。
黒沢清という映画監督が雑誌のインタビューで「すべての映画はホラー映画だ」という意味深な言葉を放っていたが、
なるほどなーと妙に納得してしまったのを思い出した。
そういえば、広告の戦略は恐れを巧みに利用する。
これを買わないと時代遅れだ、
これを買わないとあなたは幸せになれない、
という恐喝によって商品を買わせる。ときもある。
そういう意味では、祭りが商業化している今において、
祭りの原動力とはやっぱり恐れなのかもしれない。
不況への恐れ。
仲間はずれになる恐れ。
でも、と思う。
水都大阪がそういう祭りであってほしくない。
この投稿のタイトルは、平田オリザの著作の題名なのだが、
かつて祭りは、個人のアイデンティティーを共同体が担っていた時代に、
「五穀豊穣」であるとかの共通認識を確認し合う行為として成り立っていたが、個が多様化した現代においてはそうした祭りの図式は成立しない。
と指摘する。
かつての祭りに価値がなくなったわけではない。
伝統や文化に裏打ちされ、その祭りに参加することによって共同体の一員であることを再確認する。
コミュニティの一員であるという感覚。
みんなが一体になる感触。
それはひととひととの距離が遠くなる現代において、尊い体験だ。
高校の文化祭とか、楽しかったよね。
けれど、水都大阪の目的は、一体感を実感することではない。
ひとの多様さを感じるための祭りだ。
むしろ、どこか孤独になるのかもしれない。
現代芸術は、何か思想や主張を伝えるものではなくて、
世界を表現するものだと平田オリザは言う。
みんなそれぞれの目にそれぞれ少しずつ異なった世界を写しているから、
表現されている世界を見て共感する部分も少しずつ違う。
個人が多様していれば、多様な感じ方があって当然だ。
それは必ずしもいいことではない。
感じ方が人によって違うということは、時に孤独を生む。
例えば、感想を会話のネタにしにくい。
「都市に祝祭はいらない」には、
デートで青年団の公演を観に来て、感想がかみ合わずに仲が悪くなってしまっても責任がとれない、と注意が促されている(笑)。
ではなぜそんなリスクを冒してまで現代芸術は、アートは必要なのか。
それは、いやが応にも個人は多様だからだ。
アートの中に表現されている世界は、いわば自己を投影する鏡だ。
自分がどこに共感できてどこに共感できないかを知る。
多様さの洪水に流されそうになっている中で、自分と向き合える貴重な瞬間。
ともかくも、
多様性を受け入れる。
それがアートの姿だ。
かつての祭りは一体になるためにあり、
アートは多様になるためにある。
そして、水都大阪はその間のどこかにある。
単なる祭りではなく、
単なるアートではなく。
水都大阪は何の祭りなのか。
その答えはよくわからない。
「都市に祝祭はいらない」には、ぱらっと読んだだけなので分からないけれど、これからは祭りよりアートでしょ。みたいなことしか書いていなかったように思える。
祭りとアートと、という単純な二分法はいけないし、たぶん平田オリザもそんな乱暴なことはしていなかったと思うけれど。
とにかく、じぶんの中で答えが出ない。
祭りとは何なのか。
ひとによって答えが違うこの問い自体が、究極のアートなのかもしれない。
2009年7月11日土曜日
藤浩志さん
せっかく書いたしここに公開しときます。
ちょっと急いで書いたので意味不明かも。。
↓藤浩志さんについて詳しく知りたい人はここも読んでね。
http://www.log-osaka.jp/article/index.html?aid=83
http://www.geco.jp/
http://geco.exblog.jp/
僕が藤浩志さんのサポーターを希望したのは、パンフレットのプロフィールに書かれていた「地域資源・適正技術・協力関係」という言葉に惹かれたからだ。自分がこれから進もうとしている国際協力の分野につながるものを感じた。アートと援助は少し似ている。どちらも、相手のことを考えているようでいて自己満足にしかなっていない、という状況に陥ることがある。「地域資源・適正技術・協力関係」といった概念は、それを乗り越えるための鍵になっていくのだろう。その乗り越え方を水都大阪から学びたいと思っている。
アートは時に人を不安にさせる。秩序とか理論に依拠して暮らしている人間に「こういう世界もあるんだよ」と掲示することは、いい意味でも悪い意味でも、その人の世界観を壊す可能性を秘めている。藤さんのロングインタビューの中に「彫刻公害」という言葉が出てきたが、パブリックアートは時に公害になる。人の気持ちとか、社会の安寧とかを害する。ひととひとが関係を結ぶのが苦手になっていくといわれる時代の中で、アートと人の関係もどこかぎこちない。パブリックアートだとかサイトスペシフィックだとか、照れ隠しのように横文字を使うけれど、それはきっと新しいものではない。ひととの関係性や土地との関係性を切り離したときに感じるぎこちなさの正体を、丁寧に探って気付いた忘れ物だ。
けれど関係性を大切にするというのはそんなに簡単なことではない、と国際協力の一端に触れていて思う。大切にするどころか、鈍った感性では関係性に気付くことすら難しい。国際協力だけではない、どんな分野でも自分が見たいものだけを見ていたい誘惑に駆られるのだろう。例えば、インタビューの中にあったメキシコの石彫シンポジウムの話には「サイトスペシフィック」という言葉のホンネとタテマエを見た気がした。関係性は、正直めんどくさい。だから、人や土地と丁寧に対話をする藤さんの姿勢と理念に、僕は感銘を受けた。
一番印象に残ったのは博多の「公庭」の話だった。失われていく場所への単なる回顧でもない。今までの関係性をばっさり切り捨ててゼロからつくるわけでもない。既存の関係性を大事に、場所を再構築する試みは、月並みな言葉しか出てこないけれど、すごいと思った。小学校の校庭が地域にとって重要な場所だということに気付くその着眼の鋭さと、地域を巻き込む巧みなバランス感覚と。それこそが、「地域資源・適正技術・協力関係」という理念を実現するのに必要な能力だ。これはきっと、古くて新しい。
でも、関係性に気付くのは簡単ではない。水都大阪のサポーターになって、たまに大阪と水の関係について考えてみたけれど、せいぜい、タイガースが優勝したら道頓堀に飛び込む、といった陳腐なイメージしか出てこない。きっと、自分ひとりで考えるからだ。あと1ヶ月すれば水都大阪が始まる。もっといろんな人との関係性の中から、大事なことを見つけたい。そして、新たな関係性が紡がれていくのを手伝いたい。そのためには、丁寧に人や土地と向き合う姿勢を持たなくてはいけない、と藤さんの関係のホームページを読んでいて強く感じた。
2009年7月7日火曜日
「誰でもよかった」
と、此花のパチンコ屋に放火した男は言う。
最近、犯人がそんなことを供述する事件が増えている。
あるいは、そう思わされているだけなのかも知れない。
メディアが、刺激的な記事になるなら「誰でもよかった」という精神で、みんなの不安を煽る事件だけをいたずらにクローズアップしているのかも知れない。
その実、認めたくないけれど、俺がいま書いているのだって「誰でもよかった」という言葉について語る題材になるなら「誰でもよかった」のかも知れない。
それでも、「誰でもいい」といわれるのを恐怖に感じているひとが増えているのは事実だろう。
ひとが薄っぺらに扱われ、薄っぺらに殺されていく。
同質な人間の大量生産大量消費。
そんな時代の合言葉が、「誰でもいい」だ。
でも、ほんとうにそうなのか。
「誰でもいい」って、そんな悲しい言葉じゃないはずだ。
誰でもいいのは、みんな同じだからじゃない。
俺たちは工場でつくられた製品じゃない。
それぞれにいびつで濁っている。
違いがぶつかり合い傷つけ合い、みんなが仲がいいわけでもない。
けれど、「誰でもいい」んだ。
誰でも、違っていて、いい。
誰でも、ここにいて、いい。
そんなポジティブな「誰でもいい」を、どうして連想することができないんだろう。
それはきっと、俺たちの弱さだ。
話はちょっと飛んで、水都大阪の話。
水都大阪に対して、なぜアートなのか、という問いかけがなされる。
赤字の大阪にはそんなのに使ってるお金はないんだ、と。
水都大阪期間中には、そんな言葉を幾度となく聞くだろう。
でも大阪にはアートが必要だ。
俺は自信を持ってそう答えたい。
アートは、違いを「いいんだよ」と受け止める、強さだから。
大阪の魅力は人だ、と言われる。
若者、サラリーマン、おっちゃんおばちゃん、外国人、在日のひと。
いくらビルを天高くそびえ立たせても、都市は人でできている。
そこにいる人の多様さ、人間ひとりひとりの価値。
それを見つめ直すところにしか、都市の未来はない。
アートは、人間はひとりひとり違うんだと叫ぶことであり、その叫びを聞くことだ。
だから、大阪がひとの魅力を再発見するために、アートが必要なんだ。
でも、
と思うことがひとつある。
アートが大事なのは確かにそうだけれど、これは単なる理論だ。
水都大阪が、ほんとうに大阪を元気にできるのか。
もっとわかりやすくいうなら、
パチンコ店に放火した男のような絶望を、
アートは、
大阪は、
打ち砕けるのか。受け止められるのか。
そういうシビアな質問に、
俺は自信をもって「できる!」と答えられない。
けれど、「誰でもいい」の意味を変えるくらいのつもりでボランティアスタッフをがんばるので、
中之島の会場には「誰でも」お越し下さい。
8/22〜10/12 です。
2009年7月6日月曜日
七夕発祥の地、七夕祭り
その名も「天の川」だ。
ここは七夕発祥の地、交野。
俺は今日も、天の川を越えて、七夕祭りで展示されるペットボトルのオブジェをつくりに小学校の体育館に行った。
たかがペットボトル、と値踏みしないでほしい。
かつてマルセル・デュシャンは、プロペラを見て「絵画は終わった」と言った。
それは、当時誰も見向きもしなかった工業製品が持つ、幾何学的に計算しつくされた形状の美しさに驚愕したからだ。
ペットボトルを芸術作品の素材として誰も見向きもしないけれど、
それは「たかがペットボトル」というイメージが目を曇らせているのであって、
冷静に考えてみれば、あの透明さ、薄さ、弾力。
人類の英知の結晶は、やっぱりけっこうキレイ。
要は使い方だ。
↓例えばこういう作品ができあがる。
Report 藤浩志企画制作室:ペットボトルでつくった海亀の映像
http://geco.exblog.jp/7735847/
そしてこれは何より、
小学校の中で1週間制作を続けるという類を見ない試みだった。
「小学校に工房をつくりたかった」と主催の藤浩志さんは強調している。
毎日、小学生やPTAの人が手伝いにきてくれる。
ペットボトルを集めたり、
作業を手伝ったり、
新しいアイディアを出したり。
体育館では所狭しとペットボトルが並ぶ。
一つの作品をつくるのに必要な数は、500本くらいだという。
それだけのペットボトルが集められるのは、
色んな人が協力して集めてくれるからだろう。
ひとがひとを呼び、うねりは広がっていく。
これは本当の意味で「みんなで作り上げた」という言葉がよく似合う作品だ。
ちなみに、でもまだ完成していない。
明日が制作最終日だ。
頑張って完成させるので、ぜひ幻想的な祭りを見に来てね!
俺は当然行くので、行く人は連絡ください◎
天の川 七夕まつり2009(交野観光協会HP)
http://www.katano-kanko.com/tanabatai2009.html
2009年6月30日火曜日
怖いこと
その理由は2つあって、
ひとつは水都大阪のボランティアスタッフをすること、
もうひとつはCWWFフォローアップのファシリテータをすること。
どっちもそのうち詳しくブログに書くけど、
特にひとつめにとてもプレッシャーを感じる。
おとついが水都大阪のサポーター(ボランティアスタッフみたいなもの)説明会だった。
ボランティアというと、
大阪のおばちゃんおっちゃん、そしてヒマを持て余した大学生の男女がバランスよくいると思ってたらどっこい、
俺が所属していたチームの9割くらいは、芸大とかの女の子だった。
ていうか、説明会は2回に分けてやるからたぶん、大体半分くらいのひとがそこにいたはずだけど、男は2人だけで、しかも俺じゃない方の男の人は、大学生とかじゃなくてバイトをしながら創作活動をしているかなり本気の人。
えっ。
と軽いパニックに襲われた。
この中で、アートとかあんまり分かってないむさい男は俺だけなんじゃないだろうか、みたいな、
自意識過剰。
こういう場面はかなり久しぶりだ。
みんなができて、俺だけできない。
明らかに自分が最底辺にいる感覚。
でもたぶん、俺はずっとこういう場面を求めていたのかな。
と、ふと気付いた。
サークルを引退したくなった理由は、
不安で逃げ出したくなるような、
でも期待で心躍るような、
そういう気持ちが消えたからだ。きっと。
怖いけれど楽しい。
楽しいけれど怖い。
明日は水都大阪の関係で交野市の小学校に行ってきます。
子どもが怖い。
アートも怖い。
まんじゅう怖い。
何を言ってるのかよくわからない。
明日早いのでそろそろ寝よっかな。
水都大阪について、詳しくはまた書きます!
2009年4月25日土曜日
大阪を水の都に
http://www.suito-osaka2009.net/
そんなことできるわけないやん。
というのをあえてやろうとする頭の悪さ。
それが大阪の真髄だなーと思う。
8月22日から10月12日まで、大阪中之島で水辺の楽しさを再発見するためのお祭り「水都大阪2009」がある。
今日はそのサポーター説明会に行ってきた。
ヤノベケンジが「あの某知事に、『いやー僕は初めからアートっておもしろいと思ってたんですよ』と言わせるのが目標」と言っていた。
いやほんと、それくらいおもしろい。
52日間は、作品展示のためにあるのではない。
市民が参加して、いっしょに会場も作品もつくっていく。
52日間で会場がどう変わっていくか、その変化も見てほしい。と言っていた。その変化はつまり、大阪そのものの変化になる。
アートディレクターの北川フラムが最後に、なぜこんな時代にアートなのか。と言う説明をしていた。
気候変動とか水質汚染とかで地球はやばいし、
世界同時不況で経済もやばいし、
そんな時代なのに、なぜアートなのか。
それは、アートは「ひとりひとり違うんだ」と伝えることだからだ。と北川は言う。
個性だとか表現だとか言うのは、そういうことでしょ。
東京とかって、ものと情報は集まるけど、なんか人間味がない街だ。
大阪はそういう「大都市さ」で東京と競うんじゃなくて、
多種多様なひとがいることをいかして大阪を盛り上げていくことが大事なんだよ。
アートは多様性を感じるためのツールになる。
みんながロボットみたいに生きてるこんな時代だからこそ、アートが必要なんだ。
的なことを言ってた。
そういう考え方ができることがすでにアートだと感じた。
今年の夏が待ち遠しい。




